【自由へのひろば】

「事実としての在日」と「変わらない日本」の交錯[註1]
―静岡本名裁判の概要と含意―

柳 赫秀


◆ 1.静岡本名裁判の概要[註2]

 2015年10月14日東京高等裁判所であった「静岡本名裁判」(以下、本件裁判と略す。)の控訴審は、同年4月24日の地裁に続いて、判決内容に変化はあるものの、やはり当時40代前半の在日韓国人の訴えを認める判決を読み上げた。この事件は、普段通名(日本名)で暮らしてきた在日韓国人3世である原告が、10年以上勤めていた浄化槽会社の日本人社長から数回にわたって本名(韓国名)の使用を慫慂されただけでなく、終礼時間に原告が韓国籍であることを知らない従業員もいる前で在日韓国人であることを明かされ精神的苦痛を受けたとして、被告の行為が原告の名称使用に関する人格権侵害またはパワーハラスメントに該当すると主張し、損害賠償を請求した事件である。

 裁判では、被告の行為が民法上の不法行為に該当するかが争われた。第1審では、氏名を人格権の一内容として認めた「NHK日本語読み裁判」の部分を引きながら、在日韓国人が日常生活で本名と通名(日本名)のうちどちらを使用するかは個人のアイデンティティないし(人格権の一部を構成する)自己決定権に関する事項であり、秘している在日韓国人である事実を第3者に公表することはプライバシーを侵害する行為にあたるとして、被告は原告に対して精神的苦痛に対する慰謝料と弁護士費用として計55万円を支払うよう命じた。

 控訴審で、東京高裁は、「控訴人が本件各発言をしたことは被控訴人に対する不法行為を構成する」と原審と同じ結論に達しながらも、通名が人格権の一部としての自己決定権の行使であり、アイデンティティを形成するという部分を捨象し、労働基準法上の使用者の義務、使用者と労働者の関係における労働者の人格的利益という枠組みの中で論を展開した。そのために、まず在日韓国人の多くにとって通名が、本来一つしかない本名と並んで、自己識別・特定の機能を果たしていること、しかも、それを外国人登録法や改正後の住民基本台帳法が併記登録を認めるなど行政的に配慮している現状を確認する。そして、在日韓国人が、本名を使用することによって被るかもしれない社会生活上の不利益を恐れてあえて通名を使っている場合、(i)本名が別にあるという事実は他人にみだりに公表されたくないプライバシー情報に該当すること、(ii)それをみだりに公表することは通名使用で得られている社会生活の平穏という、一定の法的保護に値する利益を侵害するものである。本来被用者に働きやすい職場環境を保つよう努力すべき使用者の立場にある者が、被用者のプライバシーを公表し社会生活の平穏を乱すことで、被用者の人格的利益を侵害する不法行為に該当するとして原審を支持した。2016年6月16日に最高裁小法廷が被告側の上告を退けたことで事件は終結した。

 本件以前にも在日韓国朝鮮人[註3]の氏名をめぐる裁判は数回あったが、すべて本人の意思に反して、本名が日本式に表記されたか、日本名が使われた場合であるか、あるいは、(帰化時に許容されなかった)民族名を回復するために起こされたものである[註4]。その意味で在日韓国人が本名(韓国名)の使用を強要されたとして裁判を起こしたことはショッキングな出来事であるといわざるを得ない。

