【ドクター・いろひらのコラム】(20)
若き若月の「初期設定」
何ごとによらず、「初期設定」は重い意味を持つ。
佐久総合病院の礎を築いた若月俊一・名誉総長は、戦後間もなく、農村医療は「平和」と「独立」「民主主義」を確立するための前線である、と述べ、医療活動の明確な初期設定をした。
手段のひとつが「演劇」だった。
若月医師は病院職員に呼びかけ、劇団を結成し、1945年11月には「白衣の人びと」という農村演劇を農民たちの前で演じている。日本国憲法が、まだ影も形もなかったころに、である。
これほど早く、平和、独立、民主主義の三原則を具体化できたのは、当時、間接統治で日本を事実上支配していたGHQ(連合国最高司令官総司令部)が日本をどう変革しようとしているか、いち早く、正確に把握していたからだろうと私は推測している。
戦後の日本国(日本国憲法下の日本)の初期設定をしたのは、米国だった。
1941年12月7日(現地)日本軍が真珠湾攻撃を敢行したその直後、米国のコーデル・ハル国務長官は、フランクリン・ルーズベルト大統領から〈国務省主導型の本格的な戦後計画機構を新設〉(『日本の近代6 戦争・占領・講話1941~1955』五百旗頭真著・中央公論新社)する許可を得ている。
日本が対米戦争に踏みきった以上、米国は徹底的に戦い、〈日本は壊滅する〉(同前)とみていたからだ。
事実、国力に劣る日本は次第に米国に叩きのめされ、最後は原爆を投下されてポツダム宣言受諾へと追い込まれていく。
じつは、1943年3月の段階で、米国は対日戦後計画として6つのプランを持っていた。
そこには、日本を壊滅させて民族を奴隷化する強硬論や、日本帝国を温存してソ連や大陸に対抗させる意見も含まれていたが、結局、日本に「自由主義的改革に天皇制のマント」を着せて非軍事化、民主主義化へと進む方針が採られる。
この議論を導いたのが、ヒュー・ボートンや、ジョセフ・グルー、ヘンリー・スティムソンら「知日派」といわれる要人たちだった。当初、米国では、日本を徹底的に叩き、無力化する「ハード・ピース」路線が主流だったが、知日派は天皇制を擁護しつつ経済発展や国際復帰を目ざす穏健な「ソフト・ピース」路線を具現化した。
1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾する。
米国は、国務省、陸軍、海軍の三省調整委員会が作成していた原案をもとに「降伏後における米国の初期の対日方針」を9月6日に決定、同月22日には日本で公表され、報道発表された。
日本政府(東久邇内閣)は、そこに並べられた財閥解体や農地改革、憲法改正などに強い拒否感を抱いたようだ。
一方、若月医師は、この対日方針を報道で知り、前述の三原則を医療活動の中心に据え、電光石火のごとく劇団結成や健康講話など「独自の社会教育活動」を開始したものだと思う。
近年、この数年間は、佐久病院(とその前身「農業会病院」)の創設から80周年にあたる。
この機会に、若き若月の「初期設定」と、GHQ天然資源局顧問ウォルフ・ラデジンスキー(W.Ladejinsky)少佐らが関わった第2次農地改革について、学んでいきたいと考えている。
色平 哲郎(いろひら てつろう)
JA長野厚生連・佐久総合病院地域医療部地域ケア科医長
大阪保険医雑誌2026年3月号掲載
(2026.3.20)
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