■重慶事件における新左派の役割と政治改革のゆくえ

石井 知章
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 はじめに
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 最近、日本では報道される機会がめっきり減ったものの、今回の薄熙来の解任
でいわゆる重慶事件の真相のすべてが明らかになったわけでなければ、中国のト
ップリーダーたちの間で繰り広げられてきた権力闘争に、最終的な幕が下ろされ
たわけでもない。いつものこととはいえ、この一党独裁国家における情報の根源
的非公開性ゆえに、むしろ謎はますます深まるばかりである。

 たしかに、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任劇とは、長
年にわたる経済改革と開放政策の努力に背を向ける人物として温家宝が薄を断じ
ることで、その政治手法をめぐり、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史
的悲劇の再来か」の選択を迫るものであった。

 その特異ともいえる手法とは、「紅を歌い(唱紅)、黒を打つ(打黒)」、す
なわち、毛沢東や中国共産党を讃える文化大革命当時の革命歌などを歌い、かつ
黒社会(マフィア、暴力団)を追放するという名目で、実際にはそれとはまった
く逆に、自らとは政治的に対立する善良な市民をつるし上げ、きちんとした法的
手続きも経ずに冤罪のまま無辜なる人々を弾圧していくという、いわば文化大革
命の二番煎じともいうべきものであった。

 だが、これらは明らかに、市場経済そのものは否定せずに、毛沢東時代への部
分的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」への人気
取りによって築かれた権力基盤をよりどころにして繰り広げられたことである。
このことを思想史的に見た場合、この10年余りの間にその影響力を拡大してき
た、いわゆる「新左派」(=新保守派)の直接・間接関与を指摘しないわけには
いかない。

 ここでは、こうした政治的対立を生み出している中国の政治・思想的背景をめ
ぐり、いわゆる「新自由主義派」と「新左派」との対立構図の中で、今回の重慶
事件を歴史的、かつ思想的に分析し、今後の中国における政治改革の可能性を探
る。

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1、重慶事件のあらましとその政治的背景
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 薄熙来の側近、王立軍重慶副市長が今年2月7日、成都の米総領事館に保護を
求めたが拒否され、北京に連行されたという報道を契機に、日本でもその事件の
内幕が徐々に明らかにされていった。政治局委員でかつ太子党として知られる薄
熙来は2007年、いったん重慶に左遷されたものの、そこで暴力団撲滅・毛沢
東讃美で胡錦濤政権に挑戦していく。だが、やがて数々の冤罪の訴えに対する追
及を浴び、王立軍による「トカゲのシッポ切り」に追い込まれる。

 元趙紫陽の側近であり、保守派・軍の反発が根強い温家宝は、3月半ばの演説
で、「この社会問題の解決を図らないと文革再来の恐れがある」と語った。この
重慶の「運動」では、多くの民間実業家が無実の罪で極刑に処されたり、資産を
没収されつつ、80日間で33,000件の刑事事件が摘発され、9,500人
が逮捕されたという(『産経新聞』、3月16日)。薄熙来は舞台裏の工作とい
う不文律を破って、毛沢東に似た大衆迎合の政治的手法を用い、指導層を恐れさ
せた。しかも、ここで重要なのは、薄熙来がいまだに最高実力者としての影の力
を及ぼし続けている江沢民の支援下にあった、ということである。

 その重慶支配の実態とは、犯罪の捏造、拷問による自白、実業家の恐喝、薄の
敵対者への復讐、身内への利益供与等であったにもかかわらず、9人の常務委員
中6人が、「打黒」運動が始まった2009年以後、足しげく重慶詣でをしてい
たという事実は、そうしたトップリーダー周辺をめぐる権力構造が背景にあった
ことを如実に物語っている。

 1989年の天安門事件を契機に政治的には完全に排除された趙紫陽とは異な
り、いまも政治的な基盤を残しているのが胡耀邦であり、89年4月の胡の死去
に伴い、そのあとをついだ改革派の趙紫陽を補佐していたのが温家宝である。8
7年の「反自由主義」運動の手法と思想が文化大革命の流れを汲むものと考えて
いた胡耀邦は、当時の状況を「中堅の文革」と呼び、その後も「小さな文革がく
るだろう」と警告しつつも、「やがてそれは歴史の表舞台から徐々に消えていく
だろう」との認識を示していた( News Week、4月25日)。この意味でいえば、
今回の重慶事件とは、まさにこの「中堅の文革」の再来であったといえる。

