【短期連載】
■「2008年秋の政権交代」への私見 工藤 邦彦
◇◆その3―「負の前提」からの福田政治◆◇
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福田康夫氏が今年9月1日に「首相辞任」の決意を表明したとき、彼が記者たち
の前で言った言葉は次のようなものだった。「国民生活を第一に考えるなら、今
ここで政治的空白を生じ、政策実施の歩みを止めてはならない。この際、新しい
布陣の下に政策の実現を図らなければいけないと判断し、本日、辞任することを
決意した」「(毎日9月2日)。
この会見で福田首相が語った後継政治への"期待"は満たされたか。 麻生政権
――これが「政権」といえるものかどうかは別にして――の今日のドタバタを見
れば、その結果は一目瞭然である。いま私たちが目撃しているのは「政治的空白
」どころか、政府と与党が入り乱れて"糸の切れた凧"のように冬空を飛んでいる
光景である。
政治に関する新聞の世論調査を鵜呑みにするわけではないが、12月8日に発表
された現時点で最も新しい新聞各紙の麻生内閣支持率は、朝・毎・読いずれもわ
ずか1ヵ月ほどの間に21~22%にまで「急降下」した(不支持は逆に6割台に急増
)。政治の本質は「速度」に現れるが、麻生政権のこの驚くべき下降速度は、単
なる目先の政局を超えて、<支配システムとしての自民党政治>がすでに内的に
解体していることの明白な証明であり、いまやその終末は誰の眼にも明らかにな
ってきた。
この政治支配の「底抜け」状況は、バラマキ政策の財源探しと、とりわけ予算
編成における「シーリング(概算要求基準)外し」への動きに何よりその本質が
現れており、それにつながって既に破綻したはずの「小泉改革」の旧い対抗モデ
ルまでが、党の垣根を越えて何やら復活の蠢きを始めている。今日の政治支配の
根幹に関わるこの問題に触れておきたい気もするが、いまは、この政治状況への
引き金としても作動した「福田首相の辞意表明」の時点に足を止めて、さらにそ
の意味を考えていくことにしたい。
◇◇福田政権が引き継いだもの◇◇
本稿の第1回で書いたように、あの福田首相の辞意表明の折、会見会場の政治
記者たちは「福田辞任と与党の関係」について、一言も質問を発しなかった。さ
すがにその翌日の新聞各紙では、福田首相と公明党との確執を指摘する記事が目
立ったが、それでもその当時の新聞などには、会見での福田氏の言葉をほぼその
まま受け取って、「首相は民主党との政治的駆け引きに行き詰まって政権を投げ
出した」などと解説する記事や"識者"の文章が多かった。「ねじれ国会」の下で
の民主党との争いこそが福田辞任の原因であるというのである。だが、それだけ
だったろうか?
福田政治の1年間を規定していたものは、次の「3つの前提条件」であった。
1)近年の自民党が基本路線として進めてきた行財政と経済の「改革路線」。
――しかしこの20世紀末以来永く続いた<橋本=小泉型改革>の破滅的な結果は
、すでに福田首相の就任時には誰の眼にもはっきり見えていた。
2)小泉政権から安倍政権へと引き継がれた対米追随=反アジアの「安保・外
交路線」――これも既に出口を失っていたが、安倍政権は季節外れの反動政策(
戦後レジームからの脱却)と合わせて、さらにこの路線を性急に進め、内外の緊
張を高めていた。
3)衆議院における3分の2を超える与党議席と、参議院で過半数を制した野党
議席という「相矛盾した政治配置」。――この一般に<ねじれ>と呼ばれている
国会の状況も、結局は「小泉改革」の帰結として生まれたものであり、これが安
倍首相の文字通りの「政権投げ出し」の原因となった。しかもその背後では自民
党総体の政治的解体が急速に進行していた。
これらのいわば「負の3条件」は、当初から福田氏によって明確に意識されて
いたはずであり、だからこそ彼が自民党各派閥の総意の形で新総裁に選出された
とき、自ら「これは貧乏くじになるかも知れませんけどね」と言っていたのであ
る。
まず、これらの福田政治の前提条件について、ざっと振り返っておこう。
◇◇小泉「構造改革」とその破綻◇◇
福田政治を規定した基本的動因は、小泉=竹中の「構造改革路線」とその破綻
である。
