【沖縄の地鳴り】

沖縄戦遂行の日本軍と県民の断絶

羽原 清雅

 2019年10月、首里城が焼失した。75年前、その地下には総延長1キロに及ぶ壕が、沖縄師範学校の生徒らの手で掘られており、沖縄戦を指揮した第10方面軍第32軍の司令部はそのなかにあった。城が消えた今、この貴重な戦争遺跡を残そう、という動きが出ている。
 毎日新聞(6月22日付)に、琉球新報の小那覇(おなわ)安剛編集委員の「首里・32軍壕公開を 『軍は住民守らぬ』教訓を継承」というコラムが掲載されたのを機に、そこに触れていた古い記事を送って頂いた。
 連合軍(米軍)との戦闘の経緯は、すでに多くの記録として残されているので、そのあたりには触れずに、日本軍部と沖縄県民との断絶ないし落差について再考してみた。

 75年の歳月を経た今、恒久的な辺野古の基地が米軍のために、あるいは将来の自衛隊の基地とするために、新たに建設されようとしており、状況は変貌しながらも、防衛省など政府や与党が県民を黙殺するかのように、肝心の地元との対話や調整を避け、ひたすら強行する姿勢と重ね合わせつつ考えてみたい。

*第32軍司令部 この「軍」は、時期にもよるが、ほぼ3つの師団、5つの旅団などを配下に擁し、軍司令官に牛島満中将、参謀長に8期後輩の長(ちょう)勇中将、高級参謀に牛島より15期下の八原(やはら)博通大佐、さらに後方、航空、情報、通信各主任、作戦補佐の5人の参謀が配属されていた。
 任務は奄美群島から沖縄本島、さらに先島諸島が守備範囲で、日本軍がレイテ、グァム、サイパンと順次撃滅され、沖縄に迫ってくる1944(昭和19)年3月に創設された。

 首里城地下に置かれた司令部は、地下深い坑道が縦横に結ばれ、幅2~3メートル、総延長1キロに及んだ。今は閉鎖された出入り口が5ヵ所、そのひとつには長参謀長が「天岩戸戦闘司令部」と書いた筆太の木札を掲げていた、という。
 この壕を掘り抜いたのは、兵士のほか、沖縄師範学校の生徒たちで、彼らはその後も鉄血勤皇隊として斬り込み隊になるなど、多くの犠牲者を出している。

 沖縄本島への米軍の上陸は、終戦4ヵ月半前の45年4月1日で、敗色強まる5月下旬には首里が陥落して、司令部は本島南部の摩文仁に撤退した。
 牛島、長は6月23日未明に自決、その結果、司令部は崩壊して、この日が沖縄戦終了の日となった。米軍の死者2万、負傷5万5千と多かったが、日本側の死者は軍民合わせると20万近くに及んだ。

*長参謀長の発言 1944年7月に発令された長勇中将の訓示を紹介したい。自決数ヵ月前である。

 「日本が必ず勝つということは、神がかり的な言い分でなく科学的見地から確信できることだ。しかるに沖縄県民が、精神的にも科学的にも確固たる見通しを持っていないかに思われるのは遺憾である。
 米軍の一番の短所は、生命を惜しがる点であり、この短所を叩けば勝つことは自明の理だ。金持のドラ息子との喧嘩は、ジャンジャン費消させてからぶんなぐるのが得策で、10月10日にはるばる南西諸島まで来て無駄使いをした敵の末路こそ哀れである。
 戦争は、一人で二人殺せば日本が勝つことになっているが、皇軍兵士たる者は、一人で10人殺さねば死なぬ。県民もこの決意に徹し、沖縄は吸血ポンプになるのだ。今度こそ敵がやってきたら一人残らず皆殺しにするのだ。」

 まことに荒っぽいリーダーの訓示であり、沖縄戦はまさにこの程度の指揮命令のもとに闘われたのだ。
 ちなみに、長勇は参謀本部勤務時代の1931(昭和6)年、橋本欣五郎らと軍部急進派による秘密結社「桜会」を結成したあと、大川周明ら民間右翼と国家改造を謀る武力クーデターを計画(3月事件、10月事件)したが、未遂に終わり、内密に軽い処分を受けた。この動きは、のちの5・15事件、2・26事件に発展していく。

 豪放磊落、猪突猛進と言われ、その直情的な言動は軍部内でも知られていた。日ソ間の国境紛争を招いた張鼓峰事件(1938年・現中国琿春市)の際、歩兵第74連隊長の長大佐は、ソ連軍との停戦協議の際、相手から丸見えの山上で、大いびきで眠りこけていた、という(『鐵の暴風』では「ノモンハン事件」と書くが誤り)。さらに、出身の福岡からわざわざ料理人を呼び寄せたりもしていた(大田昌秀著『沖縄のこころ』岩波新書)。

