【視点】

歴史は書き換えられる

山崎 洋(在ベオグラード)

 今回は、「歴史は書き換えられる」というテーマを考えてみたい。
 私の名前は正式にはヤマサキ・ヴケリッチ・ヒロシといい、姓が二つある。ヤマサキは母方の姓、ヴケリッチは父方の姓。父ブランコ・ヴケリッチは1933年、満州事変のあと世界の震源地となった日本に来て、ジャーナリストとして働く一方、リヒアルト・ゾルゲのソ連赤軍第四本部の諜報団の活動を手伝っていたが逮捕され、一審は死刑、上告審で無期懲役の判決を受け、1945年1月、終戦をまえに網走で獄死した。2025年は終戦80年ということで世界各国でさまざまな行事があったが、私にとっては父の80周忌という年だった。
 特高警察の尋問で、父は当初、ソ連赤軍のための活動を引き受けたと述べているが、特高は「モスクワのため」「コミンテルンのため」というように供述を誘導していく。コミンテルンに勧誘されてゾルゲの組織に参加したということと、コミンテルンのために諜報活動を行ったということとは、もちろん同じではない。ある人は、もしソ連赤軍のために活動したと言い張るなら、憲兵隊に引き渡す。そうすればひどい目にあうぞと脅迫されたので供述を変えたのだろうと言い、ある人は、ゾルゲ・グループの目的は日ソ間の戦争を防ぐことだったが、ソ連赤軍の諜報団だとなれば、両国関係が悪化する恐れがあると考えて供述を変えたのだろうと推測している。コミンテルンは世界革命を目指す組織だから、コミンテルンのために活動したとなれば、ゾルゲたちは日本の体制変革を目指して工作活動をしていたことになり、治安維持法の適用を受け、単なる国外追放ではなく、死刑を含む重罪に処することが可能になる。特高の回顧録のなかには、それを最大の成果として自画自賛する叙述も見られる。孫崎亨氏がその著『日米開戦へのスパイ』で指摘しているように、大事件として近衛内閣を退陣させ、東條内閣のもとで戦争の拡大を図ることができるわけだ。父の例は、歴史的事実の書き換えが命に係わる問題だったことを示している。私が「歴史は書き換えられる」という命題にこだわるのは、そうした背景があることを最初にお断りしておきたい。

 前回、コソボ問題を論じるなかで、「歴史は書き換えられる」の好例として、セルビアのミロシェビッチ大統領の「原罪」を挙げておいた。今回は、そこから説明する。
 私は大学を卒業するとすぐ、父の国ユーゴスラビアに留学した。いわゆる63年憲法から74年憲法体制への移行の時期に当たる。この74年憲法は、ユーゴスラビア連邦を構成する六つの共和国、それからセルビア共和国の一部である二つの自治州の独立性を強めることが一つの柱となっていた。今にして思えば、90年代の連邦解体劇の下準備になるわけだが、当時の私には、内戦によるユーゴスラビアの消滅などということは想像もできず、権力を少しでも下に移行して国の在り方を労働者・市民による自主管理の理想に近づけるのだという、公式の説明を受け入れていた。セルビアでは、自治州が共和国並みの権限を持ち、共和国議会での拒否権まで与えられることは共和国の機能麻痺と解体に繋がるとして、74年憲法案に警告を発する学者などもあったが、チトー大統領が絶対的な影響力を有していた時代、そんなことを言う人は大学の職を解かれ、裁判にかけられた。実際には、中央の統制を失ったユーゴでは急速なインフレが起る。セルビアは共和国議会や政府が機能できずに経済成長率がマイナスに転じるという危機的状態に陥ったのである。
 北のボイボディナ自治州では、ハンガリー系やルーマニア系の少数民族の間には分離主義の動きはなかったが、南のコソボ・メトヒア自治州では、それではすまなかった。数で勝るアルバニア系住民が教育制度の改革を利用して「有資格者」を量産し、多数派として自治州政府や自主管理企業の要職の独占を図る。セルビア人の幹部は「中央」への出世転出を余儀なくされる。非能率と汚職が常態となる。司法制度の独立で、法のもとでの平等が脅かされても、市民はそれまでのように共和国最高裁に控訴することはできない。保護を失ったセルビア系住民は自治州外に移住する。もっといい生活条件を求めての経済移民と説明されていたが、実際には、いわゆる民族浄化であった。1981年には、アルバニア系住民の暴動が発生したが、共和国警察機動隊は、自治州当局の許可を待って州境に留められ、介入が遅れた。セルビア系住民は何度も陳情団をベオグラードに送り、窮状を訴えたそうだが、当時のセルビアの党・国家指導部は、74年連邦憲法の採択に抵抗しなかったように、中央に気兼ねして陳情団に会う者はなく、メディアも取り上げなかった。そこに出てきたのがミロシェビッチである。
