苦悩の農村でのたゆまぬ挑戦        富田 昌宏

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一、参院選の結果と農政論議


■(1)参院選落選の国井氏(自民)に聞く   -最大の敗因は農政-

 今度の参院選で栃木地方区は定数2から1に削減された。これまで自民・民主が仲良く票を分け合っていたが、ガチンコの勝負となり、その結果、自民党の国井正幸氏に11万票余の大差をつけて、民主党の谷博之氏が勝った。 国井氏はあいさつ回りの途中で下野新聞の取材に応じ、もっとも大きな敗因は「農政」と述べた。 国井氏によると、自民党の2月ごろの情勢調査では、谷氏を大きくリードしていた。ところが民主党が、政府の品目安定対策を批判するビラをまいた4月ごろから、風向きが変ったと感じたという。 さらに年金不備問題が持ち上がった後の6月上旬の情勢調査では谷氏と接戦、または逆転された調査結果が続いた。 「コメの生産調整でほかの作物に転作しても4ヘクタール以下には国の支援がない、切り捨てだと誤解された。面積要件があるのは大豆と小麦だけで、ほかの作物は面積要件はないのだが」と。 
 農協出身で農水省の副大臣を務める国井氏は長く農業団体の支援を受けてきた。「農家にはわれわれが一生懸命支援した国井がそんなことをするとはなんだ、という批判があったと思う」と国井氏は言い、「誤解を招くような分かりにくい政策を作った責任はわれわれ自民党にあるが、農政の問題がなければ五分の戦いはできた」と悔やむ。 農水副大臣の役にあった国井氏は選挙から2日後の7月31日に農水省に戻り、幹部に「一刻も早く誤解を解く対策を」と指示し、党関係者には「大豆、小麦についても早急に面積要件を撤廃すべき」だと伝えたという。 私も長年農協の理事、監事を務めた関係で国井氏とは親しい間柄ではあるが、今回は谷氏に一票を投じた。一つには国井氏が指摘するように農政問題。そしてもう一つは憲法問題。谷氏が護憲の意志を明確に打ち出したのに対し、国井氏は自民党の改憲を支持したからである。 

■(2)参院選の農政論議   -「農村守る」訴えた民主-

 国井氏が指摘したように、今回の参院選では「農政改革」が争点となった。戦後農政の大転換といわれる政府の「品目横断的経営対策」が今年度から始まり、その是非が問われていた。全農家を対象とする品目ごとの補助金をやめ、「意欲と能力のある担い手」だけに所得補償をする。「担い手」は耕作規模で選別し、コメや麦など5品目の農家は4ヘクタール以上、小規模農家が集まる「集落営農」なら20ヘクタール以上、5年以内の法人化を条件とする。 民主党はこれを「小農の切り捨て」と批判した。対案として全販売農家を対象とする1兆円規模の「戸別所得補償」を公約として打ち出したのである。 
 自民党は民主党案を「ばらまき」、「無責任」と非難した。 農村で政府の対策に反発が強いのは、まず支援農家を規模で選別する点である。全国約200万農家の平均耕作面積は1ヘクタール余。所得補償の申請は集落営農を含めて約7万の経営体にとどまる。 私の所属する栃木県大平町下皆川地区の実態を見ると、数十戸の農家のうち4ヘクタール以上の規模を目指す農家は1割程度である。しかも担い手は60歳代が多く、その殆んどが後継者なしである。10年後を考えてみると、意欲と能力のある担い手も高齢化し、第一線から引退を余儀なくされる。その時にどうなるか。全国の実態は残念ながら把握していないが、政府が目指す「品目横断的経営安定対策」は絵に描いた餅になりかねない。 一方、小規模農家による「集落営農」は、経理を一本化するなど面倒な点が多く、旗振り役がいない。政府の政策がこのまま進行すれば結局は小農切り捨てとなる。 