[註1]本稿は、拙稿「『静岡本名裁判』と在日韓国朝鮮人社会」『横浜法学』第24巻2・3号と、筆者が共同で執筆したソウル大学日本研究所が刊行している『日本批評』14号の「編集者のことば」の部分をベースに、新たに書き下ろしたものである。
[註2]「静岡本名裁判」の詳細については、拙稿「『静岡本名裁判』と在日韓国朝鮮人社会」を参照。
[註3]本稿では、文脈によって在日韓国朝鮮人と在日朝鮮人をいわゆる韓国・朝鮮オリジンを総称する用語として、裁判判決の中で使われている在日韓国人は大韓民国国籍所持者として、オールドカマーは特別永住者を中心とする1965年国交正常化以前から日本に滞在する在日韓国朝鮮人を、ニューカマーは1965年以降、特に1980年代後半以降来日し定住している韓国人を指す。「在日」は基本的にオールドカマーと同義に使う。
[註4]拙稿「『静岡本名裁判』と在日韓国朝鮮人社会」、5-10頁を参照。本名、通名以外に、韓民族固有の家族制度と文化を強調するために「民族名」が使われる。한영혜、「‘민족명’사용을 통해 보는 재일조선인의 정체성」、권숙인 엮음『다문화사회 일본과 정체성 정치』서울대학교출판문화원、2010 년、83 頁。

◆ 2.「事実としての在日」の進行と静岡本名裁判

 現在在日韓国朝鮮人の構成を見れば、下記の表1が示しているように、韓国・朝鮮籍所持者は最近9年間減少し、2016年6月現在49万名である。特別永住者は朝鮮籍を合わせても34万強で、ニューカマーと一時滞在者が15万人程度である。そして、帰化者は1952年から2014年まで延べ354,849名で現在は36万名を軽く超えると思われる。在日韓国朝鮮人と日本人との間で生まれたいわゆる(日本国籍の)「ダブル」がすでに数十万人に上ると推定されている。言い替えれば、韓国・朝鮮国籍保持者の数以上の、韓国・朝鮮オリジンの人々が存在していることになる。世代構成では、すでに1969年の時点でオールドカマーの2世の人口が72.4%、74年には75.6%を占めたという統計があるが[註5]、2012年の時点で在日同士の結婚は、男性が20.64%で、女性が13.85に過ぎない[註6]。

画像の説明
  <表> 在日韓国・朝鮮人の人口推移(最近9年間)

 この表の在日朝鮮人の構成が示しているように、在日社会は、オールドカマーだけでなく、ニューカマーの日本移住による構成の多様化、そして、帰化者とダブルの存在が示す複合化、混淆化の流れの中で、在日韓国朝鮮人が言語的に、文化的に日本に同化していく「事実としての在日」が容赦なく進行してきたのである。
 金泰英がいったように、在日1世にとって民族は「自由」であるが、2世以下には「不自由」の象徴である[註7]。すなわち、民族が日本社会の差別や偏見から自分を保護し抵抗する手段として機能した1世と違って、2世以下にとって民族は、自明でも本質的でもなく、「構築」されるべきものである。2世以下が直面した最も深刻なディレンマは、「在日朝鮮人としての自分」、すなわち在日朝鮮人としての集団的アイデンティティという客観的な本質主義から解放された「個人としての自分」をいかに調和するかである。この二つの自分が本名と通名の使用と不可分に絡んでいることが高槻市「むくげの会」が主宰した「在日朝鮮人子ども会」の子供たちの世界の観察から浮かび上がってくる[註8]。

 在日3世の宋順子は、小学生の時「子ども会」の活動をしたことで、中学校入学と同時に親の反対にもかかわらず本名を使いはじめる。本名を使うことで彼女に対する差別事象が多発し、学校生活に対する不安が募っていく反面、子ども会事業の象徴的な存在となり、在日朝鮮人の教育実践にとってある種のモデルケースであった。日本人生徒の前で在日朝鮮人としての「思い」を語ることが彼女の民族的アイデンティティを保障する。しかし、やがて周囲の大人たちが期待する在日朝鮮人の子ども像に答える生き方に疲れる。「順子さんのため」という言説は「順子さんの義務」に転化した。順子は高校に入ってから日本名に戻す。「在日朝鮮人にとって、本名を使い、朝鮮人であるということを明らかにして生活することは、日本社会の現状の中では、少なからぬ緊張を伴う」訳であるが、順子さんは、日本名への変更したことで、「在日朝鮮人の自分」をやめ、「在日朝鮮人としての責任」という荷物をおろしたのである[註9]。「<国籍=民族>か、同化か」の二者択一から脱却しえない在日主流と、変わらない日本社会の現状の狭間で、アイデンティティ・ポリティクスの呪縛の課す「集団か、個人か」というもう一つの二項対立が、順子さんを苦しめる様子がよく窺える。