 ミロシェビッチは後に、西側のメディアで「バルカンの吸血鬼」とか「殺し屋」とかいうレッテルを貼られ、内戦の責任を負わされてハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷に送られたが、判決を待たずに獄死した。
 ミロシェビッチは陳情団に初めて会った政治家である。元は銀行家で、当時はセルビアの党のNo. 2という以外には知る人は少なかった。事情を聞いた彼は、その足でコソボに行き、もっと多くの人たちの話を聞こうとする。コソボ当局は会場を招待客で満たし、一般民衆は中に入れない作戦をとった。ミロシェビッチが現れると、外に集まっていた民衆が口々に何かを訴えようとする。当局側は警察を動員して排除しようとしたが、ミロシェビッチはこれを制止し、民衆に向かって有名なセリフを吐く。「これからは諸君を殴らせることはない」。この映像がベオクラードの国営テレビで流されて、彼は人気沸騰。共和国党委員長になり、共和国大統領になるのである。
 ミロシェビッチはポピュリズムの手法を用い、大衆動員により、分離主義に傾いていたボイボディナ自治州の幹部を交代させ、次いで、共和国憲法を改正し、教育と司法の権限を自治州から共和国に取り戻すなどの対策を取った。コソボ自治州議会のアルバニア系議員たちはこれに抗議し、州議会前に集まり、共和国からの独立を宣言した。これに対して、ミロシェビッチは自治権の一時停止を決定する。こうして、74年連邦憲法体制の枠内ではあったが、セルビア共和国の再統一が実現された。 
 日本も含めて、西側の人権団体の報告や研究者の論文を見ると、ミロシェビッチはこの時期、三つの人権侵害を行った悪者に描かれている。ひとつは、アルバニア系少数民族の自治権を奪った。次は、少数民族の言語による教育の機会を奪った。三番目は、アルバニア系の人たちの職を奪い生活を脅かした。
 このような事実はあったのか。そう、あったのだ。ただし、但し書きがつく。
 批判者の論理には、ミロシェビッチによる共和国憲法改正から、この三つの事象までの間には、アルバニア系住民の政治指導部による決定があった、という事実が抜け落ちている。欧米の政治目的のために活動している多くの人権団体はともかく、研究者としては、その資質が問われるようなミスである。
 まず、自治権剥奪について。コソボ・メトヒア自治州では、アルバニア系住民が多数を占めるが、他の民族もいる。自治州の自治権は、彼らの権利でもあることを忘れてはならない。セルビア人は共和国の主要民族であり、ユーゴスラビア連邦の構成民族でもあるから、これを自治州当局が少数民族として扱うのは乱暴な話だが、その他にもトルコ人、ロマ人(ジプシー)、イスラム系セルビア人を自認するゴラン人などがいる。彼らは、自治権剥奪に抗議していない。むしろアルバニア人の数の暴力や、それに伴う経済発展の遅れの方が心配だった。ボイボディナ自治州の少数民族もミロシェビッチの共和国憲法改正に抗議しなかった。したがって問題は、なぜアルバニア系住民の政治指導部だけが反対したのか、ということだろう。多くの研究者が、反対して当たり前だと考え、時として暴力的な形をとる分離独立志向やバルカン情勢全体に関わる大アルバニア主義の影響などを軽視していた。もちろん、国際法上の問題、すなわち、欧州の安全保障のために、少数民族には自決権が認められないことがすでに定められていたという事実も、無視していた。
