■【闘病記】

ガンと向き合って7年    貴志 八郎

  ―負けるもんか! 肺癌との闘いを綴る―(その1)
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●「はじめに」 82歳のつぶやき まだやることがある!!

 昭和20年7月9日、米空軍の焼夷作戦で紅蓮の炎の中、逃げまどった15歳
の少年も、今は82歳を超えてしまった。
 戦時中は「生きること、死ぬこと」だけを考えて過ごした軍国少年も、戦後の
窮乏と飢餓の極致の中で、ひたすら「食べ物」を渇仰してさまようという悲しい
一齣も、走馬灯のように記憶の片隅に宿るだけとなった。

 50年前に発症した糖尿病、7年前に発見された左肺癌、そして術後4年目の
肺尖癌、5年目には新たに肺3つ目の癌。私は、何故このように病魔に追いかけ
られるのか…。呪いの言葉を口にする前に、平和憲法第9条の危機を乗り越える
まで「死ねんぞ。」と心中で小さく叫ぶ。カオスのような時流の中で、一市井の
老人のつぶやきがどれ程の役割も果たせぬとしても、せめて一矢を報いたい。

 だから私は、癌とまともに向き合って頑張る。負けてなるものか。
 そしてその心意気を多くの同病の人々と共有したいと思い、この雑文を綴るこ
とにした。


●「一病息災」 肺癌の発見まで

 「これは、立派な糖尿病です。」と、成人病センターの検査入院で宣告されて
早や50年。

 血糖降下剤ジメリンの時代が20年、そしてインスリン注射(ノボタリンR朝
13単位、昼8単位、夜11単位)で30年、治療を続けた。現在のヘモグロビ
ンA1Cの値は6.7~7.0で大体のところ安定しており、通いつけの歯科医師
さんでも「歯茎の状態は非常に宜しい。糖尿病をうまくコントロールできていま
すね。」と褒めて頂いていた程である。

 「しめしめ糖尿病との付き合いはうまくいった。」と喜んでいた矢先のことで
ある。2005年暮れの11月下旬、インスリンの投薬を受けにいったホームド
クターに「『咳』がよく出る。」と相談したところ、早速、胸部レントゲンを撮
影してくれ、「怪しい影がある。」といって、和歌山県立医科大呼吸器内科へ紹
介してくれた。

 ここから私の新しい闘病が始まるのである。「糖尿病という一病あってこそ、
癌の早期発見」となったのである。

 この闘病記は、私自身が癌と向き合い、併せて永年、糖尿病の桎梏に抗う自身
の姿を客観的に捉えることによって、自らの生きる意欲を駆り立て、怠慢、怠惰
に流れようとする自分自身に掣肘を加えようとするものである。
 冒頭で述べたように、私には未だやらなければならないことがあるからだ。

 さて、左肺癌の存在がはっきりした時、私の頭をよぎったのは、82歳で大腸
癌で死んだ父親のこと。私も父親と同じ年齢までが限界か。70歳で「肺癌」の
手遅れで急逝した実兄も、抗癌剤治療でガクガクッと体力を失った。その悲痛な
姿が昨日のように瞼に浮かぶ。

 こうして「人生有限」を明確に意識し、「次は私の番だ。」という思いが急速
に拡がっていく。
 「これこそ、乗り越えなければならない壁だ。」と自分に言い聞かせることに
した。


●「ペット検診の映像」 怪しく白光を放つ「癌」

 医大の呼吸器内科では、CTなどで精密検査を行った後、気管支鏡(ファイバ
ースコープ)検査が行われた。まず口から気管支への通路を確保するため「猿ぐ
つわ」状の器具を口から気管支迄の間にはめ込み、そこへ気管支鏡を挿入、肺の
内部の写真を撮ると共に、癌の種類などを特定する資料とするためブラシを使っ
て患部の組織を削り取るのである。

 これがまた、大変な苦痛を伴うものであって、日頃より咳の出る私は、予感の
とおり、地獄をみる思いをしたものだ。この検査終了後、「絶対! 死んでもこ
の検査は2度とやるまい」と固く心に決めた程である。
 後日、親しくしている医師にこの話をしたら、「それは麻酔の噴霧が不十分だ
ったからで、それを丁寧にやれば、そんなに苦しい筈はない」と言われた。

 そんな苦しい試練を受けたにも拘らず、医長回診のとき、「もう1度やり直し
なさい」と指示された。組織検査の削りがうまくいていなかったためである。
 「苦しくて、もう1度なんて嫌だ」という私に、担当の医師は、「今度は注意
してやるから大丈夫」といってくれたが、「それなら最初からちゃんとしてくれ
れば良かったのに…」と食って掛かったものである。

 手を焼いた医師は、「針生検」をやるか、当時の癌発見の新兵器「ペット検診」
を受けるか、ということになり、結局、医大のすぐ横にあるクリニックで「ペッ
ト検診」を選択した。

 検診当日は、朝食抜きでまずブドウ糖の血管注射。30分後、全身にブドウ糖
が行き渡った頃、検査台に乗り、約30分間ペットで全身の内部状態が透視され、
映像となる。聞く処によると、ブドウ糖は、癌のある所に密集するそうで、その
とおり、1週間後の診断で、左肺に怪しく白光を放つ「癌」の存在を確定したわ
けである。

 私が恐れていたのは、かなり重度の糖尿病患者故に、朝食抜きでペット検診の
クリニックへ到着する迄の間に低血糖症状が起きないだろうか、ということもで
ある。幸い無事にその関門は通過できた。

