【論壇展望】

「エコロジーと親和する社会民主主義」構築へ

21世紀政治(思想)潮流の思考軸を考える        
井上 定彦

 この数年、戦後の政治思潮について、しかも軸足を与党ではなく野党におきつつ、かなり包括的なレビューがあいついで発行されている。手軽な新書版形式のものも多く、テーマの堅さにもかかわらず、10万部をこえるようなヒット作になっているものも少なくないと聞く。たとえば、佐藤優・池上彰の『日本左翼史』(講談社新書2021~2022年)(対談形式をとる)の三部作、「戦後左派の源流1945~1960」「学生運動と過激派1960~1972」「理想なき左派の混迷1972~2022」がある。かつてならば、読まれそうな青年、すなわち現代流にいえば「ミレニアル世代」が読者なのかといえば、必ずしもそうではないようだ。「かつての青年」、今の中高年に比重の高い部厚い読者層があるのだという。

1.「戦後革新」、「左翼」とは何であったか
 中北弘爾『日本共産党―「革命」を夢みた100年』(中公新書、2022年)は、正面からとりあげるのがためらわれがちな対象ではあるが、第三者であり誠実で地味な政治学者の手による政党史である。
 他方、保坂正康『対立軸の昭和史―社会党はなぜ消滅したのか』(河出新書2020年)は議論の対象は前の「昭和」におかれているものの、これらの本にも通じる長い射程をもっており、これも読まれているようだ。高木郁朗著・中北浩爾編の『戦後革新の墓碑銘』(労旬社、2021年)は、個人史ながらも、社会党内部からみてきた著者ならではの、興味をそそる新著である。
 「戦後革新」「戦後なるもの」が、とうに遠くなったせいなのか、いまやためらわれることなく、面白い物語として、あるいはまじめな分析・思考の対象となるだけの、十分な時間が経過したということなのだろう。
 これらを素材として、政治史ないし政治思想の範囲を越え、近現代の日本と世界をも視野にいれるような議論をかわすことも可能になったということもあるだろう。なにしろ、この「戦後」78年間は、明治維新からアジア太平洋戦争終結にいたる長い77年間にもならぶような、長期にわたる期間なのである。

2.「左翼史」三部作
 佐藤・池上の「左翼史」について、「同時代」史として読むかたも多く、「どうみればいいのか、あれでいいのか」との意見を求める問い合わせも飛び交っているようだ。評者は少し上の世代に属するものではあるが、「そうだったのか、それは初めて聞いた」というところも多く、たしかに読み物としても面白い。また、この対談での二人の間にも、見方の相違がかなりあるだろうことも読み取れる。
 佐藤優の長所は、なんといっても政治・社会思想の側面から現代史を照らしてみるということにある。第二部の「学生運動と過激派1960~1972」は、立花隆の「革マルvs中核」くらいのものしか知らないものとしては、なるほどそこまでの広がりと、ひどい誤認・挫折があったのかと、あらためてジャーナリズムが必死に追いかけまわし、当時の紙面を飾り続けていたことを思い出す。しかし、学生たちの「体制・権力」への「挑戦」にはどこまで「正当性」があったのかについては、今日までの通常の「政治史」ではあまり論じられていないし、すでにその必要もないとみられているのかもしれない。政党の支持率や国民意識調査の推移などの政治構造全体の客観データの動きを追うと、当時の政治や社会体制への影響力について、やや過大評価のように思える。たとえば、「1960年安保」反対運動の6月4日だけをとっても 560万人の参加があった(石川真澄・山口二郎『日本政治史 第4版』岩波新書89頁、2021年)とつたえられるし、連日のように国会を取り巻く何波にも及ぶ数十万ともいわれる波状的なデモ行進を多くのものが知っている。1971年の「新宿騒乱」の参加者が2万人程度であったとされるから、平行した派手な新左翼運動については、政治構造全体を視野に置く社会科学者の目からみると、ジャーナリズムがとらえた歴史の「表層」だけを記述しているようにもみえるだろう。

3.マルクス主義理解における日本と西欧
 しかしそこでも、「戦後革新」なるものを体現していた日本社会党の盛衰については、この新左翼潮流運動の派手な興隆のたびに、かえって世論から孤立してゆく様が選挙の議席の数字の上からも読み取れる。他方、西欧の社会民主党などを含む広義での「左翼」や「環境派」にそのような運動が、さまざまな姿で発展的に融解してゆき、何らかの「積極的」役割を果たしている、とみるものからすれば、なぜ、日本社会党がこれらの「力」をもっと内部に取り込むことができなかったのか、と問うてみたくなるものもいるわけだ。
 しかし、この見方をとるとするならば、それでは日本社会党のなかで、西欧社会からみるとすれば、時期遅れにみえる「マルクス主義『正統派』」(旧社会主義協会派等)の台頭(1970年代から1980年代初頭にいたる)をどうみるのか、という問題がある。結果的にみれば、当時はマルクス主義を体現していると思われていた「ソ連体制」への距離感をとり損ね、これを平和勢力ともみなした見方から転換が遅れたことが、支持率・力をおとした重要な原因となったとみることも出来よう。そのようにみれば、「ソ連体制の崩壊」が決定的な打撃となって、社会党の運命を決したということになるのだろう。
 他方、西欧での広義の「社会主義」擁護派や「社会民主主義派」についていえば、社会主義インターナショナルや「進歩同盟 Progressive Alliance」(西欧諸国の政権党に交替で就いている実績があること、グテーレス国連事務総長のような人物を輩出し続けていること)、またICFTU(国際自由労連)からITUC(今日の国際労働組合連合)の勢力の維持、あるいは、ILO(国際労働機関)や欧州連合における「社会的側面」重視の一貫した姿勢のなかには、すでに社会のなかに「制度的」に深く刻みこまれているという現実がある。

