【歴史的転換期としてのポスト・コロナを考える】

「コロナ禍」が人類につきつけた「問い」

~人びとが共生できる、また「自然」と共生しうる文明への転換
井上 定彦

 2021年に入って懸念されていたコロナ禍の第三波が日本と世界を襲っている。昨春の第一波を大きく上回る大波のようである。1月7日と13日にまたがって、11都道府県に再び緊急事態宣言が発令された。昨年夏から秋にいったん多少は鎮静化したようにみえ、また予防ワクチンの開発のメドがたちつつあるということで、愁眉を開きかかったすぐ後のことである。

 日本と欧米を含む世界のなかで、例外的に鎮静化に成功したかにみえた中国でも、北京から遠くない石家庄市(河北省)で、再発が確認され(これまでのCovid-19とは違う変異種のビールスだとの報道も)、この地区はふたたび「戦時モード」に入ったとも伝えられる。2021年中の世界経済の回復も可能との楽観的見方があったが、早くも冷水をあびせられた恰好である。

  ●長引く「コロナ禍」 市場の楽観論は本当か?

 日本は発生が伝えられてから1年近く、2020年の実質成長率はマイナス5%強とかつてない悪化ではあったが、非常緊急の政策発動によって(将来を懸念する財政当局の反対を押し切って)かつてない規模で発動された。雇用調整助成金の特例措置、事業活動への特別給付金の延長もあって、就業・雇用面での悪化は、これまではそれほど目立たないですんできた。失業率がわずかしか悪化しなかったのは、なによりも労働市場からの一時退出者が多かったためで、それでも雇用難は非正規労働者・若者に集中し、この層の貧窮は、社会の亀裂を広げてきた。これからが問題である。

 アメリカはなんと2,308万人の感染者、38人万強の死者をだして(1月14日現在)いまだ急増がとめられないまま、世界中の感染拡大は打つ手なしの「爆発」の様相を呈しつつある。これからが正念場である。
 加えて、昨年の世界の山火事続発に続いて、今度の冬は記録的大雪。やはり異常気象・地球環境の異変についての赤信号もつきっぱなしの状態である。また、世界の国と国との間での、また、それぞれの社会での亀裂・分裂は、いっそう深まっている。

 このような実体経済の困難と低迷の中期化が不可避とみられるなか、金融市場は年末から年始までは高株価を謳歌し、この激しいコントラストへの不安・不信も高まっている。近代資本主義市場で、これほどまでに金融市場と実体経済の大きな乖離が長く続いたことはなかったのではないか。時限爆弾を抱えたままでいるといってよい。

〔一〕重なった日本と世界の政治経済体制の転機

 日本は、7年8か月にわたる安倍長期内閣が引き、菅義偉内閣が交代して3か月となる。安倍首相の退任は個人の体調の問題もあったようだが、森友学園・加計学園の問題に加えて「桜をみる会」が政治資金規制法に違反するかたちで開かれていたことが暴露。また「コロナ禍」の政治経済運営の困難、頼りとしていた米トランプ政権の凋落、昨春の「東京オリンピック」開催の困難などで、政権を投げ出すこととなったともいえよう。後継の菅内閣は安倍普三路線の継承内閣であることを「売り」にしており、対中経済関係と炭素排出を2050年までにゼロとするという「新政策」による微調整によっても、内閣支持率低下がとまらない。

 日本の政策は経済対策優先という配慮が裏目にでてしまった。いまや、この1年での世界の経験からようやく定説となってきたこと、すなわち「経済と新型コロナ救済とのバランスをとる」という発想ではなく、「人命重視が経済をも救う」(F.T紙 マ-チン・ウルフ)ことに転換しなければならないわけだ。つまり、警告を発し続けていた感染学の専門家の意見をおしのけての「go to キャンペーン」の継続が誤りだったようだ。
 殊に、人びとは、安倍前首相の「ステイ・ホーム」のノンビリ画像や菅首相のテレビ出演「ガースー」という、緊迫感なきポーカーフェイスについても、政権の長たるものが国民の波長・センスからズレていることに呆れ、反発している。このことに気づくべきだ。

