■【闘病記】
  ガンと向き合って7年                  貴志 八郎

―負けるもんか! 肺癌との闘いを綴る―(その2)

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●「術後の行動」 外の空気に触れよう、海外の旅も

 左肺上葉部を切り取られた私は、術後のダメージも殆ど取るに足らないと言え
るだろう。「尿閉」や「便秘」なら、差し迫って死の恐怖におののくことはなか
ったからだ。
 私の「対肺癌」の第1幕はこうして降ろされた。

 後は4年後に新たな肺尖癌が見つかるまで、1ヶ月検診から3ヶ月検診に間隔
が空いていき、その度に胸部のCT撮影やレントゲン検査と血液検査で、PSA
(前立腺癌)・ヘモグロビンA1C(糖尿)のほか癌マーカーの数値を診て貰う
わけだ。そして、その都度「異常なし」と無事通過を知らされ、安堵の胸を撫で
下ろしたものだ。

 「もはや私の体内には癌は存在しないのだ。」という安心感が広がっていった
が、風邪引きだけにはなるまいと、外出先から帰ったときの手洗いと、うがいだ
けは丹念にやってきた。夜中に目覚めたときにも、必ず「うがい」だけは実行し
たものだ。
 お蔭で術後4年間は、風邪も引かずに過ごすことができた。

 その間に私は、連れ合いと、随分、旅行をしている。
 まず、術後約4ヶ月の5月11日より和歌山県の南部にある「湯の峯温泉」周
参見の温泉旅館ベルベデーレに2泊3日、それも自家用車を自分で運転し、約4
00キロを走破している。引き続いて、同月の16日から、東京での旧制中学同
窓会へ出席、この時も連れ合いと娘の住む所沢まで一緒に出かけ、翌日、私だけ
が東京銀座の三笠会館に出席、という案配だ。

 その上、その年の10月19日より訪中の途についている。勿論、連れ合いも
同伴している。当時の日記によれば、「『青島市を構成している膠南市と和歌山
県内の白浜町との友好提携を進めて欲しい』との要請を受け、山東省の栄誉省民
の称号をいただいている私に先鞭をつけてもらいたい」というわけだ。

 当日は、白浜町の町会議員5名と商工会会長らと共に、かねて手配していたよ
うに、膠南市の副市長以下、各部局の代表者の出迎えを受け、友好提携の協議を
行い、後は発展途上の工業地帯造成地の見学や、伝説の徐福出航の地で等身大の
始皇帝像や徐福の石像で、和歌山県新宮市の徐福の墓に思いを馳せることができ
た。

 その後は、レセプション、歓迎会、乾杯と続いたが、幸い、大した疲労感に襲
われることもなく、無事に役目を果たすことができた。


●「術後の日常」 無理はしないが、予定はこなす

 以上、述べてきた術後の私の行動は、「癌は治った!」という自信と、「前向
きな日常活動こそ自己免疫力を高めてくれる、家に籠って消極的な生活を送れば、
肉体的にも精神的にも落ち込んでいく」という考えが前提にあるからだ。

 ついでに申し述べると、私の日常は、決して真面目一方の仕事マンではない。
週2~3回は、自宅で麻雀台を囲む。メンバーは、私の小・中学の同期生や、少
し年下の高齢者で、ローテーションを組んでいる。勿論、時間は午後1時より6
時迄で、5時間を超えることはまずない。また、毎週火曜日には、5人の仲間と
カラオケルームを借り切って、半日を過ごしている。

 このほか、中小企業団体の会議や、ライオンズクラブの奉仕活動や例会へも極
力参加するし、卒後60年にもなる小学校や中学校の同窓会のお世話や記念誌作
成にも、先頭になって取り組んでいる。
 結構、忙しい。

 旅行の方は、「連れ合いの献身的な協力や看護に対する感謝の気持ちを行動で
示す」という一面と、「あと何年の寿命か、せめて生きているうちに」という気
持ちも働き、安価で立地の良い公共の宿などを探しては旅することにしている。
 家計の方は、連れ合い任せだが、年金が主要な収入源である。

 このように、相当に忙しい毎日を過ごしながら4年間、その間に、3ヶ月毎の
検診は欠かさず受け、過労にならぬよう、風邪を引かぬよう、転ばぬよう、イラ
イラせぬよう、飲み過ぎぬよう、運動不足にならぬよう……。
 特に睡眠は、1日8時間以上取るように工夫するなど、細心の注意を払ってき
た。

 術後4年を迎える迄、私の生活は、あらまし術後の1年間と変わりはない。強
いて言うならば、精神障害者のための施設建設についての苦労話を映画にした
『故郷を下さい』の撮影に協力すると共に、この映画を通じて中国の障害者団体
や、施設、学校等との友好交流を進めたいという思いが募り、事前打ち合わせや
中国での上映会のため、再三にわたり訪中したことだ。