 このような状況の中では、在日韓国朝鮮人を定義するために、すでに国籍はもちろん、民族すら基準になることが難しくなってきた。尹健次は、「1990年代末の今日「在日」アイデンティティの核が民族であるといえるかどうか疑わしい。民族=国民といった共同体に同化することのできない、自らの内歴を確認する歴史への省察こそ重要である」と力説する[註10]。かなり以前から在日韓国朝鮮人社会は、「アイデンティティと帰属(国籍)の不整合」という矛盾を抱えたまま、アイデンティティが溶解しつつある中で、里程標なき明日を模索してきたのである。本件裁判はこのような背景から胚胎し表出したものといえよう。
 他方で、東京高裁は、在日韓国人による通名使用は、歴史的経緯等から長い間社会的に認知されてきた慣行で、通名使用によって得られている社会生活の平穏を一定の法的保護に値する利益として積極的に認めていることに注意する必要がある。
 周知のように、依然としてオールドカマーのほとんどが通名を持っているか、日常的に使用している[註11]。オールドカマーの通名使用は、社会生活上の不利益を恐れての自救策であったとはいえ、通名使用が「社会的に認知されてきた慣行」になった背景には、外国人登録法が外国人登録証明書に本名と通名の併記登録を認め、それを廃止した新入管法でも住民票に通名を併記登録することができるなど、行政上の便宜が図られていることは控訴審が述べている通りである。韓英恵は、戦後在日朝鮮人たちが2つの名前をもち、通名を主に使用するようになったのは、在日朝鮮人に対する差別の存在と在日朝鮮人の意思だけでは説明がつかないという。すなわち、戦後日本政府が外国人登録時に本名だけでなく、通名の併記を認めたことで、通名が事実上の本名として機能する、戦前の「本名/通名」の二重構造が再構築され、その後外国人登録、就学申請などの主要局面で本名を名乗る必要のない制度的装置として機能してきたことを強調する[註12]。

 在日韓国朝鮮人たちは、自らのオリジンを隠すことで、日本社会で「埋もれた」見えない存在として、そして、「不透明で説明しにくい存在」[註13]として生きる大きな代償を払ってきた。幸い控訴審は、通名が人格権の一部としての自己決定権の行使であり、アイデンティティを形成するという地裁の論旨を受入れなかった。東京高裁は、個人を他人から識別し特定する機能を有する氏名は通常1人につき1つであるが、在日韓国人の場合はかつて日本名を使用していた時期があるなどの歴史的経緯等から本名である韓国名のほかに日本名を通名とすることが広く行われてきたといいながらも、通名を選択する権利を積極的には認めなかった[註14]。しかし、在日韓国人たちが本名を使用することが困難な歴史的背景と条件そのものを問題にするよりは、それを黙示的に助長する日本社会の現実を既成事実としている。依然として変わらない日本社会の断面である。