 財務省のあの誠実な公務員を自殺に追い込みながら、殆ど誰も責任をとらない。法で禁止されている賭けマージャンを日常のこととする人物を、無理に検事総長にひきあげようとしたこと、森友・加計学園問題、そして「桜の会」不祥事の開き直り(殆ど予定通り第一秘書への責任押しつけで「幕引き」)。これらが、政治の「私物化」、政治主導ならぬ官邸支配の増長に対する国民の強い不満・批判を引き起こさないはずはないのである。
 かてて加えて、日本学術会議の新委員5名の任命拒否問題がある。多くの者が戦前の美濃部達吉、滝川幸辰事件を思い出す。学問の自由は言論の自由の前提でもあるからだ。ひとびとは、それほどには社会正義に鈍感ではないことを知るべきだ。

 対外関係については、二代にわたる自・公政権で、日本はすっかりアメリカの「保護国」のように世界からみられてきてしまったが、それでよいのだろうか。それはひとり日本のみならず、これからの世界のあり方にも関わることなのである。

  ●トランプ政権の終焉と世界政治の行方

 ようやくにして米トランプ大統領の退場がきまった。それにしても、ここまでひどい米大統領は、むろん前例を知らない。国内では、最悪のかたちで社会分裂を拡大し、法と民主主義をあのようにあからさまに傷つけ、国際的には第二次大戦後75年にわたり続いてきたアメリカを軸とする世界秩序(「パックス・アメリカーナ」)の大混乱を助長することになった。この戦後秩序(国連、IMFやWTOをはじめとする重要な国際機関の構築・維持を含め)は、膨大な内外の犠牲の上に築き上げられたものだが、それにしてもそこには「自由と民主主義」、基本的人権、法とルールによる支配という、「モラル・ヘゲモニー」があったことも間違いない。ナチズム、ファシズム、軍国主義に対抗して形成されてきたからである。トランプによって、この国は自らの「巨大な歴史遺産・威信」を大きく傷つけた。

 バイデン新大統領は、気候変動に対する「パリ条約」(2015年)や世界保健機関WHOへの復帰はできると思われるが、1月6日の、あの米議会(キャピトル・ヒル)への暴力的攻撃に象徴されるような、あまりに深いアメリカの分裂は、容易には癒されないだろう。
 アメリカの欧州への影響力は、イギリスのEU離脱に加えて、同盟関係(北大西洋条約機構)への不信によって低下している。依然として世界の「火薬庫」の中東、パレスチナ・イスラエル関係は、トランプによる一方的傾斜を修復できるのであろうか。折角の「イラン核合意」をつぶした動きは是正されるのであろうか。いうまでもなく、核大国・ロシアとの関係は緊張の連続である。中距離核戦力をめぐるかつての合意は容易に回復できるようには思われない。孤立するロシアは、これからますます台頭する巨大国家・中国へ向かって、経済関係あるいは安全保障についても傾斜してゆくだろう。

  ●台頭する中国の「存在感」とその位置

 中国は、次第に経済が成熟期に入りつつあるとはいえ、今回の「コロナ禍」のマイナスは相対的に軽くて終わるとすれば、いまだ数%程度の「中成長」を続けることは可能であろう。また、「一帯・一路」路線、2016年に発足させたAIIB(アシアインフラ投資銀行、57か国参加)に依拠して存在感を高めつつ、「元」利用の拡大を含めて長期的には独自の世界経済圏をめざしているようにみえる。しかし、世界への影響、世界での信認は、経済面だけでなく民主主義や自由、国際法を含むモラル・ヘゲモニー如何にもあり、一国二制度を国際公約としてうけとめてきた世界は、香港市民活動への強い同情をもってみている。

 日本にとっては、中国との経済関係というのは、「米国か中国か」を選択できるような状況では、とうになくなっている。日本の対外貿易依存度の推移を輸出シェアでみると、すでに対米・対中のシェアは殆ど並んでいる。この間、米・中関係は貿易規制・制裁の相互のエスカレーションがあった後だし、強力なライバルとして浮上した中国への米国の態度は、国内産業からのクレイムにさらされていることもあり、バイデン大統領になってもそれほど改善はしないだろうと思われる。

