【コラム】大原雄の『流儀』

楕円という世界観 ~歌舞伎の「危機管理」・考~

大原 雄

緊急事態宣言下の東京都から毎日公表される、新たなコロナ感染者の数は、最近でも、1日当たり300人とか500人とかいう数字で知らされる。マスメディアの多くは、NHK、大手新聞社を含めて、行政の発表通りのやり方で、数字の字面を伝えるだけ。第3波の感染者数が、ピークを越え「右肩下がり」になってきたとはいえ、数字の持つ意味合いが解析されていないので、感染者の「変化」から見えてくるであろうデータ分析が、なかなか判らない。

例えば、ニュースの中で、「500人以下が、何日連続」と言われても、500人というライン(基軸)の意味合いが抽象的で不明だ。右肩上がりで、300人、500人などを初めてラインを突破した時の緊張感、医療体制の逼迫の危機感すらも、伝わってこなくなったので、意味不明の「気の緩み」だけが、残滓のように、私たちの胸中に残されるだけ。それが、危機感の共有化を曖昧にしているのではないか。死者数の変化、重傷者数の変遷など、行政の発表とは視点の違うマスメディア、あるいは複数の専門家独自の解析などを伝えて欲しい。「なんなんだ。この報道ぶりは」という忸怩たる思いが私の胸中には蓄積されるばかり。

「大昔」(1970年代後半から80年代半ばまで)の話になってしまうが、報道局社会部の記者として、都庁担当記者となり、キャップ、先任記者の先輩たちと数人でワンチームを組み、都庁の部署別に作った取材担当を分担して、当時の美濃部都政(都庁の本庁舎は、有楽町にあった)のあれこれを取材したことがあった。
さらに、その後は社会部の「遊軍記者」(記者クラブを担当せず、ビッグな課題をテーマごとに作る機能的な取材チームの一員=「遊軍グループ」の記者)として、先輩方に並んで、取材した。遊軍記者としての私の場合、ビッグな事件取材のほか、当時の新たな取材課題である「公害・薬害」「福祉」などを軸にしながら、「文化・文芸」など、先輩方が苦手な分野も含めて間口の広い取材を担当した。

こうした取材をした経験でいうと、当時のキャップやデスクに対して、こういう取材先の発表通りだけの原稿を書いて出稿したら、取材途中でも、電話(当時は、電話とポケットベルで連絡を取り合っていた)が入り、「この数字の意味を取材し直して、原稿を差し替えろ。先の原稿は、このままでは、ボツ。ただし、ニュースの放送時間は変わらないから、急げ急げ」とでも言われ、発破をかけられたことであろう。

菅総理は官房長官時代、「何事も、避けて通れば、怖くない」という処世術に終始し、長らく保守陣営・自民党の「番頭さん(官房長官)」という大物幹部として、また、危機管理のエキスパート(?)として、生き抜いた。それゆえ、まず、本人が己を錯覚したのが、菅義偉という政治家だった、のではないのか。
もうひとつ、この政治家の勘違いは、総務副大臣・総務大臣、その後の官房長官体験などで、総務省マターの権力者の美酒(毒杯)に長らく酔い続けた結果、菅家の長男を含めて、普通の方向感覚を見失った、ということなのではないのか。

インフルエンザ・パンデミック(スペイン風邪)以来、ざっと、100年ぶりのパンデミックとなったコロナ禍は、生きている人たちは、ほとんど誰も体験していないだろう。他人が書いたり、残したりした情報を活用して、新型という、未知のウイルス対策に人類は乗り出した。コロナ禍では、世界の為政者は、誰が最終的に正解となる政策を取れているのだろうか。未だに誰にも判らないというのが、正直に言って実態だろう。
ならばリーダーたる為政者は、暗い顔付きで国民の前に立って、観念的な鼓舞を促すだけのような抽象的なメッセージを発するのではなく、『私も、非力だが、皆さんとともに知恵を出し合って、一生懸命、めげずに、果敢に、試行錯誤となる対策でも恐れずに試み、国民の生命と生活を守るために、この難局を乗り越えていこうよ』と、明るく前向きな発言ができる人が良いのではないか。

