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≪連載≫

■A Voice from Okinawa (18)          吉田 健正


◇普天間基地の起源――基地ではなく、周辺の学校や病院を撤去?


  長い間米国で報道活動を続けたTBSの金平茂紀氏は、ニューヨークから日米
関係に関する日本のメディア報道を見ると、「沖縄の普天間基地移転問題が、ま
るでニチベイのすべてであるかのような印象を受けた」という(『報道再生』角
川書店、2011)。「いちばん極端なのは、普天間基地移転が旧政権下で合意され
た辺野古移設案に沿って履行されない場合は、「日米関係が『崩壊する』とい
う、脅しにも近い主張を繰り返す人々がいたことだ。東京にもワシントンにもそ
のような記者・識者がいた。彼らには沖縄が見えない。見えているのは、ニチベ
イという抽象的な安全保障上の概念である」
 
  金平氏によれば、そういう事態を招いたひとつの要因は、「外務省記者クラブ
や防衛省記者クラブを歴任した記者が多くワシントンヘ派遣され」、そうした特
派員たちがマイケル・グリーンやリチャ-ド・アーミテージといった、おなじみ
の日米同盟唱道者にばかり取材するからだ、という。
 
  米国の日米安保派に頼って、普天間基地移設問題をあたかも日米関係の運命を
握る一大懸案だと報道・唱道する主体性のない日本の通信社と新聞・テレビ。そ
こにも問題はあるが、ひずみの根源は、こうしたメディアが、独立性・客観性を
失い、日米同盟の解釈・運用を米国にまかせっきりの政府(政権と官僚)と一体
になっていることにある。しかも、メディアも政府も、過去65年にわたって過酷
な状況におかれてきた沖縄の民意を、全くといってよいほど無視する。普天間基
地移転問題をニチベイ同盟と一体視しながら、沖縄の歴史を知らな過ぎる、沖縄
住民の境遇に無関心過ぎる。
 
  昨年12月の訪沖中に、普天間基地の「危険性除去」のために、基地ではなく、
周辺の学校や病院や老人施設などの移転を検討する案を表明した前原外務大臣の
発言や、沖縄県民には日米同盟のために普天間基地の辺野古移設を決めた日米合
意を「甘受」して欲しいと述べたのに続いて前原氏の考えを容認した仙石官房長
官の発言、そしてそれを批判しない大手メディアは、沖縄を「化外の地」「植民
地」扱いしている。そもそも、沖縄県民が求めているのは、管首相、前原外相、
仙石官房長官などが辺野古移設について口にする「お詫び」や「お礼」ではない。

 なぜ人々が求める日米合意の見直しによる辺野古移設取り止めに取り組もうと
しないのか。 そこで、今回は、住宅、学校、病院などに隣接して、「世界で
もっとも危険な飛行場」といわれる海兵隊普天間航空隊基地が、なぜ市街地の真
ん中に航空隊基地があるのか、その起源を探ってみる。この基地が、まるで沖縄
の米軍基地の歴史と現状を象徴するかのように、誕生し、危険をまきちらしなが
ら居座り続けてきたことを、理解していただけるのではと思うからである。そし
て、政府とメディアに、これ以上の「沖縄イジメ」をやめて欲しいと願うからで
ある。


◇サトウキビ畑の農村地帯


 
  東シナ海を望むこの丘陵地は、かつては、サトウキビ畑とサツマイモ畑に囲ま
れた、宜野湾(ぎのわん)、宇地泊(うぢどまり)、神山(かみやま))、大山
(おおやま)、新城(あらぐすく)、嘉数(かかず)、喜友名(きゆな)、真志
喜(ましき)といった集落が並ぶ農村地帯だった。普天間には15世紀に起源をも
つといわれる普天間宮があり、首里から毎年、国王や役人が参拝に訪れていたと
いう。途中の道はおよそ6キロにわたって松並木(1932年に国が天然記念物に指
定)になっていた。
 