 こうした薄熙来の手法が「重慶モデル」と呼ばれるのに対して、その対極に位
置づけられるのが新自由主義的「広東モデル」である。これらは実際の政治、経
済、社会をめぐる諸政策に具体的に反映されているという意味では、中国共産党
の路線対立そのものでもあった。いずれにせよ、このことが毛沢東時代への部分
的回帰を訴える国家統制派、すなわち「旧左派」に属する「保守派」と「新自由
主義派」との現実的対立構図を生んできたことだけはたしかである。こうした現
実政治の背後で、思想的、かつ学問的に対立してきたのが、いわゆる「新自由主
義派」と「新左派」に他ならない。

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2、「新自由主義派」と「新左派」との対立構図
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 この30年間にわたって国家の開発戦略として採用されてきた「改革・開放」
政策の下、中国では「社会主義市場経済」という名の新自由主義的な経済システ
ムが拡大していった。このことが二桁成長という高度な経済発展を実現する一方、
とりわけ都市と農村との間の貧富の格差を急激に拡げていったことはいうまでも
ない。

 グローバリゼーションが急速に進展した1990年代の後半以降、こうした社
会的不公平さの発生原因とその是正のための方策をめぐり、その問題の根源を市
場経済化の不徹底と見る「新自由主義派」と、市場経済化を資本主義化そのもの
ととらえるいわゆる「新左派」とが対立してきた。

 両派の対立は主に、(1)「新自由主義派」が「効率性」を重視するのに対し、
「新左派」は「公平さ」を重んじ、(2)「新自由主義派」が公平性の基準とし
て「機会の平等」を、「新左派」が「結果の平等」を取り上げ、(3)「新自由
主義派」が不公平社会を生み出した原因を市場経済化の不徹底と政府の市場への
不適切な介入であるとしつつ、私有財産制の確立と市場主義原理に基づいた所得
の分配の必要性を主張するのに対し、「新左派」は私有財産と市場経済化自体を
問題視し、公有制の維持を提唱し、(4)「新自由主義派」がグローバル化を基
本的に肯定するのに対し、「新左派」は反対の立場をとるというものであり、2
つの陣営ではこれら4つを主な基軸として、多くの論争が繰り広げられてきた。

 この思想・学問レベルでの論争では、前者が基本的に大勢=体制派を占めつつ
も、とりわけ2008年の経済危機以降、農村では農地を失い、はるばるやって
きた都市では不安定な職さえ失うといった農民工や、先進国並みに拡大する非正
規雇用、そしてワーキングプアといった社会的現実の展開など、いわば「新自由
主義的」市場経済政策の行き詰まりをめぐって対立してきたといえる。

 だが、毛沢東時代に駆使された国家統制の論理の「部分的」導入によって新自
由主義を批判する「新左派」の台頭とは、清末の洋務運動(「中体西用」)以来、
往々にして前近代的なものをその内に含む「伝統社会」へと回帰する中で「革新」
が図られてきた中国では、ある意味で、きわめて自然な成り行きともいえる社会
現象であった。ちなみに、中国の社会主義市場経済を新自由主義の一形態とみな
す議論は、D・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社、2007年)でも扱われ
たことから、いまでは一般的な見方として、中国国内ばかりでなく、国際的にも
広く受け入れられている。

 とはいえ、実際の政治のレベルでは、旧社会主義的原理の復活を唱える「新左
派」の論理でさえ、市場経済至上主義に対する有効な対抗手段とはなれずにきた
というのが、これまでの厳然たる事実である。それは一言でいえば、その政治的
主張が毛沢東主義を讃える「旧保守派」の言説を「批判的に」補完するものにと
どまっていることに由来している。たとえ「新左派」がどれだけ「主観的」にそ
のことを否認したとしても、その政治的機能を多かれ少なかれ「客観的」に果た
しながら現実化しているのが今回の重慶事件である以上、その基本的主張に対す
る結果責任(M・ウェーバー)が厳しく問われることは、国内的にも、国際的に
も、もはや免れ難いことであろう。