*八原高級参謀 沖縄戦の作戦を設定したのは、八原博通高級参謀だった。彼は陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した優秀な軍人で、米国にも2年近く留学、陸大教官、大本営参謀などを務めた。
 第32軍の沖縄に配属されると、米軍の上陸作戦に対して、当初の方針は兵力不足のため水際で積極攻勢をかける予定だったが、米軍に出血を強いるとともに米側の厭戦気分を待つ「戦略持久」作戦に切り替えた。これは、のちに米軍から、巧みな作戦指導で優勢な米軍に長期間の戦闘と犠牲を強いた「すぐれた戦術家」と評価された、と言われる。

 八原の半生を追った『沖縄悲遇の作戦』(稲垣武著・光人社刊)も八原をおおいに礼賛している。軍人らの評伝は、とかく狭い視野で取り上げ、主観的な評価が多いが、この書も同様である。
 沖縄戦を内側から活写した名著『鐵の暴風』(沖縄タイムス社刊)には、狭い壕内の司令部で「神経質に眉根を寄せ、久葉うちわで涼をとりながら、無造作に作戦命令を下す八原高級参謀の声。あたりに蠢く人間達に眼もくれぬ、尊大ぶった超人的な彼の物腰。」とあり、好ましい印象ではないようだ。
 ちなみに、八原と同じ司令部に属し、生き残った戦後も不仲の続いた神直道参謀について、上記の書には、「『あの参謀、酒を飲むと私たちを追い廻すので危険よ』と囁き合う女の要員」とある。幹部らは追い詰められた壕内でも酒を飲み、いかがわしい言動があった。

 その八原は自害せずに米軍の捕虜となって生き残り、戦後20余年後には『沖縄決戦 高級参謀の手記』(読売新聞社刊・のち中公文庫)を刊行している。その書が出たあとの1973年10月に琉球新報に寄稿しており、そこに八原の本音が出ている。
 「そもそも沖縄作戦の目的は、本土決戦を有利ならしめることが最大の眼目であった」として、「南西諸島、特に沖縄本島を観る私の心眼は、まことに申しわけないが、この作戦上の価値判断に基づくものであった。沖縄県民、特に非戦闘員の取り扱いは、この作戦目的に合する範囲内に於いて、最善に処理されたのである」と書いている。

*「二の次」の沖縄県民 八原の言い分は、彼の書にも表れており、一種の信念なのだろう。
 「本土決戦を有利ならしめる」「作戦上の価値判断」のもとに沖縄県民が「最善に処理」された、という。言いかえれば、本土決戦の有利な作戦のために「最善」の策が、大多数の非戦闘員の男性を戦場で戦わせ、その家族である高齢者と婦女子は避難の名目で飢餓、病魔の中に放擲することだったのか。
 作戦参謀として、長期戦の中での日本軍の敗退の状況、米国留学歴からすれば当時の物量においての日本側の劣勢はすでに承知していたはずで、精神主義・神風・竹槍戦法・玉砕で対応できると信じていたのか。ひとり一人の人間の生命への思いが欠けている。

 ただ、彼だけを責めることはできない。当時の為政者、軍部、官僚らの戦争指導者の発想、立ち位置自体が狂っており、高級参謀として逆らうことのできない状況にあったことは間違いないのだから。しかし、20年以上経っても、信念だと云い募り、指導者として詫びる言葉はほとんど出てこない。無残な戦場をかいくぐった者として、リーダーとしての反省のないことが不可解である。

 沖縄戦に兵士として参戦、帰国後に和歌山県立日高高校長となった古川成美は1947年、この戦争について『死生の門』(中央社刊)を書き、さらに八原の記録をもとに『沖縄の最後』(1962年、河出書房新社刊)を公刊した。
 彼は「私は沖縄を『身代わりの島』とよんでいる」と書き、今日の基地の集中する沖縄の状況については「これこそ本土のわれわれが忘れてはならぬ沖縄20年来の『身代わり』の現実である」と書くが、ではどうしようというのか、とまでは踏み込んでいない。この教育者にして「身代わりの島」と言い切る、それ自体にこもる差別の意識に気付いていない。沖縄が日本の一部である、という感性がない。

 実際、長や八原には「米軍が、南西諸島や台湾に来攻したばあい、中央にはこれを救済する手段はない。結局、われわれは、本土決戦のための捨て石部隊なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するのほかはない」と、沖縄県知事をも経験した大田昌秀はその著著『沖縄のこころ』に書いている。

 本土防衛の身代わり、捨て石というが、本土南方の島しょ一帯が防衛ないし戦闘の第一線として扱われていたとはいえ、いまもなお、地元との対話を持たずに立地などの政策を強行し、地位協定などの矛盾を放置する政府の姿勢を許容できるというのか。国家として日本国民の生命と財産を守るとするなら、地理的条件をタテに差別的扱いをすることは許されない。差別をもたらし続けてきた歴史の延長、といった感覚がいまだに抜けていない。

