【横丁茶話】

「やむをえぬ殺害」(necessary murder)について─あれこれコピペ

西村 徹

 ジョージ・オーウェルの代表的な評論集の一つに「鯨の腹の中で」(Inside the Whale)がある。発表されたのは1940年。そのなかで1930年代の英国の作家が大きく共産主義・スターリン主義に傾いた経緯に触れている。「ほぼ三年間は、英文学の主流は多少とも共産党の直接の支配下にあった」(岩波文庫『オーウェル評論集』小野寺健訳)とし、その要因を一つ挙げている。長くなるが、以下そのままコピペする。

❖❖❖❖この数年間における英国知識人のロシア崇拝に、あきらかに貢献している要因が一つある。それは英国自体での生活が平穏無事だったということだ。いくらさまざまの不正があるにせよ、英国は依然として人身保護法の国であり、国民の圧倒的多数は暴力や不法行為など経験したことがないのである。こういう環境で育ったなら、独裁体制の実態など、容易に想像できるものではない。三十年代の支配的作家たちは、ほとんどが因襲の束縛も知らない、おっとりした中産階級の出であり、年齢的にも若くて、第一次大戦の強烈な記憶もなかった。粛清とか秘密警察、即決死刑、裁判抜きの投獄といったものも、あまりにも縁遠く、その怖さはピンとこない。全体主義を抵抗なくうのみにできるのも、まさに、自由主義以外は経験していないからなのである。例えば次に引用するオーデン氏の『スペイン戦争』の一節を読んでもらいたい(ちなみに、これはスペイン戦争をめぐる詩の中では数少ないまともなものの一つなのだが)。

      (中 略)
  今日は死の機会を故意にふやし、
  やむをえぬ殺害の罪を自覚しつつ認める。
      (中 略)
 「やむをえぬ殺害」という言葉に注目してほしい。こんな言葉が書けるのは、殺害がせいぜい言葉でしかない人間だけである。私なら、こんなに軽々しく殺害を口にすることはしない。それはたまたま殺害された人の死体をたくさん見ているからだ―戦死ではない、殺害された人の死体なのである。だからわたしには、殺害とはどういうことなのかが多少はわかっている―恐怖、憎悪、泣き叫ぶ肉親、検死、血、死臭というものが。わたしなら、殺害はなんとか避けたい。普通の人間は誰でもそうなのだ。大小のヒットラーやスターリンたちは殺害をやむをえないと考える。だが、この人びとは自分の冷酷さを宣伝したりはしないし、殺害という言葉も口にしない。「清算」とか「抹消」といった耳ざわりのいい言葉を使うのである。オーデン氏的な道徳欠落症は、いざ引き金がひかれるときにはかならず現場にいない人間にのみ生ずるのだ。左翼思想には、火が熱いことさえ知らない人間の火遊びのようなものがあまりにも多い。一九三五年から三九年にかけて英国知識人がさかんに戦争を口にした大きな原因は、自分だけは無関係という意識にあった。兵役逃れがきわめてむずかしく、文学者でさえも背嚢の重さを知っているフランスでは、知識人の態度はあまりにも違っていたのである。❖❖❖❖❖

 E・M・フォースターがオーウェルのもうひとつの評論集『象を撃つ』の書評で言うように「オーウェルに多少文句屋の傾向があったことは否定できない」(岩波文庫『フォースター評論集』小野寺健訳 251ページ)が、このオーウェルのオーデン批評は単なる「文句屋」(nagger)の小言ではなく、ずばり的を射た、批評というより洞察だろう。オーウェルが問題にした2行の原詩は・・・

To-day the deliberate increase in the chances of death,

The conscious acceptance of guilt in the necessary murder:

発表されたのは1937年。その後 1940年に、このオーウェルの批判に応じたのか、次のように変更した。

To-day the inevitable increase in the chances of death;

The conscious acceptance of guilt in the fact of murder. 

今日は死亡率の不可避的増大の日。
殺人の事実のまんなかに罪悪というものの自覚的認識の日。
(深瀬基寛訳:『オーデン詩集・新装版』せりか書房・1971年;Collected Shorter Poems 1930-1944; Faber & Faber, 1950による。)

 Necessary に代えて fact とし、それに同調して deliberate を inevitable に改めた。積極(proactive)から消極へ、能動から受動へと、言葉を抑えた。ヒットラーのユダヤ人大量虐殺のみならずスターリンの粛清もまた、渋々「やむをえぬ殺害」というような生易しいものとも思えないが、それはそれとしてオーデンはその後の経験に学んで変更を余儀なくされた。

 ちなみに第一回モスクワ裁判はすでに36年に行われていた。37年にはジョン・デューイ調査委員会がこの裁判の真相を暴いた。37年のソ連邦における死刑者数は353074人であった(ロシア連邦国立文書館資料)。アジアでは南京事件が起きていた。同年オーデンはスペインに行ったが、共和国軍の救急車を運転するつもりが、結局はラジオ放送の仕事に携わって前線に出ることはなかった。第三回モスクワ裁判の行われた38年には日中戦争下の中国を訪れ、39年にはアメリカに移住した。