 セルビア共和国の憲法改正によって少数民族の言語による教育がなくなったというのは誤りである。カリキュラムの整合性が求められたのだ。私は1991年、コソボの教育事情の取材に行き、セルビア人、アルバニア人、トルコ人の教師に話を聞いた。トルコ系少数民族の教師は、共和国のカリキュラムには問題はない。むしろセルビア語の時間が週2時間では足りず、トルコ系の子弟は土地の上級学校への進学が難しいのでイスタンブールに行ってしまい、人口流出の一因となっていると語った。アルバニア人の教員は、教育の一元化は連邦憲法に反するとしたうえで、「新教育課程ではアルバニア人の民族的存在にかかわる変更が多い」と、拒否の理由を説明した。理科系の科目に問題はないだろうから、人文系、とくに言語と歴史の問題であろう。アルバニア系住民の政治指導部は、共和国文部省との交渉ではなく、ただこれを不当として、別個のカリキュラムによる教育を選択した。なぜか。「歴史の書き換え」を目指したからである。アルバニア系の教師・生徒は学校から姿を消した。しばしば破壊された校舎を残して。彼らは、セルビア共和国との接点をなくすために、ある種の寺子屋教育を選択したのである。こうした事実も、いわゆる専門家の視点から抜け落ちている。
 最後に、失業の問題。自治州の公的機関や自主管理企業に勤務する人は、民族を問わず、共和国の法律を順守することが求められていた。役所に提出する書類の種類や書式も統一されていた。しかし、アルバニア系の人たちが要職を独占するようになってからは、問題が深刻になる。アルバニア語はセルビア共和国では公用語の一つなので、アルバニア語を用いることは問題ないが、法律や規則を守らなくてもいいということではない。ミロシェビッチ改革により司法・警察が共和国の権限に戻ったので、現状を把握するために、ベオグラードから人が派遣された。彼らはどのような問題に直面したのか。最初に気がついたことは、街中をナンバープレートのない車、未登録車が走っていたことだそうだ。裁判所に派遣された判事は、山積みになった未決書類を前に途方に暮れたという。そこで、非常手段として、すべての自主管理企業の従業員と公的機関の職員に法律順守の誓約書にサインさせることにした。サインしなければ失職というわけである。結果はどうだったか。ほとんどのアルバニア人が自分たちだけにサインさせるのは差別だとしてサインを拒んだのである。上から指令があったとしか思えないほど足並みが揃っていた。会社や役所が支給した住宅の居住権も失うぞと脅しても、だめだった。家から出ていく。闇の政府が補償したのだろうか。これが大量失業の実態である。
 なぜアルバニア系住民の政治指導部は、自民族に多大な犠牲を強いるような決定をあえて選んだのか。勝算なくしては難しい。コソボ自治州でアルバニア系住民による最初の暴動が発生したのは1981年で、ユーゴスラビアの統一の象徴だったチトー大統領が死んでわずか1年だったことを思い出してほしい。デモ隊のスローガンには「コソボを共和国へ」というのがあった。セルビアからの分離である。このころ、欧米諸国では、「ポスト・チトー」のユーゴスラビアをどうするかが盛んに議論されていた。アメリカは市場経済や複数政党制の導入など、社会主義体制の「軟化」を考えていたようである。「解体」のアイデアは、ドイツから出たらしい。ユーゴスラビアは、第一次世界大戦におけるセルビア王国の勝利と、ドイツ人の二つの帝国、ドイツとオーストリアの敗北・解体の結果として生まれた。東西ドイツの統一までにはまだ10年あったが、そのプロセスと並行して報復主義のうねりが見られる。いわゆる「ベルサイユ体制」清算の一環として、二つの連邦国家、ユーゴスラビアとチェコスロバキアの解体プランが水面下で検討される。南スラブ諸民族再統合の可能性を事前に排除するためには、内戦と流血による解体が望ましい。その中で、第二次大戦中のナチス・ドイツのように、コソボのアルバニア人がキーになると考えた人たちがいて、支援を約束していたとしても不思議ではない。約束しただけではない。ドイツ的な几帳面さをもって、実行したのである。
 ミロシェビッチの原罪は、ユーゴスラビア連邦の解体に反対したことに由来する。
 セルビアは、第一次大戦で人口の三分の一を失いながら勝利をおさめ、独立と主権を護り、それを担保にオーストリア帝国の支配下にあったスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを解放したという誇りがある。それを言うことは、チトー時代には、「民族主義」の発露として禁じられていたが、ミロシェビッチは解禁した。社会主義時代に連邦の在り方に批判的であるために時として弾圧の対象だったセルビア科学芸術アカデミーやセルビア正教会とも和解する。銀行家としては、市場経済の道を選ぶにあたって、小国の乱立より連立、つまり、カネ、モノ、ヒトの自由な移動を保証する少しでも大きな市場を確保することの重要性を理解していた。