【コラム】大原雄の『流儀』

清(ちゅ)ら海を壊すな! ~南島紀行(1)~

大原 雄


 19年ぶりに訪れた沖縄で見たものは?
 日本ペンクラブが、5・20沖縄・宜野湾市にある沖縄コンベンションセンターで開いた「平和の日」の集いに参加するため、私は沖縄を訪れた。
 18日に羽田空港から出発し、18日のうちに8年ぶりに再会した大学時代の同級生の案内で、米軍のオスプレイの拠点・普天間基地(宜野湾市)の見える高台に立った。高台は沖縄戦当時の激戦地の一つ、第七〇高地だった。
 19日は午前中、復元工事が続く首里城址、学童集団疎開中、米軍の潜水艦に撃沈された対馬丸記念館を訪れた。19日の昼前ホテル発のバスツアーに参加し、午後は沖縄本島中部の名護市の辺野古(新基地反対運動)、チビチリガマ(戦時中集団自死があった洞窟)、極東最大の米軍基地・嘉手納基地などを見て回った。
 20日は朝から那覇・壺屋地区の迷路のような歴史的な裏道を歩いた。午後は、「平和の日」の集い(宜野湾市)に参加し、夜は、那覇で開かれた懇親会で沖縄の作家・又吉栄喜、大城貞俊や石垣島在住の詩人・八重洋一郎らと懇談した(敬称略)。

 「南島紀行」は、不定期で、数回連載したい。
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◆◇ 三度目の沖縄行

 ボーイング767—300ERジェット機が、那覇空港に着陸した。250人余りの客席は、ほぼ満席だった。2018年5月18日、午後。天気は晴れ。気温は28度だった。

 沖縄の地にジェット機の車輪がついた衝撃が体に響く。その瞬間、私の思いは、1971年の沖縄へタイムスリップする。当時の沖縄は、まだ、アメリカの軍政下にあった。アメリカによる沖縄統治(占領)は、1945年から72年5月まで27年間も続いた。ちなみにアメリカを主体とした連合国軍による日本の占領は、1945年から52年までの7年間。20年もの格差がある。沖縄の表現で「アメリカゆー」と呼ばれた。「高等弁務官」というアメリカの陸軍中将が歴代、権力のトップであった。
 今の沖縄の基地の現況を見ると、アメリカによる「軍政」は、未だに継続しているように思える。少なくとも、日本政府はそれ(日米地位協定)を「放置」しているではないか。当時、日本からの渡航は、パスポート代わりに沖縄渡航専用の身分証明書(「五七の桐花紋」の紋章入り、「日本政府総理府」発行)などが必要であった。那覇空港も当時は米軍管理(72年復帰後は、原則、民間と自衛隊共用に変わった)。当時、道路では、車は右側を走っていた。通貨はドルだった。

 4月からの就職を前に行った、1971年1月の沖縄は、気温が25度の日もあり、本土とは種類が違うが、濃いピンクの寒緋桜(カンヒザクラ)が咲いていた。寒緋桜の濃い色に南国の濃密さを感じた。この時、私は、10日間ほど沖縄に滞在し、大学時代の友人の案内で、南は、糸満の摩文仁(まぶに)丘(日本陸軍指令部があった。県民を巻き込んで全県的に展開された「沖縄戦」の激戦地)から北は、国頭村(くにがみそん)の辺戸(へど)岬(沖縄本島最北端)まで回った。途中、沖縄の米軍基地、「沖縄戦」の傷跡の地などを見た。首里城城址は当時、琉球大学になっていて、観ることができなかったが、今帰仁城(なきじんぐすく。沖縄本島北部の本部半島の今帰仁村)など、いくつかの古い城址を訪れたのを覚えている。エメラルド色の海の遠望と廃城の白っぽい石垣が、今も眼裏に残っている。当時は、高速道路もなく、私も運転免許証も持っていなかったのでバスなどを乗り継いで移動した。

