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トカラの離島出身教師の生涯<上>

——戦前・戦後の翻弄に教育の筋を通す
羽原 清雅

 トカラ・吐噶喇列島は、鹿児島と奄美大島の間に浮かぶ有人の7島、無人の5島から成る。村は南北160キロに及ぶ。台風と荒波にもまれながら、農漁牧畜などに生きる島だ。村の役場は鹿児島市内に置かれるなど、現状にも多様な不便が付きまとう。だが、戦前にさかのぼれば、はるかに過酷な生活が続いた。島人の日常は、想像を超える厳しさだった。
 島のひとつ、「宝島」に大正期に生まれ、昭和を教師として生きた人物が500ページを超す記録を残していた。豊かな生活環境、受験、学歴が満足をもたらすと考えがちな昨今だが、かつての厳しい「環境」が人間を創る時代を感じてみたい。

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 そんな気持ちから、この人物・平田松栄(1917<大正6>.7.23―1992<平成4>.6.17)の享年75歳の生涯を、その記録から追った。記録のタイトルには「じいさんのたわごと―激動の昭和史に生きて―松月庵松栄」とある。

*出生・幼少のころ <1917・大正6年=第1次世界大戦終結の前年/日本海軍が地中海に出動/河上肇著「貧乏物語」/ロシア革命=首相レーニン>

 :人口 トカラ列島最南端・宝島の、両親が働く製糖小屋に生まれる。誕生日には、常食のゴッタイ飯(芋飯)で、いつもよりも芋を減らし、芋の入らないところを神仏に供えてお祈りをした。幾年か過ぎて、高等科になって初めて通知票をもらって、実際の生年月日とは違う生まれだと知った。「父の生存中に聞いておけばよかったと思う」。
 宝島は、記録を書いた昭和58年には72世帯195人(現在68世帯120人)。ピークは昭和35年の494人で、同40年383人、同45年233人、同50年195人、近年は120人と減り続けている。

:生活 「サンゴ礁の海岸線は美しく、他の島に見られる断崖に覆われた厳しい感じはない。」「学校では宅習を忘れた者への罰として、よく島一周を命じ次の授業までには帰校していた位の小さな島」だ。自給自足の日々で、「昔は殆ど半農半漁で各人手漕ぎの小舟を持って農耕の暇をみて漁をしていた。サワラ、青マツ、赤マツ、黒鯛などの収穫があった。・・・いまはすべて農協を通じ本土から購入している」。田畑は一戸当たり6段(反)歩程度だったが、分家などはもっと少なく、また米は節約し凶年に備えた。台風の常襲地帯で、被害は大きく、昭和8、9年の全国的な干ばつでは収穫皆無に等しかったことを覚えている。

:島の足 今から90年ほど前の昭和7年ころまでは、「奄美航路のついでに申しわけ程度に寄港していたが、そのサービスの悪いことに切歯扼腕」「ちょっと波がしけていると寄港の合図の汽笛を鳴らし、はしけを下ろし大小の波の合間を図って漕ぎ出したところで、汽笛を鳴らして出ていくのであった。まったく島民を馬鹿にした仕種に島民は憤慨したものであった。」「定期船は月1回有ったか無かったかの不便な島であった。」 トカラ最大の中之島の小学校校長が村長になって、十島丸(155トン・月4航海)が建造され、昭和8年に村営船として島の航路史の1ページを開いた。島の人々にとっては、画期的な喜びだった。「汽船も亦道路なり」の碑文が中之島に建つ。 
 <補強しておくと、戦前はこの十島丸に続き、同16(1941)年の金十丸(570トン・寄港は月1回程度)、戦後の村営定期船「八島丸」(木造船・70トン・8ノット・12人乗り)の就航は1953年からで月3往復。現在は「フェリーとしま2」(1953トン・定員297人・週2便、臨時15便)。>

