【マスコミを叱る】(旧タイトル【読者日記——マスコミ同時代史】)(28)
2016年3月〜4月
◆◆ 秘密最優先の政治から、安倍晋三政権の実相を考える
——「安倍晋三1強政権」ではなく「安倍晋三官僚復権政権」とすべきではないか
国会は予算成立をうけて環太平洋パートナーシップ協定(TPP)審議に移行した。協定の承認案と関連法案が、衆院TPP特別委員会で本格化しているわけだ。どうやらキーワードは「真っ黒け」らしい。
「まっくろくろすけ。真っ黒でノリ弁当のようだ」。民進党の玉木雄一郎氏が4月7日の特別委で、表題以外はすべて黒で塗りつぶされた政府資料を拡大したパネルを掲げて叫んだ。民進党の主張によると、甘利明前TPP担当相(閣僚辞任)とフロマン米通商代表との個別交渉に関して、政府は45枚の資料を提示したが、表題以外は全て黒塗りだという。
「全てが秘密とされ、交渉経過について何の情報もないのでは審議できない」という玉木氏らの主張に対して、安倍晋三首相は「交渉して妥結した結果が全てだ。結果に至る過程がすぐ表に出るなら、外交交渉は成立しない」と反論した。
国会の質疑応答は前例踏襲が「原則」といってもいいほど。しかしこうしたやり取りは前例がない。外務省は「秘密」が大好きな役所で、世界各地の大使館・領事館との間で毎日数百通もやり取りされる公電には「極秘」「厳秘」などのゴム印を押すのが、担当課の庶務担当職員の日課となっている。それでも国会議員からの資料要求には、それなりのサービスをしてきた。表題以外の全てを塗りつぶした「真っ黒け資料」など出されたことはない。
真っ黒け資料を作った元凶は特定秘密保護法ではないか。一昨14年12月10日施行された。同法の運用を監視する機関として内閣府に20人体制の情報保全監察室を発足させ、そのトップである「独立公文書管理監」も任命された。法律上、管理監は▼1.特定秘密の恣意(しい)的な指定や、不正な管理が行われていないか検証・監察する▼2.指定省庁に資料提出や調査を求める▼3.不正があれば秘密の指定解除の是正を要求する——などの権限を持つとされている。しかし強制力はなく、省庁側には資料提出などの拒否権もあることが法律の条文に明記されている。
管理監に任命されたのは法務省法務総合研究所研修第1部長だった佐藤隆文。佐藤は検事で、当時52歳。法務総合研修所というのは各省庁とも持っている「政策研究」機関。当然のことながら、「盲腸」と陰口される存在である。「あってもなくても良い」という人も多いが、ホントのところは「ない方が良い」である。人体の一部であるホンモノの盲腸は、何の役にも立たず、虫垂炎を引き起こすだけだ。たとえの「盲腸」の方も、同じ意味であるべきだ。
佐藤は、それまでの経歴でも目立った役職は千葉地検刑事部長程度。「50歳で検事正でなければダメ」といわれる法務・検察官僚の常識から考えても、重視された故の人選ではない。「管理室」のメンバーも法務省・警察庁・外務省・内閣府などの混成。出身省庁との縁を切る「ノーリターン」ルールもないから、それぞれ出身省庁を代弁し、管理室の動きを報告・連絡することを最優先した言動を展開しているはずだ。管理監をトップにした管理室は秘密保持最優先で運営しており、「(国民に)知らしむべからず」という官僚エゴにブレーキをかけたことなど無い。
TPPだから「外交交渉」が秘密の理由となっている。しかし今後の国会審議では、秘密と黒塗りが前例となり、政府の情報提供は「原則ゼロ」となってしまうのではないか? 「特定秘密保護法下で、国会は『国権の最高機関』(憲法41条)の地位を失ってしまう。それが問題のポイントだ」と言いたい。こう書くと当然「いままで最高機関だったの?」という皮肉の声が響いてくる。答えは当然のことながら、その皮肉こそ真相だ、ということになる。憲法41条は無視され、国会は「国権の最高機関」でないばかりか「唯一の立法機関」でもない。
日本では、憲法7条(天皇の国事行為)を根拠に首相(内閣総理大臣)が恣意的に衆院を解散し、総選挙にうってでることが可能だ。また衆参両院で可決され成立する法律のほとんど全てが政府提出である。
憲法41条では「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」だが、政治の実態は「内閣総理大臣は、国権最高の存在であり、内閣は国で最強の立法機関である」というところだろう。
