【コラム】大原雄の『流儀』

★★ 四代目市川猿之助のこと

★なぜ、歌舞伎の澤瀉屋で「悲劇」が起きたのか?
          〜四代目市川段四郎さんの逝去を悼む
大原 雄

 司直も動いている。マスメディアも動いている。まだ、事件か事故かを巡る情報は不十分で、女性週刊誌やテレビのワイドショーも巻き込んで、燃え上がっている。四代目市川猿之助は、被害者なのか、加害者なのか。現場の状況の違和感、被害者の服装、死因となった薬の問題、猿之助を巡る歌舞伎界の人間関係など、不明なことが多すぎる。猿之助スキャンダルの口火を切った女性週刊誌に遅れをとったということでほかの週刊誌も追っかけに過熱気味。ここでは、そういうことより、江戸時代から400年以上も続く梨園(歌舞伎界)という不思議な世界の話を書いておきたい。歌舞伎界の出来事のうち、今回不思議な行動をしている猿之助や澤瀉(おもだか)屋を主な柱立てとして書き残しておきたいと思う。このニュースは、ファクトニュースも混じっている可能性がある。場合によれば、捜査に支障があるかもしれない部分もあるので多くの情報は、まだ、まだ権力によって握られている可能性がある。いずれ情報は漏れ聞こえてくるかもしれないが、現場の取材力に負う部分が多いだろう。

 澤瀉屋の物語の解明が進めばこの世の中に澤瀉屋ならではの、「パラレルワールド」が存在していたのではないか、という私の疑問が判って頂けるかもしれないのだ。こういう視点で物語を書いてみる場合、まだ、まだ情報が不十分なので、物語は不完全なものになるだろうが、それは、続報で書くこととして、とりあえず書き出しておこう、と思う。

 2023年5月18日朝、晴れ。暑くなりそうな一日だが、マンション6階の午前5時。まだ、日差しも弱いし、夜明けの風には冷気も残っている。マンションの廊下に面した玄関先にある新聞受けに入っている朝刊を取りに行った。室内のリビングルームに戻ると、何気なく新聞をめくって見た。22面という「くらし」のページを開けていた。少子化問題が政治の論争の重大なテーマになっているため、国会や選挙では、最近ではその都度争点になる。この日の「くらし」のページでは、「こぼれ落ちる子どもたち」の連載2回目「保育園などに通えなかった5歳」というサブタイトルがついた記事が掲載されていた。保育園にも幼稚園にもこども園にも通っていない、いわゆる「無園児」(「むえんじ」とでも、読むのだろうか。なんか幼子を無縁にするみたいな語感があり、嫌なネーミングだな、と思った)のことを取り上げていた。私たち後期高齢者(これも、嫌だな。「こうきこうれいしゃ」と読む。人生も「死域(しいき)」に入り、既に人生の余命も乏しくなったから、「後期」(残り少ない)ということなのだろう。私の世代では、もう、このような5歳の子どもの問題は関係なさそうであるが、孫の世代を考えれば、我が息子や娘の世代関連の準・当事者(とうじしゃ)問題として引き寄せる、という発想にもなる。それだけの感性があれば、やはり「我がこと」(最近は「自分ごと」というらしいが)ではないか。私も、後で記事を読んでみようかと思いながら、ふと、新聞最下段の広告欄に目が走ると、視線が何かを捕まえた感じがした。週刊誌独特のごちゃごちゃしたレイアウトの広告文字の中に何か気になる文字を見つけたのだ。黒ベタ、白抜きの文字「猿之助濃厚セクハラ」の中の「猿之助」に反応したのだった。「澤瀉屋がどうしたって……?」

 「猿之助濃厚セクハラ」「歌舞伎激震の性被害!」「スクープ告発」の3本セットの見出しが歌舞伎の若き名優を踊らせる。

 まだ、5月だと言うのに、日本列島は、日中の最高気温が、既にあちこちで真夏日(30度)を超えて観測されたという。そんな猛暑の中、昼のニュースの時間帯を目指しているかのように芸能界をびっくりさせるようなビッグニュースが飛び込んできた。歌舞伎役者・澤瀉屋の名跡・市川猿之助、その父親の市川段四郎、母親の3人が自宅のリビングと自室で倒れていた。猿之助を迎えにきたマネージャーが発見し、救急搬送を依頼する119番の電話番号を押したということだった。

 私が知ったのは、昼過ぎだった。私は知人からの電話でこのことを知らされた。原稿書きに追われていて、いつも見ているテレビの昼のニュースを見ていなかったのだ。四代目市川猿之助(先代猿之助の甥)一家が自宅で起こした悲劇で、民放テレビは、大騒ぎしているという。「ええっ! どうしたの? 猿之助は、確か今月は明治座に出ていたのではないか」というのが、電話をかけてきた知人との最初の受け答えだった。