 広義での「社会主義的価値」「理念」からみると、20世紀に大きな影響をあたえた狭義のマルクス主義(「ソ連モデル」)については、かなり以前から批判的な評価は定まっていたと思う。この狭義でのマルクス主義というのは、「資本主義体制」あるいは市場経済を一方におき、他方で「社会主義体制」を生産手段の私有の廃止、計画統制経済体制として対極におく。前者から後者への体制の移行を階級闘争による権力の交代(「革命」)で行う。また、歴史の発展段階を自然史の必然として単系的に描く、としてもよい。このような見方は、1980年を前にすでに終わっている、という常識が少なくとも西欧社会では普遍化していたと思う。(評者が邦語文献で明確にこれを目にすることができたのは、著名なフランスの社会学者で運動家でもあるアラン・トゥレーヌ『ポスト社会主義』(平田晴明他訳、みすず書房、1982)であった。)

4. 画期をどこにおくのか
 さきにあげた佐藤・池上の三部作について、ふたつばかり、私見をのべたい。
 ひとつは、第三部にあたる巻「理想なき左派の混迷」で、1972年以降について、「新左翼が内ゲバとテロリズムに傾斜し社会的影響力を失うなかで、左翼の主戦場は労働運動になったという見方を私たちはとった」(183頁)とのべている点である。青少年時代をこの時期に過ごしたお二人にとってはそう映ったのではあろうが、はたしてそうだろうか。
 次項でもみるように、戦後の労働運動と戦後政治史の分岐点は、「1955年体制」と広くいわれているもの、すなわち、自民党への統一、再統一された社会党の成立、「保・革二大勢力」関係の成立のころだったのであるまいか。GHQの指導の下に1950年に成立した総評が、その期待を裏切って「ニワトリからアヒル」に変貌し、復活してきた旧政治・思想勢力と「経営正常化」をもとめる経営者団体に抗して、労働側から多くの激しい反撃をかけられた。「1960年安保」といわれたものがその力のピークであったとみられるのではないか。このときの大衆運動の規模は、「6月4日」だけで全国の参加者は560万人に上り(石川・山口『戦後政治史 第四版』89頁 2021年)、総評の部分スト、安保改定阻止国民会議の呼びかけによりの国会周辺は、連日にわたり、数万人のデモの波に取り巻かれた。
 日米安全保障条約の改定は自然成立し、改定阻止はならなかったが、強行した岸信介は退陣。「ハト派」としての池田内閣に交代した。戦後民主主義は根づいたと人々は実感し、憲法改正などの保守陣営の「タカ派」は長らく影をひそめた。防衛費GDP比1%枠への抑制、「非核三原則」、不透明な部分を残しながらも沖縄本土返還なども、岸の弟の佐藤内閣で決められた。以降、どの政権においても、長らく前提とされることになったわけである(議論のあった「集団的自衛権」の肯定や防衛費GDP比1%枠突破、「武器輸出禁止三原則」などが明確に変更されたのは、2014年以降のことである)。

 「戦後革新」なるものは、ながらく「積極中立・護憲・平和主義」を掲げつつ、その後もずっと「3分の1」勢力は保持し続けたとみるのが通説(「55年体制」)である。

 しかも、これは政治の表層の変化だけではなく、それまでの日本の社会経済構造の変容にも大きなインパクトを与えたのである。西欧の「福祉国家」化が政府による所得再配分をもとに形成されたのに対し、 革新陣営と労働攻勢のなかで、日本経済の旧「二重構造」は、日本では高度成長と平等化が平行してあらわれることになった。これは、生活での「平等」を求める「春闘方式」に依拠して全国に波及。この「方式」による毎年の成果の積み上げにより、日本社会は相当に「平準化」され、(いったんは)「一億総中流社会」を現出させてきた。最初は大手企業・労組による労働条件の平準化にはじまり、組織されていない中小零細企業部門にもさまざまな平準化作用が働いた。後者の部門においては、それまで存在しないか殆どあてにならないと思われてきた「一時金」も「退職金」についても、(レベルは低くても)企業の制度・慣行として支払われるようになった。そこには「年功賃金・長期雇用・企業別組合」という「慣行」、企業(統治)構造が生みだされ(OECD「対日労働報告」、1971年)、社会構造もかわっていったのである。
 このようなインパクトに対してみると、1960年代以降に広がった学生運動を軸とする新左翼運動は、社会構造の「産出」や国政レベルの政治の動きについて、有意な貢献をしたとされる点は乏しい。それよりも、「革新自治体」の全国での叢生、1970年代中までは顕著だった公害への挑戦、貧困な福祉の拡充、産直や生協の拡大という消費者運動など、姿・形をかえてあらわれた様々な市民運動、「分権と自治」「参加」などに、今日にも連綿として生きている社会の底流にもつながってきたといえるのではないか。

