落穂拾記(21)                     羽原 清雅

様変わりの最近メディア事情

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 先日、毎日新聞、NHKの編集幹部から最近のソーシャル・メディアをめぐる
問題について、5、60人の元新聞記者たちとともに聞き、かつ質疑する会合があ
った。
 記者生活を離れて10年余、この世界の状況がすっかり変わって、浦島太郎の心
境を感じながらも、これからのメディアのむずかしさに思いを新たにさせられた。

 そこで、会合の流れからいささか離れるところもあるが、私見を交えつつ、な
にか一助になればと思い、いくつかの課題と現状を報告したい。

■匿名問題■■

 先のアルジェリア人質事件のさい、死亡された人たちの氏名を当事者企業の日
揮は異例にも公表しなかった。政府はあとになって発表した。

 毎日新聞のこの幹部は、ツイッターに「亡くなった方のお名前は発表すべきだ。
それが何よりの弔いになる。人が人として生きた証しは、その名前にある。人生
の重さとプライバシーを勘違いしてはいけない」とつぶやき、先の東日本大震災
以来、岩手日報が被災者名、写真、生前の営みの紙面化を続けておおいに好評で
あること、日航ジャンボ機墜落事故で匿名だったら記事も書けず、どんな記事に
なっていたか、といった経験があることなどから、実名の必要を説いていた。

 ところが、ツイッターは炎上して、「匿名が当然」といった書き込みが相次い
で寄せられたという。この毎日記者は、取材の過熱化のメディアスクラムを避け
つつ節度ある取材に努めるという報道各社の申し合わせも説明している。

 匿名か実名か、は古くて新しい課題だが、メディアは基本的に実名主義を採り
続けている。「事件被害者の氏名は公共の関心事」で、もし匿名になれば取材自
体もできず、事件事故の背景、その事態のもたらした社会的影響や教訓を考えた
り、警戒や再発防止の関心を持ってもらったりすることはできなくなる。そんな
ことを認めたら、社会は進歩していかない、といった思いがある。

 実名報道のために行き過ぎた取材による迷惑、人権的被害が生じ、メディア自
体への不信が広がったのも事実で、この点はまだ改善の途上にある。ただ、この
メディアスクラムの問題は切り離して考えた方がいい。

 問題は、個人情報保護法が2005年に施行されて以来、学級や町内会の名簿まで
なくすという、誤った過度の規制ムードが広がり、また官公庁なども便乗的に情
報を抑制するなどの環境が出来てきたことだ。そうした風潮が定着したことから、
マイナス面も顧みられずに「匿名が当然」といった状況が出来上がってきたきら
いがある。

 さらに、ビートたけしのフライデー襲撃事件(1986年)以来、それまでの好奇
心から「のぞく時代」という加害的な感覚から、被害者的な「のぞかれる時代」
への感覚の質的変化があったので、匿名志向が強まったのではないか、との分析
も示された。

 ほかに、出席の元記者から「カオ写真取りなどは記者のトクダネほしさ、功名
心に過ぎない」との意見も出ていた。しかし、その一面は否定できないにしても、
いかに実態を伝え、考える材料を提供するか、といったメディア本来の使命を見
失うべきではない、との立場が会場大勢の空気のように思われた。

■不可欠になったソーシャル・メディア■■

 ツイッターやフェイスブックなどはいまやジャーナリズムにとって欠かせない
道具となっている。NHKにはネット情報部というセクションもできたという。
従来のテレビやラジオと異なり、情報を集めるとともに、情報を流すという双方
向の機能が有効、と見る。

 若者の情報源はテレビから離れてツイッターなどに傾き、テレビ視聴は50代以
上、といった状況になってきている、と報告された。また新聞記者のほうも、記
事を書く前にツイッターに簡単なメモをつぶやくなど、通信社顔負け、あるいは
テレビ画面を見るよりもツイッターなどの方が早く、要点を押さえた情報が流れ
るほどだ、とも説明された。

 また、新人の新聞記者は入社時前からフェイスブックを持ち、すでに一定のフ
ォロワーを擁しており、その感覚は客観、公正などの従来の記者としての姿勢よ
りも、外的なそちらの意見や流れに目が向きがちだ、ともいう。ということは、
記者の感覚は社としての判断や姿勢よりも、活字にあまり触れず、新聞の読者に
なりにくいような若者の感覚が重視されて、記事が生まれてくる、ということな
のか。

 ただ、情報をこうしたソーシャル・メディアから得たり、個人的に利用したり
するのはいいが、その内容を記者業として流す、使うとなると逡巡するものがあ
る。

 また、新聞記者たちがツイッターやフェイスブックに書き込む内容は個人の見
解か、社としての方針か、というきわどい問題も根幹にある。これは、記者自身
の自覚や社としてのルールもあろうが、問題になるケースも出てくるのではない
か。「事実」中心の雑報にはそれほどのことはないとしても、「論評」を伴うよ
うな記述になる場合、どうか。新聞記者はその基本として、雑報と論評は切り離
す、という姿勢があるが、これが崩れるとなれば影響は大きい。

■「民意」はつかめるか■■

 この会合では、朝日新聞でツイッターの全量分析を試みた現役記者が、問われ
て説明してくれた。

 選挙や震災について、どのようにつぶやかれているか、ポジティブの反応かネ
ガティブか、などツイッターを分析して「民意」の所在を探ろうとしたが、ヴァ
ーチャルとリアルとは異なり、「民意」は見えなかった、という。かつて新聞が
「民意」を作っていたこともあったが、個人の判断はそのアイテムを好むのか、
選ぶのか、べき論としてなのか、感情論としてかなど、民意はひとつに絞り込め
るものではなく、しかも日本語は反語などの言い回しもあって難しいのだ、とい
う趣旨の説明があった。