 これに対して代表的な「新左派」の知識人の一人で、日本でも大きな影響力を
持っている汪暉(清華大学人文社会科学学院教授)は、おそらく批判の矛先が自
分に向けられていることを敏感に察したからであろうが、こうした「文革の再演」
論が「何の根拠も持たない」ものであり、「それは空洞化したイデオロギーに基
づいて作り出されたもの」として、「新たな新自由主義改革のための政治条件」
を作り出している、などとする自己弁護の論を公然と表明している(『世界』、
2012年7月)。だが、こうした汪暉をはじめとする「新左派」の立論とは、
以下で見るように、中国における「近代」と「前近代」の意味を根本的に履き違
えた、きわめて巧妙なレトリックによる論理のすり替えであるにすぎない。

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3、「新左派」の旗手、汪暉とその文革をめぐる言説の問題性
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 その最新の著作である『世界史のなかの中国』(青土社、2011年)で、こ
れまで「新左派」の旗手としての役割を果たしてきた汪暉は、「脱政治化」とい
う言葉をキーワードにして、世界史的なコンテクストにおける中国革命史のなか
でも、とりわけ60年代のもつ特別な意味について問うている。

 全世界的に社会運動、反戦運動、民族解放運動が盛り上がった「1960年代」
問題について汪は、「21世紀中国」の問題そのものとしてとらえた。日本を含
む西側では、この激動の時代をめぐりさまざまに議論されてきたのに対し、中国
ではもっぱら「沈黙」が保たれているのはいったいなぜなのか。

 中国の論壇におけるこの「沈黙」の意味を考えるようになったという汪は、こ
の「沈黙」そのものが、その急進的な思想・政治的実践、すなわち中国の「60
年代」の象徴である「文化大革命」を拒否していただけではなく、20世紀の中
国全体に対する拒否でもあったとする。ここで汪がいう「20世紀中国」とは、
辛亥革命(1911年)前後から1967年前後までを指しているが、それはまた
「中国革命の世紀」でもある。それが終わりを告げるのは、1970年代後期か
ら天安門事件(1989年)までの「80年代」であった。

 汪によれば、世界レベルでの20世紀の政治とは、政党と国家を中心に展開し
ており、その危機は政党と国家という2つの政治形態の内部において生まれたも
のである。近代政治の主体(政党、階級、国家)が、いずれも「脱政治化」の危機
にあるという状況下で、毛沢東主義への回帰によって「新たな政治主体をもう一
度さぐってみようとするプロセス」には、「政治領域を再規定しようとするプロ
セスが随伴することになる」という。だがこれは、一党独裁体制下にある現代中
国において、毛沢東時代の「前近代」的手法によって現在の人権抑圧的政治プロ
セスがまるごと隠蔽されてしまうほど、高度に「政治化」されているという「危
機」そのものであることを、完全に包み隠すものである。

 毛沢東思想の「歴史的遺産をもう一度持ち出して揺り動かそうとすること」は、
「未来の政治発展に向けた契機」を含んでいるどころか、今回の重慶問題が如実
に示しているように、それとはまったく逆に、「20世紀」的なもの以前の「前
近代」への後退をもたらすものである。仮に「新たな政治主体」を探るプロセス
に「政治領域の再規定」が前提にされるのだとしても、その作業に不可欠なのは、
60年代の毛沢東ではなく、むしろ80年代の胡耀邦、および趙紫陽への回帰で
あるはずなのに、これまで汪をはじめとする「新左派」の知識人、そしてそれを
支えている日本の一部の知識人たちは、その可能性にすら触れようとしない。

 筆者のみるところ、これらはみな、「脱政治化」という価値中立性を装う言葉
によって、対外的にはますます覇権的になり、対内的にはこれまで以上に抑圧的
になっている現代中国の一党独裁政治をきわめて巧妙にオブラートで包み込む、
「超政治化」のプロセスそのものである。それは現代中国社会が抱える巨大な負
の局面をまるごと隠蔽する中国の現体制によって行使される強大な政治権力との
親和性の強い、いわば一党独裁政治に対する補完的な言説であるにすぎない。

 さらに汪は、「脱政治化」という命題から、中国の党=国家体制とその「転化」
を問題にする。ここではイタリアの中国研究者、アレッサンドロ・ルッソを引用
しつつ、「文化大革命」が「高度に政治化した時代」であったと指摘したうえで、
「この政治化の時代の終焉は、一般に思われているように70年代中後期に始ま
るのではなく、『文革』開始後から次第に発生するようになった派閥闘争、とり
わけ派閥闘争に伴う暴力衝突の時からすでに始まっていた」と論じた。