●「青天の霹靂」 肺尖に新しい癌

 順調に経過し、癌の再発に対する恐れも殆どなくなった2009年12月の検
診で、肺尖に新たな癌の発症が認められた。癌マーカーの上昇とCT検査の結果
を見た担当の吉増先生は、ペット(PET)検診を受けるようにと紹介状を書い
てくれた。

 例によってペット検診では、ブドー糖と或る種の放射性物質を静脈注射し、癌
に集まるブドー糖の性質を生かして陽子線撮影を行う。併せてMRI検査が実施
される。そしてこの結果は、1週間後、和歌山医大の呼吸器外科の吉増先生から
申し渡されるという手順である。

 ペット検診の結果、私の左肺上部の肺尖に新しい癌が確認された。不幸中の幸
いというべきか、他の臓器には癌の痕跡はないということである。
 治療については、吉増先生が「薬品による化学療法か、放射線による治療が考
えられる。手術の前歴がある左肺にメスを入れるにはリスクが高い。」と説明し
てくれた。


●「技術の進歩」 新しい癌に放射線治療(ピンポイント)

 私は、即座に「放射線治療を選択して欲しい。」と申し出て、先生のお考えを
尋ねた。
 先生は、「私も同じ考えだ。」とのことで、私の身柄は放射線科に移され、2
010年1月22日より、約1ヶ月の間に10回の治療を受けるというスケジュ
ールが決まった。

 聞く処によると、この頃、放射線治療が普及し、数ヶ所から癌に向かってピン
ポイントの放射線治療を行えるようになったので、従前のように癌周辺の組織が
破壊されるなど、術後に悪い影響が殆どみられなくなったというのである。

 癌の位置をピンポイントで正しく捉え、1mmの誤差も許されないということ
である。当然、その位置を確認し固定するために私の左胸に幾つも線を引き、印
を入れられた。
 こうして綿密に位置を確定し、今度は実際に寝台に乗り、腕を伸ばして支柱の
上部を握りしめるようにと指示される。

 このような作業を入念に行った上、癌の位置を綿密に確定して治療が始まるわ
けだが、腕を伸ばして握りしめたままのその体形を1mmでも動かさないでくれ、
というのである。動けば、ポイントがずれ、治療効果がなくなる上、障害が生じ
る恐れがあるというのだ。

 放射線そのものの照射時間は、1回10分以内であるので、痛くも痒くもない
が、両腕を上に挙げ、支柱を握ってそのままピリッとも動けない苦痛は、大変な
ものである。

 私はこの治療作業の間、心の中で童謡や子守唄を歌った。睡魔と闘い、動けな
いという腕のだるさとストレスに対抗するには効果的だったと思っている。
 3番目まで歌えば約3分、4曲も歌えば、時間がやってくる。動かないという
苦しみのほかは、ダメージのないのが有難い。

 こうして1月から2月にかけて「1ヶ月の間に10回、放射線治療」というス
ケジュール通りの治療が行われた。この間、入院をせず通院、自家用車を自分で
運転、殆ど毎回、連れ合いは私に付き添ってくれた。
 また、「自分で運転する場合、治療後30分位で眠くなることがあるので、早
く帰宅するように。」と指示されていたことを記憶している。

 幸いというべきか、10回の放射線治療の結果は、3月5日の検診で、癌マー
カーの数値は見事に下がり、CTは、肺尖の放射線照射で黒くなった影が見える
だけで、主治医の吉増先生も、放射線科の先生も、この治療が成功したことを告
げてくれた。

 「早速、御先祖様のお墓へ、報告とお礼にお参りしなければ」と尻を叩かれる、
という嬉しい始末。


●「左肺に第3の癌」 生きていた第2の癌

 だが、癌はそう甘くはなかった。
 それから1年後の検診で、死んだ筈の肺尖癌は生きており、そしてさらに第3
の癌が、左肺下葉部に発生していることが、癌マーカー数値の上昇をきっかけに
行った通算3回目のPET検診の結果、判明したのである。

 1年前のあの喜びは、全くのぬか喜びであったのだ。
 考えてみれば、放射線によるピンポイントの治療がようやく一般化され、軌道
に乗って間もない時期だっただけに、その成果を検証する方法が現場で充分に消
化されていなかったのかも知れない。

 いつぞや、かつての医大内科教授が私に、「病気を治すには、『選ぶ』(病院
と医師)、『知る』(自分の病気のすべて)、そして『共に(医師・看護師・家
族)前向きに治療に当たることが肝要』、『運』とあるが、最後は自分の意志で
決まる。」と教えてくれたが、私は既に病院も医師も決めているし、家族も私の
ために献身してくれている。

 文句は言うまい。
 新たにできた癌を含めて、上手に付き合っていこう。そんなわけで今の処、セ
カンドオピニオンは考えていない。しかし、絶対に負けないぞ。

 (筆者は和歌山市在住・元国会議員)

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