【オルタの視点】

明治・大正期に日本に学んだ中国(清国)の学生たち ―新宿区に集中した教育機関に見る―

                              羽原 清雅


 早稲田大学が明治・大正期に清国の留学生を受け入れていたことは、おぼろげに聞いていた。また以前、「オルタ」に周恩来と川俣清音、河野一郎の交流について書いたこともある。

 最近、当時の新宿区内に、嘉納治五郎が留学生のための「弘(宏)文学院」なる学校を設けていたことを初めて知った。そこで、<留学生は神田中心に集まっていた>との先入観にこだわることなく、あちこちを歩きつつ調べてみた。
 調べていくと、留学生の数は数千人から2万人とも。「親日」による訪日から「反日」に切り替わり、両国の関係自体が解体していく時代の、ごく短い時期だった。時代を超えた両国の関係が見えるようで、最近の日中関係のありようと重ねて考えることになった。

◆◆ Ⅰ【当時の清国、日本事情】

≪清国の状況≫ 以下の清国と日本の状況についての、この項は、単なる史実のおさらいであり、スキップしてもらっていい。ただ、この歴史あっての日本留学だったのだ。
 当時の清国は、国力の衰退につけ込まれ、先進諸国の軍事力による植民地化の動きに翻弄されていた。国内でも多様な改革が試みられながら、実らないままに混迷が長期化するなど、内外ともに激動に直面していた。まずはそのあたりの事情から見ていこう。

 まず、清は「アヘン戦争」(1840-42)でイギリスに敗れて、中国大陸進出の第一歩を許し、「アロー号戦争」(1856-60)で英仏連合軍に敗れて、半植民地化を余儀なくされる。その間には、清朝の弱体化に伴い、キリスト教徒洪秀全による、各面での改革を求める「太平天国の乱」(1851)が10余年にわたって各地に広がった。

 そこで、漢人の開明派官僚である曽国藩、李鴻章らが、軍需工場、外国語学校、鉄道、鉄山開発など西洋技術の導入に努め、近代化への「洋務運動」(1861)を起こす。
 また、これが挫折すると、やはり漢人の康有為、弟子の梁啓超らが、光緒帝のもとで、西洋技術にとどまらない国家制度の改革、立憲的な改革を追及する「変法自強運動」(1898)を提起する。これは明治維新に学んで立憲君主制国家をめざしたものだが、この「戊戌(ぼじゅつ)変法(改革)」は、西太后ら保守派のクーデターで短期間に破綻したことから「100日維新」(「戊戌政変」)と呼ばれる。なお、唐、梁らは失敗後、日本に亡命し、影響力のある犬養毅、大隈重信、伊藤博文、近衛篤麿らと交流を持った。そのなかには、右翼人や国粋的人士もいた。

 その間に起きたのが「日清戦争」(1894-95)。清国が新興の小国日本に敗退したことは、清の国内を揺るがすとともに、大きな刺激になった。さらに、激動のなかで発生したのが、反列強帝国主義と「扶清滅洋」の旗を掲げた民衆蜂起の「義和団の乱」(1900)と、これを鎮圧にかかる日英米仏露独伊墺の8カ国の連合軍による「北清事変」(同年)。清国は乱に乗じて列強に宣戦布告するが、敗退してさらに衰退を強め、諸外国の言いなりになる。

 日本はこの戦争で、後発ながら列強の仲間入りを果たしたとして日英同盟(1902)を結び、またロシアは義和団抑圧を名目として旧満州に進出。日本は自らの思惑の先手を取られた形で、これが「日露戦争」(1904-05)の誘因となっていく。

 西太后の支配する清国は、列強による軍事的圧迫、一方で内乱状態を抱えて、衰退するばかり。清朝を打倒して「中華民国」建立をめざす孫文は、ハワイで興中会を組織、広州で最初の挙兵をするも失敗(1895)、日本などに亡命して留学生、華僑らによる中国革命同盟会を東京で設立(1905)する。

 いよいよ「辛亥革命」(1911)が成功して、中華民国を設立して臨時大総統に就任(1912)するが、北洋軍閥の袁世凱に妥協して大総統の座を譲る。そして、第2革命(1913)に失敗して袁世凱に追われる。再び日本に亡命して「中華革命党(のちの中国国民党)」(1914)を組織。その後、孫文らは北洋軍閥の袁世凱と対立、孫没後は汪兆銘、ついで蒋介石による広州国民政府を樹立して、北京の段祺瑞、張作霖ら軍閥政権と争う。さらに「第1次国共合作」(1924)、そしてその破綻へと進むのだが、本論から遠ざかるので、これ以降は省略しよう。

≪日本の状況≫ 孫文の辛亥革命成功は、長期に及んだ清国(宣統帝・溥儀)が倒れたということ。そして、その1912年は、日本では明治天皇が没し、大正時代に入った同じ年だった。日本は、先に触れたように、日清戦争、日露戦争に勝つと、西欧列強に追いつこうと、中国大陸への軍事的な進出に集中していく。

 この状態に至るまでには、日本は富国強兵・脱亜入欧の構えで、大日本帝国憲法公布(1889)、翌年の第1回「帝国議会」発足、朝鮮出兵の決定(1894)、翌年の閔妃殺害など、内外で大陸進出の態勢を固めていった。そのうえ日清、日露戦争の勝利は、国力以上に過大な自信と相手国への蔑視を呼び起こし、国民もその雰囲気に踊らされていった。

 さらに、10年ごとの戦争が第1次世界大戦(1914-15)につながると、日本はドイツに宣戦布告して参戦する。ドイツの握る中国・山東半島の青島を確保するなど勢いに乗る日本は、大戦下にあって、中華民国の袁世凱総統に対して「対華21ヵ条」要求を突きつける(1915)。この要求は、かなり理不尽な内容ながら、5ヵ月後の日本側の最後通牒で飲むことになる。当然のように、中国国民は激しく反日、排日運動に走る。

 このことが、在日の中国留学生を母国に引き戻し、一層反日感情を募らせることになっていく。このような激動下で、急増してきた清国留学生は短期間に、激減していった。折角の留学は政治に翻弄され、信頼のない一過的な現象に終わった。だが、若者たちが日本で得た知識や経験は、その後の歴史の中で長く影響を及ぼすことになる。