:日常 「食事は一般に貧しかった。朝食は芋飯、芋粥、昼飯は薩摩芋に漬け物、大根・かぶ・たかなの漬け物・・・夕食は芋飯に大根・里芋・かぼちゃなどの煮付けだった、だしは鰹のゆで汁をもらってきて煮詰め煎じを作ったり、豚の油を煎じ保管して製糖時期によく使っていた。」
 楽しかったのは「浜お(隆)れ」「内学校」。<前者はよくわからないが、>お盆の際に集落中の人たちが集い、御馳走を持ち寄り、にぎやかに過ごすひと時。後者は、薩摩特有の郷中教育の一環で、先輩、同輩、後輩のグループを作り、先輩のリードで自学自習をする。助け合い学習のあとの海水浴、鳥差し、篭作り、相撲、段杭打ちなどの遊びがあり、先輩の指導よろしく、これはのちにも遊び方、ものつくり、大工、細工などでの器用さが身についた。 
 
*学校時代 <1930・昭和5-1933・同8年=ロンドン軍縮会議/恐慌深刻化/前年にNY株式市場大暴落・世界大恐慌へ/31年=満州事変/32年=5・15事件、満州国建国宣言/33年=国際連盟脱退、ヒトラー首相就任>

:学校教育 1924(大正13)年に小学校に入るが、この地ではまだ小学校令が施行されておらず、寺子屋状態。20畳ほどの部屋に1-6年生7,80人がいて、教師は一人なので自習監督のよう。同窓は男女13人。女子は3,4年で学校を終え、6年生での卒業は3,4人。
 男子で高等科に行ったのは2人のみ。教師の報酬は不明だが、現金収入のない島なので、部落で野菜、薪、水を当番が持ち寄った。子どもらは魚、砂糖を自発的に届けた。
 奄美大島から雇った陸軍上等兵上がりの教師で、天気がいいと午後から全校生が浜辺に行き、上級生は兵隊のまねごとをやった。6,7月の暑い日には失神してバタバタと倒れる者も出て、下級生がバケツの水を頭からぶっかけた記憶が残る。
 3年生になり、農学校出の裁判所書記だった40代の教師が来て、まともな授業になったが、自学自習は避けられなかった。高学年になっても、歴史・地理・音楽・体操などの勉強をした記憶はない。
 5年生の夏、台風で校舎が倒壊、畳を上げた民家で午前、午後の二部授業に。その後、2人の先生が来て、この島でも小学校令が施行されることになる。1930(昭和5)年3月に尋常小学校を卒業した。
 
 高等科はできなかったが、高等科の名目で授業を受け、初のドッジボールをやり、鉄棒、走り幅跳び、高跳びの授業を受けた。高学年には勤労教育、軍事訓練があり、放課後に農作業に駆り出された。初めてトマトを口にした。翌6年、正式に高等科ができ、ピンポンに熱中。昭和7年3月、義務教育最初の卒業生として高等科を終えた。この年、校長が鹿児島の帰りに電池式のラジオを買い、初めてラジオに接した。だが、雑音でよく聞き取れなかった。
 トーキー映画というものの存在を土産話に聞いた。新聞というものも初めて見ることになり、「10日か15日分がまとまってくる地方紙を読んで社会の情勢も少しずつわかってきた」。そのころ、教科書以外に読むものと言えば、篤志家寄贈の10冊くらいの講談本、病気で帰郷した知人から借りて少年倶楽部を読むくらいで、のらくろ二等兵の漫画に熱中した。」

 「小学校令が施行され島には新しい文化の光が差し始めた。」
 「それにしても明治5(1872)年の学制公布から昭和5(1930)年小学校令施行まで、実に58年、・・・明治13(1880)年改正教育令が出され、市町村に小学校設置の義務を負わせている。明治19(1886)年小学校令が公布され尋常科を義務教育とし」「これから数えても44年全く忘れられた村であった。」
 さらに、怒りは続く。納税・教育・兵役の3大義務のうち、納税は島津の琉球征伐(1609年)後に島としては畳表の「い草」を年貢として納め、兵役は明治44(1911)年の徴兵制に従っているが、教育だけが長きにわたって果たされなかった。
<註:鹿児島島部の徴兵制は全国でもかなり遅くまで免除されていた>

