【自由へのひろば】

活動を通じて思うこと~『砂川中央地区まちづくり構想案』より

砂川中央地区まちづくり推進協議会2001

 JR立川駅の一日平均乗車数が約13万人になったことが報道されていた。
 立川駅北口の変貌には目を見張るものがある。この町を訪れたどれだけの人が、30年前まで、立川駅前に米軍基地が広がっていたことを想像することができるでしょうか。まして多摩中央信用金庫本店脇の二本のヒマラヤ杉に挟まれたところがメインゲートで、ファーレあたりに司令部があったことなど。
 また、大発展した立川駅北口のように、今生まれ変わろうと始動し始めた、現在砂川中央地区と呼ばれ、たくさんのスポーツ施設として利用されている場所に、町並みがあり緑豊かな畑が広がっていたことを、そしてベトナム戦争の頃には、民家の屋根スレスレに箪用機が爆音を轟かせて飛んでいたことを、野球をする少年やサッカー青年、テニスをする婦人、ゲートボールをするお年寄りのどれだけの人が想像できるでしょうか。

 30年前の立川市の地図を開くと、北口の発展を限むように広大な米軍立川基地が広がっているのがわかる。
 その基地が昭和30(1955)年5月に拡張されることが、当時の鳩山内閣によって発表され、直ちに砂川町基地拡張反対同盟が結成された。
 当時の砂川町町長であった宮崎町長をはじめとして町ぐるみとなった。後に「流血の砂川」と言われた戦いである。しかし、程なくして町は、賛成反対に三分されることとなり、やがて地元砂川では、砂川基地拡張反対同盟は孤立し全国の支援者と共に闘うこととなった。
 反対同盟員も一人抜け二人抜け、その度に立ち退いて人の家が壊され、耕作者を失った畑地は荒れ果てていった。

 そして、昭和43(1968)年12月19日に、突如、米軍立川基地の滑走路の拡張計画中止が在日米軍司令官によって発表された。砂川住民の実に14年聞に渡る願いが実現した。その時、反対同盟員は23名となっていた。地元住民にとってその喜びは他に例えようのないものであった。
 この発表の翌年、1969年10月3目、米軍立川基地の飛行機能を半年以内に縮小と発表し、翌11月30日米軍立川基地からの飛行部隊撤退が発表された。そして、ようやく砂川の空から米軍機の姿と耳を塞ぐ爆音が消え、静けさの中にひばりのさえずりが響き渡るようになった。

 しかし、静けさを取り戻した砂川は、時代から取り残されたように荒れ果てていった。地図から消えた人家の跡には瞬く間に草が茂り、大人の背丈を越えるほどに伸び、肥沃な畑地には、さらに逞しく雑草が種を実らせた。地元の農家は、自らの土地と作物を雑草の被害から守るために、隣接する土地を耕作し始めた。
 その頃まだ幼かった私の頭の中には、我が家から2、3件先の家までしか記憶に残らないままに、地図から失われていった町並みは広大な野原と化し、楽しくもあり恐ろしくもある程雑草に覆われていた。誰の手も入れられぬまま長い年月が過ぎていった。冬枯れの草が燃えるボヤ騒ぎが何度かあった。自殺者の遺体が茂みの中で発見されたこともあった。

 そんな時の流れの中で、地元耕作者も高齢化し隣接地の耕作まで手が回らなくなってきた。それに変わる耕作者が現れると、次々と耕作地は拡大され、かつての畑地だけではなく、住居跡も畑と化していった。かつて全国から人々が集まり、基地反対の集会が開かれた場所は草を刈り、少年野球がおこなわれる広場となった。そして手の付けられない土地に粗大ゴミが捨てられ始めると、たちまちゴミの山が築かれていった。草刈は道路の周りを刈るだけだった。
 いたちごっこのゴミ処分と草刈に住民の不満は募り、平成8(1996)年、砂川闘争以降初めて立川市と地元地権者との話し合いが実現し、まず長年に渡り地元住民を悩まし続けていた山のような粗大ゴミの徹底的処分が実現された。

 翌平成9(1997)年には、大蔵省(現財務省)が、滑走路拡張予定地であった固有地の土地利用については地元案を尊重する考え方を示した。この英断は、地元住民に長いトンネルの先に微かな光を感じさせるものであった。砂川闘争発端から、実に40年の年月が流れていた。
 このような中、平成10(1998)年「砂川中央地区まちづくり推進協議会」が立川市の全面的パックアップの基に設立された。
 未だ国有地と民有地の土地境界が不明確であるという重大な問題を残しつつも、国有地の「歴史的な経緯」を踏まえ「平和利用」へ向けての町づくりの第一歩を踏み出したことは、長年に渡り取り残され、経済的損失を被ってきた地元住民、ならびに立川市にとって重要なことである。