安倍政権は「1強」と言われる。「安倍1強政権」という言葉は定着しているが、正しいとは思えない。「安倍官僚支配政権」という呼称の方が、実態を反映している。
自民党内に、反主流はもちろん非主流と言える勢力がなくなった。連立与党といえども政党の成り立ちそのものが異なる公明党も、安倍晋三主導の政権運営に異論を挟まない。そうした永田町の構図だけで政権を命名するというのは、あまりにひどい短慮だろう。
日本の政治を、霞が関の官僚機構を抜きにして語ることはできない。明治政府の成立(明治改元・東京遷都は1868年、内閣制度発足は1885年)以後、日本の国政の特色は一貫して官僚支配だったことにある。明治憲法で主権者は天皇だった。現行の戦後憲法で主権者は国民だった。
20年以上も前のことだから、もはや過去の歴史に属する事柄だろう。「新党ブーム」が起きたとされる1993年7月総選挙で、自民党(宮沢喜一総裁)の獲得議席は223にとどまり、過半数・256を大幅に下回る敗北だった。非自民・非共産の7党・1会派の連立で細川護煕(日本新党代表)を首相とする内閣が成立し、「55年体制が終焉(えん)した」と大騒ぎになった。
このとき首相以下の閣僚は「総取っ替え」となったが、変わらなかったのが事務担当の官房副長官・石原信雄だった。自治事務次官だった石原は1987年11月、竹下登内閣の内閣官房副長官(事務事務担当)に就任。以後、村山富市内閣まで7つの内閣で副長官を務めた。
2011年12月26日付朝日新聞朝刊政治面に「(教えて!政治の疑問)官房副長官って何人いて、どんな仕事をしているの?」という記事が掲載されている。その中に、以下の文章がある。
<事務の副長官は官僚機構のトップと言われます。中でも首相7人に仕えた石原信雄さんは「陰の首相」と呼ばれました。通勤途中まで記者の取材を受けた当時を「十何社(の記者が)一緒にぞろぞろと行くものですから、(東急)田園都市線の名物になってしまった」と振り返っています。>
「陰の首相」という言葉は、朝日新聞政治部の認識だろう。「十何社(の記者が)一緒にぞろぞろと行く」「田園都市線の名物」など「」内の言葉は石原氏本人のものと思われる。首相が徒歩で行動するとき、報道各社の首相番記者がそろって「同行」する。石原の出勤のときも同じ情景になっていたのだろう。
石原が副長官を務めた7つの内閣の首相は、竹下登の後、宇野宗佑▼海部俊樹▼宮沢喜一▼細川護熙▼羽田孜▼村山富市である。宮沢までが自民党政権、細川・羽田両政権は後に新進党となっていく小沢一郎主導の政権、村山は自社さきがけの連立政権だった。自民党の政権独占だった55年体制を小沢一郎らが崩壊させた。その結果生まれた「反自民政権」は細川・羽田の2代、丸1年に満たない短期(93年8月から94年6月)で終焉してしまった。村山政権は自社さ連立で、首相・村山は当時の社会党委員長だったが、その誕生に至るまで羽田内閣不信任案を提出するなどの政治劇は、自民党主導だった(不信任案は提出されたが、衆院での採決に至らず、当時首相の羽田が6月25日総辞職を決断した)。
2009年9月、鳩山由紀夫・民主党政権が成立するまで、閣議の前日には事務次官会議が行われていた。閣議に諮られる議案は全て事務次官会議で了承されたものだった。閣議を主宰するのは首相(内閣総理大臣)で、司会は官房長官。議案を説明するのは通常、事務担当の官房副長官だった。官房長官が事務担当副長官を名指しして「説明させます」と発言していた。
閣議前日の事務次官会議は、主宰が事務担当の官房副長官だった。その場で、閣議にかかる案件は全て議案となり了承される。事務担当の官房副長官こそ、内閣の政策決定の中心人部だった。事務次官会議で了承を求めるすべての案件は、関係省庁間で協議され、了承を得たものだった。重要な案件については、事務担当官房副長官が、関係省庁間省庁間協議の進展ぶりについて報告を求めることもできた。これこそ「陰の首相」の役割だったのである。
ホンモノの首相が、関係閣僚に対して省庁間協議の進展ぶりを問い合わせるといったことが仮にあったとすれば、「首相の意図は?」「閣僚はどう答えたのか?」が政界の話題となり、「政局だ!」という騒ぎに発展しかねない。陰の首相=事務担当副長官の役割は大きかったのである。