ところが、日本では、私たちの前に立つ為政者は、こういうコロナ時代にいちばん不似合いな、「暗い顔」をした首相をトップにした政治家たちではないのか。そういう政権である菅政権の弱点は、何よりも危機管理ができていないということではないか、と私は思う。状況認識が甘く、さらに、状況判断が遅れがちで、何事においても「後手に」まわりがちなのが、菅政権の特徴のように見える。こうした中で、3月に入って、菅政権は、首都圏の知事たちの「先手」を打って、首都圏の緊急事態宣言の期間を3月21日まで延長した。菅政権は、コロナ禍にとどめをさすことができるのか。

 ★ 歌舞伎に危機管理術などあるのか、と思うか?

今回の小文のタイトルは、『歌舞伎の「危機管理」・考』、というようにしてみたが、そもそも歌舞伎に危機管理術などあるのか、と訝る向きも、あるのではないか。その問いには、おいおい実例を示しながら、答えてみよう。江戸時代の庶民の生活の知恵を集積したような歌舞伎の決まりごとを解きほぐすという方法で、この一風変わったテーマ、『歌舞伎の「危機管理」・考』に対する、私なりの答案を書いてみよう、と思う。
こういうテーマで書かれた歌舞伎の批評を私は浅学にして読んだことがないので、独自の道を突き進んで見たい。その結果、ゴールに辿り着くのか、どこか迷路に迷い込んでしまうのか、この小文を書き始めた今の段階では、全く見当が付かないが、まあ、レッツゴーとしようか。「ゴー、ゴー、ゴー」(と、鼓舞する)。

私の発想の要は、シンプルである。歌舞伎役者が病気休演などになった時、割とスムーズに代役などを決めて行くシステムが、歌舞伎界にはあることに気づいたことがあるからだ。これも、また、コロナ禍が、私の気づきを浮き彫りにしてくれたので、いわば、試行錯誤しながら大原流で、深掘りしてみたい。

歌舞伎座や国立劇場の公演は、初日から千秋楽まで、通常、25日間で興行される。主役級のある役者が、病気などで休演となった場合、興行元は、どういう対策を取るのであろうか。

例えば、興行元の松竹は、その役をこなせる役者を代役に立てるが、あらかじめ、代役予備軍のような役者を脇役に潜ませていて、代役が必要になれば、慌てず騒がず代役を立て、代役予備軍の役者にも別の代役を立てるなどのやり方で、主な配役をきちんとこなし、千秋楽まで公演を続ける。
あるいは、時には、主役級の役者が、運よく病気恢復し、千秋楽より前に舞台に戻ってくると、主役級の役者の代役を務めていた役者は、初日の配役に戻り、主役の相手方として、傍に控え、何事もなかったかのように、芝居を始める。そういう場面は、まあまあ、見かけることになる。そういうケースを検証してみようというのが、この『歌舞伎の「危機管理」・考』という小文の趣向である。

 ★ 代役を立てるか、公演中止か

上方歌舞伎の雄・松嶋屋の若旦那である片岡孝太郎の通称「松嶋屋若旦那歌舞伎日記」というブログ(公式に公開されている)を久しぶりに覗いてみる。

以下、孝太郎さんには、断りなく、ただし、著作権侵害にならぬよう、「引用」の範囲(表記は、原文ママ)で、コンパクトに紹介したい。ただし、タイトルは、明記しないことにした。文責は、引用者。

タイトル「✖︎✖︎」
(略)

歌舞伎座は銀座でも商業施設から離れた
東銀座なので、
今朝は緊急事態宣言下もあってか人の数は
非常に少ない状態です。

車の数も、この辺は少なく
お空も晴天で気持ち良い週末です。

しかし…

花粉症が…(泣)

さぁ

出劇して参ります!!

