【オルタの視点】
2018年3月 東日本大震災を忘れないために
東日本大震災から満7年となる、3・11を超え、8年目を迎えました。
テレビなどで流れるのは、被災地の復興の槌音や賑わいの様子です。かさ上げされた人工地盤に商店街ができた、海の幸いっぱいの丼が人気だ、と景気の良さそうな映像が流れます。確かに店の前には人だかりがあり、壁一面に芸能人とアナウンサーの色紙がベタベタと貼られています。俗悪の極み、と思いますが、これが今時の人気のバロメーターなんですかね。真っ青な海を前に真っ昼間から居酒屋に潜り込んだ感じになります。
壊滅した漁港の後背には、巨大なビルを思わせる築堤現場が広がります。
津波に壊される前の三陸沿岸の漁港の風景は、水揚げ場と建屋が岸壁に沿って広がるのが一般的な姿でした。最近では、どこも万里の長城に囲まれた岸壁といった趣に変わりました。高台に移転した商店街の真下に壁があったりして、その裏側にある道路以外に何を守るのだろうと思います。
津波が乗り越えるから災害が起きるので、逃げることを前提にして何もなしにするか、壊れることを前提にした構築物に限定した方が効率的ではないか、と素人は考えます。それ以外、この巨大な構築物は意味をなさないのではないか。津波対策として防波堤の優等生といわれた岩手・釜石港の沖合の防波堤が、ゴロンゴロンとひっくり返ったのは7年前の現実です。大震災で最大の教訓の一つだった、のではなかったか。最大値を設定するのは、難しいものでしょう。
白砂青松を根こそぎにし、無粋な巨体をただ横たえて海と陸を遮断するだけに見えてなりません。三陸の海を眺め、波音を聞きながら砂浜を歩き、民宿で汗を流して「地場前」の味をつまむ。大都会とは別世界の時計が刻んでいた流れは、もうどこにもありません。戻らないでしょう。今風のデザインで再生?された街並みを見るにつけ、そう思わざるをえません。建築物から海の人の体臭が感じられない、というか、浜の香りと無縁の人種が、これから復興の掛け声とともに羽振りを効かせる土地に変化するのでしょうか。声高に語られる復興再生ということは、そういうことかと納得させられます。もう、以前の三陸の浜の匂いや風情は消えて無くなっていくようです。
ところで今、宮城・石巻市だけでもまだ2,000人余の仮設住宅の住民がおります。住宅補助の打ち切り、復興住宅への転居を進めておりますが、ここに問題があります。年金生活者に家賃の負担がのしかかり、加えて赤の他人同士が住む住宅は「隣は何をする人ぞ」というわけです。これは高齢者にとっては、つらい。以前の向こう三軒両隣といったコミュニティが壊れてしまい、茶飲み友達やおしゃべり仲間がいない、できない。日常生活は孤独そのものです。スーパーのベンチなどには終日、お年寄りの姿があります。友がなく、個室では不安な彼らは、人混みの中の孤独を選んでいるのだそうです。
原発の被災者が、保証金でパチンコに狂い酒浸りだ、などの悪意の風評が流布されたりしているそうですが、 その前に考えてもらいたいのです。
理不尽な放射能におびえ、命からがら故郷の家屋敷を捨てて他郷に住まざるを得なかった人々の悔しさ、無念、押し殺す怒りなどを理解し、思いやることです。そこが原点ではないでしょうか。よくある無責任な世間のうわさなどを押しやることこそ、マスコミなどの本当の仕事、伝える役割ではないか。
先日、地元紙に載った「目に見えない復興」というインタビュー記事で知ったことを書きます。震災時、輪転機も社屋もない瓦礫の中で、壁新聞を張り出し続けた新聞社がありました。石巻日日新聞社です。地元住民に被害と生活情報を提供し続け、新聞協会で高く評価されました。
その編集局長だった記者が、語ります。
「目に見えない復興」が問題だ、と警告を発しています。表面的な街並みの再現、道路や護岸堤など目に見える構築物は目につきますが、実は住民の心の問題は置き去りだというのです。まだ行方不明者が400人超もいる、石巻市なのです。いまでも幽霊が出た、という話が日常会話の中で交わされるそうです。
岩手県の沿岸都市でも同じです。奇跡の一本松の街でも10メートル前後のかさ上げ工事は、急ピッチです。大型建設機械が動き回って着々と人工地盤を実現しております。津波に飲まれた宮城側の三階建ての町役場庁舎は土手の下になっていたり、護岸工事の現場では大型機器がホコリをあげて動き回っています。テトラポッドの製造現場では、ミキサー車がうなります。まさに復興工事の現場は賑やかであり、目覚ましいぐらいの猛スピードかもしれません。
しかし、他都市で避難生活する人々の故郷への回帰が鈍いとも聞きます。それぞれの土地で第二の人生が定着した人々を引き戻すのは、職業、学校などの問題もあって難しいらしい。勢い観光客などの流動する消費者相手の経済に依存する社会構造になるのでしょうか。私などは、沿岸からわずか40キロほど離れ、津波と無縁だった土地に住んでいるだけで明暗を分けました。
沿岸捕鯨の町・女川では、中学生の発案で「いのちの碑」建設運動が広がっています。津波の到達地点付近に「津波が来たらまず高台に逃げろ」と彫られています。すでに6基建てられました。 素晴らしい行動力だと思います。
122年前、宮沢賢治が生まれた年に明治三陸大津波があり、朝日新聞社の募金で三陸沿岸に「海嘯記念碑」が建立されました。路傍にあって「津波の時は、ここより高台に逃げろ」と教えていますが、知る人は少ないのが現状です。人は忘れやすい生きもの、と肝に命じて語り継ぐほかありません。耳障りなことを書き連ねましたが、意のあることをおくみ取りください。79歳の翁となりましたが、もう少し報告できればと念じております。
皆様のご健勝を祈ります。
(元朝日新聞記者。若い頃から福島、岩手なども取材。現在宮城県栗原市築館在住)
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