[註5]金泰泳『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』、世界思想史、1999年、58頁。
[註6]金賛汀は、在日の婚姻が定住化をゆるぎなくするとともに、在日社会の「崩壊」をもたらしたという。『韓国合併百年と「在日」』新潮選書、2010年、238頁。
  統計は以下による。榎井 緑、『外国人問題理解のための資料集2 外国人に関する統計と資料』、大阪大学未来戦略機構第五部門、2014年、98頁。
[註7]金泰英『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』、第3章、第4章
[註8]金泰英、『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』、第5章。
[註9]金泰英、『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』、179頁
[註10]尹 健次、「21세기를 향한‘在日’의 아이덴티티」,강덕상 정진성 외、『근현대 한일관계와재일동포』1999、302頁。
[註11]2013年神戸市教育委員会が行った小中高における通名使用の実態調査によれば、依然として韓国・朝鮮児童の通名使用が72.8%に達しており、本名の日本式読みを合わせると81.1%に達する。榎井 緑、『外国人問題理解のための資料集2 外国人に関する統計と資料』、29頁。
[註12]한영혜,「‘민족명’사용을 통해 보는 재일조선인의 정체성」、59頁。
[註13]鄭大均、『在日韓国人の終焉』、文芸新書、2001年、
[註14]もし通名の使用が自己決定権として認められると、「日本人化している在日」たちに「個の解放」という名分が与えられ、民族的アイデンティティを確立することで「同化の圧力」に抵抗してきた「在日」社会には大きな痛手になったのではないかと思われる。

◆ 3.終わっていない「在日論」

 本件裁判にみられる「事実としての在日」と「変わらない日本」の交錯・葛藤は、在日韓国朝鮮人の世代交替と定住化が進んでいた1985年の、オールドカマーの姜尚中と梁泰昊の間の「在日の進むべき道」をめぐる有名な論争の主題であった。
 姜は「『在日』の現在と未来の間」と「方法としての在日―梁泰昊氏の反論に答える」の二つの論文で、次のように主張した[註15]。
 戦後の「在日」の条件は、戦前と変わらない治安対策的な発想からなる、新憲法施行の前日に発布された外国人登録令に体現されている。1952年に日本の暗部が集約された登録令は外国人登録法に改正され、前年制定された出入国管理令とともに出入国管理体制の骨子が出来上がった。確かに、1970年代後半ごろから日本政府の強圧策と一般の日本人の露骨な差別・敵視の姿勢に変改の兆しが見え、外見的にヨリ柔軟な対応がみられたが、あくまでも抑圧がソフトになっただけであって、日本社会を変化させ、共生の可能性を開くことは幻想にすぎない。他方で、1970年代後半から80年代にかけ2世、3世の「定住化」への志向が拡がり、「在日の中で日本的文化への溶解が着実に進んでいく現状」の中で、2世以下の在日朝鮮人が共生の主体として存続できるか疑問であり、変化を期待できない日本社会に向かって「異質的なるもの」との共存を叫んでも、共存に結びつくとは考えにくい。日本の社会と国家の精神構造も含めた根源的な転換がない限り、「朝鮮系日本人」としての「定住化」は、「内国民化」と「賤民化」の道に通じない保証はどこにもない。「在日」の進むべき道は、南も北も否定し、「在日」という拠点にすべてをかける「実感信仰」でなく、「在日」と日本、そして分断祖国の共通の歴史的課題を見定め、それに対する態度決定をテコに間接的に祖国を志向する「方法としての『在日』」である[註16]。

 梁泰昊は、姜へ次のように反論した。事実としての「在日」の進行、すなわち、「定住化」が疑う余地のない。「外国人の人権」を超え、「外国人ととらえられることに対する人権」意識が芽生えている中で、行われるべきは国籍をどうとらえ、同化とは何かを考えることである。現在「個々の在日朝鮮人が『在日』をいかに生きるべきかを真剣に考え抜き、自分の意思で行動を起こす」という新しい芽が育ちつつあるが、日本人の中にも、アジアの人々の中にも同様の新しい芽がみられる。姜は少数民族としての「定住化』には否定的であるが、社会的少数者として、日本社会における義務と権利を共有することは共生の第一歩である。確かにマイノリティとして「異質的なるもの」という自己覚醒が困難な情況から共生への希望の糸も細くなりがちであるが、こうした状況は固定不変なものではなく、明るい芽は決して少なくない。姜は「朝鮮系日本市民」が「内国民化」と「賤民化」に収束するというが、「朝鮮系日本市民」になるかどうかは過程ないし結果であって、目的とか前提となるものではない。祖国といえども国家である以上国家の論理が先行するので、波風は在日朝鮮人自らがしのいでいくしかない。在日朝鮮人が「事実として在日」するのであるからには、避けることのできない「共生」を人間として「共感」できるものとして模索するのみである、と鋭く切り込んだ[註17]。