 四代目市川段四郎(先代、三代目猿之助=二代目猿翁の弟、当代、四代目猿之助の父親)は、救急搬送されたが、その後、搬入された病院で死亡が確認された。妻の喜熨斗延子(きのしのぶこ、四代目猿之助の母親)は、既に死亡していて、死後硬直が始まっていたらしい。気配りの歌舞伎役者市川段四郎は、脇役で味の出る貴重な役者として知られていた。近年、体調を崩して以来、舞台からは遠ざかっていた。夫妻は、自宅2階に設けられていたリビングルームで並んで倒れていた。身体の上には掛け布団がかけられていたという。明治座での公演が連日続いている猿之助を迎えに来たのは、いつもの男性マネージャーだった。彼は、1階半地下にある「旦那の」(猿之助の)部屋の中まで迎えに行った。猿之助のお気に入りのマネージャー兼役者の彼は自室で倒れていた猿之助が、まだ悶え苦しんでいるのを見て慌ててしまった。旦那は、意識朦朧としたまま、救急隊員にストレッチャーで救急車に乗せられ搬送された。救急車に乗せられた時、猿之助は意識があり、命には別状なしと判断された。この日の朝、新聞朝刊には女性週刊誌が、猿之助のセクハラ報道を伝えていた。発売日の新聞広告が、一歩先に掲載されていたのだ。

★ 悲劇の始まりは、家族会議(5月17日)から。 

 5月17日から18日の朝までに、澤瀉屋の自宅で何が起こったのか?

 5月、猿之助は、東京の明治座で「市川猿之助奮闘歌舞伎公演」というタイトルで新作歌舞伎の再演をしていた。明治座創業150周年記念とあって、いつもの興行より華やいでいる。午前11時30分開演の昼の部は、「歌舞伎スペクタクル」と称された新作もので、「不死鳥よ 波濤を越えて —平家物語異聞— 」という外題の演目だった。平家物語をベースにした平知盛の物語。「市川猿之助宙乗り相勤め申し候」というキャッチコピーが添えられている。午後4時開演の夜の部は、「三代猿之助四十八撰の内 御贔屓繋馬(ごひいきつなぎうま)」という外題の鶴屋南北原作の古典ものである。「市川猿之助六役早替りならびに宙乗り相勤め申し候」というキャッチコピーが添えられている。猿之助が、相馬太郎良門など六役を早替りで演じるという趣向だ。いずれも座頭の猿之助より若手の役者が目立つフレッシュな顔ぶれが売り物のようだ。 

 東京・目黒の自宅では、段四郎(父親)と母親、そして猿之助の3人が暮らしているという。前夜(17日夜)、自宅2階のリビングで家族会議が開かれたという。段四郎、延子、猿之助が、顔を揃えた。
 目黒区内にあるこの広い家には、猿之助含め3人が居住しているということだったが、猿之助は、別居していたという情報もある。しかし、私には判らない。17日は、公演中の明治座の休演日だった。翌18日の公演は、団体客への貸切。通常の公演スケジュールとは、時間・段取りが異なる。

 18日朝、両親は、向精神薬を大量に飲む。なぜ、長い間の段四郎の在宅介護に疲れ果てた母親が薬を飲みまず死ぬ。嚥下力が弱まっている父親。遅れて薬を飲んだ段四郎も苦しみ出す。リビングの床に仰向けに倒れた両親に猿之助が掛け布団をかける。両親の服薬を見届けた猿之助は、1階にある半地下の自室に戻って薬を飲む。午前10時頃だったという。
 後に司法解剖(19日)をした結果では、猿之助、母親、段四郎が、向精神薬を大量(量は取り敢えず不明)に飲んで薬物中毒症状を起こして死亡したという。それぞれが、どれだけの量を飲んでいるかは、この段階では、まだ、判っていない。ただ一人、生き残った猿之助は意識があるとはいうものの大量に飲んだ薬の影響で脳に意識障害がまだ残っていただろうと思われるから、警察や医師など関係者との会話も短いセンテンスだったろうと思われる。そこから漏れ聞こえてきた用語は、「家族会議」を開いたという。いつどのような状況で、誰とどんな話をしたのか、どういう相談をしたのか。全容は私には不明。「薬」を飲んだという。薬も医師の処方箋をもとに、薬局で、薬剤師の説明を受けないと買うこともできないような向精神薬という薬。どうやって大量に手に入れたのだろうか。誰が購入してきたのか、父親か、母親が、飲まずに溜め込んできた薬なのか、それも判らないから、推測めいた中途半端な話しかできない。長い間、療養してきた段四郎は病気なのか、老いなのか。老々介護に疲れ果てた母親の弱音に負けたのか。猿之助自身は、薬だけでは死に切れず、自室のクローゼットの中で、服薬による意識朦朧としたまま、首を吊ろうとしたらしいが、そうなのか? 週刊誌が書き立てた弟子やスタッフとの間にセクハラ、パワハラめいたやり取りは、本当にあったのかどうか。誰か、手助けをした人物がいたのかいなかったのか。判らないことが多すぎる。