≪留学のきっかけ≫ 中国と言えば、日本ばかりでなく、アジア周辺国では古代から、その先進的な文化を吸収するための留学生の送り込み先だった。
 しかし、日清戦争に敗退すると、「近くてコストが安い、先進国に学んでいる、両国の文字や文化が近い」(同文・路近・費省・時短)などの理由から、『日本に学べ』という空気が高まる。近代化を進めたい末期清国は、先行的に、在日の清国公使裕庚が東京の公使館内に留学生を集めて「東文学堂」を開き、通訳養成の狙いもあって、留学生教育に乗り出す。1882年から3年制で12人が卒業したが、これは1894年の日清開戦で閉鎖となる。

 留学が本格化するのは、この日清戦争の終結後からだった。
 戦後に復帰した公使の裕庚は、外相陸奥宗光、文相西園寺公望に留学生の受け入れを頼む。洋務運動を推進した開明派官僚の張之洞も来日、受け入れの要請に動いた。彼は日本留学を奨励して、100万部のベストセラーと言われた『勧学篇』(1898)の筆者でもあった。
 そこで、嘉納治五郎による学校設立の動きになるのだが、それは後段に譲ろう。

 1896年最初の留学生は、13人(のち補欠1人参加)。
 さねとう・けいしゅう(以下実藤恵秀)著の『中国留学生史談』によると、「1898年には18名、1899年には100名を突破、1901年には全留学生名簿ができ、280余名となった。1902年には呉汝綸(曽国藩、李鴻章一門の教育者)の教育視察などがあって留学生数500となり、1903(明治36)年には1000名、1904年には1,300名、1905年には科挙の制度廃止ということと日本の評判の高まりから急に大増加を見せた。1万といい2万といい、3万という記録もあるが、たしかなところは8,000余名というところであろう」という。いずれにせよ、短期間の大ブームだったのだ。 

 ただ、留学生たちには不満もあった。①食べものの違い、②日中言語や文化の違い、③辮髪などへの軽侮や差別、④西洋文化礼賛の風潮への疑問、あるいは⑤清朝を握る満州人と民族の大半を占める漢人との間の相克、といった問題を抱えており、いたたまれずに、また困窮のために帰国した者も少なくなかったという。

 酒井順一郎は『清国人日本留学生の言語文化接触―相互誤解の日本文化交流』の著書で、留学生を ①官僚志向型 ②国家近代化型 ③市民生活堪能型 ④民間志向上昇型 に4分類する。①については、清国は末期とはいえ官僚優位の世界に入ろうという者、②は新たな中国建国に夢を託す者、③はいまも同様で学歴を得ながら日本を楽しもうという者、④は民間での仕事につき裕福に暮らしたいという者、ということだろうか。

 ただ酒井は、当時母国から亡命したり、革命運動に没頭したりする学生らは、「留学」の範疇から外している。
 それでも、「学問」のための留学にとどまることなく、その後の中国建設に加わり、政治、経済、教育、文化などでリーダーシップをとるものを多く輩出したこと、また日本の軍事教育を受けて革命を指導した軍人も多かったことも事実だった。ともあれ、交流の成果だろう。

≪留学衰退の背景≫ 大きな視点で見れば、衰退期の清国は、外では帝国主義列強から軍事力を持って迫られ、内では、この満洲人の長期国家の行き詰まりに対して多数の漢民族の不満が追い詰めていく、という構図だった。だが、再生に向けて新知識、新技術を身につけようと留学する相手国日本は、一部の本音からの中国支援派を別とすれば、大半は諸列強に追いついて大陸進出を果そうとの期待を次第に強めており、外交力は二の次にし、伸張した軍事力の自信から、混迷を重ねる清国や朝鮮などを蔑視する風潮が、国民のあいだにも高まっていた。為政者の誤りに気付かず、便乗して付和雷同する国民は利用しやすかったのだ。

 また、中国側からすれば、母国では優秀なレベルにある、誇りの高い若者たちが、母国の権力から亡命者、革命家の集団として危険視されながらも、祖国の新時代に立ち向かうために学ぼうとして、侵略に取り組もうとする国、蔑視しがちな国に留学するのだから、いつ問題が起きても不思議ではない。

 先にも触れたが、本国では義和団事件が発生(1900・明治33)して大混乱を招くなか、日本など列強8ヵ国連合が軍事的に進出し、清国は列強に宣戦布告するが、かえって列強の権益を強める結果になった(北清事変)。このころ、留学生は280余人を超える程度だったが、1902(同35)年以降に公費、私費の留学生が急増していった。

 そうなると、問題はあちこちで発生する。紛糾を招いた大きなケースを見ておこう。

① 呉孫事件: 1902年7月、陸軍士官学校入学前の予備校的な役割を持つ成城学校で、混乱が起こる。清国の駐日本公使の蔡鈞が、私費留学生9人について同校への入学に必要な推薦状を出さないことから、弘文学院の留学生呉敬恒(のち孫文と行動したあと、国民党右派として蒋介石のもとに)、孫揆均たちが強硬に抗議した。しかし、紛糾の結果、2人は逮捕され、本国に強制送還された。この事件の波紋は数ヵ月に及び、留学生のありようへの関心を高めることになった。この結果、軍人志望の留学生を受け入れるために、振武学校が設けられるが、それについては後述しよう。
 この事件の背景には、清国政府が、留学生たちの動向は清国打倒・批判の動きにつながる、として強く警戒したことがある。

② 清国留学生取締規則問題: 1905年は、日露戦争で日本が勝利し、ロシアの後退や関東州租借など大陸進出に大きな布石を打つ。在日の留学生たちの革命気運の動きを食い止めたい清国政府は日本の文部省に働きかけ、同省は A.留学生の入学時には公使館の紹介状が必要 B.受け入れ学校は寄宿舎、下宿など校外での取り締まりを行う C.性行不良による他校退学者の入学を認めない、などの規則を設けた。
 これを知った留学生たちは、留学生会館を中心に抗議活動を展開、弘文学院など多数の学校で同盟休校を起し、2,000人余が一斉に帰国した。秋瑾の学ぶ実践女学校(下田歌子校長)はじめ女子美術、共立、三輪田などの学校でも女子留学生大会が開かれ、弘文学院生の陳天華は、朝日新聞の『支那人は放縦卑劣』との記事に怒って、大森海岸で入水自殺して抗議するなど、大きく社会問題化した。