 
☆     ☆     ☆

 農業は一人ではできず、水路や農道の管理など地域で協力し合ってこそ初めて成り立つ。小規模な農家の役割も小さくなく、農村を分断すると農業の土台が崩れかねない。 また、一握りの農家が規模拡大で生き残ったとしても、人が減り、地域社会の連帯が失われることは必然である。 民主党の勝利は、農業だけでなく農村を守ろうと訴えた点にあると思う。その点、『オルタ』のこの号に「次の内閣」農林水産相の篠原孝先生による「農業問題に取り組む基本的考え方」が発表されるので、熟読してみたい。 先頃、加藤編集長のお誘いで篠原先生を訪問する機会を与えていただいたが、私の不始末で折角のチャンスを失ってしまった。返す返すも残念であった。 さて結論。農村に人が住むからこそ、食糧も自然環境も伝統文化も維持されるのである。これを支えるにはどうすればよいか。 
 今後は与野党の農政論議が激しさを増すものと思われるが、政党の面子をかけた論議でなく、農業、農村、さらには国づくりの視点が必要ではないか。 一方で食糧自給率が40パーセントを切った。もちろん先進国の中で最低、一国の独立にもかかわる問題で、さらにWTO対策も待ったなしである。民主攻勢の矢面に立たされる農水相は嫌われたポスト、と思いきや、遠藤農水相は就任一週間で、自らが組合長を務める農業共済組合が国の補助金を不正に受給した問題で引責辞任してしまった。農政の混乱は、農村、農民に直接ひびく。ハラハラしながら国会の攻防を見守っているのが現状である。民主党も単に政争の具に供することなく、実りある討論を通じて前途に光明を点灯してほしい。 

二、苦悩の農村でのたゆまぬ挑戦

       -私のささやかな歩みを顧みて- 

 私も9月の誕生日が来ると78歳。トラクターや田植え機の操作はまだ現役だが、手足を動かす肉体労働は半日もすると一休みしたくなる。これまで2ヘクタールの水田と20アールの畑を耕作していたがそろそろ限界。長男夫婦は同居しており、孫2人も高校、中学で勉強中の3世帯、6人家族である。長男はサラリーマン、長男の嫁も管理栄養士で学校に勤務しており、農業を継ぐ意志はない。ここは一大決心をして、30アールに整然と区画された水田を、思い切って市街化区域に変更し、その一部を企業に賃貸することとした。これは後ほどやや詳しく述べる。 気力、体力のおとろえと共に、農業最先端の技術と知識の収得にも限界を感じているので、加藤編集長からの原稿依頼を一度はお断りしたが、「退職後2ヘクタールの耕作に取り組み苦闘された経過で結構ですから--」とのおすすめで、以下10数年にわたる耕作の歩みと、その間に取り組んだ改革の一端を率直に報告することにする。 