(引用終わり)

若旦那の日記には、「今朝は緊急事態宣言下もあってか」とか、「晴天で気持ち良い週末」とか、という表現がある。

2月初めに「緊急事態宣言下」という表現を考えれば、「今朝」というのは、7日(日)のことだろう。各劇場のチラシなどを見ると、歌舞伎役者の出演予定は、判る。孝太郎で言えば、2月は、東京の歌舞伎座に出演している。2月歌舞伎座は、2日(火)が初日だから、「週末」と言えば、6日が土曜日、7日が日曜日。菅政権の緊急事態宣言は、7日から継続発出。自ずから、週末の今朝は、7日ということになる。孝太郎の出る演目は、第一部の「本朝廿四孝 ~十種香」。彼の役は、腰元・濡衣。魁春が、主役の八重垣姫を演じる。孝太郎は、腰元役ということで、脇に回っている。ほかは、武田勝頼(門之助)、長尾謙信(錦之助)というのが主な配役である。

実は、私が、(略)と書いた孝太郎のブログの日記の冒頭には、以下のような表現がある。

「今月の公演が始まって、最初の日曜日」ということが明記されていて、孝太郎は、特に、最初から、7日(日曜日)を隠しているわけではないのである。むしろ意図的に隠して、恰も推理してみせたのは、私の遊び心だ。

孝太郎(53)と門之助(62)は、仲が良いらしい。というか、孝太郎の日記などの筆致を見ていると、些細なところでも門之助に対するリスペクト(尊敬心)が、滲み出ているからだ。

例えば、以下の日記。演目は、今回と同じ、「本朝廿四孝 ~十種香」(2021年2月歌舞伎座出演)である。以下、引用の範囲で、紹介する。

前回(2005年)も、孝太郎は、腰元・濡衣役。八重垣姫は時蔵(今回は、魁春)、武田勝頼は愛之助(今回は門之助)。以下、引用。

「なんと
こんな直近でご一緒出来るとは思っていなかったのですが門之助兄さんともご一緒」。憧れの人と一緒に舞台に上がれる喜びが滲み出ているでは、ありませんか。

コロナ第3波が、2回目の緊急事態宣言(延長中)で、「ピークアウト」(頂点を越える)か、という状況になってきた、ように見える(まだ、まだ、判断が甘いか)。リバウンド(第4波)警戒は、当面の最大課題。ここは、「一気に(菅政権のような、ダラダラ政策では、却って逆効果という見解を示す専門家も多い)」コロナの力そのものを一旦ゼロに近づけるほど削がないと、国民の生命も生活もアップアップになってしまうだろう(これまでの施策を「削ぐ」ほどに見直す、くらいのメリハリをつける。その上で、コロナ対策を再構築し直す)。
国民の生命と生活が本当に削がれたら、そもそも経済再生どころではないだろう。医療体制の崩壊どころか、経済再生のための基盤(それこそが、国民の生命と生活を守る暮らしだろう)崩壊の危機に直面させられる覚悟をしなければならない。

松嶋屋の孝太郎ばかり引用しているようで悪いが、歌舞伎役者は、花粉症の人が多いのだろうか。実は、何年か前に中村屋の七之助からも、「花粉症なのです」と聞かされたことがあるからだ。
毎年、3月に開かれる芸能関係の賞の授賞式とパーティーに私も出席した際、七之助がメガネを掛けていたので、近寄って、声をかけた私が、「近視なのですか」と聞いたところ、七之助さんからは「花粉症なのです」という答えが返ってきたという次第。このエピソードだけのデータでは、歌舞伎役者の誰が花粉症なのか、あるいは、花粉症の人が多いのかどうかは、判らないが……。まあ、閑話休題。

ここで取り上げるのは、花粉症とコロナ感染の初期の症状が、似ているという説明を聞いたことがあるから、孝太郎さんが、そのあたりのことについて、ブログに書いていないかと見込んだわけである。ざっと、ブログを覗いた限りでは、コロナと花粉症の話は、出てこないから、この話題は、しばらく棚上げにして、筆を進めておこう。まずは、孝太郎の去年11月国立歌舞伎での、コロナ感染による休演の事実を押さえておこうか(この連載コラム「大原雄の『流儀』」の読者には、若干繰り返しになるが、許していただきたい)。