③ 速成科の是非: 留学生の日本での教育の期間は概して短く、半年から1年間が多かった。後述するが、早稲田大学は概して3年程度の期間が望ましいとした学科を設置したが、弘文学院、法政大学など多くは速成科中心だった。状況からすれば、一日も早い修得で本国に帰って、ということだが、本格的に学問を身につけるというなら、それなりの歳月が必要、というジレンマがあった。一般的にはニーズは速成にあり、弘文学院は速成科を廃止するなどしたが、1909年、ついには廃校の道を選ぶことになった。

 また、当初留学生受け入れに動いた、前年まで首相だった西園寺公望までが、中国人受け入れを望む欧米諸国への留学が望ましい、と変心する、という影響もあった。
 学校経営上は長期よりも短期の学生が多い方が財政上は好ましく、経済的に苦しい留学生たちも短期を望むこともあって、次第に留学生が減っていくことになった。直轄の官費留学生の受け入れ校が07年には、東京高師、山口商業など5校だけに絞られた。

 また、1905年の第2次日韓協約で、日本が韓国の外交権を握り、ソウル(京城)駐在の初代総監に伊藤博文が就任すると、「中国を第二の韓国にするな」という反日的な空気が本国や留学生の間に広がり始めた。
 そして、1911年の辛亥革命で、翌年に清国に代わる中華民国が生まれて、孫文が臨時大総統の座に就くと、留学生たちの多くが帰国。1914年に第1次世界大戦が勃発、翌15年に日本政府が21ヵ条要求を突きつけると、「国恥記念日」、あるいは五・四運動として反日感情はさらに強まり、日本の姿勢を良しとしない状況が強まっていった。留学生は減っていく一方だった。そのため、この年の留学生は2,000人ほどだったという。

≪建国の犠牲者相次ぐ≫ 留学生たちは、混乱し衰退する祖国を再建しようと、それぞれの立場で武装蜂起に参加した。だが、その犠牲も大きかった。1911年の辛亥革命の一環で、黄興、胡漢民らの指導で、反清国の立場で広州に蜂起した兵士らで犠牲になったのは72人(86人との説も)、このうち千葉医大、早大、慶大生ら8人が日本留学生だった(「黄花崗72烈士」と言われる)。
 また、同じように同年、武昌で決起した兵士らで戦死した留学生は、士官学校出22、東斌学校3、振武、成城、弘文、京大、帝大、明大など各1、計31人に上った。

 ほかに反対勢力の暗殺や処刑などで、彭湃、廖仲愷、宋教仁(早大)、秋瑾(弘文)、美登選、楊宇霆(振武学校)唐成章らが倒れている。
 混迷の時代に、祖国を考える。死を覚悟しての挑戦だった。

 以下、新宿区内のあった教育施設を中心に、当時の取り組みなどを見ていきたい。

◆◆ Ⅱ【新宿区内の留学生受け入れの学校】

●【弘(宏)文学院】 <新宿区西五軒町13(当時34)番地・現住友不動産飯田橋ビル3号館>

≪7,000人の受け入れ≫ 西園寺公望らから留学生受け入れの要請を受けたのは、嘉納治五郎。当時、東京高等師範学校校長を務めていた。すでに、柔道の道を拓き、1882年に講道館を開く一方、英語中心の学校「弘文館」を神田に設けていた。

 1896年の最初の留学生14人は、近くに用意された寄宿舎に入り、日本語と各教科を学び、3年ののち残った7人が卒業、うち3人が東京専門学校(現早大)に進んだ。実藤恵秀によると、成績のトップだった唐宝鍔は、長崎領事館に勤務のあと、東京専門学校に学び、科挙の試験に合格、官職につき、また弁護士会長となった。唐宝鍔とともに日本語を学ぶための本『東語正規』を記した戢翼翬は、嘉納の学校から東京専門学校に進み、日本語の訳書を出版する会社を興し、後続の若者に影響をもたらした。ほかに、日本語を生かして、通訳や判事として活動した人々がいた、という。

 嘉納は1899年に私塾「亦楽(えきらく)書院」を神田に開き、校長には「留学生教育の父」と言われるほど、彼らの教育に尽くした松本亀次郎が就任した。松本はのちに、「東亜高等予備学校」を設けている(後述)。この命名は「有朋自遠方来、不亦楽乎」による。

 また、校舎が手狭になり、外相小村寿太郎に拡張を勧められたこともあって、「弘文(1906年から宏文)学院」を1901年(翌年4月「私立学校」認可)に開校した。これは、早稲田にも近い牛込の西五軒町に3,000坪の土地、建坪122坪の家屋を借りて開学したもので、官費留学生が中心だった。このころから留学生の数は増える一方で、5ヵ所に分校舎を開いた。

≪多彩な活躍≫ 留学生のピークは1905、06年ころで、05年の留学生総数は8,600余名だったという。翌06年には、総数2万とも3万とも言われる。
 酒井順一郎の調べによると、1906年の卒業生の数は、宏文学院3,810人、東京同文書院864人、成城学校168人にのぼった。

 05年の弘文学院での内訳を見ると、在学1ヵ月が106人、6ヵ月~1年が1128名、それ以上の在学者が536名、というように短期入学、つまり速成教育が多くを占めていた。06年の在校生は1,615人だった。
 学院は09年に閉校となるが、実質的に留学生を受け入れた02年から閉校までの7年間に、入学生は7,192人、卒業生では3,810人に及んだ。

 この学院生だった人々は、その後の中華人民共和国(台湾を含む)の建国や文化、学術など各方面にわたって、多才な活躍を見せている。

 まず1905年、現在の中国建国に向けて、孫文のリードする「中国(革命)同盟会」に同調した華興会<湖南>の黄興(革命軍陸軍総長兼参謀長)や宋教仁(後述)、孫文と同じ興中会<広東>の胡漢民(中国国民党長老)、陳天華(清国留学生取り締まりに抗議し自殺)、光復会<浙江>の女性革命家として著名になった秋瑾(清軍に捕まり処刑)、さらに中国同盟会に参加した李書城(軍幹部を経て中国建国後農業部長)、林伯渠(長征後に中央政治局委員)たちがいた。