そもそも2001年4月から6年間にもわたる小泉政治を可能としたものは、(1)"自
民党をぶっ潰す!"というスローガンの下に展開された<逆改革>のポスト近代
化政策と、(2)その政治を「小泉劇場」とはやして盛り立てたマスジャーナリズム
、そして(3)それに踊らされた有権者大衆(mass)の先の見えない「改革支持」だ
った。
この長期政権は、小泉首相がブッシュ米大統領の前でプレスリー踊りをやるよ
うな破廉恥に象徴される「対米追随の戦争政策」にくわえて、「規制緩和・金融
資本主義化・大企業支援」の強引な政策を展開し、「国民生活の維持向上と社会
的安定」のためのあらゆる制度をぶち壊した。そしてついには4分の3世紀も前の
プロレタリア文学『蟹工船』がベストセラーになるような今日の姿に帰着する社
会状況をつくり出した挙句、その"改革政策"自体を放り出して、政治の舞台から
退場したのである。
この「改革」の展開と破綻の過程を、いま改めて記述する余裕はないが、ここ
で指摘しておきたいのは、この政策を主導した「竹中平蔵」なる人物の政治的無
責任である。
彼は小泉氏が「自民党総裁の任期を満了した」という理由で退陣したのを好機
に、(1)小泉首相という虎の威を借りて(財界と御用学者主導の「経済財政諮問会
議」なる非議会的回路によって)自らが提起推進した政策の結果など"われ関せ
ず"と、その政策遂行責任を投げ出しただけでなく(彼は小泉内閣で「金融担当
」「経済財政担当」「内閣府特命・郵政民営化担当」「総務」などという重要閣
僚ポストを歴任した大臣である)、(2)参議院選挙の比例区選出議員として国民か
ら負託を受けたはずの「議員身分」さえ投げ出して、気楽な "経済学者"に舞い
戻り、今またあちこちで無責任な言論を撒きちらしている。
もうマスジャーナリズムの記憶からは抜け去っているかもしれないが、小泉首
相が絶頂期だったあの05年の衆議院選挙で、当時自民党幹事長だった武部氏は例
のライブドア・堀江某の片手を高々と上げ、「弟です、わが息子です」と言った
。その同じ選挙で竹中氏は自民党郵政反対派に向かい、選挙カーの上から「あな
たたちの帰ってくるところは、もうないんです!」と叫んでいたのである。
◇◇安倍政権という"ドンキホーテ"◇◇
この小泉=竹中の実質的な政策投げ出しのあとを受けて、「美しい国へ」とい
う"文学的な"政治スローガンを掲げて登場したのが安倍政権である。
自民党の世襲議員の典型のような、この年若く温室育ちで、ひ弱な政治家は、
内外政策とも一回り小ぶりの「小泉継承政権」の担い手にすぎなかったのだが、
彼らの小さな政治グループは、頭の中の「戦後レジームからの脱却」という風車
に向かってドンキホーテのように突進し、日本国憲法の清算を最終目標にして、
教育基本法の根本改定、防衛庁の省昇格などを実現させ、そのうえさまざまな反
動政策に着手した。それを可能にしたのが、あの衆議院の3分の2以上という"猫
だまし選挙"の遺産と、森氏や小泉氏らのサポートであったことはいうまでもな
い。
この政権は外交政策では、当初こそ対中政策で小泉政権の出口なしからの転換
をはかったものの、その後は「ブッシュの戦争政策」にいっそう加担追随する形
で外交政策を展開した(この政権で外務大臣を務め、中東からインド、オースト
ラリアまでを連ねる親米連合の形成を画策していたのが麻生現首相である)。
しかしこの内閣は発足直後から、本間正明政府税制調査会長(彼は第1次小泉
内閣以来継続して経済財政諮問会議の民間議員でもあった)による公務員宿舎不
正使用から始まって、柳沢厚労相の「産む機械」発言、松岡農水相の自殺、年金
記録問題、久間防衛相の原爆投下をめぐる発言、さらにはその後の農水大臣人事
の相次ぐ失敗など、政策運営に躓きどおしで、ついに07年7月末の参議院選挙で
歴史的大敗を喫し、公明党を合わせてもなお与党の過半数割れという結果をもた
らした。そして1ヵ月以上も「総理の椅子」にこだわったのち、所信表明後の衆
院代表質問の日(9月12日)に突然辞任して、その政権を"投げ出した"。この安
倍氏もやはりその後、恥ずかしげもなく政治的発言を続け、今また公然たる再起
を期しているようである。
(注:安倍首相が進めた一見<超・戦前回帰型>の政治は、彼の政権投げ出しで