 二人の論争以後、民団を中心とする在日の主流は姜尚中の唱える「方法としての在日」の道をとり、国籍を維持しながら定住する、道を歩みつつ、地方参政権の獲得に総力を傾注していった。他方で、在日の中で、祖国志向でも、同化でもない、第3の道(の可能性)をめぐる模索が繰り返し行われてきた[註18]。しかし、「事実としての『在日』」と「変わらない日本」が交錯する中で、「民族か同化か」、「集団か個人か」という二項対立を超えて、時代適合的にエスニック・アイデンティティを定立しながら、日本社会で共存していこうとする試みがいまだに出口を見つけたとはいえない。
 在日3世で、直木賞受賞者の金城一紀の『GO』の次のくだりが昨今の在日の現状をよく物語っている。本のハードカバーの表裏には“No soy coreano ni soy japones. Yo soy desarraigado”(韓国人でも日本人でもない、ただ一人の根無し草)と書かれ、1頁捲れば次の一句が見える。

 「名前ってなに? 
 バラと呼んでいる花を
 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま」
 ―『ロミオとジュリエット』シェイクスピア(小田島雄志訳)
 杉原という日本名を使う在日の主人公が再会した日本人女性の桜井に話しかけるあたりはショッキングでさえある。「言っとくけどな、僕は『在日』でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。」[註19]そして、友達に言う。「俺が国籍を変えないのは、もうこれ以上、国なんてものに新しく組み込まれたり、取りこまれたり、締め付けられたりされるのが嫌いだからだ。もうこれ以上、大きなものに帰属している、なんて感覚を抱えながら生きてくのは、まっぴらごめんなんだよ。…。でもな、もしキム・ベイジンガーが俺に向かって、ねえお願い、国籍を変えて、なんて頼んだら、俺はすぐにでも変更の申請に行くよ。俺にとって、国籍なんてそんなものなんだ。矛盾していると思う?」[註20]

 ここでも「<国籍=民族>か、同化か」、「集団か、個人か」という二項対立から脱しようとする主人公の金城の叫びに、「本名か通名か」のもう一つの2分法がオーバーラップする。しかし、裏表紙の著者紹介にある「コリアン・ジャパニーズ」はいまだ日本では実定法はもちろん、社会的に受け入れていないことはいかにも皮肉である[註21]。

[註15]姜尚中、「『在日』の現在と未来の間」『季刊三千里』42号(1985年夏)118-125頁;「方法としての『在日』―梁泰昊氏の反論に答える―」『季刊三千里』44号(1985年冬)174-180頁
[註16]この部分は姜の二つの論稿を筆者なりにまとめたもので頁の詳細な引用は省略した。
[註17]この部分は、梁泰昊の下記の二つの論稿を筆者なりにまとめたもので頁の詳細な引用は省略した。梁泰昊、「事実としての『在日』―姜尚中氏への疑問―」『季刊三千里』43号(1985年秋)146頁;「共存・共生・共感―姜尚中氏への疑問(Ⅱ)―」『季刊三千里』45号(1986年春)173頁。
[註18]最近のものとしては、李洪章、『在日朝鮮人という民族経験―個人に立脚した共同性の再考へ』、生活書院、2016年を参照。
[註19]金城一紀、『GO』、KODANSHA、2000年、234頁
[註20]金城一紀、『GO』、KODANSHA、2000年、234頁
[註21]かつて梶田教授は、「日本人」の概念的な定義は存在しない。現実には、「血統」「文化」「国籍」「日本語」「日本での長期的滞在」などに着目してイメージしているが、これらのバリエーションが複雑化し、日本人/非日本人の境界線を引くことが困難になりつつあるという。そして、5つの全部を有している典型的な日本人以外に、在外邦人、帰国子女に、日系人3世や中国残留孤児(「血統」のみ共有)、アイヌ民族(「国籍」や「日本語」のみ共有)、在日韓国・朝鮮人の三世(「文化」と「日本語」のみ共有)を挙げている。本稿の問題提起にかかわる興味ある指摘であるが、今後の課題にしたい。梶田孝道、『外国人労働者と日本』、(NHKブックス、1994年)、169頁。