 著名な作家魯迅(周樹人)は学院に2年在学のあと、医学を求めて東北大に。学院から東京高師を卒業し北京大の教授になった楊昌済は毛沢東の2番目の妻楊開慧の父親。李四光は地質学者として大慶油田を開発した。魯迅に親しく東京高師に進んだ文人画の陳師曾、歴史学や語学者の陳寅恪は兄弟。許寿裳は魯迅の親友で、台湾文化の再建に尽力、北京大教授になった。胡元倓は長沙明徳学堂校長。盧弼は史学者で、『三国志集解』などを記した。言語学者になった呉敬恒は、成城学校での私費留学生受け入れ拒否問題で座り込むなどし、蒋介石のもとで抗日運動に参加したが、政治関係の要職は断り続けた。

 異色は法政、早大にも学んだ楊度で、留日学生会館の幹事長を務めたが、立憲君主主義の立場から清朝サイドの保皇派、さらに反孫文の袁世凱の腹心となったあと、中国共産党に加入した。国民党長老の呉敬恒は、中国同盟会から蒋介石系に。また陳介は、袁世凱らが北京に開いた国民党政府下で外交部長、その後ドイツ大使などを務めた。

 范源濂は大同学校、東京高師にも学び、3回の教育総長、北京師範学校長を務めた。高歩瀛(北京大漢文科教授)、厲家福(日華医師連合会代表)、陳実泉(北京高等師範校長)らもいる。

≪衰退から閉校へ≫ 弘文学院で教える側の教職員も数多く、嘉納が校長を務める東京高師、付属中学校のほか、他大学からも教授や講師を招き、その数は06年までに380名に上った、という(平田諭治『嘉納治五郎の留学生教育を再考する』筑波大学「教育論集」)。

 そのなかには、今日の創価学会の前身・創価教育学会を興し、治安維持法で獄死した牧口常三郎がいて、3年ほど地理学を教えていた。

 嘉納は学院開校後の1902年7月から10月まで清国を訪問、各地で教育事情を視察し、張之洞ら留学推進の人々を中心に会談を重ねている。当時の記録によると、嘉納は清国内の緩慢な旧思想と過敏な新思想の衝突は内乱・滅亡を招く、漸進主義がいい、としている。そして、当時次第に増えていた日本留学生の短期速成型の教育に対して、根底のある教育は速成ではなく、普通教育から専門教育に進み、深淵な研究をするようにすべきだ、との見解を述べている。
 先に触れたように、留学生をめぐる政治的状況による影響が大きいが、一方で本格的に学問に取り組む風潮が弱く、速成的な留学の事態の進行が、清国留学の衰退に結びついた、と言えるようだ。加えて、アメリカからの対日留学に対する否定的キャンペーンなどの影響で、志願者が減りだして、学校経営が苦しくなったこともある。
 閉校の09年の最後の卒業生は、わずか94人に減っていた。
 また、早大の留学部、経緯学堂なども相次いで閉校となった。

●【成城学校】 <何ヵ所かの移転のあと、新宿区原町3-87・現在地>

≪軍事学校として≫ 成城学校は、1885(明治18)年に文武講習館として設立された。陸軍と宮内庁の強力なバックアップのもとで優れた指揮官養成のため、陸軍士官学校、同幼年学校を志願する若者たち、陸軍武学生の予備門としての機能を持っていた。第4代校長は川上操六、第7代児玉源太郎と、明治期の陸軍の要人を据えて発展。後年、宇垣一成、南次郎、寺内寿一、松井石根ら15人の陸軍大将を輩出、創立25年の明治末には卒業生2,500人のうち陸海軍に1,600人余を送り出した。

 日清、日露、第1次世界大戦での卒業生兵士の犠牲者は221人に上った。
 また、紀元2600(昭和15)年の陸軍幼年学校の合格者は、全国トップの68人。2位の東京府立4中(現戸山高)28人、3位の熊本濟々黌25人、岡山1中(現岡山朝日高)19人などを大きく抜いていた。

 だが、学生数には時代の動きを受けて、波があった。たとえば、中央に陸軍幼年学校ができ(1887)、その後各地6ヵ所に同様の幼年学校が設置(1896)されると減少した。
 海外からは韓国、タイからの留学生受け入れが最初で、清国からは1899(明治32)年から。その後12年間に計554人が卒業した。しかし、トラブルなり両国関係の緊張なりがあると減少した。たとえば、北清事変(1900)の際には新入留学生がストップ、02年の呉孫事件(先述)のあと救済策として振武学校(後述)が開設されると、軍人志望の学生が減って、代わりに文科の留学生30人を取り始めた。辛亥革命(1911)が起きると、退学78人、入学が23人に。13年の留学生は157人だったが、15年に対華21ヵ条要求が出されると、怒りの留学生は帰国が続き、在校生はわずか14人に、翌年は入学3人、在学4人といった有様。さらに、成城学校は1931年に北多摩郡千歳村(現世田谷区)に留学部校舎を竣工したが、満州事変でほとんどの留学生が帰国、即閉鎖になった。

 留学生では、呉玉章は中国同盟会入りして中国青年共産党結成、中国建国後は人民大学初代学長、全人代四川代表などを務めた。陶成章は光復会から中国同盟会に入り活動するが、暗殺される。また、早大を卒業した彭湃は農民運動を続けたが、スパイの密告で官憲に銃殺された。以上、この項の多くは同校刊行の『成城学校百年』(昭和60年)に依った。

●【振武学校】 <新宿区若松町2(当時33番地)にあり、現在は東京女子医科大学用地に>

≪成城事件の産物≫ 先に、成城学校への私学留学生入学拒否問題に端を発した呉孫事件(1902)を機に生まれたのが、この国立の軍事学校。
 清国からの学生が士官志望の道を断たれるべきではない、と動いたのが福島安正少将(のち大将)で、彼は清国公使間の勤務歴があり、日清戦争、義和団事件にも司令官などで派遣されたことがある。東亜同文会が斡旋に立ち、1903年に政府と清国側の協定によって、参謀本部が設立したものだ。福島が、反対する山県有朋を押し切った、という。

 戦前、いまの新宿区内には軍事関係の施設が多く置かれていた。いま防衛省などのある本村町(市ヶ谷台)には、戦前の陸軍省、大本営、参謀本部などの中枢機能が置かれ、陸軍士官学校、中央の幼年学校なども併設されていた。

 市ヶ谷台は、もと旧尾張徳川家の上屋敷の跡地。もうひとつの同家の下屋敷と大庭園があった戸山町(戸山ヵ原)も、やはり陸軍施設が集まっていた。ここには今も、陸軍第一病院を引き継いだ形の国立国際医療研究センター病院があるが、かつては陸軍医学校、陸軍戸山学校、同東京幼年学校(予科)などがあった。新宿区はとにかく多くの旧軍施設が存在していた。