 ことわっておくが、オーデンもまた三十年代の英国知識人の例にもれずスターリン・カルトにいかれたからといって、当代の「支配的」詩人であったという事実は動かない。だからこそオーウェルは取り上げたのでもあった。Four Weddings and a Funeral(1994年)というイギリス映画(つい5月16日のNHK・BSプレミアムシネマでも「フォー・ウェディング」という邦題で放送された)を見て、オーデンの Funeral Blues が朗誦される場面を記憶されている人もいると思う。

 E・M・フォースターは「さかんに戦争を口にした」若い知識人たちと違って、1935年に「私は、戦争もあるだろうと思っています。各国が武器を蓄積しつづけている以上、物を食べつづける動物が排泄せざるをえないのとおなじで、この汚物を吐き出すのは避けられない気がするのです」(岩波文庫『フォースター評論集』小野寺健訳 95ページ)と言いつつ、次の段落で「私は自分の死よりも戦争のほうを心配している」とも言っている。

 三人の生年を見ると、E・M・フォースター1879年。ジョージ・オーウェル1903年。W・H・オーデン1907年。第一次大戦を同時代人として知っているのはフォースターだけである。オーウェルとオーデンは同世代。いずれも第一次大戦を知らないが、いずれもスペイン市民戦争の時にはスペインに行っている。オーデンは前線には出ず、後方での観戦にとどまった。オーウェルは前線で戦い、喉に貫通銃創を負って辛くも一命をとりとめた。

 「軽々しく殺害を口にする」かしないかは、戦争体験があるかないかに大きく関係しているように思われる。第一次大戦が起きたときのフォースターはすでに三十歳台半ば、直接戦線に赴いたわけではないが、多くの若者の犠牲に胸を痛めたはずである。オーウェルは修羅場に身を置いた。

 今の日本ではどうか。フォースターのような人たちは亡くなって久しい。オーウェルのような修羅場に身を置いた人もほとんどいなくなった。戦争を知る世代そのものが少なくなった。戦後に生まれた人々の間には、「積極的(proactive)平和主義」などという物騒な物言いをする「一九三五年から三九年にかけて英国知識人がさかんに戦争を口にした」のと同じように好戦的な気風が、左でなくて右巻きの人々の間で濃くなっている。

 たしかに「オーデン氏的な道徳欠落症は、いざ引き金がひかれるときにはかならず現場にいない人間にのみ生ずる」のは間違いないようだ。さりとて逆は必ずしも真ならず、引き金がひかれるとき現場にいなかった人間がかならず「オーデン氏的な道徳的欠落症(amoralism)」に陥るとはかぎらない。戦後に生まれた人にもまともな人はいる。

 「マガジン9」というウェブサイト(2014年5月14日UP)に森永卓郎氏(1957年生)が書いている。http://www.magazine9.jp/category/article/morinaga/

❖❖「新自由主義を掲げるアメリカとイギリスは軍隊が志願制だ。そして、その新自由主義に追随しようとしている日本の自衛隊も志願制だ。志願制の場合、戦地の前線に送られるのは、大部分が低所得層だ。中流以上の家庭では、高みの見物が可能なのだ。
 日本の若者に戦争への危機感がないのは、「自分は関係がない」と思っているからだろう。だから、私はいっそのこと若者たちに徴兵制を適用したらどうかと思う。そうすれば、戦争の恐ろしさを、自分自身のこととして、考えるようになるだろう。」❖❖

 非武装平和主義を持論とする森永氏が、ここで徴兵制を支持するかの発言をしたからと言って、矛盾していると言って、これを正面から非難してみてもナイーブに過ぎるだろう。わざと挑発して「日本の若者に戦争への危機感がない」ことを皮肉っているのはあきらかだろう。

 私は単に皮肉や逆説としてでなく、徴兵制を文字通り積極的に捉えてはとかねがね考えてきた。IT時代の軍は兵に要求される技術的な専門性が高くて徴兵による素人集団ではダメだというが、最終的には無人機無差別空爆なんかでなく練度の高い歩兵がきめ手になるという。集団的自衛権に外務省が積極的で防衛省は懐疑的だという話も聞いた。むしろ制服組の方がハト派だとも聞く。戦争の現場を知っているからだろう。ヴェトナム戦争のときのアメリカは徴兵制だったから、帰還兵士たちの間で強い反戦運動が起こった。徴兵制にすれば日本でも軍そのものが反戦母体になることが期待できる。

 カズオ・イシグロ(1954年生)の『わたしたちが孤児だったころ』の中には1937年9月、10月の上海租界が描かれているところがある。そこには国民党軍に捕まって拷問されて悲鳴を上げたりヘドを吐いたりする日本兵も描かれている。死人に口はないから日本人の書いた戦争文学には描かれようのない情景だ。

 戦争すれば殺すだけでは済まない。殺されもすれば、捕まって拷問され、挙句に嬲り殺しにされたりもする。靖国の英霊のなかにも、そういう殺され方をして、石ころだけが帰ってきた不幸な御霊もいるかもしれない。戦死は杉本五郎中佐のような壮烈なものだけではない。今の好戦的な気分の日本人は自己愛に溺れて、イシグロが描いたような、日本人には見えにくい外からの目を失っているのではないか。それでは困る気がする。(2014/6/9)

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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