一応頓挫したが、同時にこの政権によって「戦後憲法改革」に反対する一切の古
い残滓が温存され、<ポスト近代>的な緊張と相俟って社会の伏流となり、生き
延びていることを忘れてはならない。これが21世紀早期の情報大衆社会において
、一定の条件下で或る種の<化学反応>を起こす可能性は排除されないのである
)。
◇◇福田首相自身が語る「福田政治」◇◇
2代にわたる政権のこのような政治的「遺産」を継承して登場したのが、福田
康夫氏である。彼は昨年9月23日の自民党総裁選で、各派議員の全面支持を受け
て新総裁に就任し(総得票数は福田330対麻生197)、前内閣の閣僚をほぼそのま
ま引き継ぐ形でその内閣を発足させた。
福田政権が追求した政策を振り返るには、福田氏自身の言葉が最適である。彼
の今年9月1日(月)の辞意表明会見での発言を先入観をもたずに聞いてみると、
当時この内閣が抱えていた課題と、その行く手を遮っていたものが見えてくる。
福田氏はまず会見の冒頭から、自分は参議院での与党の過半数割れという状況
の中で「困難を承知で」政権を引き受けたと言っている。そして最初から政治資
金の問題、年金記録問題、C型肝炎問題、防衛庁の不祥事等、次から次へと「積
年の問題」が顕在化してきたことを指摘し、その問題の処理に忙殺されたと言う
。しかし自分としては、「その中で将来を見据えながら、目立たなかったかもし
れないが、誰も手を付けなかったような、国民目線での改革に着手した。例えば
、道路特定財源の一般財源化、消費者庁設置法のとりまとめ、国民会議を通じて
社会保障制度の抜本見直し。最終決着はしていないが、方向性は打ち出せたと思
っている」(引用は朝日9月2日による。以下同じ)。
そして彼は、08年に入ってから浮上してきた大きな問題として経済と景気の問
題を上げ、ガソリンや食糧などの物価高騰、農林漁業・中小企業・零細企業の人
たちの苦しみに応えようと、8月に内閣改造を行い、「強力な布陣の下で、先週
金曜日に総合的な対策をとりまとめることができた」。――と述べている。
彼が民主党の問題を持ち出したのは、これらの発言の後である。――「先の国
会では民主党が重要案件の対応に応じず、国会の駆け引きで審議引き延ばしや審
議拒否を行った。その結果、決めるべきことがなかなか決まらない。そういう事
態が生じ、何を決めるにもとにかく時間がかかったということは事実だ。今、日
本経済は、また国民生活を考えた場合に、今度開かれる国会でこのようなことは
決して起こってはならない。そのためにも体制を整えた上で国会に臨むべきであ
ると考えた」。
民主党について福田氏が自分から話したのはこれだけである。そして記者たち
の質問に答える形で、民主党の小沢代表とは「国のために、胸襟を開いて話し合
いをする機会を持ちたかった」と感想を述べたあと、記者たちの質問を遮るよう
にして、自身の口から「公明党の問題」を持ち出したのである(本稿の第1回参
照)。
◇◇「08年福田内閣」の主な政策を一覧すると…◇◇
安倍内閣をそのまま受け継いだ形で出発した福田首相が、いわば独自の政治展
開に踏み出そうとしたのが、昨年11月の民主党・小沢代表との、いわゆる「大連
立」の試みだった。しかしこれは民主党幹部の一致した反対により挫折し、新内
閣としての独自政策に取り組みはじめたのは、ようやく今年に入ってからである
。
福田首相は1月18日の通常国会冒頭で、地球環境や資源エネルギーなどの世界
的な構造転換を踏まえながら、「国民本位の行財政への転換、社会保障制度の確
立」などに重点を置いた施政方針を表明した。しかしその後の政策展開は、国会
や与党内の力関係の中で一進一退の揺れを繰り返し、決して一直線のものではな
かったと言える。その主な内容を列記して見ると次のとおりである(▼印は前政
権からの継続と考えられる事項)。
【1月】
・インド洋での海上自衛隊への給油活動を続ける「新テロ対策特別特措法」を衆
院の3分の2以上による賛成で「再可決」。(▼)
【3月】
・新年度予算案と、ガソリン税の暫定税率維持をはかる税制関連法案を「強行採
決」。(▼)
・「日銀武藤総裁案」などの国会同意人事を提出(参議院で否決)。
・◆「道路財源の09年度からの全額一般財源化」を提案◆(あわせて道路整備中