■(1) 私の歩み=農と共に半世紀

 学校を卒業後、1.3ヘクタールの耕地を、母と妻と私の3人で耕作していた。父は農協に勤めており、田植えなどは共同作業であった。ところが日米安保条約改定後、池田内閣によって打ち出された所得倍増計画の波に乗って、農村にも機械が導入され、いわゆる近代化の波が押し寄せてきた。とうとう耐え切れなくなって昭和37年、私は耕地をそのまま継続して耕作するかたわら、東京に職を求めた。就職先は日本青年団協議会(日青協)である。34年、35年と栃木県連合青年団長、36年には日青協の副会長を勤めたこともあって、新職場は私にとっては働き甲斐があった。耕地はそのままで、いわゆる日曜百姓。往復4時間半の電車通勤はもっぱら読書。この間、日青協では、沖縄返還、日中国交回復、原水爆禁止運動などに精力的に取り組み、社会党や総評にも多くの仲間を作ることができた。その後日本青年館に異動になり、新館建設に取り組んだ。新館は全国青年団の募金をもとに、政府や船舶振興会の補助などもあって、54億円を投じ、54年に完成した。ちなみに借金は27億円であった。 その頃からコメ余り対策として打ち出された減反政策によって農村には無力感が漂い始めた。昭和54年に『減反無残農日記』と題する私の俳句を抄出してみる。 
    稲減反 末法の世や 鍬始め 
    転作の すすまぬ話 松過ぎぬ 
    鍬◎◎を 生きる証シや 終戦日 
    秋の蝶 離農一家の 荷にすがる 
    行秋や 機械化貧乏 出稼ぎに 
    虫の音や 減反無残 農日記 
                (以下略) 
 減反無残の光景は、中曽根内閣のときの『前川リポート』でさらに追い打ちをかけられた。要約すれば世界に向けて「車と家電製品を買って下さい。その代りに日本の農業を差し出しますから」というものであった。 休耕田に座って土を掘り返してみると、ミミズの数が減っている。それだけ土の中の有機質が減り、地力が低下しているのである。ミミズは英語でアースワーム(地球の虫)というように地球を代表する生きもの。地面の下でミミズが動き回れば大地を耕すことになり、生きた土を作る主役でもある。そのミミズが住みにくくなっているのである。耳をすませばミミズの嗚咽が聞えてくる。 放置された休耕田にはいつしかペンペン草が生え、3年も経つと樹木が芽を出してくる。こうなると復旧は容易ではない。その荒れた田んぼを朝夕眺めながら子ども達は通学する。″心が荒れる″のは当然だといえるだろう。農業問題は″教育″と深く結びついているが、政治家も教育者も余りこのことには触れたがらない。 
      農に生き 土に還る身 みみず鳴く      昌宏 
 私は昭和63年に、総務部長10年、常務理事4年を勤めた日本青年館を退任した。(財)田沢義鋪記念会の常務理事や日本青年館70周年記念誌の編集委員長などを引き受けたことから、東京勤務の日々が続いたが、徐々に軸足を郷土(栃木県大平町)に移し、農協の理事、監事、土地改良区の理事長、法務省の人権擁護委員など数多くの公職をこなしながら、地元下皆川の農業関係の改善強化を図ってきた。下皆川自治会の役員(会長、副会長)として取り組んだ事業は(2)(3)に述べる。 
 私の耕地は先に述べた1.3ヘクタール(下皆川地域)の他に4キロ離れた下高鳥地域に1ヘクタールある。父が生存中、市街化区域と交換した湿田で、30アールは町の″地域の広場″に貸与し、他の70アールはAさんに賃貸していたが、Aさんの死去に伴い返却され、現在は休耕地。雑草予防のため、年に4~5回トラクターで耕起するほかは全くの遊休地である。下皆川地域内の水田はこれまで米・麦の2期作を続けてきたが、数年前から麦作を止めた。今は下皆川地域内の水田は水稲を、屋敷には筍や栗の栽培を少々と、畑に馬鈴薯、玉葱、白菜、大根などの野菜を作っているのが現状である。 

■(2)ふるさとルネッサンスの試み
   -栃木県大平町下皆川の現地から-

<<(1)地区の概況>>

  浅草から東武線の日光・鬼怒川行に乗り、関東平野を左右に眺めながら約1時間、渡良瀬川の鉄橋を渡ると左手(西側)に300メートル級の山脈が見えてくる。古代のロマンと四季折々の優雅な彩りを秘めた三◎・岩舟・晃石・大平の山々である。
  大平町下皆川は『日本風景論』の著者、志賀重昂が″陸の松島″と激賞した桜の名所大平山の麓(東川)にひらけた農村地帯で、70ヘクタールの肥沃な水田の中央を、前述の東武線とJR両毛線(高崎-小山)が並行して走り、それを斜めに串刺しの形で永野川が貫通し、水田の用水源となっている。昔は、この川が子ども達の水浴びの場であり、蛍の名所としても知られたが、今、その面影はない。
  近年混住化が進み、総戸数340余戸、農家戸数は56戸で、専業農家は10指にも満たない。