 振武学校が、この近くに置かれたのも、軍事教育の機関として隣接の便利な場所が選ばれたのだろう。毎年ほぼ100人が清国から派遣され、卒業生は、1904年が49人、05年121人、06年202人だった。

≪建国の人士輩出≫ 今日の中国事情からすると、長い内戦の時期と権力闘争の複雑さは極めてわかりにくい。ただ、振武学校に学んだ人々が、その信条や立場、あるいは遭遇した政情などによって、かなり複雑な動きを見せ、ときに若い命を奪われるケースも少なくなかった。その事情はここでは触れないが、そうした建国に向けた動きに参加した人物は非常に多いことを記しておきたい。

 中国共産党を発起した陳独秀(成城を経て当校、東京高師、早大にも)、国民政府総統を経て、最後は台湾にこもらざるを得なかった蒋介石、蒋とほぼ行動をともにした張群、何応欽、黄郛、その系列関係で銃殺された陸士出の姜登選、楊宇霆がいた。

 学校の成立上、陸軍士官学校に進んだものが多い。成城、振武を経た蔡鍔、振武からの唐継尭、李烈鈞、さらに早大に進んだ程潜(3人同期生)、法政大に進んだ王揖唐、ほかに孫伝芳、何成浚、閻錫山、尹昌衡、熙洽、臧式毅らがいる。

 変わり種では、中国人民大学校長になった吴玉章、明大、早大を経て劇作家になった欧陽予倩、日本人の母から生まれ、大同学校、早大(中退)後に詩文画に才能を示した文人の蘇曼殊らがいる。

 彼らは帰国後の各派の抗争のなかでそれぞれ重要なポジションにあったが、孫文、袁世凱、蒋介石に就いた者、中華人民共和国建国の筋を通した者、あるいは続く戦乱のなかで立場を移した者などさまざまだが、紙幅の関係で個々には触れない。

●【成女学校】 <麹町から新宿区富久町7-30(当時20番地)に移転、現在の成女学園>

≪女子留学生を受け入れ≫ 1899(明治32)年、初代第2高校(仙台)校長だった吉村寅太郎(尊皇攘夷の天誅組とは別人)らが創立した。 日露戦争終結翌年の1906(明治39)年、新校舎建設の資金調達に苦しみながらも、資金提供のめどが立って、同年末に落成、その後3代目校長に校主だった宮田修が就任した。

 1906年は清国留学のピークの時期で、宮田によると、清国留学生の学生会館から女子学生受け入れの要請があり、12人が就学した。しかし、先述したように、日清両国の関係悪化や留学生のありようなどをめぐる対立などで、「僅か1年半程しか続かなかった」。06年に設けられたのは師範養成科で、翌07年にこの12人が卒業、新たに11人が入学した(『成女九十年』1989年刊)。

≪校名の孫文の額≫ 同校には、校名の由来である『坤道成女』と書かれた孫文の額が残されている。これは<乾道成男>の対語で、乾道即ち天の道は男性の基本、坤道即ち地の道は女性の基本、といった意味だという。額には『民国五年』(1916・大正5)ともあり、留学受け入れの時期とは関係はないようだ。

 では、この学校と孫文の関わりはなんだろうか。
 表記された前年の1915年は、第1次世界大戦のさなかで、しかも日本政府が対華21ヵ条の要求を突き付け、袁世凱政権がこれを受け入れたほか、彼が辛亥革命で得た三民主義の成果を切り捨てて、帝政復活・国会停止・臨時憲法廃棄を打ち出したことなどで、国外で排日、国内で反袁の機運が高まった時期である。16年には帝政を取り消し、袁世凱自身が死去するという、混迷のさなかだった。

 孫文についてみると、このころは日本に亡命中で、49歳の彼は15年10月に東京で、22歳の宋慶齢と結婚、またその直後にインドの革命家ラス・ビハリ・ボースを新宿・中村屋相馬愛藏邸に匿うことに尽力している。彼が反袁世凱活動の指揮のために上海に帰国したのはその約半年後の16年4月、袁世凱の死の直前だった。したがって、この額は結婚前年のものである。

 ちなみに、孫文はほかにも、1913(大正2)年の来日時に書いたと思われる額が残されている。九大総長室の『学道愛人』、三池工高の『開物成務』というものだ。
 このような時代に、どんな経過で彼の額が残されたのか。
 関与した人物、その事情など、日本に関わった孫文を読み取り、面白く、また歴史的な背景を探る良い手掛かりになる。そのような思いから、同校に尋ねたのだが、「わからない」の返事のみ。

 それでも、調べると、わかることもある。成女学校に女子留学生が入学したころ、漢文の授業を担当していたのが宋教仁なる人物。彼は、黄興とともに華興会を組織、革命の旗揚げに失敗して日本に亡命。宮崎滔天から孫文を紹介され、孫文のまとめた中国革命同盟会に参加、よく知る間柄だった。宋は亡命時に、新宿・十二社の寒香園、下戸塚、東五軒町などに住み、法政、早稲田大で学んでいた関係で、孫文に依頼して問題の額が生まれた、と思われる。
 宋は帰国後、辛亥革命のあと、南京臨時政府の法制院総裁を務め、同盟会を国民党に改組、反袁世凱の中心人物として袁勢力を選挙で破り、圧勝する。袁はこうした状況から上海駅に刺客を送り、31歳の宋を暗殺した。そして、この事件への怒りが、第2革命となっている。
 ただ、孫文は軍事力と総統制を主張、宋は「法」と議院内閣制を説く立場で、政治の対立があったといわれる。

●【東京大同学校】 <現新宿区東五軒町4(当時35番地)・いまのマンション・マストクレリアン神楽坂あたり>
●【東京同文書院】 <当初、現新宿区山吹町で発足、その後同区下落合(当時豊多摩郡落合村下落合)に>

≪東京大同学校≫ 西太后のクーデター(戊戌政変・1898年)で唐有為とともに日本に亡命した梁啓超が98年に、横浜の華僑らの援助で牛込区東五軒町に開いた学校。先行していた横浜大同学校の馮自由ら20人ほどが転学。排満州論、革命志向が強く、1900年の義和団事件を機に、亡命組の唐才常のもとで学生のうち何人かが本国での決起に参加しようとして捕まり、殺されている。この事件で、学生の減った学校は経営難に陥った。

