【コラム】大原雄の『流儀』

自民党と旧・統一教会を巡る「接点」論

大原 雄

★日本:「国葬・儀」強行で浮き彫りになった自民党の「組織病理」

 9月27日、日本の国論を二分(反対の方が過半数)した、「国葬・儀」(社会学者の橋爪大三郎は、「国葬のまがいもの」と呼んだ。朝日新聞9月30日朝刊記事「国葬考」より引用)が日本武道館を主会場に強行開催された。日本国憲法(代表民主制)施行に伴い、戦後廃止された「国葬(天皇主権)」が安倍元首相の「遺」志(?)と称する空気から「国葬・儀」として、岸田政権によって強引に「復活」された(岸田首相の「本卦還り」か)。死去から2ヶ月以上経って実施された「国の儀式」は、その間、法的未整備など制度の問題点や意義・目的などについて十分な熟議もなされぬまま、ただただ「国葬」の表記の後に「・儀」の一字が付け加えられただけで(ほとんど「放置」されたまま、構ってもらえず、放置の果てに)復活させられたのだ。国民は、岸田政権の放(ほ)ったらかしぶりの印象が強かったせいで「国葬」の終了後も不信感を募らせている。岸田政権の危機。それは、岸田首相の政治家としての資質を疑うという新たな視点なども浮き彫りにされてきた。

★「国葬」後、岸田内閣の「接点」は、変化したのか

 朝日新聞は、国葬強行後の岸田政権の内閣支持率などの世論調査をした。調査の実施日は、10月1、2日。以下、朝日新聞10月3日付朝刊記事より概要引用。
それによると、不支持は前回の47%から、さらに増えて50%。不支持が、初めて半数に達した、という。支持は前回の41%が40%と横ばいであった。
また、岸田政権が安倍元首相の、「国葬」をいわゆる「国葬・儀」として行ったことについては、「評価しない」が59%、「評価する」が35%であった。
政治家と旧・統一教会を巡る問題への岸田首相の対応ぶりについては、「評価しない」が67%、「評価する」が22%であった。特に、安倍元首相と旧・統一教会の関係について、自民党が「調査をするべきだ」は、64%、「必要ない」は31%だった。自民党が調査すべきなのは、具体的な「安倍元首相と旧・統一教会の関係」であるとともに、政党としての自民党の「組織病理」も解明せよと国民が思っていることを忘れてはならないだろう。

 岸田政権が「接点」問題をこのままやり過ごそうとすればするほど、岸田内閣の「国民との接点」は、離れて行くという傾向は「国葬・儀」を実施しても、構造的な変化が起こるような予兆すら感じられない、という印象を私は強くした。

 この「国葬・儀」が、マスメディアの世論調査でじわじわと国民の支持が減り続けたのは、安倍元首相と旧・統一教会との「接点」の実態を岸田政権が、最後まで隠し続けたためだ。第2次安倍政権では、「旧・統一教会」問題だけでなく、「森友・加計学園問題」や「桜を見る会問題」の疑惑など安倍元首相を主軸とすると思われる真相が未だに隠されているのではないか、という疑心を国民に抱かせている。こうした疑惑に対する国民の反発が、安倍版「国葬・儀」批判に繋がっている、と私は思う。この安倍元首相と旧・統一教会との「接点」の実態解明、その中心にいるだろうと見られる安倍元首相の主軸の疑惑にきちんと焦点を当てない限り岸田首相の「丁寧な説明」などは、いくら繰り返されても全く不要なのである。その一つの証左を上げておこうか。

朝日新聞10月5日付朝刊記事より概要引用。
いきなり、四面。5段記事で、3段見出し。
見出しは「首相『ぶら下がり』取材172回」
左隣りに副見出し。
見出しは「就任1年 説明姿勢をPR」

 「 ぶら下がり」とは、マスメディアの独特の報道用語で、立ったまま、取材に応じる中心人物の周りを報道陣が囲んで、短いやり取りで質疑する取材方法である。いわば、「立ち話」スタイルだが、ニュースの中心となる当事者から直接話を聞けるメリットがあるが、立ち話なので、一言聞くだけ、となる。対面取材だが、対話取材にはなりにくい。朝日の記事では、内閣発足以来1年間の「ぶら下がり」で菅内閣と岸田内閣を比較したという。
 その結果、回数では、菅内閣は126回だったが、岸田内閣は172回を数えた。時間は、菅内閣が合計で約7時間だったが、岸田内閣は約15時間半の登ったという。圧倒的に菅政権より記者団に対応しているように見えるが、記事によると、「抽象的な答えや同じ説明の繰り返しが多く、回数の割に中身が薄い」と総括している。私の印象も同じだ。
 内閣支持率が下がり始めてからは「首相側からぶら下がり取材を求めるケースが増えた」という。

 岸田政権の場合、首相は「説明する姿勢をアピールしているつもりだろうが、
それなのに自滅の危機を承知しているのかいないのか。岸田首相は、身を呈してそれを拒否し続けている。姿勢の方向が逆ではないか。これでは、支持が減り続けるのは当たり前だ。そして、私は言いたいのは、これは岸田首相の政治家としての資質の問題というだけでなく、こういう言動をトップに許した自民党長老を頂点とする、この政党の本質的な組織病理であることを考えなければならないということだ。

 マスメディアの対応は、献花に訪れた多数の国民の姿や声を伝えたり、あるいは、国会周辺や会場周辺で開かれた国葬反対派のデモ行進や集会を報じたり、世論を二分した賛否の様子が伝えられていて、分かりやすかった。しかし、葬儀場では白い礼服に身を固めた自衛隊儀仗隊の参列の是非や黙祷時の音楽隊による軍歌「国の鎮め」の演奏(この曲を取り上げねばならぬ根拠はないはずなのに)の是非など、国葬として過剰かなと思える保守的な演出の是非なども事前に国民の意向を聞くなどしても良かっただろう。歌詞にある「治まる御代を守りませ」の「御代」とは、「天皇の世」。「天皇主権」の歌詞ではないのか。

★韓国:白亜の「艦隊」

 「ソウル中心部の北東約60キロの山腹に白いドームが特徴的な『白亜の館』がある」。朝日新聞9月16日付朝刊記事より引用。旧・統一教会の「天正宮博物館」である。写真で見ると、山腹に3つの施設がある。標高差を利用して建設しているので、緑の森は海に見え、白亜の館は、大海原に乗り出す艦隊のように見える。