  明治時代後期に一帯は宜野湾村(そん)となり、中頭(なかがみ。沖縄本島中
部)郡の中心地として郡役所や県立農事試験場などが置かれた。また1922年に沖
縄県営(軽便)鉄道が那覇―嘉手納間に敷設されると、宜野湾村内に大謝名駅、真
志喜駅、大山駅の3駅が設けられ、大山駅では村内で収穫されたサトウキビが積
まれて嘉手納の製糖工場に運ばれた。
 
  (1944年10月10日の、いわゆる「10・10空襲」後、嘉手納線は軍専用となり、
沖縄戦が始まる直前の翌年3月には運行が停止された)。 人口の増加にともな
い、1939年には、長田、愛知、赤道(あかみち)、上原真栄原(まえはら)中原
などの新しい字(あざ=行政区)が設置された。


◇ハーグ条約に違反した土地没収


 
  しかし、松やサトウキビが海からの風でそよそよ揺れる、静かなたたずまいの
この農村地帯は、沖縄戦により一変した。1945年4月1日に読谷海岸に上陸した米
軍の部隊が、陸軍沖縄北飛行場(のちの北谷補助飛行場)や中飛行場(嘉手納空
港)を爆撃・占拠した後、日本軍司令部のある首里をめざして南下する途中で、
日本軍の要塞がおかれていた嘉数高地(第70高地)をめぐって激しい攻防戦を繰
り広げたのである。嘉数高地には、現在、慰霊碑とともに、普天間基地を見下ろ
す展望台が設けられており、多くの見学者が訪れる。
 
  この激戦で、米軍は4月末までに一帯を制圧した。日本軍の死者は6万人、米軍
の死者も1万人を超えたという。多くの地元民が、周辺の自然壕、屋敷内に掘っ
た壕、井戸などに隠れていた。沖縄戦では、およそ宜野湾村民1万4千人のうち、
3千6百人が犠牲になった。
 
  沖縄戦を指揮した日本軍司令官の牛島満中将が、沖縄南端の壕でナンバー・
ツーの参謀長・長勇中将とともに自殺したのは6月22日。これにより、沖縄にお
ける日本軍の組織的抵抗は終了した。米軍は、すでに45年3月、沖縄本島を中心
とする南西諸島を、日本の施政権から切り離して、自らの統治下においていた。
 
  沖縄戦開始とともに日本軍の統括を離れて壕に隠れていた老人・女性・子供を
中心とする沖縄住民は、すでに4月の段階から米軍に見つかって、上陸とともに
設立された米軍政府の保護下に置かれていた。その数は4月末で12万8千人、6月
初めまでに14万4千人、6月22日までに19万6千人に達した。

 米軍は沖縄本島南部で掃討戦を展開しながら、読谷村楚辺(そべ)、金武村屋
嘉(やか)、北中城村安谷屋(あだにあ)など占領下の沖縄本島中北部各地にテ
ント小屋の「収容所」を設置して、これら避難民を収容した。本島南部の戦線か
ら宜野湾村野嵩(のだけ)の収容所に運び込まれていた人々は、中北部の収容所
に移された。
 
  沖縄で、あるいは日米間で戦争が続いている間、米軍は工兵隊を動員して破壊
された飛行場や道路・橋・港湾を補修し、弾薬、資材、食料などを保管した。対
日決戦や戦後の封じ込め作戦に備えるため、各地に新たな軍事施設も建設した。
 
  宜野湾村では、米軍は収容中の住民に無断で真志喜を接収してキャンプ・マー
シーを設置し、陸軍病院、獣医センター、米人小学校などをおき、西隣の宇地泊
にはキャンプ・ブーンを造営して憲兵隊司令部、陸軍中央パス発行所、陸軍民間
人事部などをおいた。
 
  そして、4つの集落(宜野湾、神山、新城、中原)を中心とする一帯には、中
型爆撃機用滑走路を擁する飛行場を建設した。私有地の囲い込み→無断使用は、
明らかに、第46条で、占領地における「私有財産の没収」を禁じたハーグ条約(
1907年にオランダのハーグで開かれた第一回万国平和会議で調印された陸戰ノ法
規慣例ニ關スル條約)に違反する行為であった