*沖縄人の気持ちは 古川はまた「住民兵士を一丸とした懸命の防戦をもってしてもついに防ぎえぬことを示した米軍の破壊力の実態」と書く。あの沖縄戦が、軍人と沖縄の人たちが「一丸」だったといえるのだろうか。古川はまじめに、その意識で地元の人々と交流していたのかもしれない。あるいは単に言葉だけにとどまるものだったのか、それはわからない。
 というのは、慶良間諸島、伊江島などでの集団自決(強制的自害)、『鐵の暴風』にも実名で書かれている軍人による沖縄出身戦闘員の殺りくなど、当時の沖縄では、蔑視に近い扱いが多様にあった。仮に、軍と県民が一体的に戦闘に組んでいたとしたら、このような残虐な軍部の行動はありえなかっただろう。

 また、44年8月に第32軍の司令官として着任した牛島満中将は「防諜に厳に注意すべし」として、沖縄から移民としてハワイなど米国に親族がいる者も多く、また英語を話す者など、スパイとして警戒したという。
 米軍上陸後には第32軍の軍会誌に「爾今軍人軍属を問はず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜(スパイ)として処分す」とあり、かなりの猜疑心を持って沖縄の人たちに接していたことがわかる。
 ある情報係の大尉が「新聞記者も警察官もスパイでないと保証はできぬ」と、司令部の壕内で言い放った、との記録もある(『鐵の暴風』)。また、沖縄研究者の比嘉春潮は、戦前の勤務先の出版社で若い同僚から「沖縄の人はみんなスパイをしていたそうじゃありませんか。だから生き残ったのだというではありませんか」と言われ、カッとなったという(『沖縄の歳月』中公新書)。

 文化の異なる沖縄での日常の言葉は、たしかにわかりにくい。その土地柄の理解なく、たまたま本土から来て理解できないからアヤシイ、という短絡はまさに差別意識、である。このような気持ちはきれいごとでは済まされず、追い詰められ、いらだちの募るなかで表面化してくる。

 古川の言う「住民と兵士の一丸」という情景は、たしかにあった。
 八原は、戦闘激化の直前、幕僚部だけでも30人ほど勤務する地元の女性たちに、安全地帯への疎開を配慮して「君らは最後まで軍司令部と行動をともにする気かね」と聞くと「彼女らはにっこりして、『最後まで一緒にいます』と強く答えた」という。
 これはある程度、本音であったろう。「沖縄県が本国に編入されてから日が浅く、県民には事大主義がはびこっていること、県民の国家意識と愛国心が乏しいことがなげかれている」(『沖縄戦―国土が戦場になったとき』藤原彰編著・青木書店刊)ということから、沖縄では皇民化教育が徹底的に教え込まれていた。また、現に沖縄師範学校の男子部は鉄血勤皇隊を結成、女子部は看護業務に従い、あるいはひめゆり部隊、白梅部隊が活躍した事実からもわかる。本土から流入した軍人らが思う以上に、忠君愛国の思想に染められていたといえるだろう。

 ただ、それは若さゆえに一時的な世相の流れにのったもので、大きな視野から事態を把握して判断したわけではあるまい。本心は、家族と別れ、血みどろの中に巻き込まれ、戦争の意味も冷静には捉えられずに、ひたむきに流れに乗ったに違いない。異論を述べ、逆らうことを忘れさせる「教育」の怖さの結果だ、と言ってもいい。
 現在の沖縄の基地建設にしても、目先の現実主義から一歩離れ、沖縄の歴史環境など、より大きな視点に立てば、政府の犯しつつある基地政策の誤りに気付くに違いない。軍事という問題は、ひとたびもっともらしい大義名分が立てられ、目先の利益が絡み、ひたひたと準備されていくと、そうした世論が形成され、つい引きずられてしまいがちなのだ。

*「沖縄人は日本人ではない」 沖縄を軍政下に置き、その総司令官を務めたマッカーサー元帥は1947年6月、在京の外国人記者団に「沖縄諸島は、われわれの天然の国境である。米国が沖縄を保有することにつき、日本人に反対があるとは思えない。なぜなら、沖縄人は日本人ではなく、また日本人は戦争を放棄したからである。沖縄に米国の空軍を置くことは、日本にとって重大な意義があり、あきらかに日本の安全に対する保障となろう。」と発言したという。これは、中野好夫、新崎盛暉著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)に紹介されている。

 マ元帥発言は短絡的で、論理的な説得力に欠けるが、本土から沖縄派遣の日本軍が、現地の事情や心情というものに理解がなく、誤解や差別感が前面に出たことに似て、上位の立場にあり「守ってやる」感覚の権力者にはありがちなことだろう。
 こうした姿勢はまた、今日に至っても生き残っている。本土感覚にとどまり沖縄現地の感情に通じようと努力しない為政者のありようから見出せるのではないか。

 (元朝日新聞政治部長)

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