 旧・統一教会の信者や元信者の間にも「接点」があるとすれば、私には、こここそが最前線に見える。「(略)韓国メディアなどによると、韓国で教団が所有する土地は計1400万坪に及び、総資産は2兆ウオン(約2千億円)ともされる」。「日本に根を張る教団組織を『献金を作り出す経済部隊』(略)と呼ぶ。献金は、旧・統一教会が続く限り、金の「接点」であり続けるだろう。 

★ロシアとウクライナの「接点」クリミア橋爆発、一部崩落

 朝日新聞10月9日付朝刊記事より、リードの一部を引用。

2014年にロシアが一方的に併合し、実効支配を続けるウクライナ南部クリミア半島とロシアを結ぶ「クリミア橋」で(10月)8日早朝、大きな爆発が起きた。(略)

(略)ロシアの連邦捜査委員会の発表では、橋を通行中のトラックが突然爆発。併設された鉄道で、貨物列車が運搬中の七つの燃料タンクに爆発の炎が燃え移ったという。橋の道路は一部崩れ落ちた」。

 戦争映画さながらの場面。クリミア橋の上、走行する貨物列車、長い列車に載せてある燃料タンク。写真を見るとタンクの貨車は、かなり長い。併設された道路を並走してきたトラック。ディスタンスを保っていたトラック。スピードを上げる。ある「接点」で突然爆発が起こる。次の「接点」でトラックの炎が燃料タンクに燃え移る。貨物列車のあちこちで炎が上がる。炎からつながる黒煙は炎に覆いかぶさり、炎が見えにくいほど大量に立ちのぼる。

★ロシア:「動員令」と「住民投票」

朝日新聞9月23日付朝刊記事より以下、引用。
3段見出し。「動員令に抗議1400人拘束」。「21日、兵員補充の予備兵動員令に対する抗議行動がロシア各地で広がった」。おお、ロシアにも、きちんと意見を言う真っ当な国民がいる! それはそうだろう。プーチンが抑制しているだけだろう。

さらに、同記事内に見逃せない記述があった。「政府のメディア監視機関は報道機関に対し、動員令については政府や地方機関の情報にもとづいて報道するよう警告しているという。実際に、抗議行動を取材する報道陣も拘束され、拘束中に徴兵令状を手渡される人も出ているという。世界のジャーナリストたちよ。これは、見逃せないぞ。日本の戦前にも、同じような報道規制があり、その後、日本は戦争へ転がり落ちる坂道へと飛び込んで行った。

以下、日経新聞(デジタル版)9月23日記事より引用。「親ロシア派武装勢力が一部を占領するウクライナ東部と南部4州で現地時間23日朝(日本時間同日午後)、ロシアへの編入の賛否を問う住民投票が始まる」。そして、朝日新聞10月1日付朝刊記事の一面では黒抜き白ベタの大見出しが躍った。以下、引用。

★「ロシア、4州強制併合」

リード記事の一部引用。「プーチン大統領は30日、軍事侵攻で占領したウクライナ東部、南部の4州を自国に併合すると一方的に宣言した」。プーチン流は、8年前、2014年の「クリミア併合」を強行した手口と同じである。

 その後のマスメディアの報道を見聞きしていると、「動員令」は、予備役兵の動員なのに、でたらめな対応をしていることなどがメディアによってロシア国内でも伝えられたようで、徴兵事務所襲撃を始め、発砲や放火など動員に不満が広がっていると朝日新聞9月27日付朝刊記事が報じた。警察官たちが若者などを武力行使で拘束している場面が映像付きで放映されていた。拘束の場面は、ロシアの国営テレビなどでも国内向けに報じられているのだろうか。報じられているのなら、ロシアの国民もマスメディアを通じて変わり始めたということなのか。

 一方、ウクライナ東部と南部の地域をロシアに編入する「住民投票」も、変則的な投票方式で「ごり押し」されている。その後、されてしまった。
 国際的には、プーチンの言動でロシアの国情が変則的になっていることは十分に伝えられているが、言論統制されているロシア国内の、こうした変則ぶりが、どこまで国内へ向けて発信されているのかは、疑わしい限りである。

★「50キロ前進」の意味

 ウクライナ戦争の戦況は、日々動いている。戦況は、ロシア軍とウクライナ軍の戦線で表現される。それぞれの最前線には、さまざまな「接点」がある。接点では、兵士たちの命をかけた戦いが展開されている。一方が前進すれば、片方は撤退する。「撤退」後、軍は「再編」される。

贅言;「再編」は、事実上部隊の「撤退」を意味するという。軍隊は、用語を虚構化する。嘘で固めた軍隊用語で報告されるフェイクニュース。そういう用語を駆使して紡ぎ出される文体は、リアルから、ますます「距離」(ディスタンス)を取る。私が考えた「数式」は、以下の通り。

  リアル(ファクト) + ディスタンス — フェイク= ?

*以下は、朝日新聞9月10日付朝刊記事より引用。&deco(blue,,){ウクライナ軍参謀本部は(9月)9日朝、北東部のハルキウ州で州東部を占領するロシア軍を攻撃し、従来の前線から50キロ前進したと発表した。(略)
ゼレンスキー氏は8日夜のビデオ演説で『9月1日以降、全土で千平方キロメートルの領土が解放された』と述べた」};という。以上、引用終わり。

*3日後の朝日新聞9月13日付夕刊記事(ゼレンスキー大統領の12日夜のビデオ演説)より引用。「ウクライナ軍が南部と東部で始めた領土奪還作戦で『9月初め以降、6千平方キロメートル以上の領土を解放した』と述べた」という。

情報上、わずか3日で、ウクライナの領土奪還は、5千平方キロメートルも増えている。データがコントロールされているか、各地からのデータがバランス良くは、出されていないか。何れにせよ、データが時間比例に対して「歪んでいる」可能性がある、と思われる。ウクライナ戦争は、フェイクニュースが飛び交う本格的な「情報戦」と言われる所以は、こういう細部の「気づき」の有無に宿っていると思われる。

以下は、朝日新聞9月20日朝刊記事より見出しなど概要引用。

3段見出し。「別の原発ミサイル攻撃」。
左隣りに副見出し。「ロシア、原子炉付近に着弾」。

本記記事は、ウクライナの原子力企業「エネルゴアトム」のSNS投稿。内容は、「19日未明、ロシア軍がウクライナ南部ミコライウ州の南ウクライナ原発をミサイルで攻撃した」というもの。それによると、「ミサイルは原子炉から300メートル離れた場所に落下。原発の建物の窓100枚以上が衝撃波で割れるなどの被害を受けた」という。「原子炉に異常はなく、正常に運転しているという」と伝える。ロシア軍は、ウクライナの原発のうち、チェルノブイリ原発(閉鎖)、ザポリージャ原発(掌握)に続いて、3つ目の原発攻撃となる。