◇住民収容中に基地建設


 
  沖縄戦は6月に終わる。8月には日本がポツダム宣言を受諾し、9月2日には東
京湾に停泊した戦艦ミズーリの甲板で、また沖縄では嘉手納飛行場で降伏調印式
が行われる。こうした動きとともに、米軍はその年の暮れから翌年にかけて住民
を帰村させた。 しかし、米軍が基地、演習場、陣地、弾薬保管所、資材置き場
などに使うため接収した土地への帰郷は許されなかった。
 
  帰る故郷を失った宜野湾の人々は、戦後、やむなく各地に散ったが、一部はい
まやフェンスに囲まれてしまった先祖の墓、拝所(聖地)、井戸、遺跡、そして多
くの思い出が残るかつての村に帰る日を夢見て、基地周辺に移り住んだ。 キャ
ンプ・ブーンは1974年に、キャンプ・マーシーは1976年に返還されて住宅地に変
わった。しかし、飛行場は朝鮮戦争が終結した53年に滑走路が2400メートルから
2700メートルに延長されたほか、ナイキ・ミサイルが配備された。

 そして1969年には、カリフォルニア州キャンプ・ペンドルトンからいったん岐
阜県に移駐したのち、反対運動に遭って米軍政下の沖縄に移った第1海兵航空団
第36海兵航空群のホームベースとなった。 これが、大型ヘリコプターが住民地
域の真上を、連日、大きな爆音をたてながら低空飛行訓練や滑走路でタッチ・ア
ンド・ゴー離着陸訓練を行う「世界一危険」な普天間海兵隊航空基地と普天間基
地問題の生い立ちである。

 1972年の沖縄復帰後、普天間基地の西側を通っていた軍用道路・一号線は国道
58号線として整備・拡張され、東側にはバイパス(国道330号)そして那覇から
沖縄市をへて名護市につながる高速道路(沖縄自動車道)が開通し、普天間一帯
は便利になり、人口はさらに増えて商店や小学校、中学校、高校、学校、病院を
擁する市街地として発展した。米兵を相手にしていた飲食店街、売春街、土産品
店、自動車修理場は消え、米兵事件も激減した。
 
  フェンスに近接して、2004年にヘリコプターが墜落・炎上した沖縄国際大学の
ほか、丸木位里・俊夫妻による「沖縄戦の図」で知られ、屋上から間近の普天間
基地を眺めることのできる佐喜眞(さきま)美術館がある。


◇近くに広大なキャンプ・ズケラン


 
  宜野湾市にある米軍基地はそれだけではない。普天間基地のすぐ北には、終戦
直後に強制接収された土地につくられたキャンプ瑞慶覧(ずけらん)が広がる。
一部返還・再開発されたものの、現在も宜野湾市のほか、北谷町、北中城村にま
たがる「街」と司令部を抱える面積6400平方キロのキャンプ瑞慶覧(別名キャン
プ・フォスター)は、米軍が在日海兵隊司令部〔兼在沖四軍調整官司令部〕を構
える在日米軍の要所。キャンプには、兵舎、家族住宅、幼稚園、小中高校、図書
館、消防署、郵便局、銀行、教会、売店、食堂、映画館などの娯楽施設、運動施
設、キャンプ間のバス・サービスなど、日常生活に必要なものがそろっている。
 
  2009年に近くのキャンプ桑江から普天間神宮裏に移設された海軍病院は、救命
救急、 一般診療科、一般外科、 放射線科、内科、 産婦人科、小児科、耳鼻咽
喉科、歯科、整形外科、精神科、泌尿器科などを揃えた、米海軍が海外で有する
最大の病院だ。 かつて沿岸に住民を強制的に撤去させ、軍用道路1号線の西側
に造ったハンビー(ヘリコプター)飛行場は撤去され、今は観覧車、映画館、飲
食店などが立ち並ぶ北谷町美浜(通称「アメリカン・ビレッジ」)として発展し
ている。