11月22日出勤の朝、孝太郎は、体調の異変を感じた。未明に発熱があった。微熱だったが、日本俳優協会の主治医の診察・指導のもと東京の国立国際医療研究センター病院外来へ出向き、PCR検査・インフルエンザ検査を受けた。その結果、コロナウイルスの陽性反応が出たため、彼は、独立行政法人日本芸術文化振興会・国立劇場・松竹などの関係者に報告・相談した結果、急遽、22日午後開演の第二部「彦山権現誓助剣 毛谷村」の舞台から出演を取りやめることになった。
孝太郎は、「彦山権現誓助剣 毛谷村」で、一味斎娘お園を演じていた。これに伴い、第二部全体が、22日から25日の千秋楽まで4日間公演が中止となった。「彦山権現誓助剣 毛谷村」には、孝太郎の実父・仁左衛門が、主役の毛谷村六助として出演していた。第二部公演中止ということで、感染者・孝太郎の濃厚接触者となってしまった仁左衛門も含めて、出演者は、全員休演となるわけである。

 ★「接点」なし。コロナ対応のヒント(1)

ここで、興味深いのは、第二部「毛谷村」は、公演中止となったが、これと対照的に、第一部「俊寛」の方は、同じ国立劇場の公演ながら感染者もいなければ、孝太郎と接触する可能性がある役者は、楽屋には、いない(つまり、感染する「接点」がない)という確固とした判断になり、通常通りのスタイルで「公演」続行という判断が下された。この判断(決断!)が素晴らしい。

第一部「俊寛」には、主役の俊寛を演じる吉右衛門を始め、以下のような顔ぶれで出演していた。国立劇場の十一月歌舞伎の演目と主な配役は、次の通り。

第一部(午後0時開演)の演目は、「平家女護島 ~俊寛」。滅多に上演されない序幕「六波羅清盛館の場」を二幕目「鬼界ヶ島の場」の前に付けた貴重な舞台だった。権力を握った男の、傲慢ながらきらびやかな生活と地獄のような絶海の孤島での厳しい生活が対比されて描かれ、この狂言の本質を一段とくっきり浮き彫りにする構成になっていた。

主な配役は、平相国入道清盛、俊寛僧都の二役(吉右衛門)、海女千鳥(雀右衛門)、俊寛妻東屋、丹左衛門尉基康の二役(菊之助)、瀬尾太郎兼康(又五郎)、能登守教経(歌六)ほか。菊之助は、七代目菊五郎の嫡男であり、二代目吉右衛門の娘婿である、という立場を活用して、これまでの真女形の芸域を女形も立役も兼ねる芸域の役者に成長・成熟の途上にある。コロナ禍と対抗しながら国立劇場が、こういう演出に踏み切ったことに賛意を送りたい。第一部と第二部が、「役者の分離」ばかりでなく、楽屋での「交流も制限」している、のである。

これについては、国立劇場だけでなく、歌舞伎座でも同じ方式をとっている。例えば、孝太郎の、いつものブログにも、こういう証言があったので、引用したい。孝太郎さん、感謝。あなたの日常の記録を残すという、何気ない記述が、ことの重要性を証明してくれるので、毎度毎度、無断引用で申し訳ないけれど、感謝の気持ちを捧げますので、お許しください。以下、引用(表記は、原文ママ)。

タイトル「●●」
(略)

このコロナ禍で

楽屋での蜜(密)を避けるために
二人部屋だとしても、他の部に出ていて
この公演中に顔を合わす事も出来ません

(引用終わり)

