【視点】

NATO空爆とコソボの悲劇

山崎 洋

NATO空爆の慰霊祭

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 2023年3月24日。筆者の住むセルビアでは、各地で慰霊祭が行われた。1999年、NATO(北大西洋条約機構)の空爆が開始された日である。78日間続いた空爆で、民間人の死者は2500人を超えると見積もられている。
 慰霊祭の最大の集会はヴーチッチ大統領とポリフィリエ・セルビア正教会総主教の臨席のもと、北部の町ソンボルで開かれた。この町はクロアチアとハンガリーの国境に近く、最初のミサイル攻撃を受け、最初の犠牲者を出した。NATOの占領下に独立を宣言したコソボ地方でも、グラチャニツァの町(編集事務局注:コソボの首都プリシュティナから5キロ余りの世界遺産の修道院のある町)で、残ったセルビア系住民による慰霊祭があった。24年後の今も傷は癒えず、コソボ問題やウクライナ情勢をめぐり、欧米諸国のセルビアに対する圧力が弱まる気配はない。「赦す、忘れず」がこの国の人びとのスローガンになった。

 当時、セルビアとともにユーゴスラビア連邦共和国を構成していたモンテネグロも空爆の被害を受けたが、2006年にはセルビアと袂を分かって独立し、NATOに加盟した。今年の教科書からはNATO空爆とその犠牲者に関する記述が抹消されたという。誇り高いモンテネグロ人が加害者であるNATOに膝を屈する姿を、だれが想像できたであろう。上述のスローガンは、モンテネグロでは「赦して、忘れるから」になったようだ。セルビアとの関係を断つため、新たにモンテネグロ語を発明し、セルビア語と同じ伝統的なキリル文字を廃止してラテン文字に移行し、国家機関からセルビア系住民を排除し、ついにはセルビア正教会を「国有化」してモンテネグロ正教会を樹立しようとした。ウクライナで2014年以降に起こったこととあまりにも類似していないだろうか。だが、どちらも最後に躓きがあった。ウクライナはロシアの軍事介入を招いた。モンテネグロでは、国民がセルビア正教会を擁護する道を択び、以上の政策を遂行してきた政治勢力にノーと言ったのである。

 セルビアに対するNATO空爆の悲劇は、今や世界のメディアの関心を惹かず、ウクライナ戦争をめぐって創り出された図式に合わない事実として、脇に押しやられようとしている。ウクライナへのロシアの侵攻に反対して西側が好んで用いる「国連加盟国の主権・領土保全は尊重されなければならない」、「国連安保理の許可のない武力行使は国際法に違反する」との論拠は、すべてセルビアへのNATO空爆を非難する論拠として用いることができるからである。

日本で取り上げられたコソボ問題
 そうした中で、東京新聞が2023年2月23日と3月24日の二度にわたりコソボ問題を取り上げたことは、画期的なことで、筆者にとって驚きであった。
 
 最初の記事は「コソボ独立から15年、いまだにくすぶり続ける『ヨーロッパの火薬庫』」※1と題され、三人の識者の見解を載せている。現在の「自己決定党」政権の成立以来、少数民族との関係が一段と悪化したと言っている。「自己決定」とは聞き慣れない言葉だが、民族自決の「自決」のことで、「自決党」と訳すのが適当ではないか。

 次は「岸田政権はNATOに急接近しているが…セルビア空爆から24年、コソボで起きたこと」※2。サッカーを通してユーゴを知り、空爆前後にコソボを訪れ、現地の事情を調査した木村元彦氏の投稿である。
 木村氏は「空爆後、平和が訪れたとは、到底言い難い」として、少数民族に対する新たな「人道破綻」があったと述べている。20万人といわれる非アルバニア系住民が土地を追われて難民となり、24年後の現在も帰還の見通しが立っていないことを念頭においているのだろう。国連難民高等弁務官事務所も、国際赤十字社も、欧米の人道団体も、この事実を正面から論じることはなく、難民の帰還を進めるいかなる措置もとらず、いわんや「コソボ共和国」政府に圧力をかけたり、これを非難したりすることはない。
 木村氏は、さらに恐ろしい事実を明らかにしている。「約3000のセルビアの民間人が拉致され、アルバニア本国に送られた後、殺害されて組織的な臓器密売ビジネスの犠牲とされた」というのである。木村氏はアルバニアまで足を伸ばし、臓器摘出手術が行われたとされる「黄色い家」を訪ねてもいる。
 そのすべてが、KFOR(コソボ治安維持部隊)による占領とともに、UNMIK(国連暫定行政ミッション)の監督下に、起こったということを付け加えておくべきであろう。KFORとはNATOのミッションの名称である。