 さて、ペット検査の結果で、私の左肺上葉部の癌は確定した。しかし、ファイ
バースコープによる組織検査の拒否によって「癌」の種類は特定できていない。
でも、ペット映像では転移は無さそうということなので、呼吸器内科から外科へ
移り、約半月の検査入院は終了した。

 お蔭で、その年の正月休みは自宅で過ごし、所沢や金沢に住む娘達や孫達に囲
まれて楽しい団欒の時間を持つことができた。心の中では、「ひょっとすると、
こうした家族の集まりが最後になるかも知れない」と思いながらも、予感として
は「大丈夫、私は決して死なない」という自信のようなものがあった。
 人によっては笑うだろうが、その退院中、集まってきた仲間と麻雀を楽しんで
成績良好であったことも、心の支えになったのかも知れない。


●「最初の手術」 癌との闘いの始まり

 呼吸器外科へ移された私は、検査後1ヶ月の1月17日、手術のための様々な
検査を終え、いよいよその日を迎える。

 当日の朝、所沢から駆けつけてくれた小学生の孫娘達は、私に「お守り」をプ
レゼントしてくれた。彼女達の目からは涙が溢れそうになっていた。やがてスト
レッチに乗せられ手術室へ向かうエレベーターの前で、私に手を振って「バイバ
イ。」と言ったのだ。娘は慌てて孫娘の口を押さえ、「バイバイと違う!」と叫
んだ。

 ステンレスの手術台は冷たかった。数名のスタッフが揃い、全身麻酔を背骨に
打つための局部麻酔から手術の開始である。そこから先は、麻酔が効いていて闇
の中。

 その前日の日記の一節に「昨日まで笑って話し合っていた家族も友人も、永遠
の別れとなるかも知れない。何時かはきっと訪れる日が、明日になるかも知れな
い。辛く悲しいことだが、それが現実というものだろう。私は今までの人生、生
かして頂いたことに感謝し、名残を惜しみつつ独り旅立つ。」と書いている。ま
た、妻子、孫などのことを綿々と綴っているが、最後には、「戦争末期の空襲の
とき紅蓮の炎に焼き殺されることもなく、この年迄過ごせた幸運を喜ぶ。」と記
してあった。

 手術にどれだけの時間を費やしたかは残念ながら記録に残していないが、手術
は確かに成功したようだ。目が覚めたとき、不思議に痛みはなく、やたらと激し
い尿意を感じる。ここ10年来、前立腺肥大で排尿に悩んでいた私は、手術の影
響で「尿閉」となることを心配していたことが現実となったと思えた。

 手術室から生還して病室へ戻された私の第一声が、「オシッコ!」だった。誠
に恥ずかしい極みである。早速、いわゆる導尿の措置で私の膀胱は破裂を免れた。
術後2日間、1日2、3回の導尿で、これは卒業したが、今でも女性の看護師さ
んに導尿管を入れて貰う屈辱感は消えることはない。その上、個室ではあるが、
付き添いに来ていた連れ合いの見ている前では、一生、頭の上がらないやるせな
さを感じたものだ。

 少し経って、担当医師から手術の成果と予後の注意を受けた。それによると、
「(1)直径4cm程の癌は、上葉部切除で完全に取り切ることができた。(2)
リンパ節への転移はない。(3)他への転移は認められない。」そして、「脊椎
に直接痛み止めの処置をしているので、痛みで苦しむことはない。1週間程で抜
糸、2週間で退院の予定。明日から、自分でトイレにいくように。できるだけ体
を動かすように。」とのお達しである。


●「術後の経過」手術前の3大心配事

 手術という大事業で私が一番心配していたことは、前述のように「『尿閉』状
態になること」、第2には「長年の糖尿病のため、手術で大きく開いた傷口がう
まく治ってくれるか。特に内部の傷が悪化すれば再手術も必要となるのではない
か。」という心配。そして第3には「日頃より便秘気味だっただけに、これがひ
どくならないだろうか。」という心配事があった。

 糖尿病と傷口の関係は、呼吸器内科へ入院した頃から、第1内科の糖尿病に詳
しい若い医師が病室まで何回も足を運んでくれ、血糖値とインスリンの量のバラ
ンスを徹底的に調べた上でご指導くださったお蔭で、私の最も心配した外科治療
のための傷口は、糖尿病でない健常者よりも早いくらい治りがよく、1週間で抜
糸、2週間で退院という結果を得た。

 尾籠な話で恐縮だが、私の術後の心配ごとの一つである「便秘」が、現実味を
帯びてきた。すなわち、手術した日から3日も経っても「ウンコ」が出ないので
ある。気張っても気張っても、それが出口まで来ている感じなのに出ない。もが
き苦しんで力を入れるたびに傷口が裂けないかとの心配が頭をよぎる。

 苦し紛れに看護師さんに来て貰う。「掻き出してみましょう。」と、指サック
をはめて肛門より指を差し入れ、固い「ウンコ」の頭を掻き出そうとしてくれる
のである。この看護師さんは、体格の良い男の方で、当然、指も太い。
 私は思わず悲鳴をあげた。そして頭の中では、導尿の時に処置をしてくれた女
性看護師の細くしなやかな指先が浮かぶ。何故来てくれないの。

 嵐のような30分。翌日、担当医に話をして下剤を貰い、ようやく人心地がつ
く、という辛い一齣もあった。考えてみれば、「早くに下剤をいただいておれば、
何のこともなかったのに。」と、阿呆くさい限りである。

 こうして入院から2週間で釈放されることになった。ちなみに、私の肺癌は、
非小細胞(Non-small cell lung cancer : NSCLC -肺癌の約80%)とのこと
である。

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