■過ぎ去った60年、そして今 富田 昌宏
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(1)45年8月15日前後
昭和20年8月15日、正午。私たちは学徒動員で狩り出された軍需工場―
日立製作所栃木工場の庭に、玉音放送を聞くために集められた。ラジオから流れ
る陛下の声は雑音がひどく、わずかに「堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍びーー」
の部分が聴き取れるのみであった。後で、それがポッダム宣言受諾の詔書である
ことが分かった。
「戦争に負けたという昂ぶりよりも、空襲を回避できるという安堵感の方が強
かったように思う。
私たちが学徒動員されたのは旧制中学3年の夏――昭和19年だった。2カ月間
の訓練期間を経て現場に配属され、昼夜3交代の過酷な作業に就いた。栃木工場
は私の家から2kmほどの至近距離ではあったが、真夜中、それも空襲時に爆音
を聞きながらの通勤は辛かった。
作業は敵機――B29撃墜のための機関砲づくりであったが、後で聞いたとこ
ろでは、その弾は目標に届かないほど、性能が低かった、という。
私は小学6年の折、日米開戦の報を聞いた。ラジオから流れる真珠湾攻撃の勇
ましい報道に胸を躍らせた記憶はある。やがて、名門と言われた栃木中学に入学
した私達は、一年生の頃はどうにか授業らしい授業を受講できたが、二年になる
と巻き脚畔姿で6kmの道を徒歩で通学し、農繁期には農作業の手伝いに引っ張
り出された。農家の働き手が召集され、女手一つで農業を守っている家が多かっ
たからである。
やがて、軍用油を供給するために、毎日山に登って松の根を掘らされた。そし
て、3年の夏、前記の勤労動員に連結する。いわば、授業らしい授業をあまりし
ていないことになる。
正規の教師が召集され、代用教員がその後を埋めた時代であるが、一風変わっ
た代用教員もいた。月刊俳句誌『渋柿』の編集をしていた小林震吾先生で、国語
の時間は教科書そっちのけで、来る日も来る日も芭蕉の「奥の細道」の講釈だっ
た。先生のおかげで、後に私は『渋柿』に入門し、編集委員をつとめ、現在、同
誌の代表同人の役職をこなしている。
『渋柿』は今年の12月号で創刊1100号を迎える。大正4年に創刊され、
戦中、戦後を通じて一回の休刊もなく続き、ホトトギスに次ぐ俳誌暦を誇ってい
るのである。
11月には松山で「1100号記念全国大会が開催される。戦争がなかったら、
小林先生と会わなかったら、俳人としての私はなかったかもしれない。人と人と
の出会いの不思議さをしみじみと感じざるを得ない。
昭和20年9月、久しぶりに登校した母校にはすでに奉安殿はなかった。陸士
や海兵で学んでいた仲間も復学したが、学園はやや荒れていた。鬼畜米英の旗振
り役だった教師が
2・1ストの先頭に立って校長排斥のアジ演説をしていたが、違和感が残った。
私たちの同級生は、召集を免れたため戦死者はいなかったが、卒業は4年卒と
5年卒に二分され、今でも同窓会名簿には47回前期卒、後期卒と区別されてい
る。この歪んだ状況は、母校120年の歴史のなかで、この時だけである。
(2)『9条の会』の発起人に名を連ねて
あれから60年、今年も8月15日がやってきた。
戦後、青年団に身を置きながら農業に励んできた私は、栃木県連合青年団長や日
本青年団協議会(日青協)副会長などをつとめたが、昭和37年に農業だけでは
生計がたてられず、日青協に常勤するようになった。この間、沖縄返還運動、原
水禁、日中国交回復などの運動を通じて社会党や総評の方に随分お世話になった。
改めて御礼を申し上げたい。
日本青年館に異動になってからの主な仕事は、雑誌づくりや、国際交流などの
ほかは、主として新館建設運動に携わり、毎日、募金活動に精を出し、54年に
54億円をかけて、日本青年館新館建設を成し遂げたのである。
総務部長10年、常務理事4年は、金集めと借金返済が主な仕事だといっていい
と思う。
その間、『日青協20年史』の編集を担当、『日本青年館70年史』では編纂委員
長としてかかわり、別冊70年史を単独で執筆、上梓して過去の歩みを総括し、
心おきなく退職した。
活動の拠点を地元、大平町に移してからは、農協の理事、監事、法務省人権擁
護委員、土地改良区理事長、大平町情報公開審議会長など、10指に余る公職を
こなしながら、お世話になった地域への恩返しにつとめてきたのであった。大平
町下皆川地区(私の住む地区)が栃木県主催の農村景観コンクールで最優秀賞に
輝いたのも想い出の一つとして大切にしている。
今、75歳。ようやく新老人の仲間入りが出来、ホットしている。公職を少し
ずつ辞退し、ゆるやかな人生を送りたいと思う昨今である。
過去を語ることには余り興味がない。大方は日青協史や日本青年館史に書き込ん
できたからで、語るとすれば酒肴の席でのよもやま話の域を出ない。
農業は、水田2haの他、筍栽培などを手がけているが、農村改革の旗振り役と
しては、知識と技術が追いつかず、活性化の役割は次世代に譲りたい。
ただ一つ、言えることは、戦後60年間、日本が戦争に巻き込まれず、核を持
たなかったということに誇りを持ちたいと思う。国民の平和への希求がそれを可
能にしたのであるが、頼るべき一つに憲法9条がある。
私は『9条の会・栃木』の呼びかけ人として結成に参加し、また一俳人として『俳
人9条の会』にもはせ参じた。これだけはどうしても守りたい、守り通したいと
いう熱い思いがある。
これが、戦後60年を総括しての私の結論である。
(筆者は元日青協副会長・オルタ編集共同代表)