【フランス便り】(45)
終戦?降伏?大歴史家でレジスタンスに散ったマルク・ブロックの「奇妙な敗北」を読んで
◆「終戦」という言葉のあいまいさ
太平洋戦争は1945年9月2日の外交文書調印で正式に「終戦」となった。終戦という表現の響きは悪くないが、事実は日本の無条件降伏であった。もし「降伏」あるいは「敗北」という表現が一般的に使われれば、当然責任の問題が出てくるだろう。どこの国でも、自国の歴史の恥辱の部分には目を覆い、正面から向き合おうとはしない。
フランスも同様であり、第二次世界大戦の英雄ドゴール将軍の足跡やレジスタンスについては無数の本や映画、ドキュメンタリーがあるが、1940年にフランスがナチスドイツに短期間に敗北した事実を描いた本やドキュメンタリーはほとんどない。
私がフランスの歴史・文化に興味を持ってから久しいが、昔からなぜ欧州の大国と目されていたフランスがわずか2ヶ月足らずの戦闘でナチスドイツに敗北したのかは大きな謎だった。しかし、それはフランス人が避けたい話題なのでずっと胸にしまっていた。
今年の6月に、大歴史家でありながら第二次世界大戦にも参加し、そしてレジスタンスでも活躍したマルク・ブロックが、フランスの栄光に貢献した人物を祀るパンテオンにその名前が刻まれることになり、急に時の人となった。そのため、パリ郊外の私の住む町の本屋に彼の著作や伝記が並べてあり、私はマルク・ブロックの有名な『奇妙な敗北』を買い求め、久しぶりに知的な興奮を経験した。
その昔、私がまだ学生であったとき、何を専門とするか悩んでいたころ、マルク・ブロックの著作を読み、フランスの中世史は面白そうだなと思った記憶がある。もっとも、日本でフランスの中世史を専攻しても、大学にポストを見つけるのは難しいだろうと思い、フランスの産業革命史へと進路を変更した。その意味では、私にとっては、マルク・ブロックは懐かしい名前だった。
ただ、彼が1940年に書いた『奇妙な敗北』はこれまで読む機会がなかった。この春から夏のヒートウエーブのさなか、この本を読み、昔から疑問に思っていた大きな謎が解けた気がする。
周知のように、フランスは欧州の真ん中にあり、その人口も多く、ナポレオンを引き合いに出さずとも欧州の強国と目されていた。第一次世界大戦が終わると、フランスは戦勝国となり、政治的にも軍事的にも強国と自負し、また周辺国も新興ドイツに対抗する力を持つと考えていた。そのフランスがなぜ1940年に2ヶ月足らずの戦闘で、大きな反抗の攻撃をすることもなくナチスドイツに屈服したのだろうか?
確かに、ヨーロッパの征服を目指したヒットラーのドイツが軍備強化に邁進したことは間違いないが、その脅威をある程度認識していたフランスの指導層や軍関係者が、まったく手をこまねいていたとも思われない。とすると、なぜそう簡単にフランスが降伏したのだろうかという私の長年の疑問に、マルク・ブロックの本は答えてくれた。マルク・ブロックは、自分が志願兵として実際に北部戦線で参加し、目撃したフランス陸軍組織内部の問題を明確にすると同時にそれを許したフランス社会の責任を歴史家の眼で見事に描いている。
マルク・ブロックは、1938年当時、ソルボンヌ大学の歴史の教授の地位にあり、すでに50歳を超えているにもかかわらず、総動員令が出されると志願し、陸軍に編入される。1939年から1940年6月の敗北まで、主に北部戦線(ベルギー)で給油部隊の責任者という役割を負う。そこでフランス陸軍の平時の状況、北部戦線からの撤退の際の陸軍の指揮系統の混乱などを直接体験した。6月22日にフランス(全権を握ったペタン将軍の指令)が降伏すると、軍隊を解除されたマルク・ブロックはクルーズ県という田舎にあった彼の別荘に疎開し、そこで9月からわずか3ヶ月で『奇妙な敗北』を書きあげた。