 2000年7月の九州・沖縄サミット(第26回主要国首脳会議)の前年1999年。私は新聞協会の在京地方部長会のメンバーとして、新聞各社の地方部長と一緒に沖縄名護市のサミット会場(万国津梁館や関連施設)を視察した。20世紀最後のサミット、日本で初めて地方開催されたサミット(当時の首相は森喜朗)であった。1999年11月、当時の稲嶺恵一沖縄県知事は、普天間(ふてんま)基地の「移設先」として、辺野古(へのこ)の地名を挙げていた。名護で高速道路を降りた私たちは、当時の岸本建男名護市長と会見した後、市の職員の案内で、辺野古の候補地周辺を視察した。サンゴやジュゴンの海・大浦湾も遠望した記憶がある。

 2018年5月。日本ペンクラブは、「平和の日」の集いを沖縄で開いた。私は、沖縄で初めて開催される「平和の日」の集いには関心があり、一般会員ツアーとして自発的に参加した。集いの前日は、バスツアーが企画され、辺野古、チビチリガマ、嘉手納基地などを、沖縄の地元紙の一つ「琉球新報」幹部が同行・解説付という懇切な対応で実施された。

 私は、さらにツアーの前日、独自に、大学時代からの友人の案内で、普天間基地の全景が見える宜野湾(ぎのわん)市の嘉数(かかず)高台公園展望台に上った。100段はあるという石段を登り、さらに展望台まで20段ほど階段を登る。確かに普天間基地は市街地の真っ只中にあった。基地のスポット(駐機場)には、米軍機オスプレイが多数駐まっていたが、金曜日の午後6時から7時半とあって、視察中に発着する場面は見られなかった。
 この時間帯、南国は、まだ、十分に明るい。嘉数高台は、沖縄戦当時は、「第七〇高地(こうち)」という激戦地(1945年4月)であった。展望台の近く、少し下ったところに日本軍が戦闘に使用した分厚い鉄筋コンクリート製の「トーチカ」(防御陣地)が米軍の攻撃で半壊した姿のままで、今も残されている。反戦平和を訴えかけてくる。沖縄戦の戦傷のモニュメントの近くに普天間基地はあった。

 19日のバスツアーが始まる前、午前6時半の朝食を済ませて、早めにタクシーで首里城を訪れた。1971年、復帰前の那覇を訪れた時には、守礼門(1958年再建)だけ見学した、と記憶する。本格的に復元された城壁が見事な今の首里城は初めてだ。首里城は上り下りの急な坂が多い。山城構造の城郭である。首里城址は、沖縄戦当時は、日本陸軍の司令部があったことから、米軍は、徹底して破壊した、という。戦後も、城址は琉球大学用地に使われた。沖縄県民にとって、首里城復元は、長年の夢だった。1979年、琉球大学の移転に伴い、首里城は復元されることになり、1992年以降、今のような首里城公園となった。首里城は、14世紀末頃、築城されたと推定されている。石門などが遺構として認定されていて、世界遺産にも登録されている。

 午前8時過ぎ、正殿前御庭まで登る。8時半からの正殿の開場式では、職員が琉球王国時代の衣装を着て、銅鑼を叩いて合図をした。時間がなく、私は正殿の中には入らなかった。代わりに、タクシーに乗り、対馬丸記念館に立ち寄った。1944年、沖縄から九州本土へ学童集団疎開しようとした子どもたちを乗せた対馬丸という貨物船は、事実上戦場となっている海域を航行中、米海軍の潜水艦に撃沈され、ほとんどの子どもたちは亡くなってしまった。生存者の証言などを記録する記念館である。事件後、60年経って、やっと作られた記念館であった。

