■随想  「渦」                 高沢 英子

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 九月に入って最初の土曜日の昼下がり、二歳の子供を連れて休日の散歩に出か
けていた娘の夫から電話があった。
 いま二子多摩川の岸辺にいるが、突然上空で、ヘリコプターが何機も旋回しだ
した、川の中にも捜査員らしい人が大勢集まって動いている。テレビでなにか報
道していないか、というのであった。娘が「野次馬だから・・」と苦笑しながら
チャンネルを回すと、しばらくして画面が多摩川の流れの大写しになった。

 たしかに、川の中を何人もの黄色い制服姿の人たちが、じゃぶじゃぶ素手で歩
いている。水深は浅く、その人たちの膝下くらいしかない。テレビからはヘリコ
プターの音もさかんにきこえてきた。ニュースは 多摩川で、数名の人が水に溺
れ、3名が行方不明、と報じている。一見こんな浅い川で、と私たちは驚きなが
ら、画面を見つめていた。
 我が家のマンションのベランダは、西南に開いていて、窓から多摩川を遠望で
きる。窓の外に目を移すと、空は曇っていたが、戸外は残暑きびしい様子である。
そして川面は何事もないように、きらきらきらめいて、ゆっくり海のほうへ動い
ている。

 その日の夕刊に事故の経過の記事があった。自動車メーカーの会社の同僚十数
人が午前8時頃から多摩川中原区の河川敷でバーベキューをしていた。うち6人
くらいが酔った勢いで30メートルほど川に入って遊んでいた。そのあたりは水
深50センチの浅瀬、たいしたことがないはずが、深みに足を取られ流された。
助けようとした1人も溺れ、下流で浮いていたところを救助され、軽症ですんだ。
三、四十分後、約100メートル下流の水深2・3メートルの水底で、水死して
いる1人と、意識不明の重体の1人が見つかり、病院に搬送された、という内容
である。

 日曜日、意識不明の1人も亡くなった、と報じられた。亡くなった人たちの年
齢は若く、1人は十九歳、もう1人は二十七歳だった。新聞の写真では、上空を
旋回するヘリコプターの風に煽られて大きく渦巻いている川のようすも写ってい
た。
 この日も暑さは衰えていなかった。川面は動きを止めたように凪いで、岸の樹
木や土堤向こうのビルなどの姿を映している。僅か七、八キロ先で恐ろしいこと
が起こっていたとは想像も出来ない静けさだ。あらためて自然の変貌のこわさを
思う。
 前日の金曜日には、打ち合わせで皆の心は弾んでいたことだろう。不慮の事故
に身内の人たちの嘆きは尽きないことと思う。

 「水は恐ろしいものだから、根性のぬるいやつには水は使えない」と娘を脅か
した、と幸田文は父露伴の思い出を綴る。父は娘に掃除の作法を伝授するにあた
って、まずこう釘を刺した。娘はたかが雑巾がけに、と内心わらう。まだ十四、
五歳の生意気盛りだ。洪水は恐いけれど、掃除のバケツの水がどうして恐ろしい
の。と合点がゆかない。父はめげずにまくしたてる。「水と金物が一緒になって,
紙も布も木も漆も革も、石でさえもがみんなだめになってしまう、・・・掃除は
清らかに美しくすることである。こういう破壊性をもっているものを御して、掃
除の実を挙げるのは容易でない・・・」

 明敏な娘はなるほど、と納得して掃除を始める。しかし容易な仕事ではない。
忽ちそこらじゅうに水滴を撒き散らし「おまえは恐れるということをしなかった。
・・わたしの云うことを軽がるしく聴いた罰を水から知らされたわけだ・・・」
とお説教をくう。父の教えは事ほどさように徹底していて、家事から人生の諸事
万端に亘って余すところがない。
 かつて幸田家は江東に長く住んでいた。水の猛威も出水、いわゆる洪水によっ
てたびたび経験している。東京は治水の点では当時随分遅れていたらしい。
 露伴は水が好きだった、というのも文の証言にある。いろいろと関心を寄せ、
水に関する話は実によかった。と回想している。書き残されているのは「幻談」の
みだが、しみじみと心に残る話である。

 文が本気で水の恐ろしさを知るのは、しかしこの拭き掃除の伝授より数年後、
十八歳のときだった。,実際に隅田川で水難事故を起こしてしまったのである
 当時文は女学校へ通うのに渡し船を使っていた。吾妻橋の一銭蒸気船である。
学校帰りに荷物を抱えて乗り込もうとしたとき、足駄を滑らせて、発着所の浮き
デッキと蒸気船の船尾との狭い三角形の間へ、「どぶんときまったのである」つ
まり落っこちたのだった。

 「眼を明けたら磨りガラスのような光のなかを無数の泡が、よじれながら昇っ
ていくのが見えた。渦。咄嗟に足を縮めた。ずんと鋭い衝当たりを感じるのを待
つ必死さに恐れは無く、ぐゎんと蹴って伸びた。ぐぐぐっと浮きあがって、第一に
聞こえたのは、砂利でもこぼすような音だった。いまだに何の音だか腑に落ちな
いが、父は「それが水の音さ」と云っていた。」よほど強い衝撃を受けたのであろ
う。何十年も後の文章とは思えぬ的確な描写で、読むものに迫る力がある。
 文はこうして水面に出ることが出来、小舟をあやつる老船頭の差し出す水棹に
掴まった。船頭の、巧みな誘導で、やがて体が小舟に近づき、舟底にに叩きつけら
れるようにすくい揚げられ、一命を取り留めた。

 「ゆっくりゆっくり、やんわり、やんわり」と溺れた娘に声をかけつづけた、
その老いた船頭は、水の恐さを知り尽くしそれを御するすべを知り尽くしていた
に違いない。

 「ポオ先生のおかげで助かったのさ」と、玄関の外に出て、娘の無事の帰りを

待ち受けていた父露伴は云った、という。
 図らずも、その前日、文は学校の英語教科書にあるポオの「渦巻」の抜粋を父に
訳してもらうということをした。訳そのものは漢文調の逐語訳で文にはさっぱり
わからなかったが、事のついでに渦巻きの講釈を聞いた。「渦は阿波の鳴門が引
受けてるわけじゃない」と前置きして、露伴は、娘に、普通の川で表面に現われる
ところは大したことはない渦が、水面下では大きな力をもっていることがあると
教え、次いでその渦をいかにして逃れるかを伝授したのである。

 多摩川で若い2人の命を瞬時にして奪ったのはまさにこの渦巻き現象であろう
と想像する。わたしはポーの原作は読んでいないし、科学的に水流のメカニズム
を説明することなどできないが、水は水面下で、時として予測し難い不穏な動き
をする、とは聞いたことがある。
 文が露伴に教えられたことは、古き佳き日本の生活の真髄が説かれて余すとこ
ろがない。
 そして娘の一図な誠実。彼女が描き出した父と娘の姿は、心憎いほど美しく、
いとおしく、滋味にあふれている。
 昭和二十二年夏、酷暑が続いていた。
 七月三十日朝、幸田露伴死す。享年数えて八十一歳、明治最後の文人作家
の終焉であった。
 近くの池上町にある池上本門寺に幸田一族の墓があるという。山門からまっす
ぐに、加藤清正が寄進したという此経難持坂と名付けられた数十段の石段が伸び
ている。
 秋風に吹かれての墓参は、風がさぞ身に沁みることであろう。
                    (筆者は東京都大田区在住)