 セクハラ問題を報じた女性週刊誌の発売日(18日)の前夜か、前日に何か澤瀉屋一門の命運を左右するような決定的な情報があったのかどうか。歌舞伎役者の家系としては、歴史的に短い(明治期以降)家系の澤瀉屋の先代たちが苦労した問題などなど。何が澤瀉屋の御曹司を襲ったのか。何よりも不思議なのは、明治座150年、「市川猿之助 奮闘歌舞伎公演」という役者が自分の名前を大きく明記した看板を出した歌舞伎公演。役者冥利の舞台中日の最中に主役が自分の都合で舞台(いや、人生そのもの)から降りるような、自殺などできるものなのか。子どもの頃から役者修行を始める梨園の子どもたちと違って猿之助は、大学を卒業するまで、学業を優先させてきた。反骨心旺盛な初代が考えた教育方針。澤瀉屋一門を貫く棒のごときもの。四代目猿之助も大学を終えてから本格的に歌舞伎役者になっているが、責任感の強い、芸熱心な真面目な人柄が、澤瀉屋の、いや、歌舞伎界の重責を若いうちから背負いすぎたのか。猿之助の人柄が、己の役者魂を押しつぶしてしまったのか。未だ、それも判らない。今後伝えられる情報を待ちたい。

★初代猿之助一家 澤瀉屋は明治期の宗家
 澤瀉屋(おもだかや)は、歌舞伎役者の屋号。いわば、商標のようなもの。「澤瀉」とは、漢方薬に使われる薬草の名前。「おもだか」と読む。アジアの沼などに生息する多年草。 根茎を乾燥させて漢方薬などに使われる。漢方では、代表的な利水薬の一つ。利水(体の水分代謝を調整する作用)効果があり、尿の出が悪い、口が渇く、むくみ、めまい、頭重感などの症状を治すという。
漢方処方では五苓散、猪苓湯、八味地黄丸などに配合されているという。

 初代市川猿之助(二代目市川段四郎、同一人物)の生家が副業として「澤瀉」を扱う漢方の薬屋を営んでいたということから歌舞伎役者となった猿之助の屋号として使われたという。

贅言;歌舞伎では、一門の役者のランク付けを以下のようにつけるという。

宗家(一門の源流となるような家系)。

同門筋(一門の親戚筋。役者たちは、伯父さん、叔父さん、甥、兄さんなどと楽屋では呼び合う。それほどの血の濃さが自慢。
歌舞伎役者たちの特異性である)。

門弟筋(血が繋がらなくても、敬意を込めて先達をおじさん、兄さんなどと呼ぶ)。

 ここでは、澤瀉屋一門について書いておく。
 400年以上続く歌舞伎界。澤瀉屋一門は、歌舞伎役者としては歴史が浅く、宗家としての大名跡の数は少ない。家系図の幹は、市川猿之助と市川段四郎の二枚看板。このうち、猿之助が代表格である。市川猿之助代々と名乗った役者は、当代まで4人いる、というか4人しかいないというか。

 初代猿之助は、文明開化が近づく幕末期、1855(安政6)年生まれ。江戸・浅草の殺陣師・坂東三太郎の子に生まれる。殺陣師。役者の格では、「中通(ちゅうどお)り」と呼ばれる下層・下級の役者。芝居小屋では、「大部屋」(「三階」)と呼ばれる控室を使うので、大部屋役者、「三階さん」、「名題下」(なだいした)として、一括りにされた。時代によって呼称は変わるが、名題(なだい)から上の役者(幹部)と区別する階級が名題下である。

贅言;因みに、江戸時代の呼称を明記すると、次のようになる。相中(あいちゅう)、中通(ちゅうどお)り、下立役(したたちやく)、人足(科白のない通行人)など。全て、男役の場合。ついでながら、女役は、「中二階(ちゅうにかい)」と呼ばれたという。由来は、芝居小屋(劇場)の楽屋での控え部屋の位置。身分の象徴。

 初代猿之助が生きた幕末期から明治期では、名題下、相中上分(あいちゅうかみぶん)、相中、新相中(しんあいちゅう)。このように「下層の身分」を細かく分類するのは、差別感、あるいは、少しでも格上の役者の優越感の現れだったのか?

 現代でも、名題、名題下の呼称は残っている。日本俳優協会が行う「名題資格審査」の試験に合格し、「名題適任証」を取得する必要がある。その上で、先輩役者、贔屓筋(有力な後援者)、興行主(松竹)の賛同を得て、名題昇進披露をする。歌舞伎座の筋書などに、顔写真入りでその旨の披露記事が掲載されるなどしている。

 初代猿之助の生きた時代。幼い頃から歌舞伎(芝居)は、もっと、濃密に家族の生活の身近なところにあったことだろう。初代猿之助は、二代目段四郎として、1922年没。

 それにしても、古い時代、歌舞伎界は、下層を差別する(厳格な階級制度)標記が多い。それだけ、江戸時代は、差別感丸出しで、己より下層の人々を蔑んだことであろう。

 さて、初代猿之助は何歳で歌舞伎役者になったのか。襲名歴をみるといろいろな名前がある。年号なども、複数あるので、確定ではないかもしれない。

①市村長松(市村羽左衛門の門下で、子ども芝居に出演。4歳)
②坂東羽太作(坂東彦三郎の門下で、市村座に出演。7歳)
③山崎猿之助/松尾猿之助(1870年、15歳。河原崎権十郎=後の、九代目市川團十郎の門下に入る。「河原崎家」は、屋号が「山崎屋」。だから、「山崎猿之助」か。「松尾」は、何だろう? 初代猿之助の次男に「初代市川松尾(後の八代目市川中車)」という役者がいたから、「松尾」は、澤瀉屋系の名前であることには間違いないのかもしれない。

