【自由へのひろば】
神仏習合― 『神と仏』 で考えたこと
荒木重雄氏主催の仏教講話会に参加していますが、一昨年末に「山岳信仰・修験道・神仏習合」の講話があり、日本的宗教文化の豊かさについて解説いただきました。
また昨年来、神社に関して勉強する事があり、以前から疑問に思ってきて、かつ興味深く面白そうだと感じてきた「神仏習合」について、歴史的視野で調べてみたいと思い、ここに少々まとめてみました。
神仏習合とは、外来宗教の影響を受ける以前に存在していた日本土着の宗教である神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成された宗教現象のことです。
私が思うのは、
①なぜ、仏教は仏教で、日本の神は日本の神で、別々に宗徒を広げられなかったのか?
仏教伝来のときには、蘇我氏と物部氏が争ったのに。
②外来宗教である仏教が、古来の日本の神々を、本地垂迹説のように、仏本・神従の形でなぜ取り込むことができたのか?
③その場合の『日本の神々』とは、何か?
④現在の寺院と神社における神仏習合は、廃仏毀釈によりどう変わったのか、変わらなかったのか? なぜ、数百年間にわたり紡がれてきた神仏習合が、いっぺんに反故にされる事態が許されたのだろうか?
《たとえばこんな話があります》
阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治維新期の廃仏毀釈指示で、廃寺同然となり、国宝五重塔は、売りに出されて25円で買い手がつきました。購入した人物は、塔は不要なのだが、目当ての装飾金属類を欲しいので、火をつけて塔が燃え落ちたところで回収したいと申し出ましたが、火事になると近隣にも及んで危ないと説得されて、購入を断念したので、現在国宝として残っているといわれます。藤原家の氏寺である興福寺は、一時は大和の国の国主であるほどに栄華を誇ったのですが、隣の藤原氏氏神の春日大社を残して、僧侶は神社の神職に還俗したそうです。
写真)奈良興福寺 国宝五重塔
以上の疑問について、お話ししてみたいと思います。
■Ⅰ. 日本の神々■
はてさて、神とは何か? ある辞書に依れば、神は人間の民族性・地域性・文化・伝統などの歴史的背景を経て、その宗教的風土や伝統的風土の中で醸成された、人知を超えて尊敬・崇拝される存在ないし概念と説明されています。神=GODという漢字の充て方は、中国におけるキリスト教の宣教師が、キリスト教の唯一神GODを神という漢字で表現したことから始まったようですが、色々と論議があったようです。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は絶対神であり、また造物主であり、信ずるべき唯一神とされて、一神教と言われます。一神教とは別に、西洋には、ギリシャ神話のオリンポスの神々もいれば、ヴァイキングの神々もいます。
日本では、全て災いをもたらすもの、稔りや大漁をもたらすもの、恐れ多く人知の及ぶべくもない全ての自然現象・事物に霊威・霊魂を感じ、畏怖し崇めてきました。それらは、祖先の霊であり、また死霊であり、妖怪・物の怪から始まったものでしょう。アニミズムの世界です。日本の神々は「八百万神」といわれるように典型的な多神教で、ワザワイやタタリをもたらす力のあるものが数々あり、不思議な威力を持つものだからこそ、逆に幸運や奇跡をもたらすものとして、現世利益を期待する呪術的性格を基底にしています。こういう地域的で、限定的で、閉鎖的な氏神や自然神が、日本が時代を経て、幾多の戦争や支配・被支配を経験して、支配者が、その支配論理や経緯を支えるべく正当化する過程を経て、神の物語として纏められてきたのが古事記(712年)であり日本書紀(720年)であったと思われます。日本誕生神話の神々は、まだまだ物語の中の神でありました。日本中では、地域性の強い呪術的な共同体信仰としての神祇信仰しかなかったのです。
日本の神には、自然があればいいのであって、教義も教典も教会も教祖も不要な神であったのです。奈良の大神神社は一番古い神社ともいわれますが、拝殿はありますが、本殿はなく拝殿の向うの三輪山が御神体であり、入山禁止の山には神が下りてくる磐座の大岩があると聞きます。
写真)奈良大神神社
写真)三輪山がご神体
■Ⅱ. 仏教の伝来■
