【オルタ広場の視点】

菅首相の日本学術会議問題は妥当か

     ――狭く短期の政治権力と広く長期の学術界の攻防

羽原 清雅

 日本学術会議の任命拒否問題は、菅首相の答弁等をめぐって紛糾を重ねている。その説明を聞く限り、この解明への手掛かりはない。核心に触れず、はぐらかし、しどろもどろ、虚偽、答弁拒否など、論理重視の研究者たちを納得させていないばかりか、500もの学協会が抗議を表明している。一方、学術会議の使命と意義を理解せずに、力ずくで組織自体の改変を目指す政権、自民党の動きも強まっている。

 日本の科学研究への国の資金提供は年々削減され、その実績が国際レベルにおいて懸念されている中で、政治権力は「学術研究」を思うように動かし、その機能を狭める印象を強めている。かつての中曽根首相はじめ歴代政権は、学問への介入は避ける姿勢で一貫してきたが、安倍、菅時代になって、論理性を欠く形で強権を発動しようとしている。
 そうした誤りの現実を、表面化した事実に基づいて証明したい。
 蛇足ながら、学術会議自らの改革は当然であり、自らの判断によって納得される方向に進めなければならないことは自明の理である。

*菅首相の説得力なき答弁 就任間もない菅義偉首相が国会答弁で、とくに日本学術会議問題の答弁で、いささか見苦しい姿を見せていることは、テレビでご覧の通りだ。たどたどしいことや、紙の読み上げはやむをえないとしても、事実と異なることを言い募るのは、国政の責任者として許されない。まずは、その齟齬についてはっきりさせておきたい。

1.中曽根発言の変更 中曽根康弘首相は1983年の国会答弁で、日本学術会議の会員の任命について「政府が行うのは形式的な任命に過ぎない」と明言、これが長く政府の姿勢として守られてきた。丹羽兵助総務長官も同年、「ただ形だけの推薦制であって、学界から推薦して頂いた者は拒否しない」と述べた。これは、学術会議の措置について口を挟まない、つまり会議の持つ学問研究の自由に政治が介入することはない、との原則を示したものだ。2004年にも、総務省の内部文書が「首相が任命を拒否することは想定されていない」としていることも明らかにされている。

 だが、内閣府の同会議事務局は2018年に内閣法制局との間で「内閣総理大臣に推薦の通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」との解釈の変更を決めた、という。
 そして政府側は国会で、当時の山極寿一学術会議会長に口頭で伝えた、文書では示していない、と明らかにした。ところが、その山極氏はその頃、首相官邸の官房側に何度も会おうとしたが応じられることはなく、そのような変更の事実は「全く知らない。文書があることも聞かされていない」と明言している。つまり、この解釈変更は、内部では理解されたとしても、対外的には何ら公表されず、公的な認知はなされていないことになる。

 新会員の推薦は会議側の任務であり、政治の不介入の一貫した政府方針を変える以上、会議側の了解を求めることが筋だろう。ことの重要性からすれば、公開し、広く論議を起こすことが通常のあり方で、ひそかに内部で決めて、実行することはアンフェアというしかない。

2.「多様性」の確保 菅首相は学術会議の「多様性を念頭に判断した」と、任命拒否についての質問に答えた。たしかに、学問の世界は広く、多様な人材による構成が必要だ。
 だが、学術会議側も、この点にはかなり配慮している、といえるだろう。完全とか十分ということはあり得ないが、多様な人材を選択する努力は重ねている。その事実を、2011年と2020年10月の10年間の比較で見てみたい。

  ・東大、京大の会員   36.2% → 24.5%
  ・私立、公立大の会員  18.6  → 27.0
  ・関東の会員      59.5  → 51.0
   近畿の会員      15.2  → 24.0
   中国四国の会員     1.0  →  3.4
  ・国機関、民間企業   12.4  → 14.2
      (産業界     1.9  →  3.4)
  ・女性会員       23.3  → 37.7