 実藤恵秀の『中国人日本留学史』によると、この状況を受けて、東京大同学校の校名を変更、1901年4月に「東亜商業学校」が開校式をあげて、来賓に大隈重信、近衛篤麿らが列席、「校長は従来どおり犬養毅」としている。実藤は一方で時期を示さず、東京大同学校はのちに小石川伝通院に「清華学校」と改称・移転、犬養毅が校長、東京同文書院発足にも関係した柏原文太郎と銭恂(留学生派遣に努めた張之洞のもとにあって東京専門学校留学などにも尽力。早大図書館に4,000冊の蔵書を寄付)が監督を務めた、と記している。
 なお、1923(大正2)年に開校した「東亜商業学校」(現在は東亜学園高校と改称して存続)との詳細な関係はわからない。

≪東京同文書院≫ この学校は1899年10月(『東亜同文会史』内にも1900、02年説がある)、東亜同文会(1898年発足・近衛篤麿会長)によって設置された。同校は当初、旧牛込区山吹町で発足、赤坂檜町、小石川目白台(十善病院)などを経て、1905年に旧豊多摩郡落合村下落合の3,000坪の土地に新校舎を持った。この土地は、東亜同文会会長の近衛篤麿から提供されたもの。

 同校は、日中関係の悪化に伴い、留学生総引き揚げの事態に遭い、1922(大正11)年に事実上の廃校となる。それまでの23年間に、中国24省の3,000人近い中国人学生を受け入れ、874人が2年間の寄宿舎住まいを経て卒業している。

 日露戦争勝利後の1908年、本国や留学生たちの反日感情の高まるなかで、学生が急激に減少、その補てん策として、同会は同校内に日本人向けの「目白中学校」を併置した(目白中は18年後に練馬、杉並に移転、いまは中央大学杉並高校になっている)。

 ちなみに、この中学校の3代目校長は、やはり柏原文太郎である。これは東京同文書院閉校の際に、同会が同書院と目白中学校の経営を柏原個人に移管したことによる(『東亜同文会史』)。柏原は東京専門学校出の教育家、社会事業家で、のちに衆院議員になった。

≪東亜同文会とは≫ 近代化する中国と戦前の日本の関係を見るとき、やはりこの会の存在に触れないわけにはいかない。この会は、日本が優越的な位置を得た日清戦争後の1898(明治32)年に、近衛篤麿(学習院院長、貴族院議長、1904没)を会長として発足した。
 もとは、孫文らを支援する犬養毅、宮崎滔天らの「東亜会」(陸羯南、三宅雪嶺、志賀重昂、内田良平らも)、近衛篤麿中心の「同文会」、すでに日清貿易研究所を開いていた「亜細亜協会」(興亜会・長岡護美、榎本武揚、岸田吟香、荒尾精ら)など、アジア主義の諸団体が合流して結成された。

 「支那保全」を掲げ、当初は清国を容認する立場だったため、革命を支援する東亜会系の顔ぶれは次第に離れていく。また、「中国、朝鮮の保護」をうたう一方で、大陸での権益拡大を狙い、外務省からの資金援助、軍部からの情報提供などを受けて、いろいろな思惑も絡んでいた。さらにロシアが義和団の乱を格好の機会として満洲に進出する事態に、日本側にも大陸に出る思いがあり、ロシアに強い反発を示した。こうした清国と革命的勢力との対立、さらに長期的な内戦と全土の混乱の一方で、日本は美名の建前よりも実利的な打算が台頭していく。その流れが日露戦争(1904、5)につながり、日本の帝国主義政策がより一層強められていく。

 東亜同文会はこうした背景のなか、その狙いはともあれ、上海に「東亜同文書院」として日本の若者たちに勉学の場を設け、東京に留学生のための「東京同文書院」を開くほか、中朝双方で十数校の現地向けの学校を設けた。また、北里柴三郎らのもとに「東亜同文医会」も発足させている。東亜同文会は第2次世界大戦終結の翌年1946年に解散した。

●【早稲田大学清国留学生部】 <新宿区戸塚町1-104・現在地>

 早大は1899(明治32)年ころから留学生の受け入れを始めている。
 1905年、東京専門学校から早稲田大学に改称した年に、清国留学生部を設けて本格的な受け入れを始めた。開設前には学監の高田早苗、教授で教務主任の青柳篤恒が中国を訪ね、要人たちに会って受け入れ態勢を検討している。
 大学近くの天祖神社そば(鶴巻町)に約300坪、2階建て、44室の寄宿舎を設けるなど、本格的な取り組みだった。

 青柳は、当時多かった短期速成の教育を排し、予科、本科3年制を目標とした。しかし、母国の混迷と日本側の強硬策のなかで革命・変革を求める学生も多く、また学費の苦労、多様な向学心からの転出などもあり、満期での卒業は厳しかった。入学は、1905年762人、07年850人、08年394人、09年242人。05年から閉部の10年までの入学生は約2,000人だったが、卒業はその56%にとどまった。

 中国での早大の名はもっともよく知られ、中国要人が早大で講演するなど交流は盛んで、2017年度の中国留学生は2,800人余に上る。

 早大に学んだ人脈を見ておこう。
 著名なのは中国共産党創始の陳独秀、李大釗、彭湃、それに『共産党宣言』を中国語に翻訳した陳望道(復旦大学長)、成女学校の項で触れた宋教仁がいる。宋は暗殺されたが、同窓だった廖仲愷が第2革命に取り組んだ。また、弘文学院留学第1号の唐宝鍔、戢翼翬がいる。陳溥賢(ジャーナリスト)、李士偉(民国中央銀行総裁)、金邦平(段祺瑞政権の農商総長)、張継(反共右派の国民党西山会議派、参議院議長、立法院長も)、汪栄宝(駐日公使)、陸宗輿(清国、袁、汪政権などで要職に)、江庸(法律家、司法総長、駐日留学生監督、全人代代表も)、魯迅の友人である銭玄同(文字改革の国語学者、北京師範大教授)、章士釗(民国後北京大校長、第2革命で日本亡命、教育総長も)、林長民(法制局長、司法総長)蔡培(汪兆銘時の南京市長、駐日公使)など、政治的な立場はそれぞれだが、多士済々である。