市村長松 → 坂東羽太作 → 山崎猿之助 → 松尾猿之助 → 初代市川猿之助・ 二代目市川段四郎(同一人物)

 山崎猿之助、松尾猿之助と名乗っていた破門時代が、判りにくい。その時の事情で、使い分けていたかもしれない。初代市川猿之助と名乗ったのは、破門が許された後。江戸歌舞伎の宗家・九代目市川團十郎に許されて初代市川猿之助を名乗った。初代猿之助の青春期であった。

 彼は、疾風怒濤の幕末から明治初期という時代背景の中で、個人的にも腰の落ち着かない歌舞伎人生を過ごしたようである。役者としての野望を秘め、襲名というより「改名」の方が相応しい足掻きを繰り返していたらしい。小生意気な少年役者、あるいは我の強そうな青年期の役者の顔が浮かんでくるようだ。要するに、役者として力もないのに鼻っ柱だけは強そうな顔にも見えれば、差別だらけの芝居の世界にしがみついてでも、生きていかなければならない青年のプライドも浮き彫りにされる。彼の反発心は、私には理解できるように思われる。
 それが無ければ、猿之助は、歌舞伎役者として歴史に名は残らなかったことだろう。

 幕末から明治期へ。時あたかも日本の夜明け。歴史の激動期。歌舞伎青年は、疾風怒涛の世の中を役者魂一つ持ち、生き抜いていかなければならないのである。青年役者は何しろ、腰が定まらない。門下との軋轢から、小芝居(江戸時代の歌舞伎上演の芝居小屋のうち、京・大坂・江戸などで官許の劇場を「大芝居」と称したが、それ以外の劇場を「小芝居」などと呼んだ)に出演をし、師に無断で「勧進帳」の弁慶を演じたとして、師から破門される。1870年、15歳。1868年、明治維新時は、僅か2年前。(後の初代)猿之助は、まだ無名の13歳の少年であった。

 成田屋・九代目市川團十郎(明治期の「劇聖」と呼ばれた名優)の門弟筋の家系にもぐりこんだのなら、初代猿之助青年はプライドも高かったのではないか。初代猿之助は、まだ、(初代)猿之助とは名乗っていなかったが、師・九代目市川團十郎の許しを得ずに、無断で歌舞伎十八番「勧進帳」を上演したとして、一門を破門させられたと述べた。その後、少年は(1870年から90年までの20年間)苦労を重ねながら芸を磨き続け、青年から成人の歌舞伎役者へと近づいて行った。

 1890年、35歳、師から破門を解かれた。それを機に彼は初代市川猿之助と名を改め、成田屋門下の澤瀉屋という屋号を名乗り、以後、腰を落ち着けるようになる。破門役者から芸熱心な澤瀉屋・初代市川猿之助となった。その後、猿之助は市川一門の番頭格(一門を、いわば統括する事務局長格)の役者となったという。勧進帳の弁慶は、後に初代猿之助の当たり役となる。やんぬるかな。
 九代目團十郎が市川宗家の後継者を得ぬまま死去する(十代目團十郎は、名跡追贈。九代目の娘の入り婿が亡くなってから、十一代目が十代目として追贈し、名乗らせた)と、今度は一門の代表格として宗家役者不在という難しい宗家の状況を乗り切る(人生残りの12年間)ことに専念した。実務もできる頼れる番頭さん。これを機に初代猿之助の名を返上し、1910年、改めて襲名したのが二代目段四郎だった。しかし自らが芸一筋で切り開いた猿之助という名への愛着が強く、自分の長男に二代目猿之助を名乗らせた。二代目段四郎は、澤瀉屋の歴史が浅い分を自らの研鑽で補ってその地位を築いてきた。二代目段四郎は、子弟の教育にも金を惜しみなく使ったという。このため澤瀉屋の懐具合は決して豊かではなく、ほかの宗家のように度々一門の襲名披露を繰り返すことで門閥を賑やかにして行くことは難しかったという事情があったらしい。粉骨砕身、東京歌舞伎の長老格となる。門下の群れの一人から東京歌舞伎の顔とも言える歌舞伎役者にまで出世した二代目市川段四郎は、若い頃からの反骨精神と進取の気概で、難しい歌舞伎界をのし上がってきたというわけだ。叩き上げの有能な人材ぶりを見せていたのではないのか。
 そこで考え出したのが、澤瀉屋宗家の名跡は猿之助と段四郎の二枚看板とするという方式だ。ただしこれを一代ごとに交互に交代・襲名するというものであった。「段」は、「團」。團十郎の團か。ついでに、推理すれば段四郎も、團(段)十(四)郎)という発想だろうか。成田屋・澤瀉屋の團・段方式というところか。いずれも、推測。