ウクライナとロシアでは、戦争の勝ち負けとは別に、それぞれ戦争終焉期に入り、いわゆる「幕引き」のあり方が「注目」され、「演出」されてくるだろう。

贅言;幕引きの演出の仕方では、プーチンよりもゼレンスキーの方が、私には、興味深いが、それも、ここでは取り敢えず、脇に置いておく。今回は、旧・統一教会と自民党の「接点」を軸に描きたい。

★旧・統一教会と自民党の「ディスタンス」

 戦場では、実際の距離がどうであれ、接点には、それぞれ距離感(ディスタンス)がある。日本のジャーナリズムにとって、いま重要な接点となる国内の最前線の一つといえば、旧・統一教会と自民党との「ディスタンス」である。朝日新聞は、全国の国会議員、都道府県議員、知事について、このディスタンスの実態を調べるべく、アンケート調査をしたという。アンケートのデータ部分は、すでに集計され、公表されていて、既報(9月4日付朝刊記事)となっているので、ここでは触れない。アンケートの記述欄の意見がおもしろいので、一部を後述、掲載することにしたい。

「自民党は8日、党所属国会議員と『旧・統一教会』や関連団体との関係について点検結果をまとめ、(略)379人中179人の接点があったと公表した」。以上、朝日新聞9月9日朝刊記事より引用。マスメディアの「接点」調査取材と自民党の「接点」点検では、いずれも数字が一定しない。じわじわ増えてきているということは、「後出しジャンケン」をしている人がいるか、逃げている人がいるか、どうかか。細田衆議院議長なども、後出し組。党籍を離れているから、自民党の点検の対象から外したなどという

★「接点論」へのヒント

 安倍元首相が銃撃されたわずか6日後の7月14日、岸田首相は安倍氏の葬儀を「国葬」で実施すると早々と表明したが、ずいぶん拙速すぎるのではないか「聞き上手」の、まず聞くだけというのが岸田首相の当面の世渡りのスタンス・極意だろう。誰か、自民党の保守派政治家の、いわゆる「大物議員」が、介在していて、岸田首相に圧力をかけたのではないのか。もし、そういう人物が、いわゆる「国葬」実施と岸田首相の間にいたとしたら、その人物を特定して報道することがマスメディアの使命ではないか。これを取材してみるマスメディアは、出てこないのか。国葬実施の判断は、どうも、岸田首相と側近の少数だけで、早々と国民の意向を読み間違える判断をしてしまったという可能性が高そうだ。深読みができないようでは、リーダー失格ではないか。

さらに岸田首相は、9月8日の衆院議院運営委員会の閉会中審査の場で、安倍元首相と旧・統一協会との関係について「調査しない方針」だと明言している。「お亡くなりになった今、確認するには限界がある」と答えている。
「安倍氏が最もキーパーソンだったのではないか」と立憲民主党の泉健太代表が質問した問いには答えていない。ここにこそ、旧・統一協会問題の本質が隠されている。葬儀を出して、もう終わりでは、安倍元首相に対して失礼だろう。
なぜ、国民の多くが疑問に思っていることに正面から答えないのか。

「限界」があっても、国民にここが限界点、つまり限界と限界ではない位置の「接点」だと見極めるまで、岸田首相は国政の最高責任者として事実関係を明らかにすべきではないだろうか。国民は、そういうギリギリまで続けるか、続けないかの接点の解明を自民党に求めている。国民の自民党政治に対する不信感の解消には、旧・統一教会問題での安倍元首相の役割、彼が具体的にどう関与したのかなど、きちんと調査をして、安倍元首相の業績がいかに国葬に値するかと政治判断したことを説明する必要がある。それができなければ、自民党のガチガチの保守層以外は、有権者たちも逃げて行くのではないのか。岸田首相の「国葬」強行は、自民党政治の落陽スタートの号砲かも知れない。奈良の事件の容疑者が撃った弾丸は、安倍首相を銃撃しただけでなく、自民党そのもののタブーを貫通してしまった。

贅言;岸田首相は、学生時代、自分から発言するタイプではなく、検討ばかりしていてなかなか実行に移さないので、「検討使」と渾名されていた。今は、安倍派や自民党の支持基盤の保守層を意識している。安倍派に注目。メディアの記者たちは、安倍派の後継争いと合わせて取材しているだろうから、いずれおもしろい情報が出てくるのではないだろうか。

★旧・統一教会における「安倍氏の接点」の位置

前号までのシリーズ「チェルノブイリの月」。このコラムのテーマについては、標記(タイトル)が替わった。論ずるテーマは、重く、大きいので、この連載では暫くは、意図的に重複したり、繰り返したりしながら、書き方を工夫するつもりだ。

すでに、「チェルノブイリの月」のタイトルの下、シリーズで書いてきた通り、ここのテーマは、あくまでも「表現」である。「表現」のなかでも「表現の自由の在り方」、「熟議/情報の、いわば『剪定』の在りよう」というものをテーマとして設定している。そのテーマの下、目下、国際社会を悩ませている「ウクライナ戦争の終わり方」や「旧・統一教会と日本政治」という具体的な問題(素材)を検証するという形で、今後も、折をみながらテーマへの考察を自分なりに深めて行きたいと思っている。

★「接点」は、どこにでもある

政治と旧・統一教会における「接点」では、幾何学的な接点のほかに、教会と政治の接点、特に自民党政治での「入党」、「派閥参加」、「癒着」、「出逢い」、「同席」などアトランダムに思いつくまま挙げると、おもしろい。また、政治と宗教での「接点」「ディスタンス」、「接近」、「隙間」、「入信」、「からくり」、「擬装」、「騙し」、「フェイク」などというサブテーマを秘めながら、これまでも一部、書いてみた。言葉や表現というものは、おもしろいもので、似たような意味の言葉でも、具体的に用語を挙げてみると、それぞれ違う方向へ言葉が自動的に走り出すようなところがある。マスメディアを源流として、社会に流れ出る情報の奔流のままに、ここまで言葉を紡ぐように書いてきたが、テレビ報道で長いこと飯を食ってきた身には、そのままのスタイルでテレビよりも新聞をベースに見据えて、自由奔放に書いて行く方がおもしろいと思っているので、もうしばらくお付き合い願いたい。