 二つ目の点は、それでは、これから「左翼」はいかにふるまうべきかについてである。
 「左翼」が「大きな物語」を失っているようにみえる今、「社会的正義を実現するためには、人間の理性には限界があること」を自覚しつつ、なお事例としていえば、「絶対的平和主義」をあらためて21世紀の文脈のなかに位置づけ直すこと。また、「隣人を自分のように愛しなさい(キリスト)」というような、いわば「超越的な価値観」を再建することだ、という提起もなされている(これは佐藤優の指摘。「理想なき左派の混迷1972~2022」186-187頁)。
 これとは違って、さきの安倍政権にも批判的立場を示した保坂正康の前掲書では、日本社会党は「敗戦体験」を基礎に「戦後民主主義の純化した部分を求める国民の期待を代弁してきた」と理解している。そのうえで、社会党が権力の取れる政党、多くの人に許容される政党になることができなかったのはなぜか、を問いなおす。それは戦後社会の日本人の体質をよく示している。東西冷戦下にあって教条左派の論者たちは、・・一切の妥協を排する、その政治的潔癖さ、すなわち社会主義絶対を掲げ、みずからに抗するものは非正義であり、裏切り者だとの認識である(261頁、269頁)。それが、社会党が消滅した理由だという。
 この二つの見方の間には、思想・思考のひろがる時間的距離、長さの相違があるのかもしれない。あるいは、思想史的アプローチと政治史的アプローチの相違があるだろう。

 これとは別に、及川智洋『左翼はなぜ衰退したのか』(祥伝社新書、2014年)では、21世紀の日本は、韓国・中国のふるまいに反応した日本の世論について、20世紀前半に「国策を誤り」迷惑をかけた過ちを忘れてはならないし、20世紀後半には非戦主義の平和志向国としての実績ももっている(215頁)。が、その贖罪意識が強すぎるためなのか、韓国や中国のやや強引な主張(竹島への韓国大統領の上陸、あるいは尖閣諸島をめぐり東京都による買い取りを阻止するための国有化に関わって大量の漁船団を出港させたり、大規模な反日キャンペーンを展開した中国)にしっかり向き合うことができなかった。これも加わって、北朝鮮による拉致問題が実際に存在していたことは、そのことを否定していた「左翼」にとって致命打になった、と指摘する。だから、及川は21世紀日本の右傾化は「左翼」がいうような「いつか来た道」とは異質であって、東アジアにおける国際政治力学の変化とリスクの増大、左翼的理念のある程度の達成と、その後の行き詰まりが主要な要因だとする(215頁、222頁)。

5.「戦後革新」・「保守」そして「リベラル」
 日本の現代史の大半を彩る保守派の政権に、たえず対抗勢力としての役割を演じ続けた「戦後革新」について、高木郁朗は、これはすでに「墓碑銘」であるとしつつ、あらためて定義する(『戦後革新の墓碑銘』3頁)。第二次大戦の惨禍を経たのちの平和と貧困からの脱却という二つの願望が広く国民のなかに存在していた、そこに現実的根拠を置いていたとみる。憲法9条、生存権を含む基本的人権と政治的民主主義の保障としての「護憲」がそうである。それは具体的には、「総評・社会党ブロック」として存在し、そこには魅力的なリーダーが多数おり、それを支える無数の知識人がいた。高木はそのなかにあって、各時代の局面ごとに登場する課題に立ち向かい、みずからは黒子として「脚本家」として振る舞ってきたという。そして今日では、「それらはすべてダメになったよ」とこぼしながらも、亡くなる最後まで仕事を続けられた(2022年9月逝去)。
 ここでの座標軸はかなり明確なようにみえる。しかし、それは必ずしも言葉どおりの「保守」というのではなく、自由とか平等とか平和とかにともすれば背を向けがちな(「反動」の鎧を隠した)「日本型保守」への対抗、ということでもあったのだろう。だから、彼の最後の「脚本家」としての仕事は旧社会党を解党して「リベラル諸潮流の総結集」を期待したものだった(1995年のこと、200~203頁)。
 歴史的思想史としてみれば(主として欧米を対象とすればなおさらだが)、「平等」はともかく、「自由」というのは、たしかに「保守」のものであり、カール・マルクスが挑んだのは、「自由」の名のもとで私有財産制度を基礎として資本が自己増殖し、人々がその「搾取と貧困」にあえぐ、そこからの解放をめざしたわけである。「自由、平等、博愛」という三つの概念は相互間で緊張と矛盾をはらむ関係にあるわけだ。このなかで良き伝統を保守する、あるいは良き伝統をつくりだすというのが、保守だとすると、日本の自民党をどうみるべきなのか。