 それにしても、かつての「米vsソ連の時代」のような、相互に隔絶した「二大体制」の対立関係のように戻ってしまう、ということは、まず想定はしにくい。というのも、現在も中国にとってアメリカは世界最大の輸出先(シェア19% 2017年)であるし、米国にとっては最大の輸入元(22% 同)なのである。殊に、資本関係、サプライ・チェーン、バリュー・チェーンの相互のむすびつきは、米・中・日・ASEAN諸国にまたがって非常に深くなっている。
 そして、21世紀に入っての中国経済の発展は、戦後世界でアメリカが主導した国際経済秩序(WTOを含め)によるものであることを、中国指導部はよく知っている。だから、本格化している次世代の電気自動車(EV)についても規格・コントロールは米国が行いつつ、生産工場については巨大な市場をもつ中国本土での操業をめざしている。産業と経済での相互依存関係は、20年前では考えられないほど深化している現代世界なのである。

〔二〕多極化・分極化するなかで進む経済のグローバル化
          世界の統治・秩序をいかに構築するのか

 アジア太平洋、あるいはアジア・インド太平洋の地域は、おそらくは今回の「コロナ禍」による痛手は、相対的にはもっとも軽い方で収束してゆく可能性はある。そのとき、この地域の成長は、やはり世界経済のグローバル化に乗るかたちとなるわけだ。中国、そしてベトナム、インドネシアを含むASEAN、またRCEP(地域包括連携協定)あるいはTPPなどの比重があがってゆくことは間違いない。
 アメリカは、トランプによる打撃だけでなく、Covid-19でいまだ苦しみ、中期的にも停滞がさけられないようにみえるのに対して、対照的に大国・中国の存在感がさらに増し、またそれに対する警戒感も増大していかざるをえないことになる。10年たらずで中国の経済規模がアメリカに並ぶこともほぼ確かだろう。

 欧州は、英国離脱にはじまり「欧州大分裂」にいたるのではないか、と悲観的にみる見方もあった。この懸念は幸い当面は鎮静化したようにみえる。欧州連合の内部の結束は独仏の協力関係でかえって強くなるようにみえるが、東欧諸国をはじめ、新ナショナリズム台頭の動きはさらに続きそうなのだ。
 世界の多極化・分極化は、21世紀に入り、ますます目立ってきている。そして、今回の新型コロナ対応のなかで、その傾向はさらに強まった。

 また、ここで、改めて現代国家の役割の大きさを再認識させることにもなった。それぞれの国の独自性は高まってゆく傾向が懸念される。しかし、それとは相反するように、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンというアメリカ勢)そして台頭してきたバイドゥ、アリババ、テンセント、ファーウェイ(中国勢)などの、世界の代表的な情報資本(寡占)の大企業は、「プラットフォーマー資本主義」を体現している。

 それらの寡占企業は、国境を超え世界をむすびつけ巨大な富を蓄積しつつ、それぞれの社会の格差・分裂をさらに深め、政府規制(米・欧州・中国の規制当局)との緊張関係も生んでいる。けれども、これらへの必要なコントロールは、強い国際協調による系統的な構築なしにとてもルール化できるものではない。
 暴走する「ハイパー資本主義」のコントロールは、タックス・ヘイブン(租税回避地)と同様に、世界の規制・統治から殆ど逃れているのが現実である。

 むろん、日本のデジタル庁新設は、これに対応すべき視野すらもっていないようにみえる。情報技術独占のもとで、個人での広義の「消費者主権」はますます霞んでいるのが、今日の資本主義である。

 戦後のリーダー国アメリカが、今日のようにその地位を降りつつあるとき、また大国となった中国がその独自の硬い集権国家のシステムを固持しようとするとき、「新型コロナ対策」をはじめとした世界の課題について、われわれはどのようして立ち向かってゆくべきなのか。貧しい国のひとびとへの「ワクチン」の配付はどのようにして可能になるのか。WHO(世界保健機関)の悩みは深いのだ。世界のひとびとにとって必要な21世紀型の国際協力と国際秩序をいかにして形成し直してゆくべきか、いまやすべての国に等しく問われている。