★安倍氏と教団の「接点」

この項、朝日新聞9月17日付朝刊記事参照(特に、政治学専攻の中北浩爾一橋大学教授)。

安倍氏の「国葬」問題については、将来のこととして亡くなった本人がどう考えていたかは判らないが、中北教授が言うように、「安倍氏らが教団側から協力を得てきた経緯から『(選挙に)勝つために(反社会的な活動もしていた)旧・統一教会まで使っていたのか、国葬までして特別扱いする必要はあるのかという話に当然なる』」という。この部分は、今や、多くの国民の共通認識(コモンセンス)になっているだろう。この問題は「国政選挙などで保守政治の本質が問われる事態だ」「実態解明に乗りださなければ『国民は納得しない』と中北教授は言う。その通りだと思う。マスメディア各社の世論調査の結果が、それを語っている。このことに気づかなければ、岸田政権は、いずれ潰れる。政治学者たちは、自民党の国会議員らの政治センスを確かめなければならない。

そこで、今回は、旧・統一教会における「接点」として、まず、彼らの「ディスタンス」の問題の続きを考えてみたい。今回は、朝日新聞9月4日付朝刊記事を参照・引用しながら、以下、書き進む。

★議員の意識「調査」の試み 〜朝日新聞

当該の9月4日朝刊記事は、一面。二面。二十九面。
国会議員、都道府県議員、知事らを対象に朝日新聞は、3000人を対象にアンケートを行ったという。テーマは、それぞれ政治家として、旧・統一教会との関係を尋ねている。教団や関連団体と「接点」があったことを認めたのは、計447人の議員や知事たち。このうち、国会議員は150人、都道府県議員は290人、「ともに8割を自民が占めた」という。知事は7人だった。

次いで、9月13日朝刊記事は、四面。8日公表した自民党による「点検結果」をベースにしている。自民党「所属国会議員379人中179人に教団側との接点があった」という。自民党は分母が、くるくる変わりすぎないか。点検の精度を著しく貶める。

以上、記事リードの一部を引用。

各種選挙を通じて、日本の政治家たちが、「旧・統一教会」とつながりを深めていったことが浮き彫りにされている。教団の内部的な実態を知っているわけではないが、役員たちの顔つきやしゃべり方を思えば、「旧・統一教会」側の粘着質な浸透ぶりが鮮明に見えてくるような気がする。

贅言;自民党に対する「接点」調査は、調査によって、データがまちまちの部分がある。要するに「接点」があったという認識が曖昧なまま、その正否を精査せず、回答した人の判断に任せたまままとめたからだと思われる。ただし、自民党の調査にしろ、マスメディアの調査にしろ、「接点」があったと認識している人は、調査の時期が最近に近づけば、近づくほど増えるようである。それに連れて接点の数が増えてくる、という傾向がある、というのは、日本の、あるいは、保守派の政治家たちの「曖昧さ許容」の性向、あるいは、「美意識」の反映なのかもしれない。こういう「美意識」は、「愚意識」か。

「接点」は、「旧・統一教会」側の視点から見れば、癒着(密着)、ディスタンス(距離感)、からくり(関連団体媒介)、恩義(選挙支援)、金銭関係(献金)、脅し(「恩返しせよ」という強要、「借りを返せ」という強要)など、多面体さながらに、多数の光源から投企される光の方向の違いで、さまざまな問題の所在を浮かび上がらせてくれるようである。そういう気づきがあれば、その都度、私は同じテーマを違った角度からスケッチしてみたいと思っている。

「自民党は、旧・統一教会や関連団体との関係断絶を宣言したが、その実効性が見通せない」。以上、引用終わり。

★ 各論:「アンケート調査の記述欄」から  〜朝日新聞

では、次いで、朝日新聞9月10日付朝刊記事(七面全面記事)のうち、「アンケート調査の「記述欄から」というコーナーから、以下、一部をコピー&引用してみよう。「選挙支援」「会費や献金」などの項目は既報と重複するので、省略。

①「教団との距離」:

*「反社会的な行為が疑われる団体との関係は、政治の側として慎重でなけれ  ばならず、接触は控えるべきだ」。(公明)
*「(教団に)関わるということは、政治家が、ある種の『お墨付き』を与える広告塔になってしまい、被害を拡大することになる」。(立憲)
*「トラブル団体が政治の意思決定に深く関わることは望ましくないと考える」。(維新)
*「政治としては個人の信仰を尊重するとともに、違法行為は是正するという難しい判断をしていかなくてはならない」。(自民)
*「個々の市民をいろいろ詮索したり、区別や差別をしたりすることはできない」。(自民)

贅言;例えば、『反社会的な行為が疑われる団体』と『反社会的な団体』とは、同じなのか。違うのか。違いを説明しなければ、判りにくい表現だ。

『反社会的な団体』と言えば、私などは、組織暴力団を連想する。「暴力団」という用語は、戦後、警察が作った「用語」だという。こちらの方は、警察(国家権力)は、敗戦後の「焼跡闇市」の場から育ってきたような暴力団の「力」(暴力)をだいぶそぎ落としてきたのではなかったのか。公明党の議員の記述には対応に「慎重」とか、(そっと)「接触」とか、及び腰が透けて見えている。それでは適切なディスタンスが、取れないのではないのか。

ならば、適切な距離感とは、何か。議員や報道人は組織的にも、個々にも工夫すべき表現だったろう。反社会的な団体は、すでに政治の意思決定に深く関わっているのではないか、という懸念が恐い。すでに、自民党の憲法案には、旧・統一教会の意向が染み込まされているのではないか、という気がする。マスメディアは、きちんと検証しているのか。まだまだ、調査報道が足りない。

②「法規制や報道のあり方」:

*「フランスの反セクト法を参考に反社会的な組織・団体の違法かつ悪質な活動に一定の規制をかけるための法律を検討する」。(維新)
*「(略)超党派で慎重に議論し、きちんとしたルール作りを進めるべき」。
*「(略)法整備などを含めた仕組みづくりが求められる」。(自民)
*「30年以上前に社会問題として大きく騒がれ、積極的に報道された「霊感商法」について、どうしてそれ以降報道が下火になっていたのか」。(維新)
*「長らく旧・統一教会の被害報道をせず、むしろ関係行事を報道してきたマスコミの不作為と作為両面の責任もある」。(自民)

贅言;法律化、ルール化、仕組み作り。各人の表現や用語は違うが、本質的には、実効性のあるシステムづくりを目指そうということでは、同じではないのか。そのためには、与野党の議員からなる超党派チームを構成し、早速着手すべきではないのか。今回の「事件処理」としては、後出しジャンケンぽいが、本来、ルールのようなものはやはり必要だっただろう。「議論と合意形成」という熟議の手本となるような話し合いの仕方で議論を尽くしてほしい。