◆◆ Ⅲ【新宿区周辺で留学生を受け入れた学校】

*日華学堂: 1898年、仏教学者でエスペランティストの高楠順次郎・東京帝大教授が、本郷西片町に創設。東京外国語学校(現東京外国語大学)の校長も兼ねた。成城学校が軍事方面の留学生を受け入れたので、当校は文科系の予備校とした。校長の宝閣善教をはじめ西本願寺出身者らが中心。高楠は2年後に日本橋簡易商業夜学校(現中央学院大学)を設ける。日華学堂がいつ中止となったかは不明。
 最初の入学は4人。出身者に、章宗祥(袁世凱のもとの司法総長、ほかに駐日全権公使。五四運動時に攻撃を受ける)、早大に進んだ金邦平らがいる。

*東亜高等予備学校: 弘文学院で教えた松本亀次郎は北京で教え、帰国後は東京府立1中の教壇に立ったが、1913年8月に辞任、留学生指導に専念した。辛亥革命後、袁世凱派による宋教仁暗殺が引き金になって、13年に第2革命が起き、この革命の失敗で日本への亡命者が増大、収容しきれないため、松本は14年1月に神田区中猿楽町(現千代田区神田神保町2-2)に校舎を新築し、この校名とした。

 1931(昭和6)年の満州事変(柳条溝事件が契機)、翌年の上海事変が起きて一斉に帰国した学生が、32年秋ごろから戻り始めて、33年末には1,059人にまで増え、35年秋には新入生が週に1,000人内外、との報道記事がある。来日の新旧学生は全体で6,000から6,500人に及ぶ、としている。実藤恵秀は『中国人日本留学史』で、この原因について、満洲事変後の日本研究熱の高まり、中国側にとっての為替相場の好転を挙げている。同時に、新満洲国での就職の期待よりも、「抗日救国」のために、まず日本を見極めようとの意味が、中国発行の新聞雑誌から読み取れる、という。当校の記録には、35年12月には1,980人という創立以来の記録で、申し込みを停止するほどだった。これに伴い、神田を中心に私塾、講習会風の日本語の学院が多数登場している。

 なお、この学校の跡地は神田神保町の愛全公園付近で、ここには『周恩来ここに学ぶ』の碑が建っている。

*実践女学校: 下田歌子が麹町に開校、のちの実践女子学園。1901年に清国女性が1人入学、翌年5、6人となり、05年には20人ほどが入学、清国留学生部を設けた。09年には55人中30人が寄宿舎に入り、19人が子持ち、未婚27人だった、という。
 関東大震災前年の1922年まで存続、その卒業生は100人近い、という。刑死した革命派の秋瑾もここに学んでいた。

*経緯学堂: 明治大学が1904年、神田錦町校舎に200人で開校。翌年には1,000人を超え、06年は1,104人。1910年の閉校までに2,862人が入り、1,384人が卒業した。

*法政大学速成科: 法学者、教育家で総長の梅健次郎が1904年に、清国公使・楊枢の賛同のもと、速成科を発足。当初は94人で、05年の卒業は67人。08年までの卒業生は1,070人。1920年に受け入れ中止に。

 出身者には、蒋介石系の汪兆銘、孫文の側近で辛亥革命で活躍した胡漢民、抗日救国運動に取り組み、共和国建国後の最高人民法院長だった沈鈞儒、日本留学生取り締まり法規ができた際に抗議の自殺をした陳天華らがいる。

*東斌学堂: 東京帝大教授、法学者の寺尾亨が1905年に芝公園内に開校。08年まで続く。寺尾は日露戦争推進の『東大七博士意見書』のひとりでアジア主義を説く。孫文の辛亥革命の際には、教授職を辞めて、孫文のもとに駆け付けた。開校のきっかけは、成城学校で私費留学生拒否の事件が起きた際、陸軍をめざす私費留学生の教育のために開いた。最初の学生は160人、06年夏に175人、07年末に321人。 

*志成学校: 立教大学総理ジョージ・タッカーが築地・立教大学内に創設。1907年に学生90人で発足、10年の在学は44人。

*高等警務学堂: 警官、憲兵の養成。神田雉子町に出来、堂長は勘解由小路資承。1906年600余人、翌年200人に減少。1905年創立。

*東京警監学校: 警察、監獄用務のため。谷中真島町に寺尾亨が創設。07年末213人。1906年創立。

*東亜鉄道学校: 1904年、小石川茗荷谷に四川の留学生12人を受け入れ、07年165人。06年に校名変更。土木家・笠井愛次郎校長。熊本市にある開新高等学校の前身は「1904年創立、東亜鉄道学院」としており、関係があったか。笠井は児島湾干拓など各地の土木工事を手掛け、九州鉄道にも関わったことがある。

*湖北鉄路学堂: 湖北人の鉄道要員育成のため。神田三崎町に張之洞経営。学生80人。1906年創立。

*路鉱学堂: 鉄路、鉱務の2科。神田美土代町。湖北省が鉄道建設、鉱山開発などを担う人材を日本に派遣させた。魯迅も江南の路鉱学堂に学んだあと、来日した。

◆◆ Ⅳ【新宿区との関わり】

≪旧居をたどる≫ 新宿区は、明治期以降の牛込、四谷の2区と、豊多摩郡(南豊島、東多摩両郡が合併)から成り、その後に淀橋区が生まれ、戦後にいまの区制になった。
 当時、地価が比較的安く、留学生や外国籍の人たちにとって住みやすかったことが、この地に中国との各種の交流が集中したと思われる。以前、東大東洋文化研究所にいた趙軍氏(現千葉商科大学教授)が新宿区内の中国革命の関係者を調査しており、これに頼りつつ、一部を紹介したい。