少なくとも、発足当時の欧州共同体(EC)レベルの関係を構築することが成功の鍵になると主張していた。ただ、「産湯とともに赤子を流す」ことがないように、社会主義の成果である社会保障制度を残し、北欧的福祉国家を目指すことを考えていたが、この点は、社会主義の「社」の字も見たくないアメリカの「ショック療法による短期間での改革」という路線と対立するものがあったかもしれない。ミロシェビッチはセルビア国民の絶大な支持を受ける。セルビアとモンテネグロは、一連の自由選挙で唯一、共産主義者同盟の後継政党が勝利した共和国だった。「チトー後」の連邦解体を目指していた内外の勢力の怒りを買ったのも、無理はない。
 名前は挙げないが、ある日本の研究者はミロシェビッチについて、「ユーゴ連邦の支配をもくろみ、その一環としてコソボ自治州をセルビア共和国に併合しようと考えた」と書いている。ユーゴ連邦の維持または改革と言わずに「ユーゴ連邦の支配」と言う。自治州の再統合または共和国の再統一と言わずに「併合」と言う。そうした穏やかならぬ表現は、ミロシェビッチの発言にはなく、論拠や出典も明記されていない。多分にユーゴ解体派の見解に影響された著者の偏見によるものであろう。真実は苦い。嘘は甘い。事実の粉を少し混ぜると、嘘はもっと甘くなる。だが、大きな事実を欠く嘘はすぐ腐る。研究者諸君には、まず偏見を捨てることを求めたい。私が引用した研究書そのものは力作であり、参考になることが多かっただけに、残念である。

 先日、日本の雑誌を見ていたら、『平和について、あるいは「考えないこと」の問題』と題した論考が目に入った。東浩紀という著者は内戦後、三民族に分断されたボスニアを旅し、隔離の平和は単純だが、不愉快な隣人が常に目に入る共生の平和には、「考えないこと」が大切だと主張している。隣人が常に不愉快に見える状況が何世紀も続くというのは、私には想像できない。平和時には、隣人は嬉しい存在なのに違いない。だから、平和は何世紀も続き、戦争は数年で終わる。著者はさらに「考えない自由を守るため、だれかが裏方として考え続ける必要がある」とも言っている。それが自分のような知識人の仕事だと言いたいのか。それとも、裏方はワシントンにいると言いたいのか。驚くべき発言である。平和に必要なのは私たち一人ひとりが「考えること」、正確には「記憶すること、そして赦すこと」なのではないだろうか。
 論考には、もう一つ、奇妙な一節がある。「ユーゴスラヴィアが実現したはずの多民族共生は、のちにセルビア民族が支配する偽の平和だったと読み換えられた。そして内戦が起きた」というところ。だれが読み換えたのか。それが内戦を引き起こした犯人だろう。著者は「旧ユーゴスラヴィアではセルビア人が権力を握っていた」と断言しているので、セルビア人の被害者意識がナショナリズムに転化し、共生の平和を壊したのではないということになろうが、論考は別の結論、セルビア悪玉論に読者を導こうとしているようにみえる。それも、「西側のメディアでは、セルビア人が加害者だという構図が広く受け入れられている」からという理由で。明らかな矛盾である。なぜ矛盾が生じたのか。すべては、先に引いた「旧ユーゴスラヴィアではセルビア人が権力を握っていた」という、「読み換えられた」真実に原因がある。
 私がチトーのユーゴスラビアに留学した当時、よく聞いた言葉がある。「弱いセルビア、強いユーゴスラビア。強いセルビア、弱いユーゴスラビア」という。その逆、「強いセルビア、強いユーゴスラビア」というのは無かった。つまり、チトー政権は、一貫してセルビア共和国を相対的に弱い地位に置くように努めたということである。もちろん、東西両陣営の狭間にあってユーゴスラビアの地位を強化するためには、完全に弱いセルビアではいけない。セルビア民族はユーゴスラビアで最大の人口を擁し、第一次大戦でも、第二次大戦でも、侵略者に対する抵抗の担い手は主としてセルビア人であり、他の民族はおおかた侵略者の側についていたのだから。