マスメディア批判は、全くその通りだろう。地道ながら持続的な報道で、国民的な情報の共有化へ向けてジャーナリストたちは実績を上げなければならない。国論を二分するというのは、マスメディアの努力が足らないということではないのか。

「(自民)党関係者は『地方議員にこそ関係が深い連中がいっぱい。教団信者が議員というケースもあるだろう』という。世論調査の傾向を読むと、「国民はさらなる実態解明や関係清算を求めている。(略)隠せば隠すほど傷口が広がる」(立憲民主党幹部)。与野党の関係者も、マスメディアも、もっと肉薄した情報を知っているのではないのか。

自民党の総務会では、国葬を決めた手続きや旧・統一教会との関係見直しへの対応などが議論になったという。イギリスのエリザベス女王の国葬が、一足早く実施されたが、日本と違って、イギリスは国葬の(国会)議決をとっているが、日本はなぜ取らなかったのか。そもそも「説明が足りない」。「身内」からみても、「説明が足りない」と映るのか。それなのに、なぜできないのか。

「党として旧・統一教会の実態をはっきりさせるべきだ」という意見が出たという。「関係が深かった人間は処分しないと収拾がつかない」との意見も出たという。責任だ、処分だということも不要というわけではないが、そのためにも、「接点」の実態をもっと具体的に明らかにすべきだろう。自民党という政党は、どういう形で、育ってきたのか。自民党の歪みは、基本的な骨格から解剖すべきだろう。

★''''朝日、NHKの世論調査は、岸田政権を撃つ

世論調査結果分析は、まずは、新聞から。
記事は、朝日新聞9月13日付朝刊記事より引用。
一面左上トップで3段見出し。
煙突のような細長い8段の記事。

見出しは、「岸田内閣支持最低41%」
「不支持47% 初めて逆転」、黒ベタ、白抜き。
「国葬説明『納得できぬ』64%
本社世論調査(横見出し)
以上、見出し引用終わり。

リード記事には、「10、11の両日調査」とある。
岸田文雄内閣の支持率は41%で、前回8月調査(27、28日実施)
の47%から続落。
不支持率は39%から47%に増え、初めて不支持が支持を上回った。

(略)国葬の賛否は8月の「賛成41%・反対50%」から、「賛成38%・反対56%」へと賛成が減り、反対が増えた。

国葬に関する首相の説明には「納得できない」が64%、「納得できる」23%と大差がついた。

岸田首相の政治判断は、「国葬」論に関する限り、全く民意を無視しているのではないか。岸田首相は、「国葬」論で対応を誤ると読み筋間違いで命取りになるように思える。「国葬」(全額国費)を改めて、従来通り内閣・自民「合同葬」でやって葬儀費用の税額を圧縮したら、民意の風向きも全然違っていたのではないか。

★自民党は、旧・統一教会を「断ち切れない」が81%

これに対して、「自民党の政治家が旧・統一教会との関係を断ち切れるかどうかは「断ち切れる」12%、「断ち切れない」81%」(略)。
この結果は、自民党では、旧・統一教会問題を解決できない、と国民は思っていることを示している。

自民党が、旧・統一教会との関係(癒着)を断ち切れないというなら、再び、政権を離して、つまり、政権交代をして、「コネや癒着という接点」を再び、全て解体して出直すようにしなければ、国民は、納得しないだろう。今のような誤魔化しの上塗りをやっていても、しかたないのではないか。

★「辺野古反対玉城氏再選」

朝日新聞9月13日付朝刊記事より引用。同じ一面紙面で、右側トップの記事は、「辺野古反対玉城氏再選」という、4段の大見出しが踊る。横見出しは、沖縄知事選。

一面紙面の左右を見回せば、見出しは、構造的に読める。→ その見出しが岸田政権を撃つ。

★内閣支持40%、不支持40%という「接点」〜NHK世論調査

NHK は、9月9日から3日間、全国の18歳以上を対象に世論調査を行った。
調査の対象となったのは、2392人で、53%にあたる1255人から回答を得たという。
岸田内閣を「支持する」と答えた人は、8月の調査より6ポイント下がって40%だったのに対し、「支持しない」と答えた人は12ポイント上がって40%だった。
また、「支持する」と答えた人の割合は、8月の調査に続き、岸田内閣発足後最も低くなった。
支持する理由では、「他の内閣より良さそうだから」が42%、「支持する政党の内閣だから」が25%、「人柄が信頼できるから」が17%などとなった。
贅言;状況抜きの、気の抜けたような、いつもの質問。
支持しない理由では、「政策に期待が持てないから」が36%、「実行力がないから」が29%、「支持する政党の内閣でないから」が12%などだった。
贅言;こちらは、まだ、今回の状況がうかがえる。
★ 「国葬」反対は、57%
政府が、9月27日に安倍元首相の「国葬」を行うことへの評価を聞いたところ、「評価する」が32%、「評価しない」が57%だった。

贅言;8月の調査同様、「評価する」は、「賛成する」、「評価しない」は、「反対する」に読み替えて表現した。

★岸田政権の「国葬」説明は「不十分」が、72%。

さらに、「国葬」についての政府の説明は十分だと思うか尋ねたところ、「十分だ」が15%、「不十分だ」が72%だった。

自民党は、今後、旧・統一教会や関連団体と一切関係を持たないことを基本方針とし、党所属の国会議員との関係を点検して公表したが、自民党の対応は十分だと思うか尋ねたところ、「十分だ」が22%、「不十分だ」が65%だった。

二つの世論調査を比べると、岸田内閣不支持は、NHK:40%、朝日:47%。
国葬反対は、NHK:57%、朝日:56%。国葬の説明不十分(朝日は「納得できず」)は、NHK:72%、朝日:64%などと、数字は違うが、強弱の傾向は似ているのではないのか。塊としての世論動向は、結構、硬いようだ。岸田首相は、これを受け止めないのか。数字を無視するのは、数字を参考にするより、難しい。

★ 「毎日」の調査:内閣支持29%、不支持64%

毎日新聞などの世論調査は、9月17、18日に実施。
まず、内閣支持率は、支持が今回29%(前回、36%、前回比 ——7%)
不支持が今回64%(前回、54%、前回比 +10%)
支持率が、30%を割ったのは、2021年10月の岸田政権発足以来初めて。
支持率下落の原因は、旧・統一教会の問題や安倍元首相の国葬問題が影響しているものと見ているという。

★民意を受け止めない岸田政権は、凋落するのか

岸田首相が、自分の事務所の公設秘書だった長男の翔太郎氏を新たに政務担当の秘書官に起用することを決め、10月4日発令した、という。これについて立憲民主党の安住国会対策委員長が「一言で言うと時代錯誤ではないか」と批判した、という。10月5日付「NHK政治マガジン」より引用。

