【沖縄の地鳴り】

河野元衆院議長 憤怒のインタビュー
~沖縄の基地と憲法外交で安倍批判

国際法市民研究会


 自民党総裁や外務大臣などを歴任後、2003年から政界を引退する09年まで、衆院議長を務めた河野洋平氏(1937生)は、「神奈川新聞」2017年8月15日号の終戦記念特集に向けたインタビュー(7月末実施)に応じた。安倍総理は、ただ「自分のやりたいことをやる」という性格で、高い支持率は「他にいないから」にすぎない――と明言。
 以下、沖縄の基地問題を冒頭にするなど話の順序を入れ替え、再編成した。担当記者は「憂いを通り越した憤怒がひしひしと伝わってきた」という。

●沖縄の基地問題

 安倍政権は、沖縄の人たちがあれほど反対しているものを、頭ごなしで造ろうとしている。新しい基地を造れば、この先100年、米軍基地が沖縄に存在することになる。戦争が終わって72年、独立国でそんな国はない。沖縄の基地は、可能なかぎり撤退してもらい、縮小する。かわりに国をどう守るのか。自衛隊で守るだけでなく、外交で守る。そういう努力をしないといけない。
 日本を攻める恐れある国があるなら、そうした国と仲良くして攻められないようにすればよい。北朝鮮の問題も、いまやっているのは制裁だけだ。重要な拉致問題を解決するためにも、外交を中心に据えてとりくむべきだ。いますぐはムリでも、将来の国交樹立は解決の足掛かりになる、国交正常化の早期実現は、小泉政権による2002年日朝平壌宣言でも謳われている。

(記者)横田さん夫妻も「北朝鮮と交渉してください」と訴えている。
 それが外交だ。米国に全面的に同調し、制裁を強化しろ、独自制裁強化だというが、国際社会における北朝鮮の危機が減るとは思えない。拉致問題の解決に近づくこともありえない。
 中国と徹底的に信頼関係を築いて、北朝鮮に核・ミサイル開発をやめさせ、拉致問題についても働きかけてもらう。制裁一辺倒より、よほど建設的だ。安倍さんは外遊に飛び回るが、なぜ中国との関係改善に本気でとりくまないのか。中国だってトランプ大統領に不安を抱いている。日本と手を結ぶことが大事と思っていることは間違いない。

●事実に反する「改憲は結党以来の悲願」

 安倍首相は「改憲は結党以来の悲願」というが、一貫して党是だったというのは、間違いだ。1955年の保守合同の経緯を振り返ればわかる。憲法を是としてきた吉田茂自由党と、自主憲法制定を掲げる鳩山一郎民主党が一緒になって自由民主党になったが、改憲に熱心でない党と熱心な党が一つになれば、主張は二分の一になる。一方の主張だけ残し、もう一方を消し去ることはない。改憲が結党以来の党是という認識は、まったくの誤認だ。

 (…略…)私の党総裁時代(93~95年)も、政綱(政権綱領)から自主憲法制定を外している。憲法は国民に定着していて不都合もない。改正を求める声も聞こえてこない。いつまでも政綱に掲げておく必要はないと考えたからだ。
 立党20年の1975年に向け、政綱見直しの叩き台作りを任されたのが、3年生議員(当選3回)の私だった。思い切って自主憲法制定を外し、非核三原則を入れる案を作った。ところがさんざんに叩かれて、自民党議員とは思えないと非難され、この党に居場所はないなと感じた。改憲の議論だけではない。非核三原則を掲げて何がいけないというのか。核武装を考えている議員が大勢いるのではないかと、不安がよぎったものだ。(…略…)

●戦争は政治・外交の失敗

 戦争で問題は解決しない。鉄砲を撃つのではなく、外交や政府開発援助(ODA)などを充実させるといった経済的な手段で解決するしかない。
 日米関係はもちろん大事だ。だが、ただ従うだけの関係でよいのか。米国は相当好戦的で、世界中で戦争をしてきた国だ。これまでは憲法9条を盾に米国の軍事的要求を断ることができた。ところが、集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を閣議決定で変えてしまった。カンヌキを自ら緩め、平和主義者とは思えぬトランプ大統領にどこへ連れて行かれるのか。それが怖い。

 外相時代にコソボなどの紛争地へ行き、驚いたのは、日本のNGOの人たちが村に入り込んで汗を流している姿だった。危険ではないのか、怖くはないのかと尋ねると、日本人と言えば安全なのだという。自分たちは誰からも撃たれないという確信を持っていた。
 その人たちがいま「怖い」と口をそろえる。日本が武器輸出禁止を緩和し、集団的自衛権の解釈を変えたことが伝わり、「日本人だからといって安全とは言えなくなった」と。安倍政権は日本に対するイメージを一変させ、国際的な信用を失墜させてしまった。

●政治とは戦争をしないこと

 戦時中は小学生だったが、(…略…)B29が頭上を飛び、機銃掃射も受けた。疎開先の小田原は、8月15日の終戦前夜、焼夷弾で焼き尽くされた。戦死した親戚もいる。
 1967年に議員になって半年後、最初の外遊でグアム・サイパンを訪れたのも大きかった。目的は激戦地での遺骨の収集状況調査。頭蓋骨が広がる惨憺たる光景だった。機関銃を持ったまま白骨化している者もいた。聞けば、餓死だという。穴に立てこもり米兵を待ち受けながら、灼熱の中で飢え死にしていた。こんな悲惨で愚かなことは絶対にダメだと、骨の髄まで浸みて帰ってきた。政治とは、戦争をしないことだ。これが私の原点だ。
 (文責:河野道夫 080-4343-4335)

※この記事は「沖縄の誇りと自立を愛する皆さまへ」第44号(国際法市民研究会)から読谷村・河野道夫氏の許諾を得て転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。

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