 ナチスの侵攻を受けた時、セルビア人の解放運動は、ユーゴスラビア王国の再建と継承をめざす王党派のチェトニクと、社会主義革命を目指すチトーのパルチザンの二派に分裂していた。ドイツ軍との戦闘を避け、傀儡政権やコムニストとの戦いを優先させたチェトニク運動は、解放戦争を内戦に転化させ、国民の支持を失い、解放戦争の主導権はチトーの人民解放軍に移っていく。人民解放軍の兵士の8割がセルビア人だったといわれる。政権を握ったチトーは王制を廃し、チェトニクの抵抗組織としての正統性を否定し、クロアチアの親ナチ勢力ウスタシャと同列に置き、反革命勢力として粛清の対象とした。ウスタシャによるセルビア人虐殺は、「一握りのウスタシャ」による事件として軽視する方針をとった。犠牲者の慰霊や埋葬さえ認められないケースが多かった。「考えないこと」が平和の道とされたのである。ユーゴ連邦の構成共和国のうちセルビアにだけ、少数民族地域に二つの自治州を設け、自治州の権限を一貫して拡大することで共和国政府の影響力を制限する政策をとった。チトー時代の末期にはセルビア共和国は事実上、三分化され、憲法に規定のない「自治州を除くセルビア共和国」の政府・議会は機能不全に陥った。セルビア人が唯一、影響力を持ったのが連邦人民軍であった。ナチスとの戦いの主力だったからである。だが、軍の上層部は、当然のことながら、チトーに忠実な人たちが占め、連邦軍を通じてセルビア民族の政治的影響力が増すことはなかった。今回の内戦の時期でさえ、例えばクロアチアやボスニアでセルビア人の村が攻撃を受けても、連邦軍は兵舎から出ず、自分たちが攻撃されて初めて反撃するという原則を守っていた。外国からの侵略に対する場合とは違って、国内で戦闘態勢に入るには連邦レベルでの非常事態宣言が必要で、その権限を有する連邦幹部会は機能しなくなっていた。セルビア共和国大統領の要請や命令で出動するわけにはいかない。 
 これが「旧ユーゴスラヴィアではセルビア人が権力を握っていた」という説の実態である。見事な「読み換え」。なぜそれが可能だったのか。私の想像だが、ヨーロッパの言語では、国の名前の代わりに首都の名前を使うことが普通だからである。ベオグラードはセルビア共和国の首都だが、連邦の首都でもあり、チトーを戴く党と政府の中心であった。だから「旧ユーゴスラヴィアではベオグラードが権力を握っていた」とは言えるだろう。連邦の解体が進むにつれ、権力の主体がチトーからセルビアへと読み換えられる可能性があり、「裏方」が意図的に情報操作をしたと考えれば、説明がつく。

「歴史は勝者がつくる」という言葉がある。勝者は歴史的事実のさまざまな読み換えを行って、自らの行為を正当化し、権威付けをする。情報技術が進んだ現代では、メディアを支配する者が強者で、「歴史は強者がつくる」とさえいえるようになった。つまり、勝者となるために、事実を書き換えるという方法が取られる。『山崎洋仕事集』の帯に「戦争は真実が死んだときにやってくる」とあるのは、その意味だ。
 一例をあげよう。クロアチアでは、1991年に始まる内戦について、「セルビアによる侵略」という表現が用いられている。「当時のセルビアのミロシェビッチ大統領は大セルビア主義者で、セルビア人の住むすべての地域を統一して新国家を作ろうとした。そのためにクロアチアやボスニアで戦争を起こした」というのだ。クロアチアの歴史の教科書にもそうした記述があり、連邦軍とクロアチア軍の衝突を見てきたクロアチア人、とりわけ戦争を知らず、話を聞いて育っただけの若い人たちにとっては、疑問の余地のない事実とみられている。
 ところが、資料によると、セルビアによる侵略の事実はない。内戦が始まったころ、ベオグラード駐在のアメリカ大使が時のクロアチア大統領を訪問したときの模様が大使の回想録に書かれている。トゥジマン大統領は「クロアチアは連邦軍を攻撃することにした」と言ったそうだ。そうなればクロアチアに住むセルビア系住民とクロアチア警察部隊との小競り合いは本格的な戦争になってしまう。大使が心配してそう指摘すると、大統領は、「その場合には米軍が介入するとの約束を得ている」と言ったそうである。大使がそんなことは聞いていないと言うと、大統領は「私の方が大使閣下よりもワシントンの政治情勢に通じているようですね」と笑った。実際、その後、クロアチアは領内の連邦軍兵舎を包囲し、攻撃する。米軍はすぐには介入せず、連邦軍の反撃を受けたクロアチア側は甚大な損失を被った。当時、クロアチアは独立国ではなく、連邦の一部であり、連邦軍は唯一、法律で認められた軍隊としてすでにクロアチア領内に駐屯していた。共和国国境と軍管区の境界は一致しておらず、連邦軍の部隊は必要に応じて共和国国境を越えて、所轄の軍管区内を移動することができた。つまり、内戦は「セルビアによる侵略」によって引き起こされたのではないのである。