 このような努力の中で、政治が「多様性」を理由に、口をはさむ余地があるのか。
 しかも、排除された6人のうち、私大3人、女性1人、40歳台代1人については、なぜ「多様性」を理由の排除になるのか、逆に聴きたい。この6人はむしろ参加を認め、多様性を強化すべき人材だ。だが、論拠なき排除で、いわば首相の説明は虚偽に近い。2015年の政府の有識者による報告書には、学術会議について「性別、年齢は大幅に改善、地域バランスも若干改善」と評価している。
 それでも、首相は「民間や若い人は極端に少ない。一部の大学に偏っている」と排除の理由を挙げ続ける。

3.選出の手続き 会員選出はかつて、科学者による公選、学協会による推薦、会員による推薦制などを経て、現在は会員、連携会員、さらに全国2千以上の学術研究団体の推薦を受け、選考機関が学術的業績の高い会員候補を選んで、首相に推挙する仕組みだ(山極前会長)。
 だが、首相は「会員約200人、連携会員約2,000人とつながりを持たないと、会員になれない仕組み」とも言う。たしかに会員は2人の推薦ができるが、そのあと選考委員会が各人の研究業績、専門分野、男女比などを考慮して推薦候補者を絞り込む。したがって、情実が生きる余地はなく、もしあれば理論家ぞろいの世界なので、疑惑はすぐにも浮上してくるだろう。いろいろ言い募る菅首相だが、実態を離れ、いいつくろうとすればするほど、権力行使の矛盾を自ら積み重ねることになっている。

 学術会議法17条には会員の候補は「優れた研究又は業績のある科学者」から選考する、ということだけが資格要件となっている。
 菅首相が拒否するとするなら、この要件を満たさない場合だけ、ということになる。もちろん、明らかに反社会的で常識的に許されないような場合は当然だ。
 だが、6人にはそのような問題がないからこそ、優れた研究と業績が認められて、推薦されている。それを覆す理由はなにか。その説得力ある説明が求められている。

 学術会議法7条2項には「会員は、(同会議の)推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」と決められている。この「基づいて」には重い意味がある。元衆院法制局で長年法案作りに当たってきたプロによると、類似する言葉には「~により」「~に従い」「~を尊重」「意見を聴いて」などがあるが、「~に基づいて」の表現がもっとも拘束力が強い、という(朝日新聞、11月1日付)。とすれば、菅首相は法令順守からはみ出た行為を犯したことになる

 基本的に社会科学、人文科学では、多様な見解があり、また社会の発展や望ましいあり方を求める立場から、政治など折々の社会の動向について厳しく批判するのは当然、必然であり、安保法制、「共謀法」などに批判的な意見を表明することは、むしろ研究者としての義務ともいえるだろう。その採否は、首相サイドの判断となるが、批判や議論のない状態こそ、民主主義の社会には似つかわしくなく、それを受け入れない権力の姿勢はおかしい。

 菅首相がその基本を守らず、説明もできないからこそ、6人に共通する批判的言動が会員排除の理由とみられるのだ。妥当な排除理由を示さない限り、菅首相は違法な人事行為を犯して批判への報復的排除を行った、と思われてもやむを得ないことになる。
 政府に逆らう「国家公務員」は許容できない、との思いがあっても、法律に基づいて行政にあたるべき最高責任者が違法行為を犯せば、是正を求め、その責任を問うことは至極当然なのだ。

4.「悪しき前例主義の打破」 菅首相は就任最初の所信表明の締めくくりで、「既得権益、悪しき前例主義を打破する」と声を上げた。国会答弁での学術会議問題の質問にも、同じことを述べた。また「閉鎖的で、既得権益のようになっている」とも答えた。
 具体例を示さず、黒い霧のとばりで覆い隠すかの言葉が目立っている。