<<(2)農村景観コンクールで最優秀賞に>>

  平成11年2月5日の新聞各紙は、下皆川むらづくり推進協が、栃木県主催の初めての農村景観コンクールで最優秀賞を受賞したことを一斉に報じた。唯一の県内紙『下野新聞』からその一部を抜粋する。
  <県が初めて実施した「農村景観コンクール」で下皆川の地域おこし団体「下皆川むらづくり21推進協議会」(高岩吉男会長)が最優秀賞に輝き、4日、宇都宮のコンセーレで表彰された。非農家との混住地域ながら、住民一体となって花いっぱい運動や地域が触れ合う祭りなどを通じて快適な地域づくりに取り組んでいることが評価された。
  同コンクールは快適で魅力的な農村を築くために、地域の風土や歴史を生かして美しい農村景観を保存、創出している団体を表彰する制度。県農務部が本年度創設した(中略)。

 同協議会は地区の二つの自治会が1995(平成7)年に結成。両毛線沿い約2キロに21世紀にちなんで1241本のヒマワリを植える花いっぱい運動を展開したり、地域を挙げての収穫祭を開催しているほか、都市と農村が交流する農園や農産物直売所も開設。生産調整の進む中でも、農地がよく利用され、用水路や農道の整理も行き届いている。
  協議会の前身の懇談会は、92年に有志35人ほどで市街化が進む中で地域に目を向けた活動が必要と結成した。
  会長の高岩さんは「活動を展開するうち地域住民が顔見知りになり、コミュニケーションも深まった」と振り返る(後略)。

 2月4日の表彰式後行われた「農村景観シンポジウム」で審査委員長の藤本信義氏(宇都宮大学工学部教授)は、「近年都市化の進行が激しい中で、地域コミュニケーションを図ることが重要であるとの認識から、ジャガイモ堀りやスポーツ大会を通じて、都市住民との交流を強化しながら景観づくりへの参加を呼びかけている」とその姿勢を評価し、両毛線沿いに2キロにわたってヒマワリやコスモスを植えた花いっぱい運動を紹介しながら、こう結んでいる。
「地域内の圃場は美しく整備され、遊休農地もなく畔畔の手入れもよく行われていることが美しい農村景観を一層ひきたてている」と。
  農村景観とは、自然が輝く・人が輝く・地域が輝くむらづくり、である。以下、その足どりの一部を紹介する。

<<(3) 地域活動のあらまし>>

  ◆プロローグ-農業懇談会の誕生

  平成2~5年の頃、第一自治会公民館を拠点にスポーツや趣味のサークルが相次いで誕生した。その一つが4年に結成された農業懇談会。「新しい食糧・農業・農村施策の方向」が発表され、「百姓はこれからどう生きていけばいいか」を考えようと35人ほどで結成した。農業者懇談会にしなかったのは、農業以外の者にも加入してほしいという願望からだった。酒を飲みながらの話し合いの中から、花いっぱい運動や収穫祭の提案が行われ、早速地域全体に呼びかけて実行に移した。これを下皆川全体に広げていきたいと考えていた折も折、県が主催する「快適なむらづくり21推進事業」の情報を得、早速拠点集落の指定を受けた。

  ◆むらづくり活動の推進

  平成7年、下皆川第一・第二自治会を網羅して『下皆川むらづくり21推進協議会』を結成し、全員参加型の花いっぱい運動や収穫祭、どんど焼きなどのイベントが企画され、併せて、農産物直売所の開設、農業機械の購入など専門分野での計画が順次展開されていった。共通のテーマは「ここに住んでよかったと思える地域づくり」であった。

  ◆農村アメニティの創造-花いっぱい運動

  協議会最初の取り組みは、懇談会から引き継いだ花いっぱい運動。地区内を走る両毛線沿いに、新世紀の夢をかけて2001本のヒマワリの苗を植えた。延長約2キロ、親子連れや夫婦同伴で250名が参加した。
  線路沿いの農耕車優先道路は、住民応募によって″列車と花の小径″と名付け、さらに私が指導する俳句教室のメンバーの詠んだ俳句の立て札を立てて、綿上花を添えた。また各戸に苗3本を配り、巨大輪コンクールなどを催し、その大きさを競い合った。