 もうひとつの資料は、1995年の夏、クロアチア軍がセルビア系住民の居住地域に総攻撃をかけ、2000人以上の住民を殺し、20万人を難民としてクロアチア領外に追い出した「嵐の作戦」に関わるものである。トゥジマン大統領は命令の中で、避難民が二度と帰還できないような打撃を与えることを求め、作戦が5、6日で終了することを条件に米軍とNATOの許可を得ていることを明記している。作戦が長引くと、セルビアの介入を引き起こす恐れがあるというのだ。この時点でも、「セルビアによる侵略」はなかったことが分かる。
 ついでに言えば、その当時、この地域は「セルビア人クライナ共和国」と呼ばれ、セルビア系住民が支配し、国連軍が駐留する国連保護区に指定されており、国際社会の監視のもとに帰属を問う住民投票を行うかどうかが議論されていた。クロアチアのセルビア系住民は少数民族ではなく、連邦構成民族でもあったから、自決権があった。ドイツは住民投票の可能性を潰すためにクロアチア独立の承認を急ぎ、セルビア人を「国外に母国をもつ」少数民族にする作戦をとる。後にハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷は、作戦の指揮官について、一審は有罪とするが、再審で無罪の判決を出した。裁判長の説明によれば、20万人の人を危険な戦場から安全に脱出させ、しかも二度と戻らないように手当をせよという大統領の命令はヒューマニズムの表れであるというのだ。私の母は、ゾルゲ事件の裁判の経験から、弁護士を信用せず、サギカラベンチャンと呼んでいた。サギをカラスと言いくるめる弁護人という意味だ。判事にも、サギカラハンチャンがいるらしい。その裁判長はアメリカ人だった。「歴史は強者がつくる」のだ。
「歴史は書き換えられる」という事実は、紛争当事者が自分の無罪を主張するために事実を読み換えるという意味では、今述べたクロアチアだけではなく、ボスニアやコソボでも日常、見られる現象である。場合によっては、書き換えられた歴史の批判や否定が犯罪とされる場合もある。民族感情の対立を煽るというのだ。先日もコソボのある村で、紛争中にコソボ解放軍に拉致され虐殺された村人の慰霊祭があり、ベオグラードから出席した人が犯人をテロリストと呼んだのが違法であるとして、コソボ警察に逮捕される事件があった。殺された側の人たちも殺人者を「独立の英雄」と呼ばなければならないということだろうか。

 ユーゴ解体によって新たな独立国が生まれたため、民族的アイデンティティーの問題が生じており、そこが「歴史の書き換え」の最も「実り多き」分野になっている。ヨーロッパでは、現代の国家は民族国家とか国民国家とか言われ、新たに作られた国家は、何らかの民族的基盤を有することを証明する努力を強いられる。古代や中世に起源を求めることが多い。ウクライナで民族主義の風潮が高まり、ロシアとの対立が深まる過程で、新しいウクライナ史が書かれ、国名について新解釈が出され、ナチスの協力者として非難されてきた人たちが英雄とされるのを、私たちは見てきた。ユーゴ解体の過程でも、同じ現象が見られた。旧ユーゴ地域に住む民族のうち、歴史的な起源をもつのは10世紀のビザンチン帝国の史書にも出てくるセルビア人とクロアチア人だけである。どちらも語源に諸論があり、はっきりしないのは、それが古い名前であることの証拠だろう。後はみな、モンテネグロやマケドニアのように定住した土地の名前とか、スロベニアのようにスラブ人一般を意味する名前を民族名にしている。
 大変なのはコソボのアルバニア人とボスニア・ヘルツェゴビナのボシュニャク人である。