 「悪しき」とは何を指すのか。学術会議の「前例主義」とはどの部分か。それは妥当な指摘なのか。もし抽象的に、悪しきイメージを振りまくためだとすれば、首相たる資格、品格を疑われるだろう。また、そのような口上を述べさせる側近は、いったい何を考えているのだろうか。
 「既得権益」とは何か。実際にありうるのか。例えば、具体例はなにか。これも聞きたい。自民党内には、学術会議への怨念のような思いがあるようだ。その論拠は示されていないが、そのあたりは後述したい。一強と無力野党の政治状況の中で、言えば通る、無理筋も通す、官僚は言いなり、野党質問はかわせる、といった権力のおごりが拡散してはいないか。

 かつて自民党内には「学者のステータス、名誉欲の場に過ぎず廃止を」という意見があったというが、思い違いも甚だしく、学術の意味すら理解できていない議員らの存在が問題だ。

*カネも出すが口を出す いささか品の悪い指摘だが、菅首相は「学術会議には10億円の国費を投じている」と再三繰り返す。その結果、学術会員は国家公務員になるので、任命にあたって拒否も可能だ、との立場をとる。学術会議が言うことを聞くのは当然、といった風情である。
 10億円という額は小さくはない。しかし、意味のある出費である。首相たるもの、いくども「10億円出している」と繰り返すのは、まことに品がない。突然の思い付きのようなアベノマスクに出した5、6億円とは違うのだ。
 主たる経費は、事務局職員(国家公務員)の人件費で、会員一人の手当、旅費は年平均30万円ほどで、年度末には予算不足で手当を出せないこともある、という。学術会議によると、3年間に3部門で開かれた委員会は2,234回に及んだ。要は、ボランティア的な任務でもあるようだ。このような実状からしても、首相は「カネ」を振り回すことはあるまい。

 会員は国家公務員といっても、科学者総体の「総合知」として政策提言を打ち出したり、政治的判断の論拠、あるいはその可否について意見を述べたりする関係であって、一般の公務員とは異なる。採用される提言もあるし、批判を聞いたり聞き流されたりすることもあって、そこに政治と距離を置く関係が求められる。国費によるとはいえ、政府権力の配下にあるわけではない。だからこそ、中曽根時代からずっと距離を置いて、口は出さない、としてきた。学者研究者の概して客観的な判断を求めることは、政権の姿勢として当然だろう。

 政治は、利害や意見の違い、対立関係などのからむ、概して短期的な現実に取り組むが、将来展望など長期的な観点、あるいは短期と長期では異なる展望について客観的、科学的、専門的な判断を求めるために、学術会議のような組織が必要になる。仮に政治権力の言いなりになるような組織であれば、存在の意味はなくなり、政治の流れに物申す姿勢があってこそ、冷静な判断を得ることが可能になる。学術会議が、戦前の戦争協力の立場に立った科学者たちの反省から生まれた以上、政治と学術の間に距離が置かれるのは当然ともいえるだろう。
 また、優れた学術関係者が政治の身近にあることは望ましく、政治サイドの期待通りでない結論であっても、その意義を認め、視野を広げて考え直す機会とすることが政治側の前提だろう。

 だからこそ、各国とも学術的団体を擁して、長い歴史を重ねている。

          設立 会員数  組織形態   年間予算  公的資金
         ---------------------------------------------------
 米科学アカデミー 1863  2,200  非営利組織  208億円   80%
 英王立協会    1660  1,430  慈善団体    96億円   67%
 仏科学アカデミー 1666   267  独立機関    7億円   60%
 独科学アカデミー 1652  1,500  非営利組織   11億円   全額
 日本学術会議   1949   210  政府機関    10億5千万円 全額
                   <10月29日付、朝日新聞>

 形態はそれぞれに違うが、日本はドイツとほぼ同額の資金を国家から得て運営しているが、米英両国はかなり多額の公的資金が投入されている。自民党内にある「自腹でやればいい」といった国家のメリットに理解のない発言はあたらないようだ。

*学術会議は何をしたか 学術会議の存在が見えにくいことは否定できない。パフォーマンスのうまい団体ではなく、専門的だし、政策等への貢献があればそれはそれでいい、ということなのだろう。ただ、過去の事例を見ると、同会議の意義がわかるだろう。