期計画を10年間から5年間に短縮。08年度からのガソリン税等の暫定税率廃止は
拒否)。――福田氏はこの政策を直接国民に訴えたが、新聞は首相の「孤独な決
断」と書き、民主党には拒否された(朝日の世論調査では一般財源化に賛成が58
%)。
【4月】
・李明博大統領との日韓首脳会談で「日韓新時代」をアピール。
・ガソリン税などの暫定税率を復活させる「改正税制特別措置法」を衆院の3分
の2以上による賛成で「再可決」。5月1日よりガソリン等は再値上げとなる。
(▼)
【5月】
・◆江沢民氏以来10年ぶりに来日した胡錦濤主席と首脳会談◆。未来志向の戦略
的互恵関係を進める指針として日中共同声明に署名(年1回の相互訪問に合意)
。
・道路特定財源を10年間維持する「改正道路整備財源特例法」を衆院の3分の2以
上による賛成で「再可決」。他方、再可決に先立ち09年度からの道路特定財源の
一般財源化などを閣議決定(この一般財源化の法改正により、特例法は09年度か
ら適用されないが、「必要と判断される道路は着実に整備する」)。地方道路整
備臨時交付金は維持。(▼)
・◆与党と民主党の合意で「国家公務員制度改革基本法案」が成立◆。
【6月】
・日朝の外務省実務者公式協議で「北朝鮮制裁の一部緩和」に踏み出す(北朝鮮
による日本人拉致問題の再調査等と引き換えに)。
・◆首相主導による「消費者庁」の骨格が固まる(消費者行政推進会議で最終報
告)◆。関連法30本を所管(秋の臨時国会に設置法案提出の方針)。
・「骨太の方針08」で、社会保障費、公共事業費を毎年一定額削減する等の「小
泉、安倍政権の路線」を踏襲(経済財政諮問会議・閣議決定)。(▼)
・日中政府が東シナ海のガス田の共同開発で合意(福田首相「東シナ海を平和、
友好の海に」)。
【7月】
・与党の「新雇用対策に関するプロジェクトチーム」が日雇派遣を原則禁止で合
意。◆規制緩和を続けてきた派遣制度を規制強化に向けて転換◆(「労働者派遣
法改正案」を秋の臨時国会に提出の方針)。
・◆北海道洞爺湖サミット開催◆(G8+新興国=計22首脳による主要国首脳会議
)。地球温暖化、世界経済、食糧問題、アフリカ支援などを協議。G8は「2050年
までの温室効果ガス排出量の半減」の長期目標をすべての国に求めることで一致
。中印など新興国主脳からも数値に触れない形で支持を取りつけた。
・政府が公表した中学校の学習指導要領解説書に初めて「竹島」と記述。韓国政
府が「未来志向の両首脳合意に照らし、深い失望と遺憾の意」を表明。(▼)
・◆社会保障の「五つの安心プラン」を公表◆(高齢者、医療、子育て支援、非
正規雇用、厚労行政の信頼回復)。また低炭素社会への転換に向けた行動計画を
閣議決定(予算を含めたその具体的実施策は今後の課題)。
以上からも、(その実質的成果の度合いは別として)、福田内閣が従来からの
日米同盟と自民党的「改革路線」の枠内ではあるが、自ら引き継いだ負の遺産に
足をとられながらも、2代続いた破滅的な政策の修正に向けてそれなりに舵を切
ろうとしていたことが窺える。
にもかかわらず福田政権への有権者の支持は極端に低かった。新聞による世論
調査での内閣支持率は昨年末から低迷を続け、朝日新聞の調査では4月以後ずっ
と20%台をさまよった。対野党の国会対策にも苦労し、ついに6月には現憲法下
で初の「問責決議案」が参議院本会議で可決されてしまった。
◇◇<ねじれ政治>という言葉のイデオロギー性◇◇
このような福田政治が進められたのは、先にこの政権の"第3の前提条件"とし
て挙げた衆参議院間の「相矛盾した政治配置」の下においてであり、その代名詞
のように使われたのが「ねじれ国会」や「ねじれ政治」という言葉だった。この
用語はその内容が深く吟味されないままマスジャーナリズムを通じて広く流通し
、いまや政界のみならず学問領域の概念としても定着して、誰もが疑問を持たな
くなっているように見える。
しかし改めて考えて見ると、この<ねじれ>という言葉自体、政治的に価値中
立的な用語では決してない。少なくともそれは、その状況が不正常で「好ましく
ない」というイデオロギッシュな意味をふくむ言葉である。では誰にとって「好