つまり、楽屋が、二人部屋であっても、「他の部」(昼の部、夜の部と公演時間が異なれば)、互いに顔を合わせることがない、ということだ。本来、幕内の裏の楽屋は、出演役者の、表舞台への、いわば出撃「基地」として、化粧、衣装、役になりきるための儀式の場、先輩後輩の役者同士の交流の場、研鑽の場など、多様な目的のために利用されてきた。そういう貴重な場を、コロナ対策ゆえに、一時封印している、というのが、国立劇場や歌舞伎座の対策なのだ、ということだろう。孝太郎の日記の、何気ない記述で、そういう大事な情報が記録されている。
一つの部屋を昼夜に、別の役者が使うわけだが、その切り替えのタイミングで、いつもなら、接触したかもしれない役者同士が、コロナ対策のために、全く接触しない。さらに、そのルールがきちんと守られている。その事実を役者や興行元の信頼関係で、維持されている、ということだろう。

今回、いちいち確認したわけではないが、多分、新橋演舞場も、京都南座も、福岡の博多座も、同じような戦略で、コロナ対策を取っているのだろうと、いうことが推測される。つまり、「大」松竹の経営戦略としてのコロナ対策の一つが、役者同士の楽屋での交流禁止ということなのだと思う。そういうコロナ対策の原点に歌舞伎界の「代役対策」という長い歴史の積み重ねの中で磨き上げられた先人たちの知恵の結晶、いやさ、「分離」だ、「接点なし」だ、という松竹の危機管理術の「巧みさ」が、国立劇場の、十一月歌舞伎の、対応の分離(第一部は公演続行、第二部は公演中止)という処置を可能にしたのだと思う。

 ★「公演中止」という判断。コロナ対応のヒント(2)

座組の分離、接点なし、という興行元の確認の上に、第一部公演は、第二部の公演中止という判断とは切り離されて、そのままの人員・体制で続行された。同じ大劇場や同じ楽屋を使いながら、第一部と第二部の役者や製作スタッフは、接触も交流も、全くない。だから、感染しない。そして、第一部出演の役者たちも、製作スタッフにも、感染者が出ることもなく、無事、千秋楽を迎えることができた。

第二部では、主役の毛谷村六助を演じる仁左衛門が濃厚接触者と主役に次ぐ一味斎娘お園を演じる女形の孝太郎が感染者ということになれば、「毛谷村」の芝居は、確かに成り立たないだろう。さらに、同じ演目の配役に参加する役者の中から、主役と主役級の役者の代役を勤められる役者は、見当たらない、と私も思う。その結果、国立劇場側が判断したのは、仁左衛門や孝太郎の休演、それに対する代役対応、というような危機管理術の採用ではなく、公演全体を中止にする、ということであった。
公演全体を中止する、とは言っても、実際には、孝太郎の感染後、検査結果の出た22日午後から孝太郎の休演開始となった。「毛谷村」は、22日から25日の千秋楽まで4日間の公演が残っているだけであったから、そのまま、22日から千秋楽までの公演が中止となっても、観客への料金の払い戻しも、最小限度に抑えられる、という判断にも繋がったのではないか、と思われる。

贅言;「代役」になった役者は、代役という役目をどう捉えているのだろうか。
臨時の配役で、損な役回りとでも思っているのだろうか。「ピンチヒッター」、「代わり」、「代行」などという意味が、代役を積極的に評価する際の意味合いだろうか。「代行」は、組織のポストで使われることもある。その場合は、組織の「長」に次ぐ、あるいは、まさに代わるポストという意味で、重要なポストだ。代役を否定的に評価する際の意味合いでは、「身代わり」、「替え玉」だろうか。
歌舞伎の場合、一人何役で、「早替り」演出する場合がある。早替りする主役の、まさに替え玉として、観客の目を誤魔化す演出をする。本役も、替え玉も、区別がつかない演出ができれば、その役者の勝ち、というわけである。この場合は、「吹き替え」というが、吹き替えの役者は、可能な限り、本役の役者に背丈や体格が似ているように見せる。衣装は、もちろんながら、化粧も似せる。その上、顔を正面から観客に見せないように工夫する。筋書きにも、名前が載らない。