◇基地閉鎖か学校・病院立ち退きか


 
  伊波前市長によれば、沖縄が「本土復帰」した1972年以降、普天間基地所属の
ヘリコプターやプロペラ偵察機の墜落事故は15回起き。47人の米兵が死亡したと
いう(『世界』2010年2月号)。2004年8月には、輸送ヘリがフェンス際の大学
構内に墜落・炎上、乗組員の米兵二人が負傷し、住宅街に破片を撒き散らして、
事故現場周辺を封鎖した。
 
  普天間基地は、米国連邦航空法の航空施設基準(安全を確保するための土地利
用禁止区域=クリアゾーン)を満たしていない。「その区域には、1950年代から
(沖縄住民の)住宅があり、60年代から小学校もある」が、基地は「何もないと
いう虚偽の前提の下に存在している。アメリカ国内の基準を満たさないものが、
沖縄ではまかりと通っているのです」(『世界』)。  
 
  基地と周辺住民の間には、「エンクローチメント」という問題が起こりがち
だ。基地にとってみれば、防衛上の理由で作られたにもかかわらず後から移り住
んだ(危険に接近した)住民が危険性、騒音、照明、電波障害などを迷惑視する
考え方、住民にとっては、基地がもたらすそうした危険性、騒音、照明、電波障
害、自然環境の汚染・破壊、事故や犯罪、住宅地や商業地の開発障害といった生
活上の「迷惑」が、エンクローチメントになる。米軍が住民の留守の間にその土
地を奪い取って基地(しかも、米国の法的基準を満たさない基地)をつくった普天
間の場合は、明らかに、非は住民ではなく、米軍にある。
 
  そうであれば、日本政府は、住民が求めてきた、憲法によって守られるべき安
全と平穏を実現すべく普天間基地の一日も早い閉鎖・撤去を求めるべきであろ
う。しかし、前原外相も仙石官房長官も、逆に、住民に米国の要求を最優先し
て、基地を継続使用(固定化)するため、多大の不便を与える小学校や病院の移
転を提案する。2009年12月には、当時の平野博文官房長官が、「基地から地域住
民の距離を離すなど」、すなわち住民を集団移転させるなどの危険性除去策を口
にして、宜野湾市民の怒りを買った。
 
  移設先は沖縄県内しかないと、白羽の矢を立てられた本島東北部、ジュゴンの
海に面する辺野古。管首相は、そこが「ベスト」ではないが、事故が起きたとき
のことを考えると、人口密集地の普天間よりは危険性が少ないという意味で「ベ
ター」な選択肢だとして、日米合意通りに進める意図を示している。日本全国に
は、辺野古のような「過疎地」はいくらでもある。だのに、なぜ辺野古なのか。
なぜ、普天間や辺野古よりはるかに危険性の少ない、グアムやテニアンの遊休化
した広大な飛行場への移設を米国に求めないのか。
 
  本来は、「国民(民意)」の側に立って権力を監視すべきメディアは、普天間移
設が日米合意に沿って実施されなければ「ニチベイ」が崩壊すると、米軍や日米
同盟の視点だけに基づいて報じるのではなく、普天間基地周辺や移設地・辺野古
の「エンクローチメント」状況や民意を取材して報道・評論すべきではないか。

 辺野古住民の安全性や生活、サンゴ礁の海についても報道すべきではないか。
全国的な日米同盟支持と矛盾する全国的な米軍基地受け入れ反対(「総論賛成・
各論反対」)の根拠を取材・検証し、民意に基づく対米交渉を迫る大手メディア
もない。政府もメディアも、そろそろ安保に基づく「米国ベッタリ」から民意に
基づく国民重視に舵を切ったほうがよい。そうしないと、日本も、その民主主義
も平和主義も近隣関係も危ない。

         (筆者は沖縄在住・元桜美林大学教授)

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