6.社会保障制度の前進
 現在の介護保険法は1990年代、介護保険推進のための「1万人市民委員会」という「リベラル派」と自民の福祉推進派や省益となる厚生官僚群など、さまざまな組み合わせのなかで、いくつかの連立政権の下で、かなり強固な「制度」として実現したものだ。これを「戦後革新」によるものとも、国家主義の顔を持つ自民によるものとも、断定はできない。
 たしかなことは、この時期の自民党は変容を続け、今日からみても、加藤紘一、河野洋平、橋本龍太郎、後藤田正晴、野中広務のような、「もっともリベラル」な顔をもった時といえるのではないか。その後暗転して「ネオリベラリズム」の小泉政権や、官邸に権力を集中させ法制局長官の中立性を奪ったりする手法で安保関連法を強行した安倍政権、独立性を保つべき学術会議会員人事に介入する菅内閣など、「昔」の権力者のような顔もみせた。
 岸田内閣の2022年12月の一連の防衛力強化(対GDP比2%へ)策と平行する財政金融緩和策は、はたして自民党内のリベラル派といわれた宏池会の流れにそったものかどうか、不明なところがある。
 保守主義は進歩主義に対抗する政治思想であったとする宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書、2016年)は、戦後革新がある時期まで「進歩主義」を担ってきたと認めつつ、その勢力が衰退していることが、保守主義の「劣化」をもたらしているのではないか(同書ⅴ)、と懸念する。
 日本における保守は、吉田学校の「吉田ドクトリン」(「軽武装・経済国家」として生きる日本)という長い「伝統」がある。それを振り払って第一次安倍政権は「吉田ドクトリン」に対抗する「清話会」の流れで、「戦後レジームの転換」をふりかざした。が、すぐに国民から見放され、民主党政権の成立という本格的な政権交代がおこった。しかし、この民主党政権は、党内抗争と、蓮舫氏の行動にもみられる新自由主義的ふるまいや、他方での福祉社会の持続を求める動きもあるなどの路線のブレで、3年間で自壊した。
 むしろ、大平内閣時代の「新しい保守主義」の模索に注目すべきだったのかもしれない。
 しかし、実際には、中曽根政権(反動の側面を抱える清話会につながる)から、小泉政権を経て、安倍⇒菅⇒岸田と続く圧倒的議席を持つ「長期保守政権」は続いてきたわけだ。
 宇野重規は、「田園都市構想」「文化の時代」「環太平洋連携」のような、「経済国家からの脱出」こそが、進化する「保守」にとって重要だとみているようだ(宇野重規『日本の保守とリベラル』220頁 中公選書2023年)。

7.保守とリベラルの間、「ソーシャルなもの」の位置
 「保守」が圧倒的有利にリードする今日の政治状況をみるとき、1990年代の保守が「保守リベラル」を掲げ、それに対して「革新」側は、「社民・リベラル」「民主・リベラル」や、アメリカのガルブレイスの考え方にそったような「リベラル派」の形成を志向した、この1990年代の日本では、以前からの保守支配勢力の軸を「政・官・財」利権関係が主導しているとみて、それへの国民の強い拒否感が根強いことにしぼられ、そこに依拠し続けた。
 しかしながら、1980年代というのも、すでに日本社会は「現代化」していたと思う。
 つまり、人々のくらしの大半は「都市化」し、家族構造も地域でのリーダーシップの様相も、相当に変化していた。「生活保守主義」というか、それまでの社会組織(「保守」派は、商工会や農協、医師会、「革新」派は労働組合にというような基盤)がゆらぎ、政党支持では、いつも「支持政党なし」の浮動層が多数派を占めるのが普通となっていた。この30年間で、もっとも変化したのは、この基底における「ソーシャルなもの」、社会構造・社会文化の変動であったのではないのか。(青年の「現状に満足」派の増大、生活保守主義については、見田宗介『現代社会はどこに向かうのか』の第一章「脱高度成長期の精神変容」、岩波新書 2018年を参照)。これまた日本的な「成熟社会」(Ⅾ.ガボール)への到達であったのかもしれない。
 日本的集団主義が「イエ型社会」(村上泰亮他『文明としてのイエ社会』中央公論、1979年)という「タコツボ型」(丸山眞男)に閉鎖しつつ、この「型」は「企業社会」をはじめ、今日においても、さまざまな社会組織内部にも強固な「コア」として残り続けている。それでも、なおかつ日本社会全体としては、非正規労働者、独立労働者、自営業層をふくめ、流動化を続け、浮動し続けている。
 速いスピードでの農村社会から都市型社会への移行、「過密」と「過疎」の進展、ライフ・スタイルの変化、コミュニティー構造の変化・共助機能の低下により、代替すべき公助制度の急速な発達がないかぎり、「圧縮された近代」(落合恵美子)の困難としてあらわれる。この時期からの日本社会の大きな変化と様々な難題は、家族の型の変容、(大家族⇒核家族⇒単身世帯比率の上昇等)、生涯未婚比率の上昇、そして、人口急増から人口急減へ、と暗転する中でおこった。
 日本は「社会課題先進国」に変容していった。
 その後を、韓国、台湾地域を含む中国がいま追いつき、韓国・台湾地域の人口は2023年頃をピークに日本よりも速いスピードで減少過程に入った。
 このことは、東アジアについて(ある程度の生活水準に到達した地域については)、人口学者が早くから予測していたことである。加えて、社会学者が20世紀後半を「大衆社会」としてとらえるようになったことが、1980年代には日本にもあらわれていたわけだ(D.リースマン「孤独なる群衆」の現象を含め)。
 「生活保守主義」と、ひとびとのくらしの「個人化」「原子化・アトム化」という新たな現象が、ちょうど、日本社会で「敗戦体験の記憶」の薄弱化が進むと同時に、並行してあらわれていたことになる。
 にもかかわらずその頃、家族は「男性が家計の主な稼ぎ手、女性は専業主婦、家事をふくむ主な担い手」という性別分業が組み込まれた「戦後日本型循環モデル」が成立し、これまたその後も今日にいたるまで、根強く尾をひくことになった(本田由紀『社会を結び直す』岩波ブックレット2014年)。ジェンダー・ギャップ(性差別)は、日本、韓国については、世界最悪クラスの地域とされることになった。
 こうしてみると、東アジアの「社会的側面」についての「共通課題」も、大きく浮上し、初岡昌一郎がはやくから提起してきた、「ソーシャル・アジア」構築への挑戦が、いまこそ求められていることが理解される(初岡昌一郎編『ソーシャル・アジアへの構想力』日本評論社、2001年、ほか)。