 つまり、「政治化の時代」の終焉とは、80年代ではなく、60年代そのもの
の「脱政治化」からすでに生じていたというのである。だが、「労農階級」なる
ものが「前近代」的、あるいは「擬似近代的」論理で成立していた以上、文革の
60年代とは、「脱政治化」どころか、むしろ「前近代」的非合理性に基づく高
度な「政治化の時代」そのものであったというべきであろう。

 その歴史的事実を鑑みれば、ここでの汪の隠された政治的意図とは、「文革」
という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋「近代」と同等とみなす比較の対照
性において、いわば「近代ロンダリング」として、可能な限り政治的に「中性化」
しようとする虚しい試みである。だが、それにもかかわらず、汪は次のように続
ける。

 「文革の終焉は、『脱政治化』のプロセスから生み出されてきたということに
なる。ルッソによれば、『脱政治化』は『ポスト文革』時代の中国だけに見られ
る現象ではなく、今日の西洋政治にも見られる特徴だという。支配権が伝統君主
から近代的な政党へと転化していくのは、政治的モダニティの根本的な特徴だ。
党専政と複数政党政治は、いずれも近代的な党=国体制がその基本的な枠組みに
なっている。その意味では、この2つの国家モデルは、どちらも党=国と呼ばれ
るべき範囲を出ない」(前掲『世界史のなかの中国』、39-40頁)。

 ここでも汪の目指すものとは、西洋近代との対照性における「中国近代のロン
ダリング」である。これは、西洋の伝統的君主制のもつ一時的統治としての「暴
政」と中国のような永続的政体に根付いている「専制」とを混同し、西洋近代が
もたらした負の局面と同根のものとして「文革」を解釈しようという欲求の表れ
である。

 「文革」における暴政の発生根源そのものが違うのだから、「ポスト文革」な
るものも、「近代」(モダニティ)の所産であると看做すわけにはいかない。しか
もそのことを、西洋人としての中国研究者であるルッソが論じているというのが
ここでの重要なポイントであり、「西洋的」近代と「アジア的」(マルクス)前
近代との混同を「西洋的」近代の側から正当化するためにルッソが利用されている
ことが伺える。

 だがここでは、「外国の学者」による「研究」が中国政府寄りでありさえすれ
ば、「それが現実とどれだけギャップがあろうと、中国政府はこれを採用し、
『参考消息』や中国研究を紹介する外国むけの刊行物に掲載した」という何清漣
の言葉との親和性を想起すべきであろう(何清漣『中国現代化の落とし穴――噴
火口上の中国』草思社、2002年)。

 さらに、汪によれば、20世紀中国の政治は「政党政治」と密接に関係し合っ
ており、政党自身がいわば普遍的な「脱価値化」のプロセスの中に置かれていた。
したがって、政党組織の膨張し、政党構成員の人口に占める割合の拡大が、その
政党の「政治的価値観」の「普遍化」を必ずしも意味しなくなったとしても、汪
にとっては、まさにそのこと自体が中国共産党を含めた「普遍的」現象なのだ、
というわけである。

 ここで政党は日増しに国家権力に向かって浸透と変化を遂げ、さらには一定程
度、「脱政治化」し、機能化した国家権力装置へと変わっていったのだという。
つまり、ここでも汪は、一党独裁の「中国共産党」をいかにして「西洋近代」の
多元的国家における多党制の下での「政党」と同一化するかで躍起になっている。
ここで汪は、この「二重の変化」を「党=国家体制」から「国家=党体制」への
「転化」と称し、前者には政治的態度が含まれるが、後者では権力を強固にする
ことに専ら力が注がれたとした。かくして「政党の国家化のプロセス」は、20
世紀中国に生まれた「党治」体制を、国家中心の支配体制へと転換するが、それ
はまた必然的に「国家の政党化」のプロセスでもあるという。だがこのことは、
党独裁の中国共産党にこそあてはまるという事実を価値的に「中性化」するもの
である。
 汪のいう「政治化の時代」の終焉とは、60年代そのものの「脱政治化」どこ
ろか、60年代以来の、「前近代」的非合理性に基づく高度な「政治化の時代」
そのものであり、「超政治化」という恣意的隠蔽のはじまりですらあった。その
隠された政治的意図とは、「文革」という中国にとって厄介な歴史的存在を西洋
「近代」と同等とみなす対照性において価値的に「中性化」しようとする、いわ
ば「中国近代のロンダリング」にこそあった。