屋号は、どちらも澤瀉屋だが、家紋が違う。
猿之助は、定紋が澤瀉、替紋が三ツ猿。
段四郎は、定紋が三升に段の字、替紋が八重澤瀉。
ここで、初代猿之助 → 二代目段四郎の流れ(同一人物)を整理し直そう。

二代目段四郎(初代猿之助・まとめ)
1855年生まれ。
1870年(15歳)九代目團十郎に破門される。
1890年(35歳)破門を解かれ、初代猿之助襲名。
1910年(55歳)二代目段四郎襲名。
1922年没(66歳)。
初代猿之助・二代目段四郎は、澤瀉屋の宗家。一門の源流である。
初代猿之助の長男、二代目猿之助も、努力の人。

二代目猿之助(初代猿翁)。
初代猿之助の長男、1888年生まれ。1963年没。
初代にも増して二代目猿之助の凄いところは、欧米に留学してあちらの舞台芸術を学ぶという発想だ。日本独特の歌舞伎を歌舞伎で極めるという発想は、誰でも思いつくが、西洋の舞台芸術を学び、そこから歌舞伎に逆照射させて、歌舞伎を見直すという発想は、普通の人間ではなかなか出てこないのではないか。二代目猿之助のその後を見れば判ることだが、彼は生涯をかけて新しい形の歌舞伎を模索し続けた。歌舞伎界の革命児・風雲児などと呼ばれた。初代から当代・四代目まで、猿之助代々は、皆、同じようなイメージを抱かされる。

 履歴の一部を書き写してみよう。1910(明治43)年、二代目市川猿之助を襲名、以後二代目を名乗り続ける。その後欧米に留学して海の向こうの最新の舞台芸術を学ぶ。この時、舞台を観たロシア舞踊に触発されて「黒塚」「小鍛冶」「悪太郎」などの歌舞伎舞踊を新作した。振り付けなどにロシア舞踊の演出を取り入れるなど、猿之助にとって貴重な体験を積むこととなった。澤瀉屋の演出では、二代目の振り付けが今も生かされている。1920年には春秋座を主宰し、新作や翻訳物に取り組む。一時松竹を離脱、復帰後は二代目左團次一座に入り、真山青果の新作歌舞伎で共演して名舞台を生んだ。その後も埋もれていた古典の復活上演、新作喜劇「小栗栖の長兵衛」「研辰(とぎたつ)の討たれ」「膝栗毛」の初演、映画「阿片戦争」の主演などで話題を集めたという。初代は、マルチに活躍。二代目の挑戦した歌舞伎の多極化志向は、以後の猿之助代々(三代目、四代目)に継承され、エネルギーはスーパー歌舞伎に注ぎ込んで行く。

 そういう意味で、初代にも芽があった「市川猿之助」の「原型(イデアルティプス)」を一層鮮明に形成した役者が二代目だと私は思う。本人が「猿之助」の名跡に愛着が深く、53年間にわたって二代目猿之助を名乗り続け、実力とともに、猿之助の名前を歌舞伎界の不朽の大名跡の一つに育て上げたとして、広く印象付けた。二代目は、初代市川團子 → 二代目市川猿之助(53年間) → 初代市川猿翁(隠居名)を名乗って歌舞伎役者人生を終えたが、全盛期として歴史に輝くのは、二代目時代の猿之助である。

 二代目猿之助(初代猿之助の長男)の兄弟には、次男・三男のどちらかに初代市川寿猿、八代目市川中車がいるが、資料が不確定でどちらが兄か、弟か不明だという。八代目中車は、先代の養子となったという。
 ほかに、末っ子の五男あるいは、四男・二代目市川小太夫。
 それ以外では、二代目市川蝙蝠(二代目市川小太夫の子)などがいる。
 幼くして夭折した子もいるが、それには触れない。

 この辺りの資料は、オリジナルなものを見ているわけではないので不確定な部分もあり私も、いわば「又聞き」状態で細部については心もとないのだが、お許しいただきたい。

 三代目猿之助は、三代目市川段四郎の長男。1939年生まれ。二代目を目標に猿之助という名跡をさらに磨きをかけた。二代目が53年間なら三代目は49年間も名乗り続けた三代目市川猿之助という名跡である。この人も、最後は隠居名の二代目猿翁を名乗ったが、歌舞伎の舞台では、せいぜい特別出演(車椅子に乗ったまま登場したり、幕が開くと、既に舞台に座っていて、口上が終わると、座ったままで閉幕としたりして、工夫の演出をしているが、まさにそこ座っているだけで良いという、病身の隠居名・役者であった。
 三代目は、文明開化の明治期以後は古臭いと疎まれていた歌舞伎の演出(外連=ケレン)を復活させて観客を喜ばせ一世を風靡した。幕末期に流行した「宙乗り」の演出も復活させた。三代目は、その手法で歌舞伎の古典劇を「復活」させたり「再創造」させたりしてきた。さらに独自の演出を確立させた「スーパー歌舞伎」と名付けた演出手法で、歌舞伎の新作劇に新境地を切り開いていった。彼の新境地は、演じる役者・猿之助本人の新境地であるとともに舞台に立つ共演者にとっても新境地であったと思う。さらに、歌舞伎を観に来る観客にとっても、新境地であっただろう。「歌舞伎の異端児」「革命児」「風雲児」などというレッテルを貼られたりしたが、これは、褒め言葉だ。猿之助代々は歌舞伎の革新に情熱を燃やした情念の役者たちであったと思う。私は、二代目猿之助は、実際の舞台では観ていない。画像で見たことがあるだけだ。澤瀉屋系統で私が観たのは、もっぱら、三代目猿之助であり、亀治郎時代の四代目猿之助、そして、四代目襲名後の新しい猿之助(当代)の舞台であった。三代目も、四代目も、猿之助と名乗る役者は稀有で有能な歌舞伎役者たちであったと思う。