日本に仏教が伝来したのは538年欽明天皇の時代です(他に552年説もあります)。百済の聖明王が釈迦仏の金銅像と経典等を遣わしたと伝えます。そこで、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏・中臣氏でいわゆる崇仏論争があり、結局朝廷では祀らず、蘇我氏に仏像を与えて私宅で祀らせたが、その後疫病が起きて仏像は川に流したといわれます。物部氏等は、我が国の王の天下には国の神がたくさんいらっしゃるのに蕃神(あだしかみ)を受ける必要はないといって拒んだわけですが、仏教の仏も、多くある神の一つとして認識されていたようです。
その後、仏教と共に伝来される知識や文物の魅力も大きく、やがて崇仏派の蘇我氏が物部氏を破って、用明天皇、推古天皇、聖徳太子の仏教受容派の勢力拡大とともに、大化の改新を経て、聖武天皇による護国仏教と律令国家の中央集権体制が出来上がりました。物部氏にも、氏寺があったといわれ、崇仏論争は蘇我物部両氏の勢力争いだともいわれます。中国・朝鮮を経由して伝来した仏教は、美麗な仏像や仏具、数多の仏典を伴っており、当初は外国でも信仰されているという呪術的・現世祈願的なものに期待する形で受け入れたものであっても、日本の神とは別種で、素晴らしい仏像仏典等を作らせる信仰と先進的技術と文化的・思索的背景を伴っていることに為政者達が着目するようになったのが、仏教の浸透を後押しする力になったのでしょう。国家の保護と統制のもとに、仏教諸派は発展していきます。とはいえ、この時期において仏教を信奉したのは、朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、国民的宗教にはなっていませんでした。
天武・持統天皇時代に、神祇制度が確立されていきます。古事記・日本書紀が編纂され、神祇官が神祇制度を司り、国家祭祇が行われるようになり、各地に神社の社殿が次第に常設されるようになりました。ただ、各地の神社の神官は、神職専業ではなく、その地で選定された庶民が務めていました。神への感謝として稔りの初穂を税としてとりたてる租の制度は、こうした神祇制度を前提としたものでした。
■Ⅲ. 神身離脱■
豪族問の抗争が続き、有力豪族は弱小豪族を次々に打ち破り、土地・人民を支配下に入れ、一段と広い地域を支配することになりますが、征服を重ねて得たより広い地域の円滑な支配は困難となり、支配の危機的状況に陥っていきます。この状況を打開するために、つまり各地を代表する荒ぶる神を圧伏するために、普遍的な神性ともいうべき、広い範囲にゆきわたる神の性格をもつものとして、仏教が受容される素地ができてきます。各地の地域限定的で閉鎖的な神々は、地域の願いを一身に浴びて祈祷を受けますが、いつでも願いを聞き容れられるわけでもなく、やがて疲れ、迷い悩んできます。
《たとえばこんな話があります》
伊勢国桑名郡に多度大社があります。ここの神は、多度大神といって豊穣を約束する神様として地域の信仰の対象になってきましたが、奈良時代も後半に入った763年に、人に乗りうつり次の託宣を下されたといいます。
「我れは多度の神なり。吾れ久劫(長い時間)を経て、重き罪業をなし、神道の報いを受く。いま乞い願わくば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す」
近くで阿弥陀仏を造って仏教布教につとめていた満願禅師は、多度山の南辺を切り払って小堂を立て、その中に菩薩像を彫りあげて安置します。これが多度神宮寺のはじまりといわれます。(『多度神宮寺伽藍縁起幷資財帳』による)
多度大社の祭神は、天照大神の御子神であり、当大社は「北伊勢大神宮」ともいわれます。神宮寺は伊勢国の准国分寺とされました。
写真)多度大社
《たとえばこんな話があります》
福井県小浜市にある若狭彦神社の話です。養老年中(717~724)には疫病が頻発し、天候不順で不作が続き、病死者が多かった。その頃、若狭比古神の直孫赤麿が、仏道に帰依して修行中に、この若狭比古大神が託宣を下して
「私は神の身を受けたがゆえに、苦悩が甚だ深い。仏法に帰依することで、神という境遇を免れたく思っているが、その願いはいまだ果たされない。だから、このように災害を起こすのだ。あなたは私のために、よく修行してもらいたい」