 さらに一党独裁の「中国共産党」と「西洋近代」の多元的国家における多党制
の下での「政党」との同一化は、党独裁の中国共産党によって行使されるレトリ
ックにこそあてはまるという事実を、同じく価値的に「中性化」するものである。
それは「脱政治化」という客観的中立性を装う言葉によって、現体制に対する間
接的擁護という自らの政治的立場のイデオロギーを隠蔽しようとする「超政治化」
の過程そのものである。

 だが、われわれにとってより深刻な問題はそこにではなく、この「リベラル・
デモクラシー」を自認する日本においてすら、「進歩的」中国研究者、あるいは
知識人たちの間で、こうした「新左派」を高く評価しつつ、文革を制度的に総括
した80年代後半問題をめぐる「沈黙」が共有されていることにある。たとえば、
柄谷行人は、その書評(『朝日新聞』2011年3月6日)で、汪暉を「最も信
頼する現代中国の思想家」であるとして、筆者にはほとんど「まやかし」としか
思えないその「脱政治化」という概念を絶賛している。

 ここで柄谷は、中国の社会主義「市場経済」を西側先進資本主義国の「脱政治
化」なる過程と同一視しつつ、「それはナショナリズム、エスニック・アイデン
ティティー、あるいは人権問題などの『政治』にすり替えられた。それらは政治
的に見えるが、脱政治的なのだ」と、汪の言葉をそのまま反復しているのである。
これと同じような汪に対する肯定的評価は、とりわけ丸川哲史によって、『情況』
(2012年1/2月)や『atプラス』(2012年2月)などのメディアでも
繰り返し行われている。

 だが、ここで問われるべきなのは、われわれが現代中国における「前近代的」
なものの存在そのものを、まさに「事実」として承認できないでいるという事実
と、そのことをめぐる根源的な意味である。とはいえ、すでに中国国内でも、今
回の重慶事件をめぐり、汪暉など新左派に対してその結果責任を追及する批判的
言説が現れ始めていることに留意すべきであろう(〓〓「奔向重〓的学者〓」、
『共〓网』、4月28日)。

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4、鄧小平と趙紫陽の政治改革の今日的な意味
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 今回の重慶事件が示すように、仮に部分的にであったとしても、毛沢東主義と
いう名の中国の「伝統」への回帰によって「革新」をもたらそうとする試みとは、
文革の際、全面的に復活していった前近代的非合理性を、再び呼び起こすことに
帰結するだけである。

 いいかえれば、毛沢東主義という「伝統」への復帰による「近代化」の推進と
は、あたかも清末の洋務運動での「中体西用」(伝統中国を基底にして近代西洋
を用いる)がことごとく失敗したように、たんに前近代的なものへの後退、とり
わけこの10年余りの間、「新左派」の拡大とともに復活し、ますますその「伝
統」の力を強めてきた「封建専制」(=アジア的専制)の再来をもたらすだけな
のである。では、いったいここではなにが求められるのか。

 毛沢東体制の終焉という歴史的転換点で開催された中国共産党第11期三中全
会(1978年12月)では、「10年の災難」と呼ばれた「極左」路線、文化
大革命が全面的に否定され、新たな現代化路線への一大転換が方向づけられた。
この会議では、文革期における毛沢東の個人崇拝、その独裁的政治手法によって
もたらされた「党の一元的指導」による数々の弊害が指摘され、党・政府・企業
指導の不分離現象の改善、管理体制の機能化・効率化の必要性が提唱された。

 ここでは社会主義=労農国家という本来の理念とは大きくかけ離れてしまった
中国社会主義体制下において、「人民民主主義」を実現すべき「プロレタリアー
トの独裁」が、実際のところ「党の独裁」、さらには「個人独裁」へと導いてし
まったという政治システムをめぐる根源的諸問題を直視し、それを国家と社会と
の関係でいかに解決すべきかが真剣に問われたのである。

 この新たな改革開放の時代において、中国共産党が取り組むべき重要課題とし
て注目されたのが、単に党や政府という「国家」の指導機構の改革だけでなく、
それをとりまく「社会」における企業の党政ガバナンスのあり方、そしてそれを
「下から」支える利益表出団体としての労働組合(工会)のあり方といった「社
会」主義的諸制度をめぐる「民主的」改革であった。