贅言;「スーパー歌舞伎(スーパーかぶき)」は、三代目市川猿之助が1986年に始めた歌舞伎のジャンル。古典芸能化した歌舞伎とは異なる演出システムで上演される現代風歌舞伎。新橋演舞場などで上演されることが 多い。新橋演舞場、明治座なども、時々、澤瀉屋の芝居が掛かる。

︎三代目市川團子 → 三代目市川猿之助 → 二代目市川猿翁(隠居名)。

 猿之助は三代目猿之助を襲名後、祖父・二代目猿之助(初代猿翁)と父・三代目段四郎を相次いで亡くした。梨園(歌舞伎界)では、若いうちに役者が父親を亡くすと、有力な後ろ盾を失うことから「梨園の孤児」などと呼ばれがちだ。三代目猿之助も、他門の庇護を受けることを潔しとせず、二代目(祖父)譲りの革新的な芸術志向と上方歌舞伎伝統の外連(ケレン)演出を大胆に取り込むことによって歌舞伎界に新風を吹き込んだ。例えば、1968年「義経千本桜」のうち「四ノ切」で披露した「宙乗り」などは、超能力を持つ狐の演技に画期的な印象をもたらした。九代目市川團十郎を軸として始まった明治の演劇改良運動(九代目市川團十郎が国策に合わせて尽力した運動)以降は、「邪道」として扱われ顧みられなかったケレンの歌舞伎演出を次々に復活させた結果、一群の演目は、逆に新しい歌舞伎、「猿之助歌舞伎」として認められるようになり、今では一世を風靡し、現在も上演され続けている。猿之助歌舞伎は、エンターテインメント性を強め、その後も、見応えのある舞台として、観客からは高い支持を集めた。それは、歌舞伎を超える歌舞伎として、その名も「スーパー歌舞伎」として、現代的な、洒落た歌舞伎として、若い役者たちにも支持されてきたが、当時(あるいは、今も)は、まだ保守的体質だった多くの歌舞伎役者たちや劇評家からの評は厳しかった。歌舞伎界で孤立無援となった三代目猿之助の悲哀はいかばかりだったか。
 しかし三代目猿之助はそうした逆境に挫けず、歌舞伎座での公演に澤瀉屋主体の上演月を新設させるなどして克服する。国立劇場の歌舞伎研修生出身の若い役者たちを迎え入れるなど、人材的に歌舞伎の裾野を広げる効果を上げて行き、歌舞伎に若い観客層を吹き込んで行った。しかし、三代目市川猿之助が舞台から遠のけば、歌舞伎界の巻き返し力は、反作用を起こすが、その辺りは、今回は触れない。

 「四ノ切」の宙乗りの演出は元々、三代目猿之助が上方歌舞伎の三代目實川延若に指導を受けて、取り入れた演出であったという。その後、超能力の狐の次元を超えた力を表現する「四ノ切」に限らず、近年では後進の若手・花形の歌舞伎役者も多くが取り入れる見せ場として磨きがかけられ、宙乗りの演出を使った公演が常道となってきた。三代目猿之助は、古典劇の復活から古典の再創造(リメイク)、新作猿之助歌舞伎(スーパー歌舞伎)の創造に至るまで、ジャンルを広げ、精力的な活動が舞台芸術としての歌舞伎に新たな領域(ジャンル)を切り開き、歌舞伎の枠を広げるとともに、歌舞伎演目の底上げと観客の若返り効果を高めたと言える。そういう意味で、代々の猿之助の中でも、歌舞伎界に貢献したものは計り知れないものがあると思う。まさに、「歌舞伎の中興の祖」に相応しい活躍ぶりであった。今からの20年前、2003年博多座での公演中に体調不良を訴えて途中休演した。これ以降、歌舞伎役者として舞台に立つことも減った。パーキンソン症候群、脳梗塞を患い、車椅子生活を余儀なくされながら、演出にも力を発揮してきた。今は、何をしているのか。四代目猿之助の両親である弟・段四郎夫婦を巻き込んだ「心中事件」をどういう思いで受け止めているのだろうか。