そこで赤麿は、この地に道場を建て、仏像を造り、神願寺と名付け、大神の為に修行しました。その後には穀物も実り、人が死ぬこともなくなったといいます。
(『類聚国司』による)
この若狭彦神社は若狭国の一宮です。
写真)若狭彦神社
託宣とは、神仏が人にのりうつったり夢の中に現れたりして、その意志を告げること、また、そのお告げのことを言います。神は、自ら喋ることができませんので、必ず人間を介して託宣という形で伝えることになっています。現実的には、そういう変更を考える人が、神の託宣という形をとって自らの方針を伝えていくものだと解釈していいものと思います。
「神身離脱」というのは、神々も人々と同じように、輪廻の中で苦しむ存在であり、仏法による救済を求めているとするもので、その神々を解脱に導くための寺院が神社の境内や隣接場所に建立されることになりました。これを神宮寺、また神願寺・神護寺ともいいます。神の前での読経、神前読経などもおこなわれました。神仏習合の三つのパターンのうちの第一です。教義も教典もなく、当初は、神社の社殿さえ存在せず、神主という専門的な宗教家もいなかった日本の神々は、地域性の強い、呪術的な共同体信仰対象としての雑多なアニミズムの神であり、「基層信仰」といわれるものであります。いかに王権神話として纏められてきても、インドから中国・朝鮮を経て到来した普遍宗教たる仏教に、自らを託して傘下に入らざるを得なかったのであります。一方、グローバル宗教としての仏教からみれば、各地の神々と違って、地盤を持たぬ弱みを克服するのには、地域に密着した神社に足跡を残していくのに神宮寺という入口から浸透を図ったものともいえましよう。ただ、神宮寺出現でも、本来の神社としての性格は消滅されなかったのです。この神宮寺出現が、先に本地垂迹説になって行きます。
大化改新後の七世紀後半から急速に盛んとなる仏教徒による山岳修行は、仏教徒が山に入ることに意味があり、彼らが山に鎮まる神々や精霊と接することになります。彼らはまず、神々や諸霊を祈り祀って、その協力と保護を得ることにより、自らの修行を可能とすることができました。したがって、仏教徒の山岳修行を通じて、神仏の接近はおろか、きわめて自然な形で、どの面よりも先んじて神仏習合の端緒が開かれていきます。国家公務員としての寺から出ない官僧への反発から、また自らの悟りを目指し、さらには行基のような社会事業に活動するため、山に籠って修行する僧が出てきたのもこの頃からです。
先ほどの多度大社で出てきた満願禅師は、箱根山を開いたとされる山岳修行者です。
■Ⅳ. 護法善神■
護法善神とは、仏法を擁護する神のことであり、もともと仏教が古代インドの神々を護法神として位置づけたもので、梵天、帝釈天等全ての神々は仏法を守護する神として護法善神に含まれると考えられます。仏教は、各地の土地の風土に合わせるという性質を持ち、インドだけでなく中国においても土着民族の神々を包摂してきました。わが国でも、土着の神、記紀の神々が、国法仏法を守護する存在であるとされる考え方です。この護法善神が、神仏習合の第二のパターンです。
大分県の宇佐市に宇佐神宮があります。所謂八幡神社の総元締めです。日本に現在ある約八万社の神社の中で、系統別に分けると日本で一番多いのは、八幡神社で7817社であるそうです。宇佐市は、朝鮮半島と大和国の中間地点にあります。この宇佐神宮の主祭神である八幡大神は、当地の国造宇佐氏の神体山信仰に、新羅系渡来人一族辛島氏の仏教信仰と、さきほどの大神神社神官の大神氏が応神天皇信仰を持ち込んで成立したものといわれております。三韓征伐を率いた神宮皇后も、祭神としてまつられており、その子であり母の胎内にあって三韓征伐をしたという応神天皇が八幡大神であるともいわれます。この宇佐神宮が、護法善神として、歴史の舞台に登場します。なお、八幡大神は、古事記・日本書紀には登場しない神です。
写真)宇佐神宮