 <遅れたライフラインの普及などについて、平田氏の記録から離れて、補強しておきたい。小学校の設置ばかりではない。トカラの島の多くは、断崖に囲まれ、大型船の接岸は天候次第で、また接近して人や荷物ははしけに乗り換え、積み替えなければならず、危険を伴っていた。接岸時には、島人全員が出て手伝うのが当たり前だった。埠頭、防波堤ができ、フォークリフトの荷揚げができるようになったのは、中之島で1968年、平地の多い宝島で75年、口之島の76年から最後の小宝島の90年まで、全島の完成に22年もかかっている。
 電気はなく、中之島の小型発電機で100ワットの電灯が一つ点いたのは戦後4年たった1949年。中之島に火力発電所ができて島の全戸に8時間ほどの電灯が点いたのは52年のこと。全島に24時間の電気が届いたのは79年だった。政府の経済白書が「もはや戦後ではない」と言ったのは56年、島に洗濯機・冷蔵庫・掃除機の「三種の神器」が広まったのは20年以上経っていた。
 水事情の悪かったのは口之島、中之島、宝島以外で、水量、水質ともに苦しんだ。乏しい水源の取水口から竹のパイプをつないで家庭まで水を引いていた。小宝島の海水淡水化施設の完成は1990年、諏訪之瀬島での整備はさらに10年後の平成12(2000)年だった。
 離島にとっての生命線の通信事情はどうか。流通経済、急病人などの緊急事態には欠かせない。奄美の名瀬と島との無線通信は1949年、中之島、口之島、宝島と鹿児島との無線通信は52年。電話が中之島の6台で開通したのは60年、口之島の2台は62年、64年にやっと農村電話が設置された。一般加入電話は、中之島の79年が最初で、全島の開通は84年だった。
 NHKテレビが島で見られるようになったのは、中之島に中継局のできた1970年からで、地元民放局の放映は6年後の76年以降になった。本土でのモノクロテレビの放映開始は53年、60年代の本土では90%以上の普及だったから、10年以上の遅れだった。
 それでも、「文化果つるところ」と言われたトカラは、徐々に追いつくことになる。

 ただ、経済効率性、財政事情という視点からは「やむをえない」ということだろうが、最低生活を保障する憲法の規定からすれば、政治のありようがこれでよかったのか、という問題を投げかけている。
 トカラ十島村の不運は、終戦後の1946(昭和21)年2月、北緯30度以南が米軍の統治下に入れられ、52(同27)年2月の日本復帰までの6年間、現在の鹿児島に近い三島村(竹島、黒島、硫黄島)と分離されて、日本の制度から切り離されたことにある。日本の復興途上や朝鮮戦争の勃発などにより、トカラの情報が閉ざされてその影響も否めない。
 戦争の不幸は後々にまで影を落とすことを忘れてはなるまい。>
 
*青雲の志<1934・昭和9年-1940・同15年=34年ヒトラー総統就任/35年美濃部天皇機関説弾圧、東北など大凶作/36年2・26事件、ロンドン軍縮条約脱退、日独防共協定/37年日中戦争、日独伊防共協定、人民戦線第1次検挙/38年国民総動員法、ドイツがオーストリア併合/39年国民徴用令、独ソ不可侵条約、ドイツがポーランド侵入/40年大政翼賛会結成、日本軍が仏印侵攻、フランス降伏> 

:学校小使い 昭和7(1932)年3月に高等科を卒業、校長の勧めで小使い(使丁、用務員)となる。早朝5時、学校、校長宅、職員宅の水汲みで始まり、朝は共同井戸からバケツで4回、昼は学校用に1回、夕方は校長宅の風呂用を運んだ。島では水汲みは女性の仕事で、恥ずかしかった。学校では、時報、お茶汲み、謄写版印刷、時に自習の監督などがあり、ひまがあれば授業に出られたが、学力は付けられない。謄写版のローラーに西日が当たり、溶けて使えなくなるという失敗もあった。「小さな胸は痛み、その鬱憤を」かつての恩師にぶつけたが、その励ましの返信に気が晴れて、「この事が無かったら、一生小使いで終わっていたのかも知れない」。