日本政治の「支配原理」となっている官僚支配のことを考えると、永田町の「政界」だけに着目している政治報道は真実とはいえない。93年6月から8月にかけての「55年体制の崩壊」も、実態は「石原信雄のウラ支配」は継続していた。同時に「安倍1強政権」と名付けるのもおかしい。「安倍官僚屈服政権」というあたりが正解ではないか。
石原信雄著となっている本に「官邸2660日——政策決定の舞台裏」(1995年5月、NHK出版)がある。どうやら石原は記憶をたどって、在任中の政治状況、課題、首相らの言動、自らの行動などについて語っただけ。執筆はNHK出版の記者というゴーストライター本のようだ。私はアマゾンで購入した。どこか図書館の蔵書だった痕跡のある古書だが、保存状態は良好。価格は138円。送料257円を併せても395円。定価1,700円(内税)の本だから安い買い物だったと思っている。内容は豊かで、少なくと副題は「陰の首相・7代の内閣を語る」で良いという印象を受けた。
第3次安倍晋三内閣の場合、事務官房副長官の杉田和博は間もなく74歳になるという高齢だ。警察官僚で、オウム真理教事件のときの警察庁警備局長。最終ポストは神奈川県警本部長というから、警察官僚の中でも、「トップの俊英」とは言い難い。警察官僚の事務副長官としては後藤田正晴の前例があるが、後藤田とは比較にならない小物」だろう。後藤田の場合、事務副長官として「陰の首相」ぶりを発揮したから、中曽根康弘が官房長官に起用したのである。官房副長官のとき(田中角栄内閣)と官房長官のとき(中曽根内閣)と2回、「陰の首相」だったことになる。
安倍内閣の「陰の首相」は、首相秘書官と地位は低いが今井尚哉(57)だろう。首相秘書官は、事務4人と、政務1人とするのが通例。事務秘書官は財務・経産・外務の各省と、旧内務省系省庁(警察、総務、厚労など)から各1人選ぶのが慣例。人選は各省庁の推薦によるとされている。
政務秘書官については、首相になった政治家が、国会議員として秘書に使っていた人物を起用するのが通例だった。しかし安倍晋三首相の場合、「お気に入り」の官僚を政務秘書官に起用し続けている。今井は第1次安倍内閣で、経産省代表の事務秘書官を務め、このとき安倍のお気に入りになったとされる。
第1次内閣は1年で退陣となったが、首相に復帰、第2次内閣を組閣したさい、今井を政務秘書官に抜擢したのである。今井の父親は単なる勤務医だが、その父親の弟、すなわち叔父の一人、今井善衛は、城山三郎の小説「官僚たちの夏」の主人公のモデルとしても知られる人物だった。商工官僚から通産官僚に移行、トップの事務次官にまで登りつめた。また、同じく叔父の今井敬は、新日本製鐵の社長を経て経団連会長を務めた。今井尚哉は若手通産官僚だったころから、永田町や霞が関界隈で「サラブレッド」扱いされてきたという。
安倍晋三は自身、元首相・岸信介の孫であり、同じく元首相、佐藤栄作の甥でもある。その血縁こそ、「安倍晋三の最大の財産」と自認しているのだろう。安倍は1999年、衆院厚生委員会理事で、年金改革案を取りまとめるという課題に取り組んだ。このときの「仲間」が、塩崎恭久(厚労相)根本匠(元復興相)、石原伸晃(TPP担当相)で、4人の頭文字を取って「NAIS(ナイス)の会」と呼ばれていた。4人の「同志的関係」は、永田町の話題となるほどだった。「血縁政治家」であるだけでなく「血縁好み政治家」でもあるのが、安倍なのである。
「安倍政権下の首相官邸」をテーマとした本を読むと、どうやら連日、安倍首相、菅義偉官房長官ら官邸主要メンバーによる会議が行われているらしい。出席者は4、5人らしいが、その一員が今井尚哉である。今井の発言は多くないが、安倍によって重視され、多くは実現することになるという。
事務担当官房副長官には遠く及ばない単なる首相秘書官だが、今井尚哉こそ、第2次・3次安倍内閣の「陰の首相」と言ってもいいだろう。「血縁エリート仲間偏重」という異常な形をとったこの官僚主導こそ現在の安倍政権の特色であろう。「安倍1強政権」ではなく「安倍血縁偏重政権」あるいは「安倍官僚復権政権」の方が、真相に迫っていると主張したい。
(注)
1.2016年4月15日までの報道・論評が対象です。
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3.政治家の氏名などで敬称略の部分があります。
4.今号はこのテーマに絞りました。
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(筆者は元毎日新聞記者)