 19日のツアーでは、那覇のホテル(離島航路の発着港である泊港に近い)を発ち、高速道路(沖縄自動車道)を北上した。道路沿いの小高い丘陵地には、住宅などの間にあちこちで「亀甲墓(かめこうばか)」と呼ばれるコンクリート製の沖縄独特の大きな墳墓も見える。名護市で高速道路を降りる。
 名護市では、辺野古(へのこ)新基地反対派の人たちが交代で座り込み・抗議をしているテント小屋前で、名護市の稲嶺進・前市長、山城博治沖縄平和運動センター議長らから辺野古候補地をめぐる最近の動きなどについて説明を受けた。キャンプシュワブの出入口の横にある工事用車両の出入り口近くだ。
 珊瑚礁が豊富な浅瀬の海岸である新基地建設予定地には、軟弱な地盤の箇所も確認されたというのに、護岸工事が強行されていて、トラックが出入りする搬入口前の国道は渋滞がひどくなる。私たちがいた時も、渋滞していた。地域住民の生活の足、路線バスもコースを変更されるという記事が地元紙に載っていたが、これは、いかにも権力主導の工事らしい強引さだろう。
 反対派の抗議行動は、工事現場の海側でもカヌーや船に乗って、連日続けられているという。近いうちに(6、7月にも)、護岸の内側には、貴重な珊瑚や魚類を生殺し(生きたまま殺す)にする形で土砂が投入されるのではないかということで、現地では、警戒と緊張感が日に日に高まっているのをひしひしと感じた。

 バスは名護市から南下し、途中立ち寄りながら那覇へ戻るコースをとる。チビチリガマ(「ガマ」は、天然の洞窟のこと。「チビチリ」は、「尻切れ」の意味。洞内を流れる水の行方が判らないので「尻切れ」という)は、読谷村(よみたんそん。沖縄本島中部。日本の村の中で、最も人口が多い、という)にあるガマで、沖縄戦の1945年4月、83人の住民たちが集団自決(自死)をしたり、ふたりが竹槍で米軍に対抗して殺されたりして85人が亡くなったという悲劇の地だ。犠牲者の6割が、18歳以下だったという。中には、生後3ヶ月の乳児もいた。非戦闘員の住民の集団自死は、軍国主義が強制した死であった。

 読谷村から南下して嘉手納町へ。巨大な米軍の嘉手納基地(行政は、嘉手納「飛行場」という)に近い県道沿いには、「道の駅かでな」が建っていて、4階の展望場からは、真ん前に極東最大の空軍基地(総面積20平方キロ。東京の羽田空港の約2倍)の全景が見える。ここも、土曜日とあって、午後5時から5時半までの30分間に発着する軍用機などは少なかったので、騒音被害の実態は、残念ながら私には体験できなかった。

 さて、20日、宜野湾市の「沖縄コンベンションセンター」で開催された日本ペンクラブ主催の第34回「平和の日」の集いは、「人 生きゆく島 沖縄と文学」というタイトルで開かれた。会場には800人が集まった。私の関心は、「集い」終了後、宿泊している那覇のホテルで開かれた懇親会であった。ここで紹介されたパネリスト(沖縄側の参加者は、作家の又吉栄喜、大城貞俊、詩人の八重洋一郎)の内、又吉栄喜(以下、敬称略)については、後述として書きたい。

 「平和の日」の集いの会場へ向かうバスが出る前、ホテルを出て、国際通りに近い壺屋地区という琉球の焼き物(壺屋焼)を作っている陶芸家たちが集まり住んでいる地域に行ってきた。17世紀後半に当時の王の命令で3カ所の窯がここに統合された、という。通りの店は、午前10時か10時半開店だったので、開店まで、通りの裏側に残る住宅街の路地(スージグヮー)を歩いてみた。
 傾斜地に朱色の屋根瓦の住宅。中には古い民家もある。その間を緑の葉が茂った塀が続く。一方通行も多い迷路のように繋がる道の端には、白や赤などの南国の花が咲き乱れている。幼い子が父親と遊んでいた。車も入り込めないような路地は、幼い子どもには走り回っても安全なのだろう。焦土化した那覇でも壺屋地区は戦禍が比較的少なかったので、古い街筋が残った、という。首里城の急坂とは違う、職人街の緩い坂の路地は、那覇という一つの街の裏表を観るような気がした。