〔三〕「新自由主義時代」の終わり?
     いかなる、そしてだれによる公共秩序・国際秩序の形成か

 この時代までに政府とマスコミでの経済社会思想のメイン・ストリームは経済学でいえば「新古典派」、ハイエークやミルトン・フリードマンに代表されるものだった。1980年代以降の世界を「新自由主義」「新市場主義」の時代であった、という見方に異論はそれほどないだろう。

 それは、1930年代以降の世界経済システム、国内の政策志向へのジョン・メイナード・ケインズの影響が大きい。国家・政府介入による経済運営と経済成長、すなわちマクロ経済の舵とり、「混合経済」的発展は、1970年代になると、「スタグフレーション」に直面して、その有効性をもちえないのではないか、というところから「反ケインズ革命」がはじまった。「市場競争が最適解の均衡をもたらす」というような、「市場万能主義」のカラーの濃いものへの転換であった。

 日本の政策運営も大きな影響をうけた。1982年、中曾根内閣以降の政策基調は、公共部門の「民営化」、国家行政範囲の縮小(「分権化」を含む)、あるいは「民間活力型社会」という和製イデオロギーが、マスコミ・世論で大きな影響力をもった。電気産業・自動車産業は世界に雄飛し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまでいわれたことがあった。たしかに、日本社会については1980年代までは社会階層間の格差も縮小し「一億中流社会」といわれるように、政府介入による分配によらずして、それを実現してきたかのように思われた。

 これらは1990年前後の「バブル崩壊」によって大きく暗転した。しかし、「日米構造協議」によるアメリカの「構造改革」要求(米資本の市場参入の容易化、規制緩和)やその後の国家官僚のスキャンダルで、自民一党支配がおわり、与野党の間にまたがって政権が浮動する連立時代の局面に入り、そのなかで政治主導は国家官僚の権限を縮小することと短絡して理解され、官僚機構による行政権限の縮小、「行政改革」がその間のもっとも重要な課題とされてきた。

 2008~2012年の民主党を中心とする政権にいたるまで、その余波は続いた。むろん、この間の国家・行政機構改革、あるいは政治改革は全く無意味だったというわけではない。地方自治拡大の視点や、情報公開、国家官僚や一部政治の利権腐敗行為の抑制・制限という面からみれば大きな前進でもあった。しかし、これを行うためという首相官邸への権限集中は、「忖度行政」、官僚機構・機能の劣化などの、大きな負の側面を伴うものであった、とみるべきであろう。
 この期間を歴史的な「失敗の時代」という見方(吉見俊哉)もないではないが、現与党だけでなく、野党諸政党、マスコミを含む時代認識の甘さ、社会的な智力の劣化ということでなければよいのだが。

  ●「市場主義国家」を超えて  市民的公共社会を

 家族構造やコミュニティーの変貌、人口動態の大きな変化(速い「少子高齢社会」への到達)には、介護保険や地域の福祉計画での漸進的な対応もなされたが、拡充されるべき公共・社会機能の進化は、社会のニーズに対応できているとは言いがたい。公衆衛生を担当する地域の保健所機能の規模・役割の低下が、今回の「コロナ」への対応が後手・後手に回った一因であることも明らかになった。
 地域コミュニティーと社会自治の機能に着目した、あらたな公共社会秩序の形成が求められていることは明らかだと思う。

 強力とみられてきた日本の産業についても、このわずか20年あまりでの世界のなかの凋落、なかんずく電機産業・情報産業の地位低下は著しい。中国、韓国、台湾の先進企業の後塵を拝するようになったというのが現状だ。自動車産業の未来についても、EV化(電気自動車)への対応いかんにかかっている。
 また、エネルギー供給についても、ドイツをはじめ早くから原子力発電を放棄し、再生エネルギーに転換してきた諸国の間で、2011年の「福島ダイイチ」の致命的な事故にもかかわらず、かつての原発優先政策の後遺症(「原子力村」)が重く、ずっと要請されてきた「脱原発」と「カーボン・ゼロ」社会への転換の足を引っ張り、遅らせてきたといわざるをえない。