≪各氏の新宿区関係の旧居≫
・孫文 ①早稲田鶴巻町523(当時・40番地):近くに住んだ犬養毅の斡旋で、1897年から約1年間住む。鶴巻図書館向かいのマンション街の一帯。ちなみに、孫文が日本に来たのは16回に及ぶという。
 犬養は、松隈内閣発足に伴って辞めた農商務省山林局長・高橋琢也宅(鶴巻町・約700坪)が空き家になっていたので、かなり強引に孫文のために借りた、という。高橋はその後、東京医科大学(新宿6-1-1、当時・東京医学専門学校)を創立(犬養、大隈、原敬、高橋是清、森鴎外、渋沢栄一らが支援)、「学祖」とされ、明2018年が開校100年にあたる。大正期に沖縄県知事、貴族院議員も務めた。
    ②筑土八幡町2-17(当時・20番地):「高野長雄」(高野長英の名にちなむ)名で、1906年10月から住む。黄興、章士釗の家も近い。
・黄興  東五軒町3-22(当時・19番地) 黄興の帰国後に、宋教仁が勤務先の民報社(現新小川町5)に近いことで住む。
・宋教仁 ①西早稲田1-16-20(当時・豊多摩郡戸塚村下戸塚268)
    ②十二社:寒香園にも住んだ記録があるが、時期は不明。成女学校勤務のころか。
・章士釗 若宮町27:若宮八幡宮の筋向いで、黄興来日の際に寄寓。
・梁啓超 東五軒町4(当時・35番地):1899年9月から約3ヵ月間。
・李大釗 西早稲田2-5-2(当時・戸塚町下戸塚517)早大基督教青年会信愛学舎内。1913年来日し、翌年早大入学し政治学を専攻。
・蒋介石 新宿7-26(当時・豊多摩郡大久保村東大久保307):1907年日本留学し、振武学校、陸軍士官学校に通う。植木の豊香園?に下宿も。梅屋庄吉邸で下足番もした。
・周恩来 法政大学総長中村哲によると、周恩来自身が日本留学中に早稲田界隈に住み、法政大学付属高等予備校に通った、との発言をした旨を記している。周は一高、東京高師に合格せず、東亜高等予備学校、明大に通学した、とされているが、十分な記録はない(『周恩来たちの日本留学』王敏著)。留学は1917年9月から19年4月、南開大学入学して五四運動に参加するまでだった。
・宮崎滔天 ①新宿5-5(当時・内藤新宿町番衆町34):1905年熊本の妻子を呼び、四谷区愛住町から転居。革命同盟会機関紙『民報』の発行所でもあった。その後、発行所は現西新宿7-8、百人町1-20-25などへ。
    ②豊島区西池袋2-15-16(当時・北豊島郡高田村巣鴨3626):1914年、黄興の援助で安住の新居を建設した。
・梅屋庄吉 百人町2-23(当時・豊多摩郡大久保町大久保百人町):1914年、孫文と宋慶齢の結婚式の場にもなった。孫文の革命に向けて、資金等の支援を続けた実業家。
・犬養毅 馬場下町35に、1896(明治29)-1919(大正8)まで住む。その3年ほど前から、との記録もある。実測6,000坪だが、地券上は5,300坪になっており、坪50円の買値に不満を漏らす彼の書状がある。もとはこの土地は、江戸末期の奥医師から初代陸軍軍医総監になった松本良順の屋敷で、ここには初めての西洋式の病院が建てられていた。そのあと、別人の所有を経て、犬養の手に。巨樹、山水、銘石、小井戸などがある大庭園だったが、いまは分割されてマンションなどが建ち、味気もない。

≪錯綜する人物の政治行動≫ しばらく留学生と支援した日本人の軌跡を追ってきたが、わからないことが多いままだ。たとえば、革命を志して亡命してきた孫文を、なぜ国粋主義を奉じる玄洋社の頭山満、黒龍会の内田良平らが支援したのか。それは、単なる義侠心なのか、愛国的な決起に同情したのか、のちに多くの大陸浪人を送り込む、その植民地化の火種を植え付けようとしたのか、また、社会・共産主義化する懸念を持たなかったのか。

 犬養毅、大隈重信、西園寺公望らの支援の狙いは、清国なり、代替する新たな統治国家への期待だったのか、あるいは混乱に乗じて大陸に橋頭保を築き、帝国主義的侵略の一助とするためだったのか。さらに、歴史的にいずれ、外交的、政治的責任を問われ、怨念を生むとの懸念はなかったのか。

 また、清国から中華民国へ、さらに孫文たちと袁世凱らの権力闘争に参加したり、時の権力についたり、武力的対抗に走ったり、あるいは急転換を見せたり、といった転変の去就も読み取りにくい。混乱期のことで先の読めない状況である以上、やむを得ないだろうことはわかるが、その分析は難しい。

 原則に基づく者、時々の権力の流れに乗る者、郷党意識に従う者、情的志向の強い者、おのれの判断よりも多数意見に身をゆだねる者・・・・いつの時代にもあるパターンだろうが、混迷の続いた中国ではどうだったのだろうか。
 
 このあたりの状況をつかむきっかけにたどりつきたかったが、それは簡単ではなく、この程度の事実関係を洗うことしかできなかった。これからの課題、宿題だろう。歴史の背景は奥深く、一人ひとりの関わった人間の読み取り方にかかることも多く、また読み取る側の才覚やデータにも関わるので、改めて「歴史」を読み解く難しさに直面した。

        ・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・
 最後に一言。
 現時点に結びつけて考えると、「日本」を体験した中国要人がほとんどいなくなった今、経済効率性が判断の基準になりがちな今、どのように日本と中国の関わりを考えたらいいのだろうか。

 強引な領土問題の対応などの「現実」から考えるのか、「歴史」をベースとして捉えるのか、あるいは国境を超えて引っ越すことのできない前提で長期的な関係を土台とするのか・・・観念的な好悪の情だけは避けるべきだが、日中関係を「点」でとらえる見方が強まる中で、もう一度双方の持ちつ持たれつの相互関係について、過去・未来それぞれの時代のありようを考えてみたい。

 双方の軍事的強化策や挑発が強まり、また歴史的な怨念が続くばかりか、民間の交流の狭まるなかで、「対話」を断つ包囲網外交や形式的握手の交わりでいいのか、建前と実態の異なる立国路線でいいのか、そのようなことを感じざるをえない。

 また日本は、立地しているアジアでの身構えが弱く、いわゆる日米同盟への依存度を高めすぎていないか、その点も長期的に考えてみたほうがいい。

 そして、遅れがちな国際語としての英語教育を工夫、強化しなければならないが、併せて日本の安全面、あるいは食糧など経済的依存関係、中国語圏ともいえるアジア諸国との将来的な関わりなどから見て、「中国語」教育の範囲の拡大に、政府や経済界のみならず、国民的な関心をもっともっと持つべきではないだろうか。

 (元朝日新聞政治部長・オルタ編集委員)

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