批判の声は、他党からも聞こえてくる。日本維新の会の藤田幹事長は「私の価値観では、フェアではないように見られるので身内を優遇することはやらない」と述べたという。このところ国民から見て想定外が続く岸田政権にとって、想定外だったはずの安倍問題(教団との接点、「国葬」など)は、岸田政権の「黄金の3年」に立ちはだかってくるのだろうか。

★ 「国葬」の、すべからず集(メモ付き)

吉田、安倍:共通問題点。
国会無視(国会の審議を経ない予算=予備費、政権内部だけで国葬実施を決める。→ 閣議決定のみ。国葬令失効→ 国葬は憲法違反、法的にも制度上も規定なし。
法制化、例外なので、及ばずという判断。

*新憲法下の国葬は天皇に限られる。
貞明皇后(大正天皇皇后)の国葬(大喪儀)=例外的に「準国葬として大喪」を行った。

 

吉田の場合:
*①吉田は、「準国葬」扱い。→ 例外。
*①吉田:天皇を守った首相(天皇退位論を退けた)、偉勲があるので、特旨(おぼしめし)で、国葬を賜る。
*②吉田:退陣(から13年)死去・国葬実施。→ 歴史的評価あり。

安倍の場合:
・安倍:退陣(から2年)死去・国葬→ 歴史的評価未定。
・安倍は、従来通り、「国民葬」にすべき。準国葬(例外)にも当たらない。

︎国葬は、法的根拠がないということで戦後、民間人では吉田茂元首相以外にやったことがない。そういう国葬実施を岸田首相が表明したのは、安倍元首相の死の直後だけに「熟慮」したような形跡がないように思える。それほど、この表明はあまりにも唐突だったのではなかったか。こういう民意を二分する、55年ぶりの大難問のようなものこそ、国民的な議論を広く起こしながら熟議の上で、国民と一緒に着地点を探る必要があっただろうに、と私は思う。

そういうデモクラティックな発想がない政治家では、民主主義社会のリーダー失格だろう。「国葬」を岸田首相は、最近は「国葬・儀」と言いくるめて、「国葬」強行に向けて自分に圧力をかけた保守派の親分のご機嫌をとっているように見えるのは、私だけか。それを怠ったのは、岸田政権の失政ではなかったか。国民の意識は、だんだん、政権に厳しくなってきているのではないだろうか。

岸田政権、凋落へ。やはり、岸田首相は安倍派の残党に気を遣い過ぎたか。安倍派の協力を得て、己の長期政権を夢見たか。その後の行状を見ていると「やはり、夢見た」と思うな。「黄金の3年」。しかし、保守系の岩盤支持層だけでは、安倍派の基盤がぐらつくかもしれない。

熟慮がないだけでなく、熟議もない。皆で話し合って、皆で決めるという熟議ができない政治家は、民主主義社会に適応する政治家ではないということだ。

★なにが、なんでも!
  自衛隊も巻き込み、強行された安倍流フェイク「国葬・儀」

「国葬メモ」付き:
*2段見出し。「国葬に自衛隊 閣議了解」
記事は、3段。内容は、安倍元首相の国葬に自衛隊が参加。

以下、日本武道館での手順から。参加者は、千数百人程度。

「国葬」に紛れ込まされた「軍」的なもの(メモ)

「儀仗隊」・儀仗の使用:
「儀仗」は、儀式に参加する際に使用する儀式化した武器。
「儀仗隊」は、儀仗(儀式に用いる武器)を身につけて元首など国賓の来日時の出迎えや即位の礼などで活躍する陸上自衛隊「第302保安警務中隊」の特別儀仗隊。
元首のほかに大臣、高官、外国の賓客などにもつく。
儀仗隊は、わずか数ミリの動きのズレもなく、言葉通りに一糸乱れぬ所作を披露する。
「弔砲」:空砲を19発放って弔意を表す。空砲の数は、職位などで決まっている。例えば、19発は、元首など。
「と列」:「堵列(とれつ)」と書く。「堵」は垣 (かき) の意味。
大勢の人が垣のように横に並んで立つこと。 また、その列。安倍元首相の遺骨が武道館に到着する際、「堵列」で、敬礼して迎える。
「奏楽」:音楽隊。黙祷の時、「国の鎮め」という軍歌を演奏していた。戦前復帰のセンスが、怖い。歌詞は、天皇主権。

以下、「国立歴史民俗博物館副館長・教授の山田慎也」説を参考にした。

* 特定の皇族以外の「特旨国葬」:国家への功績を讃え、天皇から特別の旨を持って葬儀を賜う形式。国民は、「賜う」、つまり受け身のシステム。天皇主権の復活だ。
天皇が「功臣」として位置(認識)づけ、マスメディアをも介して広く国民に認識させるもの(「天皇主権に横並びさせる」ということだ)。

*葬送儀礼による組織統合の機能:
葬送儀礼の中心的な儀礼であった葬列に、国家の実力装置である「軍」を動員し、国民に見せる。各国でも国葬はその国の「軍」の存在感を訴える儀式なのだ。国葬に対する軍の積極的な関与。軍の存在感を高める。儀仗兵といえども、立派な軍隊だ。目を眩まされるな。

ナショナリズム発揚のための重要な装置。
ナショナリズムの核が、戦争における死についての共同の追憶にある。
*印以下の部分は、国立歴史民俗博物館副館長・教授の山田慎也「国葬を考える」(朝日新聞9月17日付朝刊)より参照・引用した。

国葬は、法的根拠がないということで戦後では、民間人では、吉田茂元首相以外にやったことがない。岸田首相が国葬実施を表明したのは、安倍元首相の死の直後で、熟慮したような形跡がないように私には思える。熟慮する時間などなかった、と思う。それほど、あまりにも唐突な表明ではなかったのか。国民の世論を二分する55年ぶりの大難問。このような問題こそ、政治リーダーは、国民的な議論を広く起こしながら着地点を探る必要があっただろうに、と私は思う。「万機公論に決すべし」だ。今回の国民葬には、最初から「公論」がなかった。そういうデモクラティックな発想がない政治家では、民主主義社会のリーダー失格だろう。「国葬」を岸田首相は、「国葬・儀」と言いくるめて、「国葬」強行に踏み切った。民意無視を通し、己に圧力をかけた(と思われる)保守派の親分(誰のことだろう)のご機嫌をとっているように見えたのは、私だけか。おそらく、国民の多くは、そのからくりに気づき、政権支持の手を下ろしたのではないか。