 こうした中で行われた鄧小平による「党と国家の指導制度の改革についての講
話」(中国共産党政治局拡大会議、1980年8月)とは、中国共産党史上はじ
めて、過去における「封建専制」という名の「アジア的」専制主義の存在そのも
のを公式に認めて、それが文革という悲劇を招いた根本原因の一つとみなした画
期的な内容であった。ここで鄧は、「(文革の発生が)わが国の歴史上の封建専
制主義の影響と関係があり、また国際共産主義運動時代におこなった各国の党の
活動において、指導者個人が高度に権力を集中させていたことと関係がある」と
認めつつ、それを如何に克服するかという現実的政治課題に結び付けたのである。

 こうした改革開放政策のなかでもとりわけ注目すべきなのは、趙紫陽が第13
回党大会(1987年10月)で、さまざまな具体的政治体制改革を提起したこ
とである。その「政治報告」で趙紫陽は、(1)「党政分離」の方針、(2)国
家行政機関の中心で実権を握っている党組の撤廃、(3)「党指導下の工場長責
任制」から「工場長単独責任制」への切り替え、(4)基層民主(村民自治と住
民自治)の推進、(5)情報公開の推進および社会対話制度の整備、などの大胆
な政治体制改革を提起したのである。

 ここで趙紫陽は、現代化により生産力を発展させ、そのための改革を全面的に
推し進め、公有制を主として大胆に計画的商品経済を発展させるなどの諸条件づ
くりを提唱した上で、その民主的改革遂行の困難さの原因として、中国の伝統的
「封建専制」の影響に言及した。

 趙はいう。「必ずや安定的団結の前提の下で、民主政治を建設すべく努力しな
ければならない。社会主義は、高度な民主、完成された法制、安定的社会環境を
有すべきである。初級段階においては、不安定要因がきわめて多く、安定的団結
を維持することがとりわけ重要となる。必ず人民内部の矛盾を処理しなければな
らない。人民民主の独裁を弱めることはできない。社会主義的民主政治の建設は、
封建専制主義の影響が深いという特殊な緊迫性の存在ゆえに、またその歴史的、
社会的条件の制限を受けるがゆえに、秩序ある段取りでしか、進めることができ
ないのである」(同「政治報告」)。

 つまり、ここでも趙紫陽は鄧小平と同じように、文化大革命という悲劇をもた
らし、民主主義の健全な育成を妨げる根本原因の一つとして、中国の歴史的、社
会的伝統である「封建専制」の問題を取り上げ、それを社会主義初級段階論に結
びつけつつ、長期的視野に立って、「封建」遺制の克服を企図したのである。

 これはかつての資本主義論争において、いわゆる「二段階革命論」として議論
された「ブルジョア民主主義」をめぐる現代的再論である。趙紫陽はここで、
「中国人民が資本主義という十分な発展段階を経ることなく社会主義の道を歩め
ることを認めないのは、革命の発展という問題上の機械論であり、かつ極右的な
誤りの認識上の重要な根源であるが、生産力の巨大な発展を経ずに社会主義の初
級段階を越えられると考えることは、革命の発展という問題上の空想論であり、
極左的誤りの認識上の重要な根源である」と述べ、いわば「遅ればせのブルジョ
ア革命」の必要性を提唱したのである。

 だが、天安門事件以降、こうしたオルタナティブとしての前向きな政策提言と
は、中国国内ではすべてタブー扱いされ、公的に議論することすら許されなくな
ったばかりか、日本の中国研究者の間でさえ、ほとんど取り挙げられなくなった
というのが実状である。このことはまた、日本における中国研究の現在が、たん
に中国国内における権力=言説構造をそのまま反映したものにすぎないことを示
唆している。

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5、天安門事件が今日に及ぼしている社会的影響
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 中国における新自由主義を支えている最大の理論的根拠とは、2000年2月、
江沢民によって提出された「三つの代表」論にある。ここで中国共産党は、「先
進的な社会的生産力の要請」、「先進的文化の発展」、「広範な人民の根本的利
益」の3つを代表するとされたが、とくに新自由主義の拡大との関連で最大の根
拠となるのが、この「広範な人民の根本的利益」であろう。

 ポスト天安門事件期のいわゆる「権威主義」体制下において、この一項目こそ
が、改革開放政策で勢力を伸ばした私営企業家の入党を促し、人権など普遍的価
値の実現よりも、むしろ経済成長を優先する「開発独裁」のさらなる強化をもた
らすこととなったのである。