 こうして、いまや、この流れは転換されなければならないが、はたして可能なのであろうか。EUの政策志向のように、「企業家としての国家」(マリアナ・マッツカート)の良き再興が、21世紀世界のなかで新たな形での役割を求められているようにも思える。

 アメリカにおいても、レーガノミクス、「トリクル・ダウン」の政策思想は、歴代政権での政策に根強く残ってきた。1980年代からすでに懸念されていた『アメリカの分裂』(アーサー・シュレジンガーJr. 1992年発行)は、それから一直線に悪化する一方であった。そして、これの傾向は世界的なもので、金融情報資本主義の展開のなか、富めるものはますます富み(所得階層上位1%への資産の集中)、中間階層は細り、社会的貧窮層が拡大した。
 このことについては、ようやくこの10年の間に知られるようになってきた。この傾向はアメリカだけでなく、ベストセラーとなったトマ・ピケティの『21世紀の資本』で、またミラノビッチの著書で、同様に世界の所得分配構造の悪化、資産保有状況の偏りが系統的に明らかにされている。いまや、中国を含め、世界のそれぞれの地域での社会分裂が進行しているとみなければならない。

 そこに、今回の「コロナ禍」が襲った。トランプは高価な治療で回復したかもしれないが、貧しい者や貧しい国では、入院はおろか検査さえもできない厳しい現実に置かれている。貧富の差は、いまはただちに「生命」の危機の差となっているのである。

  ●市場と国家 「よき政治」の復権、民主主義の再構築へ

 今回の、これまでの常識をこえるような、雇用・就業・企業活動への大規模な緊急の救済策で、経済は表面上ではやや緩和されているようにもみえる。しかしながら、「コロナ対策」のような人間の命に関わるような重大課題についてみただけでも、治療薬、ワクチンはおろか、マスク・消毒材の供給ですらも、市場機能に期待して待つには長い時間を要した。日本では、中国その他の国で行われ始めているワクチンの開発・供給すらも自前ではメドが立っていない。これまで規制緩和と民間企業優遇策(法人税引き下げをはじめ)をすすめてきたことは、何だったのであろうか。
 都市計画のように、安全に関する社会的ニーズを先手・先手で拾い、対応する。ここでは社会公共部門の素早い活動が鍵になる。このことにいまさらながら気づかせられたわけだ。公共部門の劣化(させたこと)への対応が問われているのかもしれない。

 いま、社会制度、教育制度、福祉制度などの公共制度は、あらためて総点検さるべきではないか。国、自治体、関連団体、そして殊にそれらの役割を機能させるための「市場・企業との関わり方」も再検討されなければならないと思う。

 それには、政治的リーダーシップが必要である。すなわち「良き政治」を取り戻すことが前提となる。教育や福祉の分野までも、政治的利権がまかりとおるような現実は変革されなければならない。政治の「私物化」は弾劾さるべきだし、政治の虚偽発言は許されない。不祥事は権力的に隠ぺいされてはならず、情報公開により真実はあきらかにされなければならない。それによって、市民参加が進み、民主主義の再構築という息の長い作業により多くのものが加わっていくことができる。

 また、「フェイク」と民族「ポピュリズム」の政治も克服してゆかねばならない。今日は、世界では「権威主義的政府」やリーダーが増えているといわれるが、そうではなく、民主政治の再構築がもとめられている。「権威主義的政府」と国家は、国家間での致命的な衝突を引き起こしがちである。これでは、21世紀の未来社会を、恐ろしく暗い方向に導きかねない。
 「コロナ禍」に対しては、もはや一国政府で立ち向かえるようなものではなく、本格的な国際協力・協調によるしかないことは、誰しも知るようになっている。
あらたな国際公共秩序を、これを期にうちたててゆかなければならないと思う。国連のグテーレス事務局長、WHOのテドロス事務局長の声とリーダーシップに、もっと多くのものが耳を傾けるべきではないか。