熟慮がないだけでなく、熟議もない。「熟議」ができない政治家は、民主主義社会に適応する政治家ではないということだろう。

★エリザベス女王の「国葬」光景

以下は、朝日新聞9月12日付夕刊記事より引用。

「英王室は10日、96歳で死去したエリザベス女王の国葬が19日午前11時から(日本時間同日午後7時)から、ロンドン市内のウェストミンスター寺院で実施されると、発表した。(略)国葬の前には計4日間、棺の公開も予定されている」という。

エリザベス女王は8日、イギリス北部スコットランドのバルモラル城で亡くなった。女王の棺を載せた車は11日、バルモラル城を出発し、中心都市エディンバラのホリールード宮殿に到着した。(略)車列は北部の街アバディーンやダンディー、パースを経由し、約280キロの道のりを約6時間かけてエディンバラに着いた」という。引用終わり。国葬の前の所縁の地を巡る経由策が見せる「光景」が情があり素晴らしい。

日本の安倍・フェイク「国葬」とも言うべき葬儀に比べると、さすが、本家の「国葬」はイギリスの国中を自然に巻き込み、国民の素直な気持ちを包み込むように、素朴な味わいを残しながら、国民が、いかにも自発的に参加している感じがよく出ていた。これは、長い間のイギリスの歴史が育んだ国民性が醸し出す雰囲気・空気のようなもので、日本人が即席で身に付けようとしても無理だろうと思われる。社会学者の橋爪大三郎さんは、国葬・儀の本質を見抜いた言葉で、次のように看破した。「イベント業者が受注し、広告代理店を思わせる演出になる」と。これじゃ、「東京オリンピック・パラリンピック」みたいに、元理事が汚職をするのではないか。岸田さんよ!「国葬・儀」の方は、この後、贈収賄などの汚職発覚や逮捕者は、出て来ないでしょうね。

安倍さんの葬儀が、エリザベス女王の本物の「国葬」の後に、催されたのは、不幸であった。何よりも、「国葬」などと呼ばれたくなかっただろう。岸田首相の勝手な勘違いには、泉下で悔しがっているのではないか。

歴史や伝統を感じさせる、ああいう国葬なら、イギリス人同様に、まさに、歴史の1ページの登場者になってみたいと、誰もが思うだろう。お別れ待ちの行列が長々と続く。これぞ、国葬の真髄だろう。同じ「国葬」を催すなら、こういう国葬を作り上げて欲しい。「国葬・儀」などという言葉遊びで国民を騙せば騙すほど、岸田首相は、国民からディスタンス(距離感)を広げられて行くだろう。イギリスの国葬に参加している人たちは、「なんとか教会」の声がかりで集まった動員などではなかろうし、自らの意思で女王に対して感謝の涙を流しに来た人たちだったろうと思った。こういう葬儀なら、私も参加してみたい、とも思った。かかる費用も国民の自発的な支払いを考慮に入れれば、日本みたいに巨額の税金を使うこともあるまい。岸田さん! なんか、あなたの羅針盤は狂ってしまっていやしないだろうか。

★ウクライナ「戦争」の終わり方

ウクライナでは、奪回した領土の各地に改めてウクライナの国旗を立て直し、それを画像付きのニュースで国民に、国際社会に伝えている。勝った!勝った!というウクライナの「直接話法」の終わり方は、ロシアやプーチンに「恨み」を残さないか。大丈夫なのか。

その、一方で、ロシアでは何が起こっているか。ロシアでは報道管制が敷かれ、言論表現が規制されているので、状況が判りにくいが、ウクライナのゼレンスキー大統領の言動を苦々しく思っている連中もいることだろう。

例えば、以下、朝日新聞9月16日付朝刊記事より引用。
(ロシア軍の)「ハルキウ州での劣勢が決定的になったことで、逆にロシア国内の強硬論が勢いを増している」という。

「強硬論」とは、例えば、こうだ。
*ロシア軍の撤退が戦術や戦略によるものだ。
*全土に戒厳令を敷き、どんな兵器でも使う(核兵器の使用も示唆した)。
*ロシア軍側の作戦に間違いがあった。
*国会議員からも強硬論が出ている。
*戦時体制への移行。
*(「戦争」に)状況を変更し、総力を結集すべきだ。

ロシア軍は、本気を出して、ウクライナに勝ち、勝利で終戦を飾る、というロシア型の終わり方を待っているのか。それとも、住民投票というフィクションを強引に突き進ませ、勝ち目のない軍事力ではない、目くらましの呪術でも使って、国民の目を騙して、虚構の大国ロシアを作り出すか?
それも上手く行っていない。

★ジャーナリストの身の処し方

 ロシア国営テレビ「第一チャンネル」の編集者だったマリーナ・オフシャニコワさんを覚えていますか。今年の3月、生放送中のテレビ番組で「NO WAR」などと書かれた手書きのプラカードを持って番組のキャスターの背後に忍び寄る形で、無断で番組に「映り込む」ように出演をし、3万ルーブルの罰金を科せられた女性である。
 タス通信に拠るとオフシャニコワさんは8月、参加したデモでロシア軍の虚偽の情報を流したとして自宅軟禁となっていた。(略)自宅軟禁の期間は10月9日までだったという。オフシャニコワさんは、軟禁中の自宅から娘とともに離れた(姿を消した、「行方不明」になった)ため、「指名手配」されていることが3日、分かった。タス通信発のニュース原稿を朝日新聞ほかが10月4日付夕刊記事などに掲載した。「指名手配」なら、権力側も彼女の行方を把握していないということなのだろうが、「行方不明」なら、権力側も、彼女の行方を知らないのか、権力が加担し(あるいは、実行し)、行方を承知しているが、言わないだけなのか、これだけでは判らない、というのが私の正直な感想である。

 この項目は、マスメディアの複数の報道内容をチェックし、さらにそれの概要を私なりにまとめた上で引用した。

★ 旧・統一教会を弱体化させるための「処方箋」

「教団」創設の地、韓国では、旧・統一教会は布教も政治への接近も挫折した。以下、朝日新聞9月16日付朝刊記事より引用。

*日本統一教会は、2012年、日本には「206の(統一)教会があり、信徒数は約60万と広報している」という。専門家は「日本にいる信者はいま、4万人ほどとみる」という。一方、韓国では「結婚して移り住んだ多くの日本人を含む2万人程度と推定する」という。
*韓国ではキリスト教のプロテスタントの信者が人口の約2割を占める。カトリックも含めれば3割弱となり、さらに15%ほどの仏教徒もいる。「韓国社会ではキリスト教の影響力が強い」という。