 要は、民意は多様化し、流動化しており、なにが民意かわからない、というこ
とだった。
 ネット選挙の導入も検討されているが、ウェブと向き合うことはそれをどのよ
うに扱うかが問われている、ということなのだろう。

■「社論」と記者個人の見解>■■

 先にも触れたとおり、新聞には「社説」という「論評」するうえでの基準のよ
うなものがある。社説は事実やデータを中心に「雑報」を書く記者たちを必ずし
も拘束するものではないが、社論は大切である。

 しかし、先に触れたように、ツイッターに自分の意見・見解を書くとなると、
個人と新聞社の考え方の違いをどのように捌いたらいいか、という問題になる。
記者個人の考えが、あたかも新聞社としての見解のように考えられては困る。

 とはいえ、これだけ世の中のものの見方が多様化しているなかで、ひとつの社
論にすべてを集約することにはムリがあるし、個人の考えを押さえ込んでいいの
か、という問題もある。
 報道界もそんな風潮に流されるままでいいのか、という問いかけでもある。

 たしかに新聞社の社論は、20人余の各分野で経験のあるベテラン級の記者たち
による長時間の合議によって生まれている。しかし、異論を説く記者は最初から
除外されてはいないか。あるいは、多様な意見が混在する社会にあって、ひとつ
の見解に集約させること自体、ムリなのではないか、との見方も少なくない。
 そこに、記者や論説委員のパーソナルな意見を出すべきではないか、新聞社が
個人の意見を拘束する時代は終わっているのではないか、といった見解が出てき
ても不思議ではない。

 しかし、バラバラの意見をバラバラに載せる意味はあるまい。むしろ、ひとつ
の指針について説得力が持てるものかどうか、その是非、可否、その論拠などの
議論を展開して見せるところに意味があるのではないか。日本の新聞の歴史から
すれば、そのほうが筋は通る。つまり、論説委員たちの論議を一本化する以前の
実態や、論議のプロセスをもっと見せてはどうか。あるいは、すでに一部で行わ
れているように、論説委員個人の、いわば少数意見をもっと掲載していいのでは
ないか。読者たちはその判断の力を持っている。

 物事を決めるにあたって、結論はもちろん大事だが、そこに至るまでのプロセ
スを知らせて、多様な意見や材料を見つめつつ読者たち各個人のチェックに晒す、
という機能が大切だろう。それは、論説記者たちを磨くことにもなる。

■ワンフレーズ・ポリティックスでいいか■■

 小泉政権時代の反省のひとつに、シングルイシューの選挙、ワンフレーズ・ポ
リッティックスの過ちがある。たとえば「改革なくして成長なし」「聖域なき構
造改革」など得意としたフレーズも、政治の論議をせず、見出しだけの表面的な
イメージで終わらせてしまい、あとは多数支配の論理で押し通してしまうという
マイナス面があった。

 最近の国政の動きを見ると、小選挙区制という人為的な仕組みによって、ふた
つの党に権限を集中させることで、大した議論も見せず、単純化して結論・方向
を打ち出しやすいようにしている。説明や説得の言動を惜しんで、数で結論を出
しやすいシステムに追い込んでいる。
 この政治の動きと同じようなことが、ツイッターについても言えるのではない
か。

 ツイッターは140字である。この短い表現では結論しか言えない。反論するに
しても、短いから簡潔な発言、ないしは悪口などの感情表現だけになりかねない。
しかも匿名であり、いい加減なもの言いも決して少なくない。これでいいのだろ
うか。
 「酒を飲んだ時、夜はツイッターはやめる」というセリフが会場から出ていた
が、興奮しがちだったり、気が緩んでブレーキのかからなかったりする時間帯は
発信するな、という経験則はもっともだろう。

 テレビは時間が制約されるために結論だけを強気でいえる人の勝ちということ
だし、ツイッターもまた結論のひと言だし、しかも匿名ですむからインチキや虚
偽、あくどい攻撃も流れてしまう。そうなると、ムード化、単純化、言葉だけの
応酬が定着して、議論をしてそこから判断材料を考えるという手法は消えてしま
う。
 短い意見表明の場では、説明が十分行き届かず、論争も思うに任せず、結局は
多数議席を持つ側や、強気に自己主張のみを繰り返して攻勢に出る方向に流され
ていく、ということでもある。そうなると、長期にわたるような見解は示しきれ
ず、可否の討議が消化不良のまま通過し、弱い立場の声は生かされない、という
ことにもなりかねない。小泉的な多数支配の手法がまたも一般化していいものだ
ろうか。

 論議は、あれこれ見て、感じて、比較して、短期と長期のプラスマイナスを考
慮して、内外の趨勢とも勘案して、犠牲者や少数者がどうであるかといった点に
ついても配慮するためにある。

 ソーシャル・メディアの存立は、そのなかで行われる論議がどのように展開さ
れるかによる。結論は出にくいとしても、少なくとも是か非か、善か悪か、白か
黒か、の二者択一で決めるべきではない。流れは一定の方向に流れていくとして
も、その影響や対応を吟味しなければなるまい。

 ツイッターをやらず、フェイスブックに関わることもないので、時代に取り残
されていくような実感はあるが、メディアはものごとの可否をおおいに議論して、
そのプロセスを見せつつ、柔軟に試行錯誤して進むべきだろう。
 新たなツールが台頭していく状況のなかで、そんなことを考えさせられる会合
であった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長、元帝京大学教授)
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