 2018年5月26日、東京の国会議事堂前にいる。沖縄から戻り、普天間基地の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設反対の大規模な市民集会に参加した。「美(ちゅ)ら海壊すな 土砂で埋めるな 5・26国会包囲行動」(「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会主催)という。「辺野古新基地建設に反対する国会包囲行動」には、主催者発表で約1万人が集まった。
 首都圏の新聞には、集会の記事は見当たらないようだったが、翌27日の琉球新報の記事によれば、「新基地建設の埋め立て海域では護岸工事が進展し、6月にも土砂投入が行われる可能性が指摘されている。(略)議事堂正門前では市民団体や野党国会議員らがマイクを握り、建設に反対する民意を無視して工事を進める政府に異を唱えた。市民も「美ら海埋めるな」などと書かれた青いプラカードを掲げたり、手作りの横断幕やのぼりを掲げたりと思い思いに抗議の意思を示した」という。

◆◇ ふたりの又吉さん

 沖縄には、芥川賞受賞作家が4人+1人いる、と思っている。大城立裕(『カクテル・パーティー』)、東峰夫(『オキナワの少年』)、又吉栄喜(『豚の報い』)、目取真俊(『水滴』)。さらに、厳密には沖縄出身ではないが、父親が沖縄県名護市、母親が加計呂麻島(鹿児島県の奄美群島)の出身ということで、私にとって沖縄に所縁があるように思える大阪出身の又吉直樹(『火花』)が連想されてしまう。又吉直樹さんには、いずれ父の地、沖縄を舞台に作品を書いて欲しいと思っている。私にとって、「ふたりの又吉さん」というイメージには、親近感がある。ふたりの又吉さんの内、ここでは、沖縄・浦添市在住の又吉栄喜さん(以下、敬称略)について、コンパクトながら私の思いを論じておきたい。

 又吉栄喜作品は、1980年、すばる賞を受賞した『ギンネム屋敷』(沖縄戦から8年後、米軍占領期の浦添市が舞台)や16年後、1996年、芥川賞を受賞した『豚の報い』(後に、崔洋一監督によって映画化される。隠喩となっている豚のもたらす厄を落とそうと、「神の島」と言われる離島に渡る4人の男女の物語)などをリアルタイムで読んだ後、いくつかの作品を読んでいるが、最近は、又吉直樹に「押されて(?)」又吉栄喜は、私にとっても関心の影が薄くなっていたように思う。と思ったら、今回は、那覇のパーティー会場で、直接、お目にかかる機会が得られた。

 「少年の頃、家の半径二キロ内に琉球王国発祥のグスク(城)、戦時中の防空壕、沖縄有数の闘牛場、広大な珊瑚礁の海、東洋一の米軍補給基地、Aサイン(米軍営業許可)バー街、戦争の痕跡をカムフラージュするために米軍機が種をまいた(という)ギンネムの林などがあり、私の原風景を形成しました」(『時空超えた沖縄』まえがき)

 「ギンネム」とは、沖縄に多い帰化植物の一種。豆科。沖縄では、焦土と化した戦後、土壌流出防止と緑の回復手段として、県内のあちこちに植えられたという。樹高が3~5メートル、幹の直径は3~5センチ程度のものが多いという。

 又吉栄喜は、1947年7月生まれ、同年1月生まれの私より学年は一つ下だが、同世代。今回『時空超えた沖縄』という又吉栄喜作品としては初めてのエッセイ集を読んで感じるところが多かったので、その思いを書き留めておきたい、と思う。

 まず、又吉栄喜の小説を読んできて同世代として私が感じる親近感がある。これは、小説よりも、今回初めて読んだエッセイ集で、より強く感じた。又吉の子ども(特に、小学生)時代の体験が、私とも重なる部分と重ならない部分があることのおもしろさではないか、と思った。

