【コラム】ドクター・いろひらのコラム(22)
農地改革と映像がもたらした「流血なき社会変革」
佐久総合病院の戦後の発展は、日本の「農地改革」の成功を抜きには語れない。特筆すべきは「第二次農地改革」である旨、院内に伝わっている。それまでの地主による小作人の支配が崩れ、自分の土地を持つ独立した農民が数多く誕生し、農村の生活水準は劇的に向上した。その流れに乗って、医療もまた民主化の道をたどった。
日本の農地改革を主導したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の天然資源局顧問だったウォルフ・ラデジンスキーである。1899年にウクライナの裕福なユダヤ人家庭に生まれたラデジンスキーは、ロシア革命後にルーマニアに亡命。1922年に米国に渡り、コロンビア大学に学び、米農商務省経済局の官僚になった。第二次大戦後、マッカーサーに招かれて日本に赴任し、農地改革を推進した。
ラデジンスキーは、日本で成果を収めた後、台湾(1950~51年)、インド(1952~54年)、南ベトナム(1955~61年)、もう一度インド(1964~75年)と各地で、やはり農地改革に取り組んだ。しかし、日本と台湾では成功したが、初期のインド・南ベトナムでは失敗に終わっている。なぜだろうか。
その疑問を解くヒントをくれたのが、医師で評論家の故・加藤周一さんだ。2005年、軽井沢の別荘に加藤さんを訪ねると、「世界銀行に移ったラデジンスキーの二度目のインド赴任前、ケララ州が独自の農地改革に成功したんだよ」と教えてくれた。
加藤さんの示唆をもとに自分なりに調べると、日台と、初期インド・南ベトナムの成否を分けた要因は三つあることがわかった。
第一に「政治権力の後ろ盾」が強固かどうかだ。
日本にはGHQという絶対的な外圧が存在し、台湾では大陸から逃れてきた国民党政権が強く、上意下達で改革を断行できた。が、建国して間もないインドや、南ベトナムのゴ・ティン・ジエム政権は、支持基盤が地主層でもあり、農地改革は骨抜きにされた。
二番目は「地主の抵抗」だ。
日本や台湾ではエリート層に「改革をしなければ共産主義革命が起きてすべてを失う」という危機感があり、地主の抵抗が封じられた。一方、初期のインドや南ベトナムでは、地主が土地所有権の侵害と訴えて延々と裁判闘争をしたり、家族や親族への名義分散で事実上の大土地所有を継続したりした。
三つ目は「行政組織の執行力」である。日本では「小作農5:地主3:自作農2」という構成の「農地委員会」が自治体に設けられ、地主の圧力は封じ込められた。台湾でも同様の農地委員会が機能している。
これに対し、初期インドや南ベトナムでは、地主と癒着した行政官や、農村の事情に疎い都市エリートが改革を担当したため農民の自発的な協力を得られず、農地改革は画餅に帰した。
農地改革の成功は、日本農村に「健康で文化的な生活」への道をひらく。GHQは「ナトコ映画」を農村に持ち込む。ナトコとは16ミリ映写機に由来する。佐久病院もその撮影に協力、「腰の曲がる話」という劇映画が制作された。昭和24年、日本中の農村女性が感涙に咽ぶと伝わっている。
色平 哲郎(いろひら てつろう)
JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長
大阪保険医雑誌2026年5月号掲載
(2026.5.20)
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