 三代目猿之助(二代目猿翁)は、俳優の香川照之(歌舞伎役者名・九代目市川中車)の実の父親。中車には、長男、五代目市川團子(ダンコ、19歳)がいる。
2012年6月、東京・新橋演舞場の「スーパー歌舞伎 ヤマトタケル」のワカタケル役で初舞台を踏み、五代目市川團子を襲名した。澤瀉屋系統は二代目、三代目猿之助の歌舞伎改革志向で自分の名跡を大きくしてきたが、一門の個別の名跡数は決して多くは無い。例えば、初代、二代目とも、ほとんど隠居名としてしか使われなかった「猿翁」。正真正銘の澤瀉屋の大名跡「猿之助」(当代で四代目)。これも、明治期の初代から当代までその歴史には4代しかいない。五代目「團子」、四代目「段四郎」、二代目「亀治郎」など。澤瀉屋直系が引き継ぐべき名跡の名前が少ない、代数も少ない、というのが、大名跡・猿之助を抱える澤瀉屋の家系の実相であるから、宗家役者は、いろいろ苦労が多かったのでは無いか。名跡の箔は、名前を継いだ役者個人がつけて行くことになる。猿之助代々も、皆、奮励努力工夫の人たちであった。

★新・スーパー歌舞伎劇団。四代目猿之助の野望

 スーパー歌舞伎(三代目)からスーパー歌舞伎Ⅱ(四代目)へ。
 三代目市川猿之助(現・二代目猿翁)は、おもしろい歌舞伎の復活を目指して歌舞伎の改革に情熱を燃やしてきた。そのポイントは、古典歌舞伎が持つ荒唐無稽さ(現代風に言い換えれば、エンターテインメント性)を磨き直すという手法であった。歌舞伎の演目を集めた書庫にある古典ものを下敷き(原案)にしながら想像力を膨らませ、全く新しいアイディアで作り直した演目の歌舞伎狂言を仕立て上げる。若い役者を軸にしてエネルギッシュな演技を活かした魅力溢れる演目は、三代目猿之助の手で「スーパー歌舞伎」と命名された。1986年初演の「ヤマトタケル」が、スーパー歌舞伎の第一作であった。40年にも達しないスーパー歌舞伎を追求した三代目猿之助一座の人々。
 スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)は、初演から10年たらずという年数しか経っていない。試運転中という感じさえ私には感じられる。四代目猿之助は、それでも、三代目猿之助とは違う舞台を求めていたのではないかと思う。

 同じ歴史物であっても、スーパー歌舞伎は荒唐無稽さもおもしろがった。江戸歌舞伎の「時代もの」(町民の目で武家社会を描く)と違って明治以降の新歌舞伎は、史実を重視した。なにせ、欧化主義の明治時代である。江戸幕府の長かった鎖国の眠りを破られ、いきなり、パラレルワールドに追い込まれた日本国。「活歴もの」と呼ばれた演目は、国策に沿って対欧米を意識し、字面通りに、歴史を活かしたリアルな芝居を欧米の観客に理解させるために新たに作るという意識が強く、江戸の価値観を否定して生まれた。

 しかし、スーパー歌舞伎では、明治以降に作られた「新歌舞伎」が否定してきたいろいろ貴重な演出手法をおもしろいかおもしろくないかを意図的に判断しておもしろければ良いとして復活させた。

 つまり、誇張された衣装を身につけるとともに、隈取り(顔の表情を強調する化粧法)、見得(顔の表情を強調する演技)、合方(効果音楽・伴奏など)、ツケ(役者の所作や演技を誇張する効果音)などを積極的に取り入れる演出を重視する。さらに、象徴的なのは、幕末期に流行った宙乗り、早替りなどの演出も積極的に活用する。それでいて科白は、現在の言葉を使う、という意味では、スーパー歌舞伎は、すべての演目が同じ演出で貫かれた創作現代劇という、歌舞伎の新たなジャンルなのである。

 四代目猿之助(当代)は、三代目猿之助の甥(四代目市川段四郎の長男)。1975年生まれ。二代目市川亀治郎を経て、澤瀉屋の大名跡を襲名した澤瀉屋のエースであり、現代歌舞伎のエースとして、同時代で将来が期待される歌舞伎役者の有能な一人であった。

 猿之助は1983年に二代目市川亀治郎として初舞台。2012年に四代目市川猿之助を襲名。父親の段四郎は2013年四代目猿之助の襲名公演の最中に体調を崩して倒れ、以降は長い間療養に専念、私も実際に確認したわけではないが、76歳の今では寝たきりの状態だと言われる。猿之助の家では、母親(75)が父親を老・老介護をしていたという。こうしたなか、2015年のスーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)の新作「ワンピース」で実現した親子共演は私も観た記憶がある。実際に見た最後の段四郎の姿であったと思う。

 スーパー歌舞伎が、三代目の拠点ジャンルだとしたら、スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)は、四代目の拠点ジャンルにしようとしていたことは明白である。役者としては、年齢、世代、血縁などにとらわれずに、先達にぶつかって行って欲しい。そういう意味で、当代の猿之助は、新・スーパー歌舞伎劇団の、真面目で、熱意溢れるリーダーであった。