 いくつか挙げておこう。原子力基本法の理念でもある「民主・自主・公開」の3原則は学術会議のアピールによるものだった。また、南極観測を契機とする国立極地研究所の設置をはじめ、地震研究、宇宙開発などの取り組みも推進している。あるいは、安倍政権下で問題になった公文書管理のずさんさだが、その管理の大切さを認識して生まれた国立公文書館は、学術会議の勧告からだった。国文学研究資料館も学術会議の答申によった。
 近年では、東日本大震災のための復興税も、学術会議が一枚かんだとされる。2019年、海洋プラスチックごみ、地球温暖化など海洋生態系への脅威について、主要20ヵ国・地域首脳会議(G20サミット)参加各国のアカデミーとの共同声明を出している。
 このように巨大テーマへの取り組み、早期に機能すべき施設等の発案など、政権としても扱いに戸惑うような課題に取り組んできた。

 また、自民党などが反発する事例もあった。利害の絡み合う政治の立場からすれば、気に入らない存在なのだろう。ただ、国民総体のメリットから広く考える学術会議の判断は、自民党の狭く、利害の絡みがちな世界とは異なって、理想にかない、望ましいケースも少なくない。一政党の利害や感情から数に頼って、予算や組織、人事など姑息な名目で弱体化させるのではなく、有力な政党として視野を大きく持つことが必要だ。

 学術会議設立直後の1950年、戦前の戦争に協力した科学者たちの反省に立って「戦争目的の科学研究には従わない」、67年には「軍事目的の科学研究は行わない」との方針を打ち出した。さらに、2017年には、防衛装備庁の安全保障技術研究推進制度に強い懸念を示す声明を出した。
 民生技術と軍事研究の区別はつきにくく、大学、研究機関がこの資金目当てに公募に応じること自体、いずれ軍事研究に深入りするのでは、といった警戒があった。この研究への参加は、政府側の介入が多く見込まれ、学術会議の設立の理念に反する、との立場だった。研究費が乏しく、この資金は魅力的で手を出したい大学などもあって、会議としても厳しい立場での声明だった。この態度表明の翌2018年、安倍政権は学術会議への厳しい対応を強めている。

*学術会議に長年の不満 菅首相は国会答弁で「官房長官時代から学術会議の(会員)選考方法に懸念を持っていた」と発言した。これは、学術問題浮上の原点を示したもので、安倍時代からの執念が表面化したことがわかる。安倍首相、菅官房長官、そして杉田副長官らが学術会議を何とかしたい、との共通の認識を持っていた、といえよう。つまり、安倍首相の怨念を、菅氏が継承、杉田氏も深く関わり続けて、思い込むあまりに国会論議など周囲に目を配らず、手順や論理の十分な検討なしに事態を進めたのが今回の6人の排除だったのだろう。共通の思いがあればこそ、菅首相の排除容認と、杉田氏の事務処理が淡々と進められたに違いない。
 自民党内にも同様の思いがあり、これまでの人事の支配ぶりや、各種団体の弱い抵抗などから、準備もせず、思い上がったのではないか。筋の通らない、稚拙の連続だった。

 防衛装備庁の研究推進制度の表面化は2017年3月。前年に学術会議の欠員補充案に首相官邸が難色を示して、欠員のままになった。17年、学術会議は従来のように105人の新会員候補だけでなく、6人多めの名簿を官邸に持ち込んだので、「効き目あり」と見たのか、同会議想定の105人がそのまま任命された。もっとも、翌18年の欠員補充で本命と予備2人の候補を官邸に示したが、双方とも却下され欠員になった。どちらの候補も気に入らなかったものか。
 2011年までは定数超えの名簿を見せたり、人事を説明したりすることはなかった、と当時の会長は言う。安倍政権になった14年、推薦候補105人に加えて最終選考に残った12人を含む名簿を示して、結果的に予定の105人が任命されたものの、杉田副長官から選考事情の説明が求められた。詳しい事情は闇のなかだが、人事への関心が強まり、時に推薦が認められずに欠員状態まで生むようになったのは安倍政権になってからである。