 たとえば、2010年春、広州ホンダで繰り広げられた若き非正規労働者らに
よるストライキでは、既成の労働組合(総工会)が存在していたものの、その代
表とは人事管理課次長であり、けっして労働者を代表するものではなかった。だ
が、こうした明らかな社会的矛盾が堂々とまかり通ったのも、この「三つの代表」
論がきわめて有効に機能していたからに他ならない。

 さらに、労働組合に対する法規制に関連していえば、この「三つの代表」論が
出された後にまとめられた改正工会(労働組合)法(2001年10月施行)で
は、かつての50年法、92年法と同様に、「工会は労働者が自発的に結合した
階級的大衆組織である」(第2条)と規定されたうえ、「中華全国総工会および
その各工会組織は、労働者の利益を代表し、法に基づき労働者の合法的権益を守
る」(同)との項目が付け加えられてはいた。

 だが、その最大の目的とは、工会が「憲法を根本的活動の原則として、独立自
主的に活動を繰り広げる」(第4条)とした92年法の条文に挿入する形で、
「憲法に依拠し、経済活動を中心として、社会主義の道、プロレタリアート独裁、
中国共産党の指導、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論を堅持し、
改革開放を堅持し、工会規約に基づき、独立自主的に活動を繰り広げる」(同)
とし、それまでの工会の「独立自主的活動」を、鄧小平の「四つの基本原則」
(社会主義の道、プロレタリアート独裁、中国共産党の指導、マルクス・レーニ
ン主義と毛沢東思想)で限界付けることにあったといえる。ところが、新自由主
義を批判すると称する「新左派」と日本の一部の知識人たちは、この「新自由主
義派」の最大のよりどころである「三つの代表」論には、けっして触れようとは
しないのである。

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 おわりに――「第三の道」としての政治改革への可能性
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 すでに述べたように、89年の天安門事件以来の政変とも呼ばれた今回の解任
劇とは、「政治改革の推進か、文化大革命という歴史的悲劇の再来か」の選択を
迫るものであった。

 しかるに、新自由主義を批判してきたはずの「新左派」の代表的論客である汪
暉は、この重慶の「改革」モデルについて、「この改革が一種の公開政治であっ
たこと、また民衆の参与に開かれた民主のテストであったことを証明している」
といまだに熱心に擁護し、逆に毛沢東時代の文革型大衆迎合「運動」にノーを突
きつけた温家宝に対しては、デマを撒き散らす「密室政治」であると批判してい
る(前掲『世界』)。

 これはほとんど本末転倒であり、それこそ「何の根拠も持たないもの」としか
いいようがないのだが、むしろここでの根源的問題は、汪暉ら「新左派」が現代
中国社会になおも強固に存在し続ける「前近代的」遺制への直視を拒否し続け、
さらに日本の「進歩的」とされる知識人やメディアが、いまだに背後でこれを支
え続けている、という事実にこそある。これらの人々はみな、「新自由主義派」
の理論的根拠である江沢民の「三つの代表」論を批判することもなく、かつ80
年代後半に追求された「第三の道」の可能性に対しても、いっさい口を閉ざした
ままなのである。

 だが、今回の重慶事件は、明らかに薄熙来が後ろ盾としていた江沢民閥という
トップリーダーたちの政治力学を大きく変化させ、その権力基盤を瓦解の危機に
追いやり始めている。
 たしかにこの薄熙来おろしの成否次第では、次の習近平体制の力関係が決まっ
てくるといえるが(矢吹晋『中国・薄熙来解任騒動が写す権力闘争』、朝日WE
B新書)、見方を変えれば、今回の事件を契機とする「改革派」の巻き返しによ
っては、いまも政治的基盤として残っている胡耀邦の「伝統」をはるかに越えて、
趙紫陽の提唱した「第三の道」としての政治改革へと復帰していく可能性もけっ
して否定しきれないであろう。

 なぜなら、この可能なるシナリオ自体が、「伝統」に回帰しつつ「革新」を求
める「伝統的」中国政治のあり方の一部をなしているからである。その意味では、
新たな習体制の成立する次の党大会まで、今回の重慶事件が中国の国内でどのよ
うに扱われていくのかを見極める必要があり、いましばらくは、中国の動きから
目を離せない状況にあるといえる。
  (筆者は明治大学教授)

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