国分寺・国分尼寺建立の詔後、聖武天皇は大仏造立の詔を発します(743年)。ところが未曾有の工事であり、難航します。そこで朝廷は使いを出して、八幡神に大仏造立成就を祈願させます(747年)。また、大仏に施す黄金が国内にはなくなり、唐に求めに行く使者が立寄ると、八幡神から国内から産出するという託宣があり、これが実現します。749年11月には八幡神は上京を開始し、12月には平城京に入り、聖武太上天皇・孝謙天皇から大がかりな歓迎式が実施され、大仏に拝礼します。この時の拝礼前夜の宿が梨原宮となり、後に、現在東大寺にある手向山八幡宮となり、大仏を守護する寺院鎮守神となります。八幡神は、他の神身離脱の悩める神々とは違い、神仏習合を体現する神といえ、天皇が目指した仏教を中心とし神がそれを守護するとする国家体制を具体化したものといえます。
その後、女性である孝謙天皇は退位し出家後に、重祚して称徳天皇になりますが、寵愛する道鏡を太政大臣に据えます。769年に、宇佐から道鏡を皇位につけよという託宣が下されたという報告があり、その真偽を確認するために和気清麻呂が勅使として宇佐に派遣されます。ところが今度は全く逆の託宣があり、怒った道鏡により和気清麻呂は配流されます。後に天皇の死後に、道鏡は左遷されて決着しますが、宇佐八幡神官と称徳天皇・道鏡との結託による謀議とされ、以降、宮廷神事には僧侶は関わらないことが決定されます。これを神仏隔離といいます。ただ、神事を行う際の問題だけに留まります。
このように、宇佐神宮は、特異な立場で歴史に登場するのです。
一方、仏教の側から守護神を祀ることもありました。真言宗高野山に真言密教の大伽藍を開いた空海は、好適地を探す過程で、地元の丹生明神と狩場明神のご神領を譲り受けたとして、以来この両明神を祀る丹生都比売神社が高野山の鎮守神とされています。
■Ⅴ. 本地垂迹説■
神仏習合の三つのパターンのうち、第一の神身離脱、第二の護法善神をお話してきました。神と仏の距離が縮まっていく過程で、一部の神々を菩薩の名で呼ぶようになります。これも先鞭をつけたのが、宇佐神宮の八幡神です。808年には、「八幡大菩薩」という呼称が公認されます。また、860年には、宇佐神宮を参詣した大安寺の僧行教が託宣を受けて、八幡大菩薩を平安京の南西に勧請します。伊勢神宮と並び皇室の宗廟とされ、幕末まで石清水八幡宮護国寺と称しました。これが、現在の石清水八幡宮であり、当初から僧侶が中心となって経営されました。この形態を宮寺といいます。
写真)京都府八幡市 石清水八幡宮
こうした時代背景から、平安時代後期頃に、本地垂迹説が成立していきます。本地垂迹説とは、本体たる仏が衆生救済のために、仮に神の姿となって現れたものだとする説で垂迹とは「迹を垂れる」という意味で、その典拠は法華経にあります。これが神仏習合の第三のパターンです。神の側から仏に近づくのではなく、仏自身が積極的に神の世界に侵入して仏の化身としてみずからを位置付けるものです。これにより、仏教界が、皇室と世俗世界に向けて、仏教優位を最終的に論理づけたのです。日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部等を含め)が化身として日本の地に現れた権現であるものとすることになりました。古来、わが国の神は氏神的な地域性(地域的閉鎖性)をもちますが、本地仏を持つことにより、地域を超えた普遍的なものとなり、新たな特徴が加わり、祈願・祈祷・加持等の盛大な宗教儀礼を伴う事が可能となつて、本地垂遊説は、神の側にとっても、仏教側にとっても、大衆の信仰を集める上できわめて有効な手段となりえたのです。こうして、神の観念の人格化と仏像の影響を受けて、神像が造られるようになります。
院政時代から鎌倉時代にかけて、全国各地の神社の神々をそれぞれ然るべき仏や菩薩等の垂迹した化身・権現とみなす運動が展開されていきます。
これから後、崇道天皇や菅原道真の怨霊信仰の発生、鎌倉新仏教と仏家神道、両部神道等の神道の展開等から、明治維新の廃仏毀釈まで色々と続きますが、今日はここまで。
《 参考資料 》
「神仏習合」義江彰夫 岩波書店
「日本の神々」谷川健一 岩波書店
「なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか」島田裕巳 幻冬舎
「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」安丸良夫 岩波書店
「八幡神と神仏習合」逵日出典 講談社
「神道とは何か 神と仏の日本史」伊藤聡 中央公論新社
「国法 大神社展」パンフレット 他
写真)代表的な神像
(筆者は ★ )