8.世界の構造変化への認識の遅れ
 そのころ、「ソ連」の現状(一党独裁、スターリン時代「悪夢」)が、ようやく西欧より大きく遅れながら日本でも認識されはじめる。また、中国の政治大変動と文化大革命の「狂気」に驚き、北朝鮮の独裁と統制の悲劇も伝えられはじめていた。ソ連・東欧の「東側体制」の崩壊(1989~1991年)は、それに続いて起こったことである。
 西欧社会で数十年かけて20世紀に定着してきていた「社会民主主義」というのは、残念ながら戦後日本社会においては、政党とジャーナリズム、知識社会の間に根を下ろすことができなかった。その間に、「新左翼運動」の興隆と、その後のみじめな「内ゲバ」を伴う凋落を眼にしたのである。そして、この「社会主義」というもののイメージを、日本人の多くは、中国、北朝鮮、「ソ連」という東アジアの身近な国のなかにみて、うけとめていた。だからそれを、「否定的なもの」として理解したのも自然なことであったのかもしれない。加えて、そこに1989~91年の「東側体制」の崩壊が起こると、「やはりそうだったのだ」ということになる。
 すると、狭義での「左翼」はむろんのこと、「非武装・中立」をとなえてきた「第三勢力」であったはずの日本社会党への人々のシンパシーについても、薄れてくることになる。

 歴史的にみると、狭義のマルクス主義(ソ連型の理解)については、ドイツSPD(社会民主党)は、20世紀の中頃1959年に「バート・ゴーデスベルク綱領」で、階級闘争を正式に放棄し、その認識の転換を行っている。その後、「ユーロ・コミュニズム」そして「ユーロ・ソーシャリズム」は、フランス社会党を政権に導いた。

 日本でもそのような、知的・政治的努力がまったくなされなかったというわけではない。早くは1960年代に影響をもった「構造改革論」(イタリア共産党のような)導入の試みにはじまり、「市民社会主義」の主張もあらわれた。そして、1970年代終盤には、労働組合の全国センター・総評が、東欧の統治体制に挑む「ポーランド連帯」を評価して、路線の修正を図りはじめていた。
 ようやくにして、1986年には社会党の「新宣言」がだされた。
 さらには、1995年の9月の社会党大会では、広範な参加を募り、新リベラル政党を立ち上げようという動きもあったのだという。しかし、この試みは挫折し、高木郁朗によれば、これを最後にして日本社会党の本格的な脱皮は頓挫したままとなったという(『戦後革新の墓碑銘』、201頁)。
 ここには、政党・政治勢力の側の責任だけでなく、戦後日本の「知識世界」の積み上がってきた流れからみても、日本社会党の「安保条約と自衛隊の堅持」、「積極中立」による平和という、それまで掲げてきた路線の急転換は、国民の理解をうることはできなかった。
 党内ですら議論が尽くされないうちに、1994年6月の「自・社連立政権」の誕生が先行した。それは、「上意下達」の変節として、党内外に映ったのであろう。
 転換が遅すぎた、ということかもしれないが、その後は、かつて日本社会党を支持してきた政治諸潮流は、いくつかに分散し弱体化していった。また、それまでの自民党に対抗する「要(かなめ)」としての野党の姿は、かすんだままとなった。かつての社会党の政治諸潮流は、日本共産党よりもさきに、勢力を衰退させてきた現実がある。その潮流の一部を含む、非自民の多様な組み合わせの政党の乱立、あるいは2009年に成立した民主党政権の帰すうは先述の通りである。これを社会民主主義の政党とみるものはあまりいないようだ。