〔四〕自然界の逆襲としての「コロナ禍」

 地球の生命の歴史は、37億前にはじまり、数回もの生物種の「大絶滅」(直近では隕石の衝突によるもの、6,500万年前とされる。少しだけは生き残る) があった。今は、原生代、古生代、中生代をへて新生代の第四期、そのような尺度でいえば、ごく最近の1万1,700年前にはじまった完新世(温暖期、沖積世) であるというのがこれまでの定説だったそうだ。そこに、現代はもはやそれをこえて、「人新世 ひとしんせい anthropocene」の時代に入っている、という考え方が世界の地質学会をはじめ有力となっているという(パウル・クルッツェン ノーベル化学賞受賞者の見解など)。
 この時代から地球の地層(層序)は新たな年代に入っているのではないか、ということだ。

 すなわち、これまでの生物種の大幅な減少・大絶滅は、地球の連続的な大噴火や宇宙からの大隕石の飛来によって起こったが、ごく近年になって起こっている、進行中の種の多様性の激しい減少や変異は、その時期のスピードに相当するかそれを凌ぐほどのもの、なのだそうだ。有限なる地球で、種の多様性の劣化・減少、人工的廃棄物(プラスチックだけでなく放射能関連物質を含め)、地球温暖化という三つが同時並行して起こっている。
 それは牧畜・農耕、そして産業革命による二酸化炭素の排出と海洋汚染をふくめ、「人新世」というのは、人類の活動によって地球の地質年代を画するような特徴をしめす規定なのだそうだ。
 それほどに速く地球環境は人類の活動によって変りつつあり、そのなかで変異してきたバクテリア、ウィルスのなかから、今回の新型コロナウィルス(Covid-19)の爆発的拡大が起こった。

 このかつてない世界的広がりと速さは、ごく近年からの人の長距離・高速移動に起因していることは間違いないだろう。人間の個体数は現在77億人、大型哺乳類の個体数としてはいかなる類人猿、ライオン、トラ、牛、馬をも大きく越えるような規模であり、この増え過ぎた「寄生生物」の固体数を調節するために、自然界から送り込まれた天敵こそが新型ウィルスだ、という見方もあるくらいだ。

  ●人類の活動による地球環境の激しい破壊

 20世紀以降さらにスピードを増した大量生産・大量消費(廃棄)により、地球生態系は激しく攪乱され、とりかえしのつかないダメージをこうむりつつあるとされる。体感できる異常な気候変動、異常気象、大型台風、ハリケーンの来襲、北極・グリーンランドなどの氷の速い融解などは、海水温の上昇に関わる。世界各地の大規模な山火事とともに、人間活動の暴走として、CO2を発生させるエネルギー消費が温暖化を早めていることはもはや知られている。

 この暴走は、20世紀の後半、ちょうど1971年にメドウスらが「成長の限界」を警告した頃から、むしろ加速している。このローマ・クラブ・レポートは、地球は「有限なもの」であることを、はじめてひとびとに自覚させる画期となった。

 したがって、すでに1980年代頃からは、世界の科学者・専門家は結集して、国連をはじめとして地球環境の激変に対して立ち上がった。1992年には、はじめての「地球環境サミット」の開催にこぎつけた。以来、定期的に「パネル」が開かれ、気候変動の速さに警告をかさねてきている。温暖化防止に関わる各国の義務を定めようとした「京都プロトコル(1997年)」は、日本がまだ前向きだった頃の重要なステップとなった。

 「温暖化などは嘘っぱちだ」と放言していたトランプに、今日では流石に同調するものは殆どいなくなっている。遅れに遅れて、日本でも2050年の「カーボン・ゼロ」めざすことが、菅政権の目玉となったわけだ。

 地球温暖化についてだけでなく、国連環境計画は「生物多様性条約」に関わる作業も積み重ねてきた。気候変動枠組条約の宣言には世界の197か国が参加(2015年)、この生物多様性条約にも196か国が賛同している(アメリカはまだ賛同せず)。2020年7月の国連総会(オンライン開催)の特別セッションでこの条約の実行・推進を確認しあった。

 他方、筆者は近年の生命科学、遺伝学そして人類学(含む文化人類学)の進歩にしばしば驚かされる。現代人類は、わずか5万年ほど前に東アフリカから脱出した150人ほどの遺伝子で大半がカバーされるという(ニコラス・ウェイド)。肌の色、人種の差はわずかなものなのだ。この私たちの現代人類という種は、いきのびてゆくために、個体としても集団としても、ながきにわたって、はげしい闘争と生き残るための人と人とのルールによる協力関係の構築とを、交互に行ってきた。