 「時空」のうち、「空間」としての沖縄は、私には今回含めて3回の沖縄行きの経験しかないのでは、馴染みが少ないのは、当然だろう。「時間」の方は、全くの同時代人。東京という都市に住み続けた少年の私と浦添市という那覇市の北側に隣接する郊外都市に住み続けた少年との違いは、子どもたちの遊びの思い出から推量すると、思ったほど違ってはいないようだ。もちろん、南国沖縄の浦添市の植生、動物たち、近間に控える東シナ海という海は、東京育ちの少年には、願っても願えない「宝もの」であろう。
 少年たちが遊んだメンコやビー玉は、乏しい小遣いを貯めて買いためては、友だち同士で勝負をして、取ったり取られたり。少年たちは沖縄の方言でメンコを「パッチー」、ビー玉を「タマグァー」と言っていたという。ビー玉の「タマグァー」は、東京の少年には判らないが、メンコの「パッチー」は、東京の少年たちにも判るだろう。東京では「パッチン」(あるいは、「ペッタン」)と言っていたのではなかったか。これなら、擬音が呼び名になったようだから、「時空を超えて」東京の少年の私にも、今でも判る(メンコは、時空の違いごとに、各地、時代で名称が違う)。

 大晦日に東シナ海に面した崖の上に立ち、崖下から吹き上がる風を利用して正月の凧を揚げる冒険は、今更ながら、羨ましい限りだ。東京の少年は、せいぜい広い空き地(「原っぱ」など)を求めて、凧揚げに挑むしかやりようがなかった。雑誌の新年号を待ちわびる思いは、まったく同じだ。「月遅れ号」(そもそも、雑誌は、新刊でも船便の所為か都会よりは毎号一ヶ月ほど遅れていた、という。「月遅れ号」は、二ヶ月遅れだが、価格は、半値以下。そういえば、昔の本には、定価とは別に、「地方価格」というのがあった)というのは、都会では体験できなかったが、遅れによる雑誌への期待感という楽しみは、又吉栄喜の筆致から、踊るように伝わってくる。

 「小学生の頃、仲間と水に潜り、珊瑚礁の割れ目に食い込んだ頭蓋骨に触るという肝試しをした」、「小学一、二年生の頃には、石垣に石を積んだつもりなのに、よく見たら頭蓋骨を積んでいたとか」という体験には、圧倒される。私が育った東京では、小学生の頃、防空壕や焼けただれた廃ビルなどが町の影のような形で、まだ、市街地にも残されてはいたが、そういうところに入ったり、上ったりしても、直接、頭蓋骨に触るというような「戦争体験」はない。
 又吉のエッセイ執筆の時期は、2000年前後が多く、特に、小学生時代の体験を綴ったものが多いが、2010年になると、「無常な時間や人々の生活が知らず知らずのうちに『戦争』を消していくのだろうか」という記述に変わってくる。又吉少年にくっきりと焼き付けられていたはずの原風景(「空間」)としての戦争体験が、「時間」によって、消されてしまうのだろうか。「遊び回った時に感じた驚異、興奮、崇高さが私の中から消えてしまうという無念な思いに苛まれました」。

 又吉の人生では、25歳になった1972年は、沖縄復帰の年だ。沖縄の少年たちは、そこまではアメリカの軍政下での生活(アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ)を強いられていた。「少年時代、一心不乱に遊んだ『原風景』が現在にもつうじる普遍性を帯びている、人間の問題にも通底すると考えるようになり、……」。その時々の「時間」は、まだ、私にも共有できるチャンスはあるが、「空間」は、切り離されていて、共有できない。1971年、NHKの記者となり、初任地として大阪に赴任した私は、翌年、1972年の沖縄復帰の取材で、大阪・大正区の沖縄出身者たちが比較的大勢住んでいる町に「復帰」の受け止め方を取材に行ったことがある。

 日本本土の沖縄への差別は、こういう「異空間」を生きざるをえなかった私たちヤマトゥンチューが知らず知らずのうちに、身につけてしまった差別感から生じているのかもしれない。同世代だからこそ、強く感じる。何枚かのドル札をポケットに突っ込んでいる「若豚」というあだ名をつけられた少年。又吉少年は、「十セントの小遣いしかもらえなかった」。金を持つ少年と普通の少年というだけでなく、もっと普遍的な根っこを描いた象徴的な場面として、私は、このページを読んだ。