ましくない」か。――いうまでもなく、この矛盾した政治状況をコントロールし
ようとしている「経済的・行政的権力」と、それを支える「支配的政党」にとっ
てである。しかしそれは政治の「変革勢力」にとっては、逆に<変革のためのテ
コ>ともなりうる内実をもつものでもある。
そもそもこのような政治配置は、日本国憲法において次のように明記されてい
る条文の範囲を出ない。
「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出
席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開く
ことを求めることを妨げない。
参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除い
て六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決した
ものとみなすことができる」(第59条より)。
つまり今日"ねじれ国会"と表現されている政治配置は、日本国憲法の制定権者
(国民の代表)が当然のこととして想定していた「憲法的秩序」そのものなので
ある。
◇◇江田参議院議長が提起した<ねじれの推力>◇◇
私の知るかぎり、この明白な事実を"戦後レジーム"(=憲法民主主義)の正常
な姿として、最も的確に指摘したのは参議院議長の江田五月氏である。江田氏は
オルタ第47号(2007.11.20)に寄せた「憲法民主主義をさらに進めるために――
参議院議長に就任して」という論文において、冒頭、「この『ねじれ国会』で、
日本の二院制が本当にちゃんと機能するかどうかという、大きな試練の前に私た
ちは立たされています。日本の二院制は、議会を通じて国民の意思を決定してい
くことに失敗するのか、それとも二院制が本当に機能して、より素晴らしい国民
の意思決定に結びつくことになるのか、これがこれから問われてきます」と述べ
たあと、参議院は戦後レジームのある意味の象徴であり、国民はその戦後レジー
ムそのものである参議院に衆議院と逆の数のバランスを与え、「参議院は頑張れ
!」と言ったのが、今回の参院選の結果だった――と書いている。
江田氏はこれに続けて民主主義の手続として、(1)議論する当事者間での「情報
の共有」、(2)公開の討論、(3)「相互の浸透」、(4)多数決原理、(5)少数意見の尊重
をあげ、これを自ら"江田五月の民主主義の五原則"と称している。
それにくわえて江田氏はさらに具体的に、国政調査権、証人喚問、参議院先議
、両院協議会の進め方、国会同意人事などにもふれて、主権者である国民の眼前
での公明正大な国会運営のあり方を提案し、参議院改革や選挙制度の問題にまで
論を進めている。日本国憲法第4章「国会」を精読してみれば、江田氏が戦後の
憲法秩序というものを完全に手の内に入れたうえでこれらの提唱をしていること
がよく分かる。
江田氏の論文でもう一つ重要なことは、いわゆる"ねじれ国会"について、「ね
じれになってよかったといわれるような二院制にしていかなければならない」と
言っていることである。江田氏は次のように記している。
「ねじれというのは、マイナスのイメージがついて回りますが、ねじれにはエ
ネルギーがあると思っております。もともと二院制は、はじめからねじれを前提
にした制度だともいえます。ねじだって、ねじってぐっと入れるから力が出てく
る。縄だって、ねじるから縄が強くなる。ねじれというもの自体が悪いわけでは
ない。そのねじれをどういうふうに生かして、そこから良いエネルギーを引き出
すかが、これからの知恵の出しどころです」。
これは先に私が、政治の変革勢力にとって、この<政治配置>は「変革のため
のテコともなりうる内実をもっている」と記したのと同じことであり、まさに<
ねじれの推力>とでも呼ぶにふさわしい政治的な「智恵」である。いかに江田氏
が党務から離れた参議院議長であるとはいえ、こういう考え方がなぜ出身母体の
民主党の戦略として定式化されなかったか不思議である(08.12.13記。未完)。
(筆者は元編集者、オルタ編集部)
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