この本を読んだ後、私の頭を横切ったのは、果たして日本で、太平洋戦争の敗北の責任を客観的にかつ全体的に分析した証言はあったのだろうか?という疑問だった。1945年の無条件降伏を終戦というあいまいな言葉にすり替え、本格的な戦争責任の追及を避け続けてきたのではなかろうか? 確かに、戦後、多くの歴史家が、その責任を陸軍の過激派、とくに日華事変などを引き起こした陸軍の一部が太平洋戦争に導いたとすることはよく知られているが、軍とか軍国主義という悪の象徴を作り上げることにより、その軍部に対抗できなかった政界や一般庶民の責任は隠されてしまったのではなかろうか? マルク・ブロックの本を読んで私の頭に浮かんだ不安である。
◆1.マルク・ブロックの業績とその生涯
この読書ノートを書くことを思いつき、日本のウイキペディアでマルク・ブロックの項を見て少し驚いた。かなり詳細な彼の生涯や著書の日本語訳が書かれていた(もっとも、日本語訳の大部分は1950年代から1970年代なので、経済史が盛んな時代に遡るようだ)。
本筋に戻すと、マルク・ブロックは1886年にアルザス地方のユダヤ人の家系に生まれ、その父親はソルボンヌ大学の古代史の教授だった。アルザス出身ということは重要で、ブロック一家は1870年から1919年までドイツ領であったストラスブールを逃れ、自由の国フランスに移住した。パリで生まれたマルク・ブロックは学業に優れ、もっとも秀才が集まることで有名なENS(パリ高等師範)を経て、歴史研究(中世史)に没頭する。1914年に第一次世界大戦時には動員され、ベルギー戦線やマルヌ戦線に参加している。軍曹として入営した彼は、その沈着で勇敢な行動で何回も表彰され、終戦時には陸軍大尉(Lieutenant)となっている。
大戦後は、フランスに復帰したばかりのストラスブール大学で教鞭をとり、次々に従来の歴史学の革新する著作を発表する。それまでの歴史学が一国の人物やイベントを中心としたのに対し、マルク・ブロックは国際的な視野から、フランス中世の社会経済の動向にその焦点を当てる(彼は10ヶ国以上の言葉を理解したという)。彼はマルクス主義の信奉者では全くなく、実証主義に根差した歴史を目指す。
1929年には、ストラスブール大学の同僚 Lucien Febvre とともに、『Annales(アナール)』と呼ばれる雑誌を創刊する。この雑誌は歴史学を孤立した政治中心の学問ではなく、国際的に開かれた社会・経済史など学際的な学問にすることを目指した。その後、とくに第二次世界大戦後には、この雑誌は学際的な歴史研究の拠点として世界的に有名となる。多分、マルク・ブロックの著作の大半が日本語訳になっているのは、このアナール派に影響を受けた日本の歴史家が多かったことからくるのだろう。
さて、中世史の大家としての地位を確立したマルク・ブロックだが、1939年にフランスで総動員令が出されると、53歳という年齢から兵役免除であるにもかかわらず、志願兵となり、ベルギー戦線に派遣され、陸軍の石油供給部隊の責任者となる。
西ヨーロッパの戦況としては、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、同盟を結んでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦布告をする。ただし、ナチスドイツは東部戦線と軍備の整備に忙しく、南部戦線ではほとんど動きがなかった。そこへ突然1940年5月10日にドイツが中立国ベルギーに侵略し、電撃作戦が開始された。ドイツの機動隊は、ベルギーを経て、北部フランス(meuse 地方)の防衛線を破り、猛烈な速度で南下する。防衛網を破られたフランス軍はまったく混乱に陥り、撤退を繰り返し、6月22日には全権を持つペタン将軍が降伏を宣言する。