9.社会構造変動(家族の型、コミュニティー、文化慣習を含む)を思考の座標軸に加える
 最近、経済を含めた「社会」、文化慣習を含む思考の「型」に視点をおいて、近代史を再考察する「歴史社会学」のアプローチが、内外で読み応えのある成果をあげているようにみえる(例ランドル・コリンズ、ウォーラースティンほか『資本主義に未来はあるか』若森章孝ほか訳、唯学書房、2019年)。もともとは日本では篠原一が早くから提起した方法だったように思う。政治学者はそれまでも、「革新自治体」時代から、高度成長下の都市社会形成に焦点を当て、「市民」を語ってきた。すなわち、現代での「社会的次元」「社会的側面」での変容を、新たに分析の重要な柱・視角として加えなければならなかったのではないか。

 今日の日本は、知られているように、家族類型では、すでにとうに、「一人世帯」が多数派となり、50歳まで一度も結婚しない男女比率が急上昇している。また、年金所得しかない親に「パラサイト」する壮年者の比率もあがっている。社会的孤立が深まり、精神疾患を病む比率もあがっているという指摘もある(ジョック・ヤング『排除型社会』など)。他方、さまざまな新たな「コミュニティー」(たとえば、種々の趣味にもとづくグループや、二地点居住の仲間、しかも国境を越えた友人関係)の出現も見られる。
 すなわち、人びとは「アトム化」しつつもなお、新しいコミュニティーをもとめる動きもあるわけだ。

 しかし、マクロでみた所得配分の大きな歪みは、日本でも多くの先進社会でも、著しく大きな問題となってきた。「格差社会」が露わとなり、さまざまな実証研究がこの現状を強く憂いている(B.ミラノビッチ『資本主義だけが残った』邦訳2021年、あるいはトマ・ピケティ『21世紀の資本』、2014年ともにみすず書房)
 世界は「情報金融資本主義」という新段階に入っているといってもよいステージにあるわけだ。((拙稿「歴史としての現代」、社会環境学会『社会環境論究』2017年1月。W・シュトレーク『時間かせぎの資本主義』鈴木直訳、みすず書房、2016年。同『資本主義はどう終わるのか』村澤他訳、河出書房新社、2017年。ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』江口泰子訳、第2章、ちくま新書、2023年)。

10.社会的「公共空間」を拡げ、新たな諸制度を構築する
 20世紀から今世紀にかけて、日本をはじめ、「自由権」の拡張、「社会権」の発展がみられることを否定するものはいないだろう。「世界人権宣言」を具体化した「国連人権規約」には、この自由権、社会権の内容が示され、各国への勧告もなされている。
 もともと、日本国憲法には、ドイツ・ワイマール共和国憲法に登場した、「生存権」を含む社会権(働く権利、教育を受ける権利、団結権とともに)が明示されている。このことを理念規定にとどめるのではなく、その実質的拡充な手がかりはあるはずなのである。産業民主主義もそのひとつである。欧州社会憲章やその延長線上にある「社会的ヨーロッパ」のリスボン条約に多くのヒントがある。

 そこで、これまでみてきた日本の「保守と革新」の対立構図の間に、この視点をどのように位置づければいいのだろうか。
 たとえば、このわずか30年間のあいだでも、日本での、生活スタイルのなかにおける「社会保障」や子育て・教育の社会的制度支援への比重は、いつの間にか、大きく変わり上昇している。1990年頃の「国民意識調査」では、「老後生活」の支えに公的年金をあげるものは決して多くはなかった。退職一時金や(個人努力による)貯蓄を最初に上げるものが多数派だったのである。いまは、むろん、公的年金を基本として、長寿社会をいきのびることが前提となっている。だから、福祉、図書館や学習に関わる自治体レベルの公共社会サービスがあり、それを拡充してゆくための「公租公課」への見方もかなり変わってきている。社会的公共空間もひろがっているといえるのかもしれない。