*官邸人事の相次ぐ無茶ぶり 安倍、菅の2代の首相は、前述したように学術会議会員の選別を始めた。菅氏の6人排除の対応も、かねて政権にたてつく同会議の姿勢に不満があったことへの一貫した態度表明だったのだろう。
 安倍氏以来、人事権を首相官邸に集中し、各省庁幹部の人事は内閣府の人事局(つまり局長は問題の杉田和博副官房長官で、菅義偉官房長官配下)が決めてきた。そこに、出世待ちの官僚の忖度、おもねり、指示の鵜呑み、法令解釈の変更などが相次ぎ、また様々な公文書の隠ぺい、改ざん、虚偽、不公表といった事態が起こって、政治の信頼を損ねてきたことは目前にしてきた通りだ。権力の不当な執行である。「税金を使っているのに、内閣のコントロールに従わないのはおかしい」といった理由付けである。

 だが、そのような「官邸人事」は、諸官庁や学術会議ばかりではなく、広がるばかりだ。

1.内閣法制局 安保法制の解釈を変えるために、本来は論理の一貫性を維持するために内閣法制局長は内部からの持ち上がりが普通だったが、それが思い通りに動かないことから、意に沿う外務官僚を新局長に据えた。論議の上のまっとうな法令改正ではなく、「人事」によって、権力の思い通りの道を開いた。

2.最高検察庁 最高検察庁長官の人事では、検察の独立性への配慮なく、慣行上ありえない定年延長をしてまで、官邸の思いを生かせる人材(東京高検検事長)をその座に据えようとした。もっとも、これは新聞記者らとの賭けマージャンが表ざたになってつぶれたが。

3.会計検査院 会計検査院長についても、森友学園問題で財務省と国土交通省の決裁書類の食い違いを知りながら財務側の説明を受け入れ、しかも国会に報告せず、またこの土地のごみ撤去費用の試算を両省との協議で報告書に掲載しないといった問題があり、人事について官邸とのかかわりが一部で話題になった。

4.最高裁 最高裁判事選定について2017年、弁護士枠の人事で日弁連が推薦したリストにない人物が就任した。これも慣例破りのことで、政治権力が動いたとの見方が強い。
 2012年の第2次安倍政権発足後、最高裁判事の首相官邸への説明で、最高裁側はそれまでの慣例通り1人だけを提示したところ、これまた杉田副長官が「2人持ってくるように」と命じたという。そこで、2人のリストのうち本命の一方に〇印を付けて持参すると、杉田氏は「〇の方を選べというのか。これまでの内閣がなぜ、こんなことを許してきたのかわからない」と一言。司法の独立のための慣例を破り、政治の介入を強行したことになる。まさに学術会議のケースと同じなのだ。
 トランプ米大統領は、選挙直前に欠員の最高裁判事のあとに、考えの近いエイミー・バレット女史を指名した。これで、最高裁は共和党寄りの勢力分布になった。司法の独立性のためには、政党色不介入が望ましいが、日本でも権力の陰で同じような様相が強まるようにも思わざるを得ない。

5.文化勲章 いわゆる文化功労者の候補者を首相官邸に届けたところ、安保法制反対、安倍政権批判の2人について、杉田官房副長官から「政府の方針に反対するような人を候補に入れるな。官邸にもって来る前にチェックしておくべきだ」と怒られた、と当事者だった前川喜平元文科事務次官が明かした。