この間に、ベルギーの前線にいたマルク・ブロックはまず第1師団の参謀本部のリールへの撤退に参加し、そこで軍の情報の混乱を目撃している。その後、戦況の悪化に伴い、ダンケルク港からイギリスにわたり、まだ占拠されていないブルターニュに逃れ、そこで終戦を迎える。フランスが降伏した後、フランスの南西部にある彼の別荘に疎開し、そこで3ヶ月で執筆したのが、死後発表された『奇妙な敗北』である。参考書などがほとんど利用できない中で、その確かな記憶力で、彼が実際に見た戦争の記録を忠実に書いた証言である。
1941年には大学に復帰するが、ペタン政権のユダヤ人排斥のために、教職を維持することはは難しくなる。1942年からはリヨン地方のレジスタンス運動に参加をはじめ、その後、レジスタンス組織の重要な人物となる。この間、アメリカの研究機関から招待を受けるが、家庭の事情もあり、実現しない。1944年、ゲシュタポにとらえられ、拷問を受けた上、3月に多くの同僚とともに銃殺される。
今年の6月には、マクロン大統領の下、パンテオン入りの式典が盛大に行われたが、それは卓越した歴史学者であり、熱烈な愛国者であったマルク・ブロックの生涯をたたえるものであった。
◆2.『奇妙な敗北』
1940年6月、多数のパリの住民は戦闘を逃れるために車や徒歩で南に逃れようとした。そこへ、6月22日のフランスの降伏が発表され、彼らは帰宅の途についた。フランスの敗北、ナチスドイツの支配という予想外の展開に多くの人が呆然としていたころ、マルク・ブロックは自分が見たフランス軍の混乱と敗北の責任を問う記録を3ヶ月で書き上げる。この本の冒頭にあるように、書いた記録が出版できないかもしれない状況の中、いたたまれずに書いたのが『奇妙な敗北』であった。実際、この本の原稿は終戦まで友達の手で 庭の隅に隠され、ようやく1946年に公刊された。
最前線で見た混乱
1939年にナチスドイツのポーランド侵攻に対応し、ドイツに対する宣戦布告とそれに伴う総動員令が出されると、志願兵マルク・ブロックは最初は陸軍のストラスブール支部で、3週間の無為な日々を過ごす。その後、ベルギーに置かれた第1師団の参謀本部付けに移行し、ベルギー戦線における軍の石油供給の責任を負う。そこで彼が見たものは、書類づくりに明け暮れ、非能率な官僚機構となっていた陸軍の実態であった。
1940年の5月まで、北部の戦線にはほとんど動きがなく、マルク・ブロックは一時ソルボンヌの教授に戻ることを考えていたころ、突然ドイツが中立国ベルギーに侵攻する。ドイツが侵攻するのは東部のロレーヌ地方かアルザス地方と考えていたフランス陸軍幹部は虚を突かれ、北部セダン地方でその防御網が破られる。そこで、はじめて、フランス軍の参謀は、ベルギーに派遣した自軍の精鋭が背後からドイツ軍に襲われる危険があり、フランス軍を30キロほど撤退させ、リールで防御する指令を出す。ただし、その時には、機動力のあるドイツ軍の先頭はパリに迫っていた。
このような動きの中で、マルク・ブロックは、陸軍全体の参謀本部からの情報は展開されていた各部隊にはなかなか届かず、戦況の変化をまったく知らされなかったと述べている。わずかに同僚との会話で戦況が厳しいことを知る。また、ベルギーに残したガソリン・タンクを破壊せよという指令を受けるが、そのガソリン・タンクの位置を正確に示す地図がなく、また、どこの師団がいつリールに移動するかという情報もなく苦労したと回想している。
リールへの撤退が終わったときには、ドイツ機動隊はもうすでに猛スピードで南下していたので、リールなどに残されたマルク・ブロックらの師団はダンケルク港から船で脱出し、イギリスを経てブルターニュ地方へ逃れることになる。そこで、6月22日にブルターニュの首都レンヌで終戦を迎える。
敗北の責任① 軍指導部