誰か知り合いの役者に聞いてみたわけではないのだが、聞かなくても判ることだと思うが、多分、代役を頼まれた役者は、チャンスだと思って、喜んで代役に挑戦するだろう。というのは、代役を頼んだ相手は、屋号が同じか、縁のある系統か。あるいは、日頃から指導やアドバイスを受けている師匠か兄弟子筋かだろう。代役を頼まれた役者が、いずれは、本興行で挑戦したい、と思っている「お役」(役柄。役者は、自分の配役を大事にして、「おやく」と尊称で会話をする)なのではないか。役は、臨時の配役であっても、「小屋」(劇場)は、本舞台の歌舞伎座や国立劇場そのもの。観客は、それぞれの劇場に足を運んでくれる本物の観客。何の不足があるものか。可能ならば、ずうっと、代役をしていたいぐらいだろう。

こうして、検証してみると、コロナ禍の下、歌舞伎の興行は、同じ演目、同じ部制度などで、役者やスタッフは、分離されていて、つまり、ユニット化され、何か役者に不具合があっても、そのユニットを点検すれば、不具合がわかり、分離して(取り替えて)興行継続とか、役者の休演か、演目の公演中止かなどが、効率的、効果的に判断できるシステムになっているようである。

 ★ PCR検査体験

歌舞伎座などに出演する役者やスタッフは、ウイルス感染をチェックするため、定期的にPCR検査という、陽性か否かという検査を受けている。実は、2月15日、私も、家族とともに、地元の市の無料検査制度に則り、PCR検査というものを受けてみた。2日後の、17日に検査結果が出たのだが、無事、「陽性ではない」という判定を戴いた。

検査のやり方を紹介しておこう。私の場合、12日に市役所が指定する地域の施設に出向いて、唾液検査用の検査キッドを受け取った。その際、自分の個人情報(住所、氏名、結果告知用の電話番号)を記入し、その情報を市役所から千葉県の保健所に知らせても良いかどうか、自署した同意書を提出せよ、ということであった。唾液を入れた検査キッドは、翌日提出というのがルールであったが、私の場合は、キッド受け取りの12日が金曜日で、翌日は土曜日。土日は、行政側が休務ということで、私の場合は、15日(月曜日)の午前中に提出せよ、ということであった。
その際、起床後、水以外は飲まず食わず、喫煙もせず、歯も磨かず、こういう状態のまま、唾液を検査キッドに一定量溜め込んで、その上、保存液を注入し、密封し、10回程度検査キッドの容器を上下に半回転するように撹拌し、保存液と混ざり合った唾液を容器に封じ込め、ビニールの袋に入れて、検査キッドを配布した施設に同意書とともに持ち帰れ、ということであった。

検査キッドと同意書を提出すると、結果は、17日に判明し、「陽性の場合のみ、保健所から電話連絡があります」ということであった。17日になって、陰性など陽性以外の結果を知りたければ、市役所のホームページ(公式Webサイト)を自分で検索してください。

【NEWS】

「PCR検査結果を検索する方はこちら」 をクリックし、とある。

その後、15日に手渡された「あなたの受検番号」(9桁)を画面に入力すれば、検査結果を確認することができる、というシステムであった。

 ★「休演余波」。コロナ対応のヒント(3)

さて、タイトルのテーマに戻ろう。
「休演」余波は、仁左衛門の出勤には、どういう影響を及ぼしたであろうか。孝太郎の濃厚接触者になった仁左衛門は、11月の国立劇場休演にとどまらず、それ以降も、出演者として出勤規制を受けることになる。

つまり、仁左衛門は、自身は、「陰性」として、コロナの感染者にならなかったのだが、息子の孝太郎のコロナ感染の余波として、12月の京都南座の舞台(「熊谷陣屋」)の初日(5日)、翌6日の2日間の休演を余儀なくされたのだ。主役の熊谷直実を演じるはずの仁左衛門の代役は、錦之助であった。
後日、仁左衛門は、舞台復帰後、12月7日から「熊谷陣屋」に出演し、無事、熊谷直実を演じた。錦之助は、2日間、仁左衛門の代役として熊谷直実を演じた後、配役通りの源義経役に戻って舞台を勤めた。
12月2日に退院した孝太郎も、遅れたものの12月10日から、父親と同じ南座の舞台「熊谷陣屋」に復帰し、配役の熊谷妻相模を演じることができた。孝太郎休演中、代役として相模を演じたのは、門之助であった。