:受験に失敗、上京へ 1年後、奄美・名瀬での準教員の検定試験を受けるが、学力不足で国語の仮証明書だけが取れた。全教科に受かれば準教員の免許状が取れるが、「この調子で行くと全教科合格するまでには8,9年は懸かる」。翌9年、母を失い、「悲嘆にくれ悶々としていた頃であったので、出郷の決意も早かった」として上京を決意する。
 父、兄姉を説得し、東京への旅費として牛1頭(90円位)を売ることに。昭和8,9年は全国的な干ばつで凶作に襲われており、半額は家に残し、小使いの給料の貯金と合わせて70円ほどの旅費ができた。
 旅支度は下着上下1着、洗面具、高等科の教科書のみ。昭和9(1934)年9月、諏訪之瀬島、鹿児島で姻戚に、大阪で久々の姉に会った。
 新聞で「苦学生募集」の広告を見て、麻布の報知新聞販売店に行き採用。朝食10銭、昼夜食15銭。配達の順路帳を渡され、覚えきれないながら4日目から独立して150部を配達した。「百戸足らずの島から出てきて覚えられる筈が無かった」のだ。
 ちなみに、報知は絵本、講談本、社によって映画、芝居、旅行などの招待券を配り、「当時は東京では朝日、大阪では毎日が羽振りをきかせ・・・報知、時事などは3流紙・・・読売が2流紙としての地歩をかためつつあった」。翌10年正月、朝日新聞神田販売店の叔父を訪ね、4月の新学期からそこに勤務、正則予備校、次いで研数学館に通うことに。11年、叔父が朝日から船橋の読売店に代わったことで、そちらに移る。
 「2・26事件が起き、東京は戒厳令が布かれ、4日間は新聞をはじめすべての通信機関が機能しなくなり、国民は真っ暗闇の中に」。春には、阿部定事件に驚く。4月、関東中学校の編入に合格、念願の中学3年生に。同11年4月だった。
 進学を希望し、自転車で通学。剣道、軍事教練を受ける。部活は居残り練習のない弁論部に。4年生時に右翼北一輝の影響もあり、英語廃止論がささやかれるが、「敵国であればある程度敵国語をマスターして敵国の文化・産業・経済・思想・文物総てを理解し事を構えねば失敗するであろう」と原稿を作り発表した。

:戦時下の卒業 昭和12(1937)年、徴兵適齢期になったが、徴集延期に。日独防共協定について「ドイツの触手にまんまと乗った軍の浅薄さにあきれた。日独との提携も英、米を刺激するであろう事がわからなかったのか、・・・米、英を無視した一人よがりな軍の方針に批判が集中した。この頃から、政治に対する感心も沸いてきた」。
 翌13年は5年生。富士裾野の陸軍演習場の厩舎に泊まり込みの軍事演習。2泊3日。紅白それぞれに陣地を構築、作戦計画を協議、薄暮攻撃から突撃・白兵戦などで終わり、教官の講評を聞いて終わる。「この頃、戦死者の英霊が続々と帰還し、千葉県学務課の通達により各学校は最寄りの駅まで出迎えに出るよう指示があり、授業中でも穴川駅まで出迎え」た。
 その3学期、戦争がますます拡大、兵役、徴用が頻繁になり、家庭は女、子どもだけになって新聞は減るばかり。叔父は販売店を廃業、自分は新小岩の朝日店に移る。そして、卒業。
「昭和9年9月から14年3月まで4年6カ月、よく頑張った、23歳で晩学ではあったが、一応目標は達した。しかし、また夢は広がっていった。大学専門部への夢であった」。
 「このとき、まだ教員志望は捨てていなかった」。兵役が待っていて、進学すればあと3年延期できる。兵役の関係で4年制は無理で、東洋大専門部(倫理教育科)となる。大学受験料、中学の滞納金の金策に追われ、学生輸血組合で2,3回の採血で、ぎりぎり願書の締め切りに間に合った。「一片の紙切れではあったが、私にとっては4年余り血のにじむような苦労の証しとして大事なものであった」その卒業証書も滞納の月謝を払い、受け取った。
 この冬、岡田嘉子、杉本良吉のソ連への越境亡命、戦時色濃い小唄勝太郎の「大和桜」が話題だった。
 新聞店経営の金策を兼ねて鹿児島へ。上京以来初めて4年7ヵ月ぶりに郷里宝島へ帰る。
 母親の墓参、卒業の報告を済ませる。