 アルバニア人というのはもちろん、アルバニアに住む民族で、コソボ土着の民族ではない。中世セルビア王国の修道院に寄進された荘園の住民表や、それに続くオスマン・トルコによる占領時代初期の国勢調査の結果を見ても、アルバニア系民族の存在は確認できない。地名の研究でも、「コソボ」(ツグミの原)をはじめ、古い地名にはスラブ語起源が多く、ローマ帝国時代の地名のスラブ訛りもみられるが、アルバニア語起源のものはないという。アルバニア人という言葉は、2世紀のプトレマイオスの『地理学』にアルバノポリスの地名があり、それが起源かと思われる。イリュリア人の町とされているが、イリュリア人はアドリア海沿岸部に広く住んでいたとされる原住民で、ローマ帝国に滅ぼされた。19世紀のロマン主義の時代に西欧の研究者がローマの記録したイリュリア語の単語がアルバニア語に類似していることから、アルバニア人の起源はイリュリア人だとした。そこからアルバニア人はスラブ人がバルカン半島に来るずっと以前からこの地に住んでいた原住民で、コソボ地方についても本来、権利を有するという考えが19世紀の覚醒期のアルバニア民族主義者に受け入れられることになったのである。けれども、2世紀のイリュリア時代から中世にアルバニア人が登場するまでの800年の空白を埋める史料も発掘品もなく、この説は政治的に利用されただけで終ったようである。
 最近は、さらに古く、コソボ地方にも勢力を有していたとされるダルダニア人をコソボのアルバニア人の祖先とする説も出されている。19世紀にオーストリアの外交官が唱えた説で、その根拠は、この地方の特産である梨をアルバニア語でダルダというから、だそうだ。オーストリアは時の超大国。「歴史は強者がつくる」といっても、ここまでくるとついて行けない。ベオグラードの新聞によれば、コソボでは、スラブ語起源の国名はふさわしくないので、ダルダニアという国名に改めるための署名集めまで始まっているとか。面白いのは、アルバニア人自身は自分たちをシチプタル人と呼び、アルバニア人というのは外向きにしか使わない。でも、セルビア人が訛ってシプタルと呼ぶと、蔑称だと言って怒る。どうなっているのだろう。
 生みの苦しみはボスニアのイスラム教徒ボシュニャク人も同じである。ユーゴスラビア六共和国のうち唯一、民族名をもたない国がボスニア・ヘルツェゴビナだった。中世にはボスニア王国というセルビア人の国があった。民族大移動で南下してきたセルビア人の一部が本隊から別れ、ドリナ川を渡ってボスニアに入り、ネレトバ川沿いにアドリア海岸に出る。一部はモンテネグロからアルバニア北部に達する。
 よくドリナ川は東西ローマ帝国の境界で、ここで東の世界と西の世界が分かれると言われるが、これも「歴史の書き換え」の一つだろう。西ローマ帝国は476年には滅び、バルカン全体が東ローマ、つまりビザンチン帝国の版図に入っていた。同じセルビア民族が住む両地域の違いを強調して、民族の分断を図る試みではないかと思われる。たしかに明るいセルビアの山や森とは違い、ボスニアの森は暗く、山は深い。人間の性格にも影響が出るだろう。当時の交通事情を考えれば、この地で統一国家を作り維持するのは難しい感じがする。しかし、中世セルビア王国の隆盛に刺激され、ボスニアでも国づくりが始まる。そして14世紀にセルビア王家が途絶えた後は、ボスニア王がセルビア王をも称していた。やがてボスニアはトルコに征服される。トルコは西欧に対する前進基地としてボスニアの経営に力を入れ、住民のイスラム化を図った。改宗者は兵役の義務を負う代わりに年貢を免除され、帝国の行政を支える、いわば支配階級になる。領主としてベイ、パシャなどの称号を与えられ、人によってはオスマン帝国の大宰相の地位まで上り詰める。改宗を拒む者は農奴になるが、西欧と違ってある程度の自治と、一定の制限のもとではあるけれど、信仰の自由が保証される。セルビア人は宗教を基準にして二つの集団に分けられることになった。
 19世紀にセルビア本国で独立を求める対トルコ蜂起が起こると、ボスニアのイスラム教徒も動員され、セルビアの蜂起軍と戦う。同じセルビア人同士の戦いは、こうして始まった。トルコの衰退とともに、ボスニアはオーストリア帝国に併合された。カトリック教会の影響力が強まり、クロアチア人が第三の民族として重要性を増した。イスラム教徒は、一部はトルコに逃げ、一部は領主から地主へと姿を変えて支配階層の地位を守ろうとする。オーストリアはこれを利用して、セルビア人が農地改革を要求しているとしてイスラム教徒がセルビア人に対して反発するように仕向け、あるいは隣国セルビアの民族解放運動がボスニアのセルビア人の民族意識を刺激しないようにセルビア語という名称を廃止してボスニア語と呼ぶとか、セルビア語の雑誌・新聞を廃刊にするとか、イスラム教徒向けに『ボシュニャク』という新聞を出し、自分たちは改宗したセルビア人ではなく本来のボスニア人なのだという意識を植え付けるとか、さまざまな施策を行った。「ボスニアのセルビア人は独立を獲得したセルビア王国のセルビア人の一部である」という主張は、犯罪とされた。