◆ 4.「変わらない日本」と在日社会

 本件裁判が在日社会に問いかけているものは何であろうか。もしかして、裁判沙汰になったことを除いて、現象としては今になって起きたのではないので、あまり騒ぎ立てることもないだろうか。むしろ本名と通名の「使い分け」は「柔軟でしなやかなアイデンティティ」として今後の新たな在日のアイデンティティとなり得るのだろうか[註22]。すでに進むだけ進んでしまった「事実としての在日」の下で本名(だけ)への復帰は望めないのか。あるいは、宋基燦がいうように、通名使用の理由が「戦略的動機」からいつの間にか在日社会の文化となり、慣習となったのであろうか[註23]。

 問題は、我々が住んでいる日本社会が根本的には変わっていないことである。誤解を避けるために敷衍すると、現在日本社会は、外国人法政策において、国際人権規約に加入した1980年を前後に大きく変わり、「1991年合意」[註24]で「在日」に特別永住権が与えられるなど、法的・制度的障壁が大きく緩和されただけでなく[註25]、1970年代以降在日韓国朝鮮人たちが、個別に、集団的に社会的・経済的差別に挑戦した結果、現在は在米韓国人に比べると1世代余計にかかったが、モデル・マイノリティになったといわれるまでになった[註26]。
 しかし、「91年合意」の25年周年を迎えて改めて振り返ってみると、その後の展開は必ずしも芳しいものとは言えない。「91年合意」後「在日」と日本市民との共闘により外国人登録法上の指紋捺印が廃止されるなど一定の前進があったが、2000年以降は地方参政権付与の動きが停滞し、日本政府は、外国人に就学通知は出すものの、教育の権利が日本国民に限定[註27]されるという立場を堅持しており、中央・地方レベルにおける公務員及び教師採用について「当然の法理」が広く幅を利かせているなど、目立った改善はみられない[註28]。2009年に改正され2012年から施行された新入管法も「飴」の側面より「鞭」の側面が強い、一元的な外国人管理体制を敷くものであった。ましてや、自民党憲法草案や安倍政権の唱える「一億総活躍」社会の構想は、外国人を排除した形で「純血主義に基づく名誉ある衰退」を目指していると思われても仕方のない内容である。