     日向葵や ゴッホの男 指太く           (昌宏)

  ◆地域ふれあい活動-どんとこい(来い・恋)まつり

  まつりの命名は、子供会育成会の若いお母さん達。イベントの内容は
  ○安い・新鮮=農産物即売会
  ○親子揃って=餅つき大会
  ○サークル活動発表=俳句教室・絵画・編み物など。
  最近は育成会主催の不用品バザーが人気を呼んでいる。人出は約500人、町の駐在さんにも交通安全に協力をいただいている。期日は毎年12月の第一日曜日。

 ◆伝統文化の保存伝承-どんど焼き

  下皆川地域の文化遺産や歴史などを、郷土史家を招いて学習する傍ら、絶えて久しかった″どんど焼き″を復活させた。この小正月の火祭りの由来を解説したチラシを全戸に配布し、毎年1月中旬の日曜日の午後5時に全員集合を呼びかけて実施。準備は地域内の若者とソフトボールチームのメンバーが分担し、点火は小学生が主役となる。夜は消防団が警戒と消火に協力してくれる。無料サービスの豚汁は育成会のお母さん達の独檀場である。

 ◆都市と農村の交流促進-ふれあい農園

  毎年6月上旬の日曜日、休耕地を借用して植えつけたジャガイモ畑で、「家族で楽しむジャガイモ堀り」を実施する。評判が評判を呼び200人近い家族連れでにぎわう。スーパーでしか見たことのないジャガイモを土の中から堀り出して大発見の子ども達。缶ビール片手に昔話をして聞かせるおじいさんなど、畑の中は大はしゃぎである。呼びかけは町の広報誌や立看板など。

 ◆学校給食に地元産コシヒカリ

  40年前に一人当たり年間消費量が118キロだったコメが今は半分の60キロ。かつて一日に茶碗4.5杯のご飯を食べていたが、今は1.5杯。一人がもう1杯のご飯を食べればコメの年間消費量は330万トン増え、減反面積6割以上に相当する68万ヘクタールの水田がよみがえる。「ご飯もう1杯」が日本の農業を元気づけ環境保全の支えにもなる。
  もちろん、こんな人頼みでことが解決するなどとは思っていない。ここでは一つの実践例をあげてみたい。
  私が理事・監事を勤めた「JA・しもつけ」管内の1市3町(栃木市、都賀町、壬生町、大平町)では14年秋から学校給食で地元産コシヒカリを使用。10月から月平均15~16トン(約260俵)の米が出荷されるようになった。行政やJA関係者の大変な努力があったことはいうまでもない。
  もう一つ。栃木県が平成14年から県内の小学校に農園を設置し、運営するための助成額は1校10万円。初年度150校を予定し、3年間で全小学校に整備された。
  支援体制として1校当たり複数の指導員を配置し、部分的な農業体験だけでなく、種まき、草取り、収穫など一貫した作業を通じ、生産の喜びを感じることが狙い。

    蕗味噌で おにぎりの昼 至福かな         晴生

  ◆農産物直売所は11年目

  平成8年8月、協議会に「下皆川農産物直売所」が設けられた。部会員は37名。毎週日曜、木曜に店を開く。店舗は共同出資と町の補助金で建てられ、敷地は私が提供した。レジは2名ずつ部会員が交替制で担当する。新鮮、安いが評判を呼んで売れゆきはまずまずであるが、何より消費者との会話が楽しい。これまで捨ててしまったタラの芽やフキノトウも結構お金になる。売上金は翌日農協口座へ。
  年に一度は″大感謝祭″を行って顧客にサービスするほか、町が主催するお花見や産業文化祭にも出店する。直売所の経理は売上金の10パーセントで賄う。
ただ最近は直売所の増加で売り上げが下降気味であり、会員の高齢化で退会する 人もある。