 自然の豊かさ。「沖縄の港にはほとんど珊瑚礁の割れ目から船が入ってくる」という。「沖縄では海を、島の周りを囲むものではなく、島のひろがったもの、延長線上のものと考えているふしがある。無限ととらえる」。都会暮らしが続く私の周りには無限となるような空間はないように思われる。それに、初めての70歳代に突入し、私もこの後、「時間」も無尽蔵にあるとは思えない年齢になってきた。

 古希の祝いをしてもらったゆえではないが、「人生七十古来稀」の有名な詩句の直前の一行(ほとんど知られていない)との対句に改めて魅かれる。

 「酒債尋常行処有
  人生七十古来稀」(杜甫の漢詩「曲江」より)

 さて、残された時間を大事にしながら、又吉栄喜作品を読み解く。『時空超えた沖縄』には、小説のような文体との違いが、際立つ。小説読みとしてだけでなく、エッセイも読むと、私は、同時代異空間の文学として、又吉栄喜作品が生み出す本土と沖縄の、私にとっての「共通点」と合わせて「格差」の、それでいて、それぞれの共存を改めて感じる。そこから沖縄文学への私の理解が改めて始まるように思える。
 初めてのエッセイ集といえども、掲載されている文章も新しいものばかりではない。20年ほど前にあちこちに書いた文章が多い。それも小学生時代の体験を書いているものが目立つが、それでいて、短編小説の素材(エッセンス)が原石のままゴロゴロしているように感じられるのが、とても興味深い。異空間に育った同世代の共通性と相違の対比のおもしろさ。

 最後に又吉栄喜文学の「空間」のきわめつけは、次のような文章だろうから、書きつけておく。

 「しぶしぶ暑い砂浜を歩き回り、貝殻を探した。あの頃、せいぜい二キロ四方しか歩き回っていないが、広い世界の中から毎日、何かを見つけたような気がする」「浦添は小さな市だが、足元を深く掘りおこせば、幾重にも重なった時間が見え、考えしだいでは、小宇宙と化す。不思議な空間になる」(いずれも、『時空超えた沖縄』)

 私は、以前から、「井の中の蛙『こそ』大海を『知る』」という意識を持っている。井の中を知り尽くした蛙は、井の中にいながら、大海という井の外の普遍的な世界を想像することができる力を持つようになる。井の中、足元、己の内(つまり、定点へのこだわり)を徹底して知ることこそが、普遍的なものを理解できるような想像力を持つようになる(伝統芸能や伝統技術の名人の言の奥深さ!)。逆に言えば、井の中を知り尽くせないようでは、井の外の普遍を想像もできない、と思うのである。

 「定点」にこだわった作家として、私が即座に思い出すのは、例えば、次の3人である。二キロ四方に世界があることに気付いた又吉栄喜の「浦添(沖縄)」、路地にこだわった中上健次の「新宮(和歌山)」、己の中に小宇宙があると主張した立松和平の「宇都宮(栃木)」。又吉にとって、中上の路地や立松の小宇宙と同じような役割を果たした空間が沖縄・浦添の二キロ四方だったのだろう。

 「空間」こそ違え、この3人の作家は、生年を比べれば、同世代だと判る。1946年から47年生まれ。彼らの間の個人的な交流は知らないが、同じ「時間」(同時代史)を共有しながら、それぞれ独自の文学世界(「空間」)を構築していったように思えてならない。リアルな同時代文学として、彼らを比較し、見直すことが必要かもしれない。

追記:沖縄の芥川賞作家の一人、1960年生まれの目取真俊さんには、お会いできなかったが、7月半ば、首都圏で講演会(「沖縄・辺野古の闘いを語る」)が開かれるので、話を伺いに行きたいと思っている。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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