このように、歌舞伎の配役は、コロナ感染に関係なくても、毎回の興行ごとに、主役クラスの病気休演に備えて、同じ演目、同じ部(昼・夜)、同じ月の配役の中に、可能な限り、代役を務められる役者を潜ませている、という、いわば「秘術」があるというわけだ。

余波を受けた劇場は、実は、南座だけではなかった。12月の歌舞伎座。玉三郎の出演がある。玉三郎は、国立劇場の舞台こそ、孝太郎と共演などしていなかったが、用事があり、21日、国立劇場の楽屋で孝太郎と会っていた。この接点があり、彼は、仁左衛門同様に、孝太郎の濃厚接触者になってしまったのである。その影響は、12月の歌舞伎座の舞台を直撃した。

玉三郎は、四部制の歌舞伎座初日。第四部の演目は、「日本振袖始」。玉三郎は、コロナ禍で、孝太郎の濃厚接触者として確認され、一部期間休演。「日本振袖始」の主な配役は、以下の通り。岩長姫・実は八岐大蛇(玉三郎)、素盞嗚尊(菊之助)、稲田姫(梅枝)ほか。玉三郎の代役は、菊之助。菊之助は、この演目では、立役で素盞嗚尊を演じる予定であったが、玉三郎休演で急遽、女形の岩長姫・実は八岐大蛇を演じることになった。
尾上菊五郎の嫡男・菊之助は、女形志向の歌舞伎役者であったが、歌舞伎界の立役の大御所・吉右衛門の娘と結婚して以来、岳父となった吉右衛門の指導を受けるようになり、立役のレパートリーを着実に広げている。従って、現在の菊之助は、女形も立役もこなせる、所謂「兼ねる役者」として、役者の器を大きくしている有能な歌舞伎役者に変身しつつあると言える。

さて、菊之助が、岩長姫・実は八岐大蛇を演じる間、素盞嗚尊は、誰が演じるのかというと、坂東彦三郎が控えている、というわけだ。玉三郎主演の「日本振袖始」は、玉三郎が、万一休演する事態になっても、菊之助や彦三郎が、玉突き的に代役を演じることができるシステムになっていた、というわけだ。玉三郎は、12月9日に歌舞伎座の舞台に復帰した。玉三郎が、9日遅れで、主役の座に戻ると、菊之助は、当初の配役通り、素盞嗚尊を演じた。

 ★ もう一つの休演。吉右衛門の場合

コロナ対応ではないが、もう一つの休演のケースも、検証しておこう。
1月の歌舞伎座では、コロナ禍とは関係なく、吉右衛門が、途中休演した。第二部「仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場」の舞台。吉右衛門は、主役の大星由良之助を演じていた。しかし、今年76歳の吉右衛門は、疲れが出たようで17日から24日まで休演し、25日に復帰した。27日の千秋楽まで3日間の舞台を無事勤めた。吉右衛門は5月の誕生日には、喜寿(満77歳)を迎える。
吉右衛門の代役は、一力茶屋の場で寺岡平右衛門を演じていた梅玉が代役を勤めた。さらに、梅玉の代役は、同じ第二部の、別の演目、新作歌舞伎「夕霧名残の正月 由縁の月」で扇屋三郎兵衛を演じていた又五郎が勤めた。歌舞伎の舞台では、代役による危機管理システムが、日常化していて、合理的、効率的に休演・公演中止など選択されている。

このように、歌舞伎の舞台は、見えている表の配役とは別に、潜まされている代役を軸にした裏の配役がある。つまり、歌舞伎の舞台には、主役という中心が、実は、二つあるのである。歌舞伎の舞台にある、見えない二つの中心点から描かれるのは、「楕円」という特殊な円形。つまり、歌舞伎界には、代役歓迎。中心2点の、楕円という世界観のようなものがあるのではないか、というのが、今回、私が提起したテーマであった。