 そこで、働く権利だけでなく、誰にでも暮らして行ける最低限の所得を保障する「ベーシック・インカム(基礎的所得)」(「生活保護」ではなく)が提起されている。加えて「ベーシック・アセット(基礎的社会資産)」、すなわち所得だけでなく、介護や教育などの社会公共サービス、住宅の保障にいたる生活インフラ、参加を含む社会的共通資本を系統的に制度として構築してゆく、ストックとしての社会資産を構築してゆくという見解が力を得つつある(宮本太郎『貧困、介護、育児の政治』朝日新聞出版 2021年、同編著『自助社会を終わらせる』岩波書店 2022年)。これが中長期的に構築・形成されてゆくとするなら、19世紀にカール・マルクスが8時間労働制などの社会諸目標を含めて支持していた内容は(「ゴーダ綱領批判」等で記述)、すでにかなりの部分が実現している。さらにこれから子育てや高等教育の公的支援、技術革新にそなえるリスキリングなどが拡充してゆけるとするなら、現代社会で悪循環する「格差」と貧困について、多少の歯止めが不可能とはいえないのかもしれない。
 すでに、自治体レベルの選挙をみると、このような現代的福祉に公然と反対する勢力はいまや少数派となっているといって過言ではない。

 内実はどのようなものなのか、しっかり見定めなければいけないが、現・岸田政権の「新しい資本主義」の主張には「持続的賃上げ」を支援する、とある。これが「総選挙対策」のものであったとしても、それでも、かつての「保守と革新」のパラダイムからみれば、「驚天動地」のことなのである。(アメリカのバイデン大統領も、UAWのストライキ支持を当面うたっている)。

11.ウクライナ侵攻後の世界
 世界の構図も、ロシアのウクライナ侵攻により、大きくかわりつつある。
 米政権は、これに便乗して、強力な世界のライバルに浮上してきた「中国」の勢力抑制を企図としているが、むしろ目立つのは、BRICsの拡大、「グローバル・サウス」の存在感の拡大である。2013年、オバマ前大統領が素直に示そうとしたように「アメリカはもはや世界の警察官ではない」。興隆するさまざまな新興諸国の力の台頭によって、世界の多極化の方が現実であり、そのことが「ポスト・ウクライナ戦争」には目立つ可能性が大きい。

 そこに、より切迫した、二つの大きな地球的対応が求められている。地球環境問題、温暖化防止、生物多様性の保持という課題である(Eco-socialismという主張もあらわれた)。加えて、またそこに新たに登場した「生成AI・人口知能」の急激な能力拡張・肥大とともに、これが人類の未来をおびやかすのではないか、という懸念はますます大きくなっている。
 それに、これまでも、すでにいくつかの国際機関で検討が続けられてきた経済のグローバル化、情報金融資本主義のなかで、目立つ不公正な側面(大資本による寡占価格行動、サプライチェ-ンの支配、租税回避・「タックス・ヘイブン」等をはじめ)についてのルール導入、適切な規範・規制の共同行動の進展は焦眉の課題である。世界の協力で押し進めるべき、巨大資本の活動を適切にコントロールできなければ、繰り返される国際金融危機は回避しえないのだ。
 ロシアの「ウクライナ侵略戦争」によって、世界はますます亀裂を深め、多極化しつつある現実がある。一方、世界が立ち向かうべき「大課題」はますます大きくなり、切迫してきているのだ。

 多くの識者の警告に、日本の政治はどう向き合おうとしているのであろうか。与・野党双方に対して、これまでの「日本の戦略力の不在」(進藤栄一『日本の戦略力』筑摩選書、2022年)に気づき、新たな知的営為と挑戦を期待するのは、無理なことなのであろうか。

12.結びに代えて  21世紀型の「エコロジーと親和する社会民主主義」構築をめざす
 私たちは、すすむべき道、そしてそのための 「思考の座標軸」をつねに問い直し、自己革新していく勇気をもたねばならないと思う。

 以上みてきた諸点を、よりよき日本と世界を考えるにあたって、かりに、「エコロジーと親和する新たな社会民主主義の構築」という視点から整理し、ポイントだけをあげると、以下のようになろうか。

 1.「20世紀に『現存した社会主義』」像から「離脱」して、近代の「自由、平等、博愛」、そして「民主主義」の理念をふまえつつ、これまで発展してきた「社会権」「生存権」の内実をつくりあげてゆくこと。それは、国際人権宣言・国連人権規約の実質化でもある。社会権については、ILOの諸条約、なかんずく「産業民主主義」を「労働の人間化」の観点から発展させること。

 2.現代世界に広がる「金融情報資本主義」の現実の展開を直視し、暴走させるのではなくそれを抑制し、この下で広がる「社会的格差」をうめる諸手段を、国内・世界規模の双方で組み立ててゆくこと。人間社会・市民社会の論理にもとづく新たな諸フレームを構築することで、コントロール力を上げる。市場の中に「市民社会の規範」と「公共性」を持ち込み、制度化してゆく、ということである。

 3.それは、「市場・公共・社会」あるいは「市場・国家・市民社会」の三次元の視点(すなわち「市場・国家」の二元論ではなく)、社会的公共空間を拡げ、能力の高い行政、公共機関の構築を含めて、制度的につくりあげてゆくことである。ここでの「国家・公共」機能は、国内では「自治・分権」の役割りをより明示し、参加型民主主義の拡大、市民参加で拡充すること、そして国際的には、徐々に過ぎ去ってゆこうとしている20世紀的な「国民国家」の国境を越えて、地域間連携を含む国際協力の機能(含む国際機構改革)を大きく高め、分担してゆく。それが「持続可能な社会」をつくる王道である。

