【コラム】酔生夢死

「反戦」がファシズムに化ける恐怖

岡田 充

 東に行けばクレムリン。西へ数キロ歩くと1812年のナポレオン軍侵攻敗退を記念する「凱旋門」に出る。5車線の広い道路は「クツゾフスキ―大通り」。ソ連崩壊直後の1992年から3年余り、この通りに面した外国人アパートに住んだ。
 大通りの名前の由来は、ナポレオン軍を破ったクツゾフスキー総司令官の姓。市場経済に移行した新生ロシアになってからもロシア政府は、1941年6月のナチスドイツのロシア侵攻から始まった戦争を「大祖国戦争」と呼び、ナポレオン戦争を「祖国戦争」としてロシア・ナショナリズムの象徴にした。

 2月末、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まると、日本ではチャイコフスキーがナポレオン戦争勝利を記念して作曲した大序曲「1812年」の公演が、相次いでキャンセルされた。判明しているだけでも兵庫県明石市と愛知県小牧市の交響楽団。中止について楽団側は「現在の世情を踏まえて演奏中止となりました」とツイートした。
 「1812年」は、露仏両軍の戦闘を音楽でリアルに表現し、両軍の進軍ラッパや国歌の旋律が流れる中、本物の大砲が使われた演奏会もあった。ウクライナ侵攻後、日本ではウクライナ支援の世論が異様に盛り上がった。「ロシア勝利」を記念した曲は「世情にふさわしくない」ということなのだろうか。

 公演キャンセルだけではない。フランスの音楽ホールは、ロシアの人気指揮者ワレリー・ゲルギエフ氏が指揮するマリインスキー歌劇場管弦楽団のコンサート中止を発表。スイスの音楽祭事務局も、ゲルギエフ氏に音楽監督辞任を求め、同氏も受け入れた。ゲルギエフ氏はプーチン大統領との親交が伝えられる。
 公演中止とロシア人指揮者の排斥は、政治世界で醸成された「空気」が、音楽など芸術・文化世界を侵食した結果だろう。クラッシック音楽評論が専門の吉田純子・朝日新聞編集委員は3月12日付け朝刊のコラムで、「大喪の礼の折に日本中を覆った自粛モードのそれに近い」と評し「『ロシアが勝つ物語だから』などと言う表層的理由で演奏を退けるのが当たり前になる事だけは避けたい」と諫めた。同感だ。

 ウクライナ侵攻をめぐっては、ロシアを「悪」、ウクライナを「善」と見なす善悪二元論が大手を振るい、それが「翼賛世論」になろうとしている。民間人の被害を食い止めるには、軍事侵攻を直ちに停止し、停戦実現は急務だ。同時に米欧が冷戦終結時のロシアとの約束を破り、北大西洋条約(NATO)拡大を進めたことが侵攻の背景であることを忘れてはならない。
 楽団側は「1812年」中止の理由を「現在の世情」という曖昧な理由で済ました。日本社会に伝統的な「摩擦回避のため事実を究明しない手法」そのもの。「反戦」も「人道」も異議はない。だがそれが「翼賛世論」になった時、異質なものを排除する「ファシズム」に化ける恐ろしさを知るべきだ。

画像の説明 
ベルナルト・ハイティンク指揮の「1812年」のCDジャケット

 (共同通信客員論説委員)

(2022.3.20)
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