部分像と全体像―自己相似性―    木村 寛

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 「部分と全体」という問題に対して、新しい視点から問題提起をしたい。従来、部分と全体と言えば、「有機組織体の概念」しかなかったことから、「全体が部分に優先する」とは当然かつ必然の帰結であった。そこでは重要度に応じた「階層性」が成立するとされ、重要度の小さいものが部分であり、重要度の大きいものが全体を代表した。
  しかし私がここで考察に用いようとする視点は「有機組織体」のそれではなく、マンデルブロの『フラクタル幾何学』1985、日経サイエンス社を下敷きにするものである。この新たに発見された学問領域では、部分像と全体像とはどこまでが部分像でどこからが全体像であるか判然としない関係にあると同時に、両者の間には「自己相似性」が成立する。すなわち何分の一かの部分像を何倍かすればばっちりと全体像を作ることができる関係にある。

 自然界にどういう実例があるかといえば、「木の枝」(和紙の原料「みつまた」は枝分かれが三本になる)、「シダ類の葉」、「岬と入り江が複雑に入り組んだリアス式海岸線」(三陸海岸)などであり、これらは簡単な規則でそれに似た図形を作図することができる。たとえばアルファベットのYの字の二つの分岐にYの字を次々につないでいくと木の枝に似た模様ができあがる。この時、二段目以降につなぐYの字の大きさを次々に何分の一かに縮小するというルールを決めておけば(例えば1/2,1/4,1/8・・・)、先端に行くに従って図形は細密化していく。リアス式海岸線は「コッホ曲線」に近い。  こうした図形においては本来、部分像と全体像の間に「階層性」は成立しないわけであるから、(自己相似性とは正に「平等、対等」の関係である)、「全体は部分に優越する」と言うことはできない。控え目に言っても、部分は全体に対して対等のレベルで存在すると共に、全体を構成する基源的要素である。

 もう一つの視点は否定論/肯定論をめぐる問題である。否定論は証拠が一つあれば成立する(厳密には証人は二人必要である)のに反して、肯定論はいくら証拠をあげていっても切りがなく、証明に追われ続ける。偽証という問題が介在すれば、否定論、肯定論ともに泥沼戦となる。
  したがって部分が全体に対して否定論からする証明は容易であるのに反して、全体が肯定論からする部分に対する証明は無数に必要であり、しかもとどまるところがない。全体はいくらでも部分に分割できるからである。

 太平洋戦争における旧日本軍の歴史的事実をめぐって、本誌六月号と十月号に西村先生の書かれた世論をめぐる情勢というものは、その質からみると、「全体による部分の蹂躙」でしかなく、政権の座にある者がいかに横暴なことをしでかすか、の好例だと言えると思う。
  現在進行中の大江健三郎と岩波書店を被告とした、旧日本軍の梅沢氏側による沖縄の小さな渡嘉敷島における旧日本軍の歴史的事実(住民自決は軍命か否か)をめぐる裁判では、部分側が旧日本軍で全体側が住民、大江、岩波と一見立場が逆転している。しかし、本来全体側が旧日本軍で、住民は部分側に立つことから言えば、全体側による一点突破を狙ったものであることは明白な気もする。たとえ小さな渡嘉敷島で自決命令のなかったことが証明されたとしても、それを拡大してだから広い沖縄本島でも自決命令がまったくなかったと言い切ることができるわけではない。

 いくら立派な日本軍人が前線にたくさん居たとしても、前線がアジア各地に広がって無数にあった以上、被害を受けた地元民のその実存をかけた重い証言まで握り潰すことができると考えるのは、思い上がりもはなはだしいと言わねばならないと私は感じる。
  もし日本軍の中になにほどか「自己相似性」の痕跡があるとすれば、アジア各地の前線で地元民にかいま見せたその「姿」がその中枢に近い部分にまで及んでいると考えてもそれほど的外れであるとはいえないであろうし、多くの戦史の証言がそれを証ししていると私は思う。
  「究極の部分」である「個人」のよってたつところは、その人の実存を根底にした体験の重みである。それは本人以外の誰も手を出すことのできない神聖な領域である。一つの前線における歴史的事実に対して、どうのこうのと言う権利を持つのは控え目に言ってもその場に居合わせた人間だけであろう。中国前線に居合わせなかった学者の南京虐殺事件への反論とは偽証以外のなにものでありうるのだろうか。

 「正義とは、強者の利益になること以外の何物でもない」と、トラシュマコスが、うだうだと説明するソクラテスにしびれを切らして反論する(プラトン『国家』、世界の名著7、プラトンII、p75、中央公論社1969)。
  みごとな定義だと言うほかない。この定義が振り回される限り、弱者は強者に圧殺され、部分は全体に無視される。こうした実例は残念ながら現在でも枚挙にいとまがない。
  唐突な主張かもしれないが、私は個人の尊厳、人権の根拠なるものは案外マンデルブロの『フラクタル幾何学』的基盤に支えられたものではないだろうかと感じる。すなわち組織体が個人に基づく「自己相似性」を原理とするがゆえに、個人の尊厳がその根底に成立するのである。
  有機組織体の「階層性」は部分像と全体像を考える場合には「呪縛」としてしか機能せず、これは垂直方向(縦社会)のものである。新しいキイワードは「自己相似性」であり、これは水平指向(横社会)だと私は思う。「三つ子の魂、百まで」、この言葉は一人の人間の成長が「自己相似性」に基づくことを示唆しているように思われる。そういう意味からもこの聞き慣れない「自己相似性」という言葉はもう少し注目されてもいいのではないだろうか。
                     
        (筆者は社会福祉法人「麦の会」相談役)

補記:『部分と全体』みすず書房1974はドイツのノーベル賞物理学者W.ハイゼンベルクの名著であり、すばらしい対話がちりばめられている。

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