 4.迫りくる地球環境問題は、いまや国連をはじめ殆どの国際機関が「地球環境」の「危機」である、と宣言している。地球温暖化、生物多様性の消滅という危機が私たちに迫っている。もはや、間に合わないかもしれないとの恐怖と闘いながらも、国連SDGsの目標(「2030アジェンダ」、193か国首脳の参加、2015年採択)は、あくまで追求されなければならない。世界のリーダー達の科学的な共通認識を、決して「文書」にとどめるのではなく現実のものにしてゆく義務を、わたしたちは子孫に対しても負っている。再生産可能な、持続可能な「地球1個分」に見合う範囲内での生産と消費にとどめる。地球規模での「定常型社会」にしてゆかねばならない。

 5.「両体制の時代の終焉」によって、「核兵器」のおそるべき拡張はいったん止まり、縮小に転じた。しかし、いま、またロシアによる「核の威嚇」、新興国のなかのいくつかでの核武装の拡大がみられ、20世紀の「核の冬」の悪夢を思い出させる。2015年国連総会における「核兵器禁止条約」への世界の圧倒的支持を見るべきである。唯一の被爆国・日本は、本来はこの先頭に立つべきであるが、すくなくとも当面これへの「オブザーバー参加」は直ちに目指すべきである。(「反核兵器」は平和主義、基本的人権、国民主権の三大原則とされる日本の戦後80年近く続く「伝統」の一部としてとらえられるべきものである)。

 6.新たな課題として、「生成AI」の爆発的発展について、これを人道にそって軌道づけることがある。すでに「『人知』を超える『人工知能』を」と豪語する者すらいる。活用はむろん必要だろうが、これが、経済のグローバル化以上のリスクを世界にもたらすか可能性がある。このことに、それこそ文字どおり、「人知」をあげて取り組まねばならないと考える。

 日本の課題として
 7.3.項にも関わる人口減少・「少子・高齢化」と都市と農村の縮小をふくむ「社会課題先進国」の日本。この課題により意識的にとりくむことである。ゆとりある生涯学習・生涯就労を可能にする条件を整える。幼児教育からリカレント高等教育にいたる容易なアクセスと公的支援、移動手段の公的保障、医療・介護サービスの多様な選択を個人負担を伴わずに可能にする。これには、雇用保障(「働く権利」の保障)と職場の人間化、また、住宅の保障が不可欠である。そこには、先行して都市と農村が「美しく縮む」、制度デザイン力も必要となる。
 これらの社会サービスとストックを含めた概念「ベーシック・アセットbasic assets」(公共社会資産・サービス)の比重を、市場経済と並走しながらも、社会経済システムの基本として構築してゆくことである。「新市場主義・ネオリベ」イデオロギーはこうして克服してゆけるのかもしれない。「ケア」の領域についても、自己肥大し格差を広げる資本の独壇場にさせるのではなく、市場化を放置するのではなく、計画・誘導し、社会化することである。
 ここには、生活協同組合に加えて非営利法人(NPO)法、労働者協同組合法等にも励まされる様々な「アソシエーション」の役割がある。市場と国家・自治体の間にまたがる「社会経済セクター」のさらなる発達が不可欠となる。

 8.それには、世界でも最悪クラスのジェンダー・ギャップ(性差別)の克服を戦略目標にあげて、挑まなければならない。それは両性をふくむライフ・スタイルの人間化が必要である。ここには「性の多様性」に寛容な社会文化の構築も含まれる(長寿化のなかで、モノガミー=生涯的一夫一婦モデルからのゆるやかな離脱も含みうる)。

 9. 地球環境危機に立ち向かい、持続可能な環境をつくるには、エネルギー源は必ず「再生可能エネルギー」に重心を大きく移行してゆかねばならない。「脱原子力」は「核のゴミ」処理問題を考えるまでもなく、地震など地殻変動にさらされる「自然災害大国・日本」の基本課題の一つである。

 10.尾を引く日本の「イエ型社会」の発想と行動様式、「タコツボ型」文化を批判的にみること。より開かれた普遍性・グローバル性のあるものに変化することを期待する。
 すなわち、上への「同調圧力」、「忖度文化」からの離脱という、早くからいわれてきた日本の組織風土への批判(松下圭一、日高六郎による指摘)は、すでに、かなり変わりつつあるようにもみえる。しかし、青年世代の、社会について「自己満足感(「生活保守主義」)」と重なったとき、過去となったはずの20世紀の全体主義の亡霊が復元しかねないという危うさもないではない(オウム、旧統一協会)からである。
 まずは、「企業型社会」への閉塞ではなく、市民社会として、普遍性ある文化の広がりと深まり、多元的文化の寛容、開かれ、かつ「包摂的(inclusive)社会」への前進を目指さねばならない。
 以上の諸点である。
             (いのうえさだひこ、社会理論研究者)
(2023.10.20)

※編集事務局注:一部書籍にリンクをはりました。ご購入も可能です。
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