 もし、あの時地元住民23名が土地を国に手放していたら、今頃立川市は駅前からあの横田基地のような米軍基地が広がり、軍用機が爆音をとどろかせて飛来し、沖縄問題は他人事でなく立川市の現実問題として重くのしかかっていただろうことを誰も否定できないばかりでなく、現在のような立川市の発展も考えられないことであった。
 このようなことを踏まえて、町づくりを考えるとき、地元住民の意思を十分汲み取ったものでなければならないことは明白である。
 そのためにも、町づくりの根幹に「平和利用」を欠くことはできない。砂川闘争ばかりでなく、砂川は第2次世界大戦により多くの空襲を受け大きな被害を出している。

 21世紀に平和を世界に発信し続ける町として発展していくことを強く望んでいる。そして取り戻すことのできない自然を大切にし、いつまでも元気で働く場のある町づくり、人間が人間として尊重される町として世界に注目される町づくりでありたいと願うものである。

  砂川中央地区まちづくり推進協議会
    副会長  宮岡キヌ子
     代筆  福島京子
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地元小麦で「うどん」 守り抜いた土地思いはせ
  ―― 毎日新聞 2016年11月29日より

 旧米軍立川基地の拡張計画を旧砂川町(現東京都立川市)の住民たちが阻んだ「砂川闘争」で、住民らと警官隊の衝突の舞台となった農地で育った小麦を原材料にしたうどんが作られている。製品名は「砂川地粉うどん」。小麦の栽培を手掛ける福島京子さん(66)=同市=は「父母たちが頑張って守り抜いた土地で農作物を生み出すことによって、現代の人々に砂川闘争の意義を考えてもらいたい」と話す。
 福島さんの父の故宮岡政雄さんは、同基地の拡張予定地に住んでいた農家で、地元の反対同盟の副行動隊長を務めた。六法全書を読みながら独学で理論武装し、「砂川の法務大臣」 との異名も取った。砂川闘争は1956年10月に対立が頂点に達し、住民側のスクラム隊と鉄力ブト姿の警官隊が激しくもみ合い、多くの負傷者を出した。それから今秋で60年になる。

 宮岡さんは82年に69歳で亡くなり、拡張を防いだ農地で野菜を育ててきた妻キヌ子さんも2014年に94歳で他界した。農作業を手伝ってきた福島さんは、父母が残した農地で野菜の栽培を本格化。かつて砂川では麦の生産が盛んだったことから、拡張予定地とは別の土地で小麦を育て始めた。収穫した小麦を保存する方法として、うどんの乾麺作りを思いついた。
 12年から小麦粉を埼玉県桶川市の「臼田製麺工業」(屋号・今福屋)でうどんの乾麺に加工してもらい、オリジナルの包装を施してもらうように。昨年には小麦を栽培してきた土地を手放したため、今年は拡張予定地だった農地で初めてうどん用の小麦を育てた。
 6月に収穫した小麦は約240キロの小麦粉になり、このうち約150キロをうどんに加工。1袋200グラムで、約700袋が出来上がった。価格は1袋250円。殻を残して製粉するため、うどんの色はそばのように黒っぽく、小麦ならではの風味を強く生かした。

 一方で、福島さんは父母らが残した「砂川闘争の遺産」 の継承にも取り組んできた。宮岡さんが70年に出版した著書『砂川闘争の記録』は絶版になっていたが、05年に写真資料などを追加して再刊。10年には拡張予定地だった農地の一画で学習施設「砂川平和ひろば」 を開設し、以後、週1回ペースで当時のパネル写真や関連資料を展示し、闘争の足跡をたどるフィルドワークや平和イベントも重ねてきた。
 福島さんは「住民が守り抜いた大地が育んだ小麦が実り、うどんという形になった。砂川闘争に思いをはせ、平和への願いを感じながら、たくさんの人たちに味わってほしい」と話している。うどんや平和ひろばの問い合わせは電子メール(sunagawa.heiwa@gmail.com)で。 (木村健二)

<ことば>「砂川闘争」
 旧米軍立川墓地の北側に位置した旧砂川町(1963年に立川市と合併)の住民が、滑走路を拡張する計画に抵抗を続けた米軍基地反対闘争。55年5月に農家の土地を大規模に接収し、町を東西に分断する計画が明らかになり、地元住民は基地拡張反対同盟を結成。測量を強行するために動員された警官隊などと衝突を繰り返した。57年には基地に立ち入ったデモ隊の一部が刑事特別法違反で起訴された。東京地裁は駐留米軍を憲法9条違反として無罪としたが、最高裁が原判決を破棄し、後に有罪が確定した。米軍は68年に拡張計画の中止を公表、69年に立川基地からの撤退を決め、77年に全面返還された。

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