「黄色い家」
 木村氏の記事が出たころ、セルビア国営テレビがドキュメンタリー番組「黄色い家」を放映した。この事件は、ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷の検事だったカルラ・デル・ポンテの回想録(2008年)で触れられている。アルバニア国内の「黄色い家」でコソボ解放軍が捕虜や拉致被害者から臓器を摘出して販売しているとの告発を受け、捜査したが、メスなどの手術具や薬品の壜など少量の証拠しか発見されず、不起訴としたというものである。それだけでなく、デル・ポンテは、証拠品を廃棄処分にした。壁が黄色く塗られていた家は、事件の象徴となった。
 しかし、欧州評議会法務委員会のディック・マーティは2年をかけて再調査し、2010年、報告書を提出した。この件についてはUNMIK警察も調書を作成していたことが明らかになっている。ドキュメンタリーは、こうした報告に基づき、「黄色い家」はコソボ解放軍が捕えた者の適性を調べるため血液検査などを行った拠点のひとつだったと述べている。適性のない者はその場で処刑された。今では、壁は白く塗り替えられ、部屋の内部も飛び散った血痕を覆うように色が塗られている。家の近くにあった墓地は掘り返され、遺体は持ち去られていた。
 手術そのものはティラナ空港に近い別の場所で行われたらしい。そこで拉致被害者の頭を撃って殺し、直後に腎臓を摘出、空港からイスタンブールに搬出していたことが分かった。心臓などは、摘出から移植手術までに要する時間が短く、利用されなかったという。

 臓器密輸は解放軍の資金稼ぎと考えられ、責任者としてハシム・サチの名が挙げられている。サチは解放軍ドレニツァ部隊の政治委員であり、アメリカが主催したランブイエ和平会議にコソボのアルバニア人の代表として現れ、その名が広く知られるようになった。のちにプリシュティナ政府の首相、大統領を歴任し、アメリカ政府の寵児だったから、起訴できなかったのであろう。日本にも来ており、だれの推薦によるのだろうか、上智大学の名誉博士号を受けた。二度目の来日は、今上天皇の即位礼の直前で、謁見の栄に浴している。現在は、コソボ解放軍による戦争犯罪を裁く裁判で起訴されている。解放軍に反対したアルバニア系住民の殺戮が主たる案件で、臓器密売事件は、罪状に含まれていない。名誉博士号が取り消されたという報告はない。

 カルラ・デル・ポンテが「黄色い家」を臓器摘出手術の現場に措定したことは、今から考えると、捜査が証拠不十分を理由に打ち切られる原因であり、ひょっとして意図的なミスリードではなかったかという気がする。ハーグの旧ユーゴ戦犯法廷はアメリカの影響下に設立されたもので、アメリカの利害に反する捜査や裁判は行われず、行われたとしても、無罪の判決が下された。

 木村氏は「約3000のセルビアの民間人」と言っているが、これは殺害された人の総数で、手術の対象になった者はずっと少ないと見られる。健康上の要件を満たさなくてはならない。300人という数字がある。そのうち臓器摘出が確認できる者は30人ほどだろうという研究者もいる。それでは、ビジネスとして成り立たないのではないか。その他は収容所に入れられ、強制労働などに駆り出されて殺害された。犠牲者は、空爆後も移住を拒否してコソボに残ったセルビア人が中心だが、ロマ人(ジプシー)も少なくない。武力闘争に反対したアルバニア人も「裏切り者」として処分された。さらに、ドキュメンタリーでは、囚人の移送に関わったトラックや冷凍車の運転手の証言から、東欧から流れてきた娼婦たちも含まれていたことが明らかにされている。

 UNMIK警察の調査では、コソボ解放軍は、判明しているだけでも、150か所以上の収容所を設置して犠牲者を一時的に収容していた。拉致被害者の家族は、事件が起こると、ブリシュティナの国際赤十字社代表部にそうした場所の捜索を依頼したが、通訳は例外なくアルバニア人で、しばしば解放軍の兵士が採用されており、すべては筒抜け。赤十字の職員が駆けつけたときには家は空っぽだったという。国際機関は、KFORもUNMIKも、セルビア系住民の保護には関心がなかったと、被害者の家族は語っている。
 それももっともである。コソボ紛争に先駆けて、悪いのはミロシェビッチのセルビアで、可哀そうなのはアルバニア人という図式が定着していたからである。セルビア人には被害者になる資格はない。保護の対象になることもない。国際機関の代表は、その図式に従って行動することを求められていた。その図式に疑問を呈する人、国際機関とコソボ解放軍との癒着を指摘する人は本国に送還されるか、辞職するかのいずれかしかない。
 木村元彦氏は、岸田政権によるNATOへの急接近を憂慮し、「軍事同盟に関わることは、オートマチックに加害の側に回ることも自覚しなくてはならない」と、警告している。日本と周辺諸国との「歴史の負の遺産」を考えると、この警告は、いっそう深刻な響きをもつ。大変、勇気のいる発言で、敬意を表したい。

 本稿執筆中に、国際的なシンクタンクの公開フォーラム「東京会議」が開かれたという記事を見た(朝日新聞デジタル版3月25日付)※3。その中で、ドイツ国際政治安全保障研究所ディレクターのステファン・マイヤー氏が、最近は「トップニュースからウクライナの話題が少なくなってきている」と、欧州での「戦争疲れ」に懸念を表明、との一節があった。「懸念」というのは、和平へと向かう機運が生じてきたことを憂慮し、警告しているというのであろう。なんの疑問もなく記事にしている記者のことも気になる。そういう人たちがセルビア空爆を支持してきたのだと思い、春だというのに暗い気持ちに捉われるのは筆者だけなのだろうか。
(東欧研究者/翻訳家、ベオグラード在住)

編集事務局注:
※1 https://www.tokyo-np.co.jp/article/232795
※2 https://www.tokyo-np.co.jp/article/239142
※3 https://digital.asahi.com/articles/ASR3T44VRR3SUHBI038.html?iref=pc_ss_date_article

(2023.4.20)
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