  ◆能率の高い集落営農-営農集団の組織化

  56戸の農家のうち専業は10戸に満たないが、第二種兼業型の下皆川で、能率の高い農業を行うには、営農集団化とコンバイン・トラクターなどの大型機械の共同利用しかない。幸い県や町の補助もあって、機械の共同購入を行い、それに伴う集団化が実現してコメとビール麦栽培を中心に成果をあげている。直売所の店頭をにぎわしている野菜もリース制のパイプハウス利用によるものが多い。
私も3人共同で大型コンバインを購入し、半額は補助金だった。おかげで稲刈り、麦刈りを継続できたのである。

  ◆クリーン大平と堀ざらい

  下皆川地区では5月に田に水を引く堀の土砂をさらい、雑草を刈りとる作業を共同で行っており、7月と9月の第一日曜日には「クリーン大平」と称して全町をあげてのクリーン作戦を展開している。全戸の参加を求め、雑草刈りや缶ひろいなどに汗を流す。このことが共同作業の重要性を再認識させてくれる。

  ◆結びに代えて

  以上駆け足で事業の一端を紹介させていただいた。ただ表面をさらりと撫でただけで、問題点の解明や地域づくりの基本的な考え方には触れずじまい。そこで私の日頃考えていることのうち3点ほどを取り上げ参考に供したい。

  ◎ 第一はボランティア活動について
  青少年教育や教師の国際比較で、日本で最も権威のある日本青少年研究所によ
ると、お父さんがボランティアをしているケースで子どものデーターをクロスしてみた場合、その子どもの創造的、智的、寛大さ、正義感などで、お父さんがボランティアをしていない者よりはるかに数値が高いことが分かった。
  千石保所長は「お父さんがボランティアをすることは、百万遍のお説教より立派な子どもを育てることが統計調査で裏付けられた」と強調する。″子どもは親の背中を見て育つ″という日本の諺が現在も見事に生きているのであり、花いっぱい運動や″クリーン大平″運動もそれを実証している。

  ◎ 第二は地域社会の教育力について
  人間の成長は幼少期の人間関係に大きく左右される。思いやりとか協力し合うなどの性格は異年令集団交流の中で培われるが、核家族、少子化が進む現状では、家庭や学校はその機能を十分果たせず、若年層の犯罪の潜在的要因になっているものと思われる。これをカバーするには、地域社会の教育力を回復することが肝要であろうと思う。
  下皆川地区では年に何回かの軽スポーツ大会を老・壮・青と小中学生が一緒になって楽しむ。また9月の敬老の日には、老人達の祝賀の会に、お母さんや小学生の参加をお願いし、合唱や手づくりの記念品のプレゼントを実施している。12月には親子しめ縄づくりを実施したこともあった。

  ◎ 第三は指導者の問題。
  むらづくりのポイントは指導者の能力と熱意にある。下皆川むらづくり21推進協議会の高岩吉男会長は、栃木県庁で農務畑を歩み、定年後は下都賀(郡)農政事務所長を務めた農政のベテランで、苦労をいとわず豊富な人脈を駆使しながら、ねばり強く地域活性化に挺身しつづけている。この人なしに景観コンクールの栄誉は与えられなかった。高岩さんを中心にした人の和が下皆川の美しい田園風景を創り出したといっていい。私も高岩さんの後継者として自治会長をつとめ、むらづくりの副会長として働かせてもらった。
  これら一連の活動を通じてすぐれた後継者グループが育っている。目標を持った日常活動こそ人材育成の苗床なのである。現在の自治会役員は我々の精神を正しく継承して奮闘しているが、今は役員の中に農業者はごく少数である。混住地帯の特質かもしれない。

  ◆集落排水事業の完成

  下皆川地区は14億円の巨費を投じて集落排水事業に取り組み平成14年に完成した。これで各戸から排出される汚物、汚れはすべて機械で浄化されるようになった。水稲に引く水は山から流れ出る水と同じく清水である。この事業は農水省などの補助金が投入されており、事業完遂には曲折はあったが、生活雑排水が追放され、かつてのメダカの川、蛍の舞う里を夢みている。ただこの文は農業問題の報告が主なのでこの辺で止めておきたい。