6.総務省 NHK改革について、消極的ともとれる発言をした担当課長が直ちに飛ばされた。この事実を、菅首相就任時に刊行された自著『政治家の覚悟』に、彼は誇らしげに書いた。官僚を恣意的に動かす一例を具体的に示して、今後も人事の怖さを知らしめようとの意図か。
 この本の再刊にあたり、初版本にあった公文書管理をめぐり、民主党政権批判ついでに「政府があらゆる記録を残すのは当然。その作成を怠ったのは国民への背信行為」と述べた部分を削除。おのれの官房長官時代に、公文書にまつわる、いくつもの不当行為を棚に上げて、ここにも政治家・菅への信頼を損ねる材料を提供している。
 菅氏は、ふるさと納税の拡充に異議を唱えた総務省の自治税務局長を自治大学校長に左遷、思い通りの政策を通した。

7.NHK NHKの幹部人事も、首相官邸の思いのままで、安倍時代にとかく問題の多かった三井物産の籾井勝人会長、石原進経営委員長、百田尚樹経営委員が起用され、官邸との距離やレベルの低い発言が問題になった。

8.大学 このような、時に恣意的となる官邸人事について、今注目されるのが国立大学法人の学長の選出。制度が変わり、学内の教授たちの意向が反映しにくくなり、政府好みの経営能力中心の人物が選ばれようとする傾向もあって、関係者は緊張する。東京大、筑波大で起きている学長選挙のもつれも、背後にこのような政治的な意図が見え隠れする、との指摘も出ている。

 政府から独立の姿勢を保つべき政府機関、教育機関、報道機関などまで、官邸人事のあおりを受ける。これは、独立性、中立性、あるいは組織内の慣行などが黙殺され、政治が恣意的に介入することを意味する。このような事態が拡散すれば、制度や運用に忖度などによるひずみが生まれ、ますます民主主義の基盤が危うくなる懸念が強まる。

 学術会議をめぐる対応は、行政改革担当などの閣僚や、自民党内などが組織改革の名を借りて、意のままに各組織を変えようとする流れが出ている。同会員の拒否問題にとどまらず、政権が思い通りに法令や慣行、国民への説明などを超越して、一定の意図的な方向に向かう危険性を見落としたくない。
 小さな誤りを許すことで、将来に大きな傷を残す事例は歴史的にも少なくない。権力の、表面上はひそかに見える跳梁跋扈。これを食い止めることは、本来の民主主義のための重要な作業なのだ。

*意外な世論調査の数字 政治の動きはなかなか裏が読み取れず、のちに法令の解釈変更、公文書の蒸発、密約の浮上、人事の交代、突然の事態発生、といった状況の変化で、「そうだったのか」と気づくことがある。したがって、こんどの学術会議の経緯を見ても、その意味合いがわかりにくく、つい見逃してしまうこともあるのだろう。
 というのも、各紙の世論調査を見ると、いずれも世論の見る目が穏やかなのだ。

 10月17、18日調査の朝日新聞
         「任命除外」を 「妥当でない」  36%
                 「妥当」     31%
 11月7日調査の毎日新聞
        「首相の説明」を 「納得できない」 56%
                 「納得できる」  33%
       「組織の見直し」を 「評価しない」  19% <前回26%>
                 「評価する」   70% <同 58%>
 11月6、8日調査の読売新聞
         「任命拒否」は 「問題だ」    37%
                 「問題と思わぬ」 44%
        「見直し検討」は 「適切でない」  24%
                 「適切」     58%
                 「わからない」  18%

 これについて、ある紙面でのコメントは「学術会議は国家による権威で維持されている」「研究者は特権層だ」といった冷めた見方があった。それも正しいだろう。別世界のことで、我々は学者研究者ほどには恵まれてないんだ、という一面もわからないでもない。
 しかし、学術や文化を、政治的思惑で支配した時に、将来の社会発展のうえでプラスをもたらすか、マイナスに作用するのか、といった視点も欲しい。時の権力が、恣意的な法解釈、説明の回避や論理的でない説明、裏事情などで動く現実を、もういちど見直してほしい。

 政治権力は短期的に移ろうもので、ときに恣意的な政治的意図をもって動く。学術研究はいわば悠久であり、将来にダメージを招かない客観性、合理性、説得力を求められる。
 そんな視点から、もう一度、考えてみてはどうか。

 (元朝日新聞政治部長)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