「教団」は、韓国政界との「つながり」(接点)を持とうとする動きを見せた。
1968年反共組織「国際勝共連合」を立ち上げた。教団は、当時の朴政権に接近した。1987年の「民主化」で政治権力の情勢が大きく変わる。言論の自由。公正な選挙。87年、92年の大統領選挙に立候補した金泳三栄元大統領を教団関係者が支援したという「疑惑」が発覚。マスメディアを通じて有権者の反感が広がった。政治家は教団と距離を置くようになった。政界とのパイプが薄れる中で、教団は自ら政界進出を試みたこともあったという。2007年、「平和統一家庭党」を創設し、2008年の総選挙に出て、全選挙区(245区)に候補者を擁立した。しかし、全選挙区全滅。比例区での得票率も1・1%(約18万票)で、当選者無し。政党は解散した。
日本でも、オウム真理教が、政界進出を試みて失敗している。「幸福実現党」などの宗教団体が政治へ進出しようとする動きは続いている。

★ 「政権交代の教訓」

与野党問わず、政治と宗教の「接点」を点検し直し、悪質な宗教団体tの接点を潰すこと。
それでも、すでに与党には、宗教が入り込んでいるだろうから、宗教団体と政権のディスタンスを広げるためには、韓国同様、与党を政権から切り離すしかない。つまり、与野党の「政権交代」を実現させるしかない。
長い時間をかけて癒着してしまった政党は、それを軸にして政権を維持してきた。政権には、旧・統一教会色が、すでに染み込まされている。こういう歪んだ政党への処方箋は、オーバーホール、つまり「政権交代しかない」のではないか。

日韓の権力者は、大統領と首相というように職名(ポスト)は、違っているが、政権に就任した当初は、高い支持率に恵まれたものの、あれから1年、半年と経って見れば、「近しい人を要職につけたり、野党やメディアから批判に晒されたり、似たような「様相」が周辺に漂っている。外交上の成果か友好ムードが上昇のうちに韓国からも学び、同様の政権交代で政治的な混迷を脱する努力を日本も最優先でやるべきではないのか。日本政治も、これを「教訓」とすべし。教訓が、カビを生やさないうちに。

★安倍氏と菅氏の「接点」

安倍氏と菅氏の「接点」は、「国葬・儀」の菅前首相が読んだ弔辞が物語る。9月27日、岸田政権が強行し、内閣支持率を下げた、いわゆる「国葬」。葬儀は東京の日本武道館で行われた。岸田首相が、謙虚そうな言辞ながら、(あなたの後継者は私だ)というような政治の「後継」宣言に拘ったような弔辞を述べた。続いて、菅氏が、「友人代表」として追悼の辞を披露した。菅氏は、盟友安倍氏との個人的なエピソードを交えながら、あの無愛想な口調で、訥々と述べた。

安倍氏に2度目の総裁選出馬を促した時の二人だけのやり取り。銀座の焼き鳥屋で二人きりで胸襟を開いて話をして、最後には、総裁選の立候補へと安倍氏を口説き落としたという、秘話というか自慢話を披露した。二人しか知らないような個人的なエピソードの披瀝は、それを知らない人には、新鮮に聞こえるだろう。でも、エピソードの披瀝の背後にある、大物政治家ならではの、「押し」の強さを私は感じざるを得なかった。なぜそう感じたかというと、「銀座の焼き鳥屋」という設定が、芝居の「書割り」(大道具)を見せられたような違和感を感じた。安直で、陳腐な舞台設定。そこで、二人きりで、「秘話」を交わしたというのが、フィクショナルな印象としてしか私の頭に入ってこなかったのだ。安っぽい発想。歌舞伎の書割りは、もっと芸で磨き上げられていて、奥が深い。

葬儀の当日、生放送でNHKのテレビを観ていたので、私も自分の記憶を辿るが、北海道大学の空井護教授(現代政治分析)が、朝日新聞10月6日付朝刊記事「国葬考」というコーナーで高橋純子編集委員のインタビューに答えている記事が掲載されているので、菅氏の弔辞部分の概要のみ引用した。

極め付けは、安倍氏の部屋に入った菅氏が「あなたの机には読みかけの本が1冊ありました」という件(くだり)。菅氏は、「ここまで読んだという最後のページは、端を折ってありました」「そのページには、マーカーペンで線を引いたところがありました。(略)いみじくも、山縣有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで読んだ歌でありました」。

「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

贅言;ここで、空井教授は、私と同じ感想を高橋純子編集委員に漏らす。「ちょっと話が『出来すぎ』てますよね」。
その通り。ドラマだって、こんな安っぽい演出は使わないのではないか。

私もそう思う。「銀座の焼き鳥屋」、「安倍さんがマーカーペンを引いていた」あまり上手くない山県有朋の歌。「この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」。

贅言;空井教授は言う。「菅さんが(略)読んで『これだ!』と思ったのなら自然です。しかし、安倍さんが生前読んだ『最後のページ』に、マーカーが引かれていたのを菅さんが見つけたなんて。そんな奇遇がこの世の中にはあるんですね」。幾重にも仕掛けられた厚化粧の演出だよ。この手法は。

この場面も、芝居的なメリハリが「つけ過ぎ」ているように私には思える。要するに、空井教授が不思議がるように自然ではないのだ。安倍氏と盟友・菅氏の関係自体が、絵空事、自分の都合の良いように絵を描き、話を作る、とでも言おうか、何か、そういう感じなのである。安倍氏と菅氏の「接点」は、砂上の楼閣に作り上げられたものなのか?

空井教授は言う。「そもそも、国民全員で特定の政治家を弔おうなどとい
発想自体がおかしい」。
まして、評価の定まっていない中間値の政治家である。教授の言うような特定の政治家が大きな顔をしている政治体制は、「専制主義」と呼ばれるものであって、それはヒトラーとかプーチンなどがはびこる社会のことだろう。私たちは、いまいるこの場所から逆流させてはならない。
日本も。デモクラシーも。

高橋純子編集委員は、「菅氏の辞に感動した人も多かったようです」と教授に水を向けるが、空井教授は、こう切り返す。
(史実の)「山県と伊藤の関係は、(略)なんといっても仲が良くない。(略)性格も正反対です。」だから、菅氏の話のような場面は、考えられない、と空井教授は言う。私もそう思う。俗な歌謡曲の歌詞のような陳腐な場面設定ではないのか。そういうレベルの弔辞を書くゴーストライターがいるのではないのか?

政治家というものは、いつの時代でも、いやー、「役者やのう……」。

ジャーナリスト(元NHK社会部記者)

(2022.10.20)
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