私の8.15と日中友好の増進           今井 正敏

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 今年は、1937年7月7日に、北京郊外で起きた盧溝橋事件から七十周年と
いう節目なので、日中戦争の発端になったこの事件を、日本人として忘れてはい
けないという視点から、『オルタ』の先号に私見を投稿した。
 その中で、日本では、『朝日新聞』と『世界』以外は、新聞、テレビ、総合雑
誌共にこの事件七十年のことを取り上げたところはなく、わが『オルタ』にもこ
の事件に関する文字は見当たらなかった。と書いたが、7月発行の『オルタ』4
3号に日中問題コンサルタントの篠原令氏が、「愛国心を超えて真の連帯を」と
題された論稿の中で、この盧溝橋事件七十年のことについて詳しく触れておられ
ていた。まさに「わが意を得たり」の感を深くした。

 それにしても日中戦争は、1931年(昭和6年)9月に起きた「満州事変」
から数えると、15年にも及ぶという長い戦争であった。
 昭和天皇の侍従であった卜部亮吾侍従の日記によれば、1940年(昭和15
年)の10月に、昭和天皇が「中国軍の抗戦意識がこんなに強いとは思っていな
かった」と語っておられる。陸海軍の最高統帥者・大元帥の天皇が、中国軍を見
くびったこんな発言を漏らされたわけだから、いかに当時の陸海軍の戦争指導者
たちが、中国軍の抗戦力の強さに対して見通しを誤っていたか、よくわかる。

 解決のメドがたたず泥沼状態にあった日中戦争にようやく終止符が打たれた
のが、1945年(昭和20年)8月15日の「終戦」であった。(正確には、
ポツダム宣言受諾による「日本の降伏」)。
 当時、中国は、米英を中心にした「連合国」の一員だったので、日本が連合国
に降伏した結果、長い間続いてきた日中戦争も日本の「敗戦」ということで終局
を迎えた。
 よく知られているように、連合国に対する降伏の調印式は、9月2日、東京湾
の米戦艦ミズーリ号艦上で行われている。この調印式とは別に、あまり知られて
いないが、日本の支那派遣軍が中国軍に対して降伏の調印式を行っている。
 この降伏調印式は、9月9日、南京のかつての軍官学校(日本の士官学校と同
様の学校)で行われた。日本側の代表は岡村寧次支那派遣軍総司令官、中国側代
表は何応釣参謀総長。当時、中国大陸にいた日本軍は、約110万名、在留して
いた民間の日本人は約90万名といわれ、日本が降伏したことで、この約200
万に及ぶ日本人を、いかにして速やかに日本に帰すかが、大きな問題になった。

 この降伏調印式に同席した派遣軍参謀副長の今井武夫少将の手記によると、降
伏調印式は、軍事面での勝者と敗者のセレモニーは短時間で終わり、多くの時間
が、武装解除された派遣軍の将兵と、中国大陸(台湾も含める)の各地日本民間
人を、どのような方法で日本に帰すかということの協議に費やされたという。
 多くの困難があり、加えて勝者の中国側には、「国共対立」という大変な問題
があったのに、関係者の尽力によって、大きなトラブルもなく、翌年の秋までに
は大部分の引き揚げは完了した。(旧満州国の東北地方では、数多くの悲劇が発
生したが、この東北地方は支那派遣軍の管轄外で、関東軍が統括していた)。

 (余談だが派遣軍総司令官の岡村寧次大将は、この降伏直後に戦犯として逮捕
されたが、取り調べの結果、無罪で釈放され、東京裁判でもA級戦犯には指定さ
れなかった。)

 昭和20年8月15日当日の体験談を、戦争と平和の問題にからめて語ること
が、新聞やテレビ、雑誌等の恒例になっている。それを、読んだり、聞いたり、
見たりする中で、私がいつも思ったことは、「8月15日は、アメリカとの戦争
が終わった日」として捉えている人たちが多く、「15年にも及ぶ長い中国との
戦争が終わった日でもある。」と話す人はほとんどいないので、これでは、8月
15日の「終戦」の意義も片手落ちだということであった。

 日本の中学校、高校では、「近現代」をほとんど教えていないので、「満州事変」
のことも「中日戦争」のこともよく知らない日本人が多くなってきている。「1
945年8月15日に『日本の降伏』という形で、日中戦争が終わった」という
ことと「200万人にも及ぶ日本の将兵や居留民が、大きなトラブルもなく日本
に戻ることができた」という事実は、中国に言われるまでもなく、「歴史をかが
みとして日中友好を増進してゆく」ことの大事な要素になると思う。「私の8月
15日」は、ここに焦点をあてて思いをめぐらしてみた。
                    (元日本青年団協議会本部役員)

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