以上が彼の直接的な戦争記録だが、本当に興味深いのは敗戦の責任の追及である。まず、敗北の直接の責任者は誤った戦略を立て、戦争の準備を怠った軍の指導者であることを明確にする。1937年にヒットラーにより国際緊張が高まる中、フランス軍の司令部は齢をとり、年功で昇進した老人ばかりだったと喝破する。彼らはマジノの防御網に頼り、軍備の近代化を怠っていた。そして、ベルギーからリールへのわずかな距離の撤退が明らかにしたように、軍司令部はまだ馬車などを使って移動した第一次大戦の記憶で戦略を立て、その後の技術革新(飛行機の発達、タンクなどの機動力の飛躍的増大)などを全く理解していなかった。
さらに、陸軍内のセクショナリズムにも言及している。マルク・ブロックが情報を集めるために他の師団へ行っても相手にされず、師団を超える横の連絡は不可能だった。また、参謀本部では、士官学校出身の軍人が幅を利かせ、仲間意識が強く、志願兵の士官には必要な情報も仕事も与えることはなかった。情報面でもフランス軍の弱さは歴然で、ムーズ地方に集中するナチス軍の動向をまったく事前にキャッチすることができず、無為に精鋭部隊をベルギーに移動させ、フランス北部の防御網を弱体化させた。
そして、一度予定した防御戦線が突破されると、軍の指導部は撤退を繰り返すばかりで、まったく反撃態勢を作れなかった。この責任はひとえに老齢化した軍司令部にあり、この点、より若い世代が実権を握ったナチスドイツとは対照的だったと分析している。つまり、フランス軍の司令部は「昨日の戦争の準備」で満足し、「今日の戦争」の準備を怠っていたと結論付けている。
敗北の責任② フランス社会
次に、マルク・ブロックは、そのような軍指導者を許したフランス社会全体の責任にも言及している。自由を守るというフランス革命の精神を忘れ、短期の利害を追求してきた政治家やブルジョワ階層、さらに国際的な緊張を理解せず、安易な平和主義に賛同し、自己の幸福のみを目指す庶民の風潮が戦争の準備を遅らせた。
さらに、1936年の人民戦線や目先の利益のみを追求する労働組合運動も批判している。明らかに、ヒットラーのドイツが西欧の覇権を握ろうと着々とその準備をしていた時、国際緊張を理解していなかったフランス社会は時代遅れな陸軍の存在を許したと指摘している。しかし、マルク・ブロックはいつか将来フランスが独立を獲得し、自由を取り戻すと信じると結んでいる。
この本は単なる戦争の記録ではなく、フランスの歴史の一コマとみなす大歴史家がフランス敗北の責任を鋭く追及したもので、そこにはマルク・ブロックが抱いていた自由の国フランスに対する強い愛国心がにじみ出ている。
◆3.翻って日本
さて、翻って日本のことを考えると、太平洋戦争の本格的な責任の追及は終わったのだろうか? 私は日本の近世史を本格的に勉強したことはなく、新書版の本や昔の教科書の記憶ぐらいしかないが、どうもわからないことが多い。一般的に、陸軍内の過激分子が華北戦争などを利用し、陸軍内の主流となり、日本を敗戦に導いたとされる。では、軍以外の人、政治家や財閥企業の幹部、昭和天皇の周辺などの行動に責任はなかったのだろうか? 私の中には、どうも戦後の歴史家が、第二次世界大戦の責任をすべて軍に押し付け、その背後にあった日本経済や社会の在り方に対する分析がなかったような気がしてならない。軍国主義の責任とするのは一種の免罪符ではなかっただろうか?
極端なナショナリストでポピュリスト的な政権が成立し、その勢いで政権は憲法第9条の削除や歴史解釈の変更を目指すと思われる。そのような表面的な風潮とは別に、本当の意味での太平洋戦争の責任の追及は今後の歴史家に残された宿題のように私には思われる。
2026年9月14日、パリ郊外にて、鈴木宏昌(早稲田大学名誉教授)
(2026.9.20)
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