:大学生活から徴兵へ 帰京後に東洋大専門部合格を知る。入学金と月謝は、またも輸血組合に通う。昭和14(1939)年4月、小石川白山上に電車通学。憧れの角帽と質流れの学生服だ。仕事先は新小岩から向島の朝日新聞販売店へ。午後2時間、後楽園で軍事教練があり、特高警察が学生自治会を使って監視しており、学内での時局談義などは禁句。
 翌15年、収入のために焼きとん屋を開業することを機に結婚にこぎつける。売り上げはまずまずながら、大学の徴集延期が1年短縮されることになり、国文科への転科の段取りも狂うことになる。しかも妻の妊娠という事態も重なり、転科・兵役と三重苦になった。
 5月には名瀬での徴兵検査出頭の通知が来た。店を休業し、妻と帰郷することになる。政権は近衛文麿から平沼騏一郎へ、物資はいよいよ不足、大学の軍事教練は必須、青年学校は大会社や工場でも義務化、パーマや学生の長髪禁止、街のネオンが消えた。
 名瀬での検査は、第一乙種合格。大学を休学とし、焼きとん屋は譲渡、妻は宝島に。一時、軍用の乾パン工場に勤務するうちに、宝島から長女誕生の知らせが。

*軍隊とは <1941・昭和16年―同20・1945年8月=41年翼賛議員同盟結成、前年の北部仏印に続き南部仏印に侵駐、米英が石油、くず鉄禁輸、東条内閣成立、真珠湾攻撃で太平洋戦争へ/42年当初はマニラ、シンガポール陥落など優位に進撃するも、ガダルカナルなどで日本敗退続く/43年イタリア降伏、大東亜会議、ガダルカナル島敗退/44年サイパン島陥落、神風特攻隊初出動、東京初空襲など各地でB29空襲/45年ヤルタ、ポツダム会談、ドイツ降伏、沖縄襲撃、原爆投下、日本のポツダム宣言受諾、終戦>

:出陣 12月1日の入隊通知を受け、11月下旬に鹿児島へ。妻と義父が、生まれて半年ほどの娘を連れて会いに来たが、旅費は馬を売って作ったと聞き、「頭の下がる思い」だった。そして、「背広とオーバーを質にいれ、家内にネンネコを買ってやった。初めての贈り物であった」。昭和15年12月からの初年兵教育後は長く連隊本部勤務で、終戦後の同21年6月まで続き、5年半もの軍隊生活だった。
 入隊3日後以降、「一人の落ち度は全体の責任として全体集合の名の元に説教で、最後は『歯を食いしばれ』でピンタの制裁」、「『目から火がでる』と言う体験を始めて経験」、「『上官の命は朕が命と心得よ』との軍隊の定説で、星一つ多ければ上官で、どんな無理難題でも言い訳は許されなかった」。こうした厳しい訓練が1カ月ほど続いた。
 昭和16年1月末、鹿児島を出て門司港から極秘で出船、2月2日河北省に着き、貨車で転進、北京を経て山西省運城の師団本部へ。そのあと、完全軍装でのつらい長距離行軍。被服は煮沸してもシラミがわき、「シラミとマラリア蚊には終戦まで悩まされた」。
 「一線の作戦に参加し、殺すか、殺されるかの悲惨な戦争を体験したが、第一線の戦闘に参加したのは最初で最後であった。その後連隊本部勤務で最前線の戦闘には参加していない」。
 ただ、初年兵最後の総仕上げに、刺突の実戦訓練があった。「標的は八路軍(共産軍)の捕虜を柱にくくりつけ、銃剣で胸部目掛けて突くのであった。・・・俘虜は蜂の巣のようになり、誠に無残なもので目を覆った。初年兵はまだ戦場の無残な場面に遭遇していないので、足が震え逡巡したが、訓練班長の命とあらば仕方がなかった。」
 悩まされたのは黄土。降りかかる黄土で頭から眉、まつ毛、鼻だけでなく、この黄土のなかでの匍匐訓練で全身まるで黄色い粉でまぶしたよう。「この黄塵にまみれながら何時果てるとも知れぬ戦線で、死と対決して過ごす事かと思うと心が重くなる思いであった」。
 

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 平田松栄兵士はこのあと、中国大陸で戦闘を重ねながら南下を続け、食糧難と現地での収奪、厳しい行軍、渡河の苦労、銃撃の負傷、戦友の死などを重ねながら、ベトナムなどインドシナ半島まで進軍する。戦争の悲惨を目の当たりにしている。
 次回、終戦を迎え、復員するまでの「戦争の現実」に触れていきたい。

 この資料となる平田松栄氏の記録は、長女平田ユタカ、健志氏ご夫妻、鹿児島県十島村副村長福澤章二氏のご厚意によって入手できたことを付記し、深く感謝を表します。

                       (元朝日新聞政治部長)

(2023.4.20)
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