 結果としてみれば、家族(核家族を中心に)と「互恵性」の獲得→コミュニケーションのための言語と共感する文化環境の構築→宗教(信仰と理想)のステップを経つつ、「人間らしさ」(利己主義と利他主義のよき組み合わせ・バランス)を獲得し、共有するようになってきた。他集団を絶滅させるのではなく、よりよく包摂できる文化(シンボリックなものを含む)を発達させたグループが繁栄し、文化制度、社会制度の代表性を獲得してきたわけだ。

 近代に近づくと、宗教と絶対的権力の呪縛から逃れようとして、「理想としてのユートピア」が、繰り返し語られるようになった(ルイス・マンフォード『ユートピアの思想史的背景』)。むろん、19世紀からの社会主義思想(カール・マルクスの思想もその代表的なもの)もそのひとつである。
 今日の「コロナ禍」で、いつの間にか私たちが身につける文化慣習となってきたもののひとつに「マスクの着用」がある。ウィルスから個体である自分自身を守る機能は弱くても、他の人間に感染させるリスクを大幅に軽減する。

  ●利己主義と利他主義の問い直し

 現代社会思想にある「利他主義」は、今日の利己的個人の「利益の極大化」、あるいはその延長としての「強欲資本主義」についての再考をもとめている(「新古典派」経済学が仮定・前提するものの限界)。このマスク着用の日常化のように、自然な利他主義は「合理的な利己主義」とも一致するのだ。

 人間が生きてゆくには、いまや次第に限界に近づきつつある「有限なる地球」の環境をまもってゆくこと、すなわち「成長第一主義」から脱すること。また社会差別・非道な格差を是正しつつ、基本的人権の尊重を基礎とする「人間の安全保障」を、国内および世界へ、地球規模へとひろげてゆくこと(初岡昌一郎稿、本『オルタ広場』2020年5月号、および本号参照)。

 すなわち、社会システムとしての「共生型社会」の構築と、限界が明確に露呈した地球環境を視野にいれた「自然共生社会」という、ふたつの新たな「心の習慣」を、共に身につけてゆくことが、求められているのではないか。すなわちこれは、これまでの人類文明のあり方に関しての大きな問い直しでもあるのだ。

   〔むすび〕人類文明の問い直し  過去と現在、そして未来をつなぐ

 2020年秋の安倍内閣の退陣、また時を同じくして退場せざるをえなくなった米トランプ政権。そこを襲った世界的規模での、同時・多発の「コロナ禍」の執拗な攻撃に対して、その対応と経験は、21世紀の日本と世界の政治経済システムを問い直すチャンスとしてとらえるべきだとおもう。

 それは広く考えれば、近代が辿ってきた人間文明のあり方の根本的問い直しを意味しているのかもしれない。その近代文明は、その前の個人の自由の束縛や階級的支配への反発を生むとともに、同時に利己主義的な「強欲資本主義」の爆走をとめることはできなかった。ナショナリズムのカラーに染めあげられた「国権社会主義」の崩壊がそこに拍車をかけた。まだその残滓は根強いのかもしれない。

 けれども、自由主義(あるいは新自由主義)を建前とする資本主義も、あるいは「権威主義的国家」のシステムも、共に問い直されている。私たちは、ひとびとが自由で慈しみあえる「共生型社会」、そして、人間の「社会の持続可能性」をささえる前提となる地球環境の異変に向き合わなければならない(「自然共生型社会」)。

 おそらくは、これは後にみれば、「文明の転換」点であるのかもしれない。
人類の「共滅の道」へ、ではなくて、「知恵ある人間、ホモ・サピエンス」らしいライフ・スタイルと社会システムへと、移行してゆく道であった、ともいえるようなものであってほしいと思う。
 それが、いかに長い困難な「曲がりくねった巻き道(Winding Passage)」であろうとも。

 (島根県立大学名誉教授)

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