 姜尚中[註29]は、30年も前に「在日の中で日本的文化への溶解が着実に進んでいく現状」の中で、日本社会に向かって「異質的なるもの」との共存を叫んでも、共存に結びつくとは考えにくいと言ったが、本件裁判を見ていると次から次へと自問自答が続く。すなわち、「事実としての在日」が容赦なく進んでいる現在、我々在日韓国朝鮮人は今後「異質的なるもの」として共存を叫ぶことのできる共生「主体」であり得るだろうか。現在の在日韓国人社会は「集団」として共生戦略を立てられる実質を持っているのであろうか。現在の在日団体はそのための自前の「調査研究能力」を涵養していくだけの実体を持っているのであろうか。梁泰昊のいった、「『在日』をいかに生きるべきかを真剣に考え抜き、自分の意思で行動を起こした」新しい芽は今も育ち続けているのであろうか。本当に日本人の中にも、アジアの人々の中にも新しい芽が宿り続けているのだろう、などなどである。
 今こそ「<国籍=民族>か、同化か」、「集団か、個人か」という二分法から脱却し、(国籍取得如何を問わず)少数者としての権利義務の獲得を急ぐべきである。そのためには、最終的には日本社会が生地主義の部分拡大を決断し、「日本人でない日本国民」を法制的にも社会的にも受け入れることが必要であるが[註30]、在日韓国朝鮮人(社会)は、差別の体験から民族性を表面化することに慎重だったこれまでと決別し、本名を名乗ることが社会的に生きる姿勢表明であり[註31]、日本社会に向かって共存を要求する「主体」としての態度表明であることを自らにもう一度言い聞かせるべきである。どう弄ろうが少なくとも「オリジン」が分かるように「本名」を作りたいものである[註32]。それこそ日本的特殊性の中で「本名を名のる意味」であり[註33]、野村進のいう、「日本人の側が在日や帰化者について知るための教育」である、民族教育の2つ目の意味なのである[註34]。

[註22]金泰泳は2節で紹介した宋順子が本名を日本名に変えたことで「在日朝鮮人の自覚」を喪失したわけではなく、差別社会を生きていく上での一つの便宜的な「戦術」であり、民族の本質主義的拘束を脱けて柔軟な民族性を生きていることであると肯定的である。『アイデンティティ・ポリティクスを超えて:在日朝鮮人のエスニシティ』、190頁。二つの言語、二つの世界で集団と個が二律背反の共存を図っている実践共同体として朝鮮学校を再照明した宋基燦も、朝鮮学校の生徒たちの通名使用に「柔軟でしなやかなアイデンティティの可能性」を見出している。『「語られないもの」としての朝鮮学校』、岩波書店、2012年、212、219頁。
[註23]宋基燦、『「語られないもの」としての朝鮮学校』、93頁。
[註24]「91年合意」とは、1991年1月10日の「日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書」のことで、1945年8月15日以前から日本に居住している「在日」3世以下の法的地位に関して合意したものである。
[註25]柳赫秀・殷勇基、「日本の外国人法制のあらましと課題」『韓国人研究者フォーラム』HP掲載(2017年1月30日訪問)
[註26]히구치 나오토、「재일코리안의 직업적 지위의 동태: 인구 센서스 데이터로 보는1980-2010 년의 변화『일본비평』14号(2016年)
[註27]本誌の樋口直人「外国人参政権の未来」を参照。
[註28]柳赫秀・殷勇基、「日本の外国人法制のあらましと課題」『韓国人研究者フォーラム』HP掲載(2017年1月30日訪問)小中高公立学校における常勤講師については、本誌の中島智子「公立学校における『任用の期限を付さない常勤講師』という<問題>」を参照。
[註29]最近遅まきながら外国人労働者受け入れや移民政策の必要性についての議論がみられる。
[註30]日本の外国人法制の課題については、柳赫秀・殷勇基、「日本の外国人法制のあらましと課題」の4.課題を参照。
[註31]民族名をとりもどした日本籍朝鮮人である、尹照子の凄絶な叫びのような注文である。民族名をとりもどす会編、『民族名をとりもどした日本籍朝鮮人』、26頁。
[註32]LAZAK 編著、『裁判の中の在日コリアン:中高生の戦後史理解のために』(現代人文社、2008年)の執筆者17名の名前の多様性を見よ。
[註33]金一勉、『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』、228頁以下を参照
[註34]野村 進は、在日や帰化者の子供が自分自身のことを知るための教育と、日本人の側が在日や帰化者について知るための教育、この二つの方向への教育を合わせて、「民族教育」と呼ぶことにしようという。『コリアン世界の旅』、講談社+α文庫、1999年、99頁。

 (横浜国立大学教授)

※この記事は著者の許諾を得て『エトランデュテ』創刊号(2017年3月)から転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。

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