 興味深いのは、現在、公式に通用している「ボシュニャク人」とか「ボスニア語」とかいう言葉が、トルコ帝国に替わったオーストリア帝国の占領政策の一環として用いられていることである。新語ではないが、一般化することのなかった用語である。「ボスニア語」は17世紀には存在した概念だが、民族とか国民とかの意識のない時代のこと、ボスニア地方の言葉という意味であった。「ボスニア人」も同じで、ボスニア地方の生まれを意味し、イスラム教徒が自らの民族名として用いることはなかった。トルコ時代にはボスニアのイスラム教徒はトルコ人を名乗ることが多く、本来のトルコ人はオスマン人と呼ばれていたようだ。チトー時代には、私の知る限り、トルコ人というのは蔑称とされ、イスラム教徒はムスリムと呼ばれていた。やがて「民族としての」という注が付くようになる。チトー政権は、イスラム教徒が最終的に「改宗したセルビア人」の意識を捨て、独自の共和国および連邦構成民族として、セルビア人と一線を画するように働きかけたのであろう。チトー後の連邦解体の動きの中で、ボスニアのイスラム教徒の間にも独立を求める声が出てくるが、そのリーダーの一人だったズルフィカルパーシッチが、ある対談の中で、ムスリムの民族名として、昔の言葉だがと断った上で、「ボシュニャク人」を提案しているのを見たことがある。内戦が終わりデイトン合意による和平が実現した時にはすでに、「ボシュニャク人」の呼称が一般化していた。
 内戦を主導したムスリム勢力の指導者アリヤ・イゼトベゴビッチは、西側では「宗教と民族の多様性を尊重する民主的指導者」ということなっているが、チトーの死後、1983年に『イスラム宣言』というパンフレットを出し、「イスラム教徒が多数を占める国は、暴力によってでも、イスラム教国とするべきである」と主張して、刑務所に入っていた人である。内戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領になるとすぐ再刊したところを見ると、主張は変えなかったのであろう。欧米の支援を受けながらも、セルビア人勢力の抵抗に遭い、目的を果たさずに亡くなったが、彼の後継者はその政策を継承し、セルビア人が血の代価を払って獲得した「セルビア人共和国」の解体を目指している。ボシュニャク人が多数を占めれば、イスラム教国を宣言するだけでなく、ボシュニャク人の国だからボスニアで、その逆ではないと言い換えるのではないだろうか。 

 以上、見てくると、ユーゴ内戦から現在まで、「歴史の書き換え」が盛んに行われ、そのすべてが「セルビア人に反対する」「セルビア人が損をする」形で行われていることに読者は気づくだろう。その過程がクロアチア、ボスニア、コソボと、並行して進んでいる。まことに「歴史は繰り返される」のだ。バルカンの小民族やその短命の指導者たちの手に負える仕事とは思えない。先にも述べた「強者」の、あるいは「裏方」の考え出したことではないか。
 ここで私のユーゴ留学時代からの親友である岩田昌征氏が引用しているドイツの政治家ウィリ・ウィムメルの発言を引いておく。NATO空爆の翌年、2000年にアメリカとスロバキアで開催されたNATO加盟国の会議に出席したあと、時のドイツ首相に書き送った手紙だそうだ。曰く、「NATOはローマ帝国の最盛期の様に、バルト海からアナトリアまで空間的に拡大すべき」で、「その間にある東欧諸国を取り込むが、セルビアは欧州的な発展から恒常的に排除する」。また、「コソボを国家承認する」、「セルビアは国際社会から追放する」とも述べている。政治方針というより、憎悪の発露である。第一次大戦、第二次大戦とバルカンの小民族に敗れたドイツが、統一を機に、報復主義に駆られて歴史を書き換えようとしている。そんな印象さえ受ける。それが私たちに代わって考えてくれている裏方さんだとしたら...
 最後に、読者の皆さんには、「考えないこと」ではなく、平和のために一人ひとりが「考えること」をお願いして、本稿を閉じさせていただく。

(2026.1.20)
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