贅言;2014年より「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」と名付けて、四代目市川猿之助を主軸とした演目を上演している。新しい歌舞伎創生。四代目猿之助の率いる新・スーパー歌舞伎劇団は、今回の事態を受けて、どうなって行くのか。

 さて、今回の事故、あるいは事件は、目下、司直の手で経緯を調査中であり、ここではほとんど何も言えないが、初代から四代目まで受け継がれてきた猿之助代々。「革命児」「異端児」「風雲児」などのレッテル(毀誉褒貶のレッテルだろう)に違和感のない大活躍をしてきたと思われる。四代目は、三代目(つまり、伯父)の芸風を自分の歌舞伎改革の手本にしてきたという。それで、良いではないか。

 警察のこれまでの調べによるととして、メディアで伝えられることは、17日に家族会議を開いたという。家族会議で猿之助は「家族で死んで生まれ変わろうと話し合った(両親が睡眠薬を飲んだ)」という趣旨の説明をしているという。

 5月24日、警視庁の任意の事情聴取に対して猿之助が「両親と(一家心中)を図った」と言ったという趣旨の説明をしているというが、どうだろうか。

 段四郎一家の最後の場面は、マスメディアの情報をまとめれば、以下のようなものであろう。正式に発表された情報ではないので、真偽は、まだ不確定である。

 2階のリビングに入った第一発見者(猿之助を迎えに来た男性の付き人)が見たものは……。
 段四郎夫妻は、ビニール袋を頭に被っていた。リビングの入り口手前に猿之助の父親段四郎、奥に母親が、並んで倒れていた。二人には、敷布団なしの床に横たわったまま、上に掛け布団だけが首まで掛けられていた。段四郎は、上下水色のパジャマ姿、母親は、紺のティーシャツに白地のズボン姿だった。

 段四郎が長い間体調を崩し、舞台に出なくなり、寝たきりで介護が必要な状態になっていたというから、二人の服装の日常性も私には頷けると思うが、それでもいくつもの疑問が残る。薬は、誰が準備したのか、服用したとされる向精神薬は、誰のものか、父親のか、猿之助のものか(猿之助は、精神科への通院歴があり、睡眠導入剤が処方されていた)、病院の処方箋が必要な薬なら、誰が処方してもらったのか、両親は二人とも進んで自ら薬を飲んだのか、一緒に並んで薬を飲んだのか、自分たちでビニール袋を頭に被ったのか、ビニール袋を頭に被る必要性とは何か、掛け布団をかけたのは誰か、敷き布団はなぜ使わなかったのか、などなど、疑問は尽きない。

 一方、猿之助は、1階の半地下構造の自室にあるクローゼットの中で座りこんでいる状態で発見されたという。猿之助は、両親が亡くなったのを確認してから自室に行き、クローゼットで首を吊ろうとしたが、(いつ、両親の服薬の後か、前か?)飲んでいた薬が効き始め、意識が朦朧としてしまい、気がついたら、病院にいた」と説明していると言うが、裏付けられたのかどうか、服薬中の薬や袋は、どこにあるのかないのか、などなど。第3者の関与の有無、猿之助の行動、遺書があったというが、その内容、真贋は? 付け人(複数)の対応など、当日関わった全ての関係者の動線は解明されたのかなどを含めれば、知りたい疑問はいくつもあると思われる。

贅言;「スーパー歌舞伎」と「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」の違いとは、細かな部分を別にすれば、以下の通り。

 「スーパー歌舞伎」は、三代目市川猿之助が主演し、「スーパー歌舞伎」として制作・上演した演目。
 「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」は、四代目市川猿之助が主演し、「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」として制作・上演した演目。

 四代目市川猿之助は、何をしたかったのか?

贅言:
*三代目の「スーパー歌舞伎」の演目のうち、
「ヤマトタケル」:市川右近 2008年新橋演舞場 
猿之助 2012年新橋演舞場

「新・三国志」も新橋演舞場の舞台で拝見した。

*四代目の「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」の演目のうち、
2014年3月のスーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)「空ヲ刻ム者」
2015年10月のスーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)「ワンピース」

 いずれも、四代目猿之助が主演・制作・上演した演目は、私も観たが、紙数が尽きそうである。四代目は、三代目を越えようとしていたのではないか。しかし、どこかで三代目を超えることができないと悟り、両親を道連れにして一家心中を企てたのかもしれない。しかし、推測でしかない。四代目市川猿之助ほかについては、次号以降で書き継ぎたい。

 四代目市川猿之助の、この悲劇は、なぜ起こったのか。マスメディア(SNSなどインターネット、テレビのワイドショー、週刊誌など)が、掻き立てる情報に真実が隠されているか、歌舞伎の歴史と役者の方に真実が隠されているか。そこを探ってみたい。
 しかし、捜査情報は、まだ、不確定である。情報の進捗を見ながら、状況を見抜き、まとめて行きたい。

いずれも様も こんにちは これギリ。

(次号へ、続く)

(2023.6.20)
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