  ◆栃木県内の先進的事例から

  栃木県内に模範となり、目標となる先進事例が多い。ここではそれを書いている余裕はないし、やや本題をはずれるので2地区だけ要点をつけ加えておきたい。
  一つは、平成14年の農林水産祭で園芸部門の最高の栄誉である天皇◎を受賞 したJAしもつけの栃木トマト部会である。特筆すべきことはトレーナー制度を 設け、着実な後継者育成を行っており、女性が経営に参加できるようにレディス トマト部会を設けるなど、つぎつぎに難問に挑戦しこれをクリアーしていることで、後継者は育てるものという範を示してくれた。

 もう一つの事例は棚田オーナ制度を設けた栃木県茂木町の実例である。茂木町 山内地区の甲(かぶと)には39戸の集落に総勢33人の受け入れ組織が発足し、5月の田植えにはオーナ家族ら80人近くを迎え入れた。
  機会を提供したのは「直接支払制度」の導入だった。この制度は、洪水防止や 景観の保存など多くの機能を持つ中山間地の耕作放棄を防ぐため、国が直接、集 落や農家に交付金を支払う制度で、2000年度から始まった。地元協議会代表 の河又正美さんは「制度がなければ、放棄地の復旧は出来なかった。これまでに ない世代を超えた交流も生まれた」と話す。中山間地の暮らしは集落の相互扶助が下支えとなり成り立っており、直接支払制度が集落の切れかかったつながりを 再生したことは事実で、農政の視点がいかに大事かを物語っている。
 栃木県にはさまざまの先進例があるが、本題と少しずれるのでこの辺で止めておきたい。


三、高齢化に備えて
  -農振地域から市街化区域への転身


  冒頭に述べたように私も9月の誕生日で78歳。今まで一生懸命になって農地 を守り、米や麦作を続けてきたが、そろそろ限界である。そこで考えたのが、3 0アールに整然と区画された耕地(農業振興地域)を市街化区域に変更し、企業を誘致して賃貸契約を結び、何がしかの賃貸料収入をはかると共に、企業誘致によって地域活性化に資したいと考えた。この考え方には賛同者も多く、自治体(大平町)に働きかけ、県に要望してついに宿願を達成した。4年がかりの道のりであった。これには水田沿いに栃木藤岡バイパスが貫通し、地の利がよかったことが一因である。

 まず誘致企業。これはホームセンターのチェーンストアを経営する(株)カイ ンズに狙いを定めた。平成元年の設立で本社は群馬県高崎市。資本金33億円、売上高は約2000億円で従業員は約5000人。店舗数は東日本を主体として130店ほどの会社である。
  まず地元の有志とカインズが手を取り合って町当局と話し合うと共に、大平町 役場都市計画課に「栃木藤岡バイパス沿線利用促進協議会事務局」を置き、地権者による土地区画整理事業組合を設立した。事務局と地権者が一体となり、栃木県に働きかけると共に、農水省の承諾を求めて運動を展開し、ようやく決着した。
  面積は27ヘクタール、町助成金は5億7千500万円。自己負担は保留地処 分金の10億円である。

 政府・与党が郊外出店制限で都市計画法を改正するなど難問もあったがこれを クリアーし、本年10月から工事に着工する。全市街区域のうち私の分は80ア ール。その内カインズとの協定は55アールである。
  農業収入と年金に頼ってきた私の生活設計もカインズとの土地賃貸契約で大分助かる。老後の設計もほぼ見通しがつき、ホッと胸をなで下ろしているのが現状である。

  長々と個人的なことを交えて書いたが、農家でない方には分かりにくかったか もしれない。そこは私の文章のまずさであり、おゆるしを乞いたい。
  渡り鳥の季節=雁が秋空を竿をなして飛んでゆく。核のない日本の青空は、雁にとっても別天地であろう。

    核持たぬ 国の安らき 雁渡る            昌宏

(筆者はオルタ共同代表・大平農協理事・元日青協役員)

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