贅言;歌舞伎の楕円について、私の理解を説明しておこう。松竹は、歌舞伎興行に当たって、今回のようなコロナ禍に関係なく、配役の潜在的な代役のA案とB案を可能な限り準備している。同じ演目について、A案とB案の中心になる軸を背負う役者を想定している。その結果、舞台に見えない2つの中心が出現し、観客の目には、舞台に楕円形が形成される。楕円形は、完全な円形ではない、ということから、ある意味では不安定感、不安感を造成する。しかし、それは、緊張感がある、ということでもある。2つの中心がありながら、それでいてひとつの円になる。外周を回る円形は、交わらない。これが、私のいう「楕円という世界観」(価値観)」という思想であるが、これについては、また、別の機会に説明することになるだろう。

 ★ 松竹の危機管理。「四部制」という試み

2020年3月から7月までの5ヶ月間、歌舞伎座は、公演中止となった。8月から、コロナ感染予防策を練り上げた松竹は、8月の歌舞伎座公演再開にあたって、四部制という前代未聞の興行体制を敷いた。四部制について、松竹は、以下のような戦略を発表した。

1)各部とも幕間なし。古典的な演目も、従来の演出内容を削ってでも、1時間程度で完結する演目を採用した。新しい演目も積極的に取り上げた。
2)各部ごとに役者などの出演者も、製作スタッフも、観客も含めて、総入れ替えとした。客席から退出する観客も、劇場スタッフの指示に従って、「密」にならないように、順序よく場内から出るようにした。観客席が無人になったことを確認すると、客席ばかりでなく、楽屋もロビーも、トイレも、消毒掃除をした。
3)客席の収容率も、半分以下とし、一つの客席の周り、前後左右全ての隣席には、無人の席を設けた。役者も、楽屋や舞台を含めて、劇場内に滞在するのは、2時間以内とした。ほかの役者と舞台で共演するけれど、楽屋での挨拶など交流は禁止とされた。役者の家族、所謂梨園の家族たちも、馴染みの観客に劇場ロビーで挨拶に出向くのを禁じられた。とにかく、万一、感染者が出たとしても、観客を始め、他の「部」に出演する役者など、舞台を支える製作スタッフ、場内を支える劇場スタッフなどには、余波が及ばないようにした、という。

 ★ 東北新社接待「疑惑」

コロナ禍の下、歌舞伎興行で松竹がとっている「接点なし」や「潜在的に代役準備」、演目に組み込まれたユニット化された対応などは、実は、菅政権であっても、政策判断では、原理的に同じ発想が必要なのではないのか。例えば、いま、マスメディアを昂揚させている衛星放送対策での菅首相の長男を軸とした接待疑惑など。

総務省の行政のプロセスで、総務大臣・官房長官経験者、首相などという経歴やポストをテコに優遇させるような「接点」は、絶対に作るべきではなかった。そういう意味で、菅義偉という政治家は、一時期であれ、息子を自分のポストの総務大臣秘書官になど据えるべきではなかった。そのポストが務めきれず、息子が退職した後、特殊な衛星放送行政に深く関わる東北新社にコネ入社させるべきではなかった。息子が、東北新社の接待汚職のキーマンに利用されていることを知った時点で、自分の経歴を鑑み、厳しく、行政との接触路線を軌道修正させるべきであった。政治家としての矜持に欠ける政治家と言わざるを得ない。

今回の事件対応の拙劣さばかりでなく、国民の生命を犠牲にしたコロナウイルス対応策の失敗、インテリジェンス無能=日本学術会議の知性のかけらもない人事対応など。数え上げれば、菅政権は1年未満の短い権力の座なのに、数多くの不始末に遭遇している、というか、自らが招き寄せたマイナスの印象が、山ほどある。こういう政治家も珍しいのではないか。

贅言;以下の文言は、東北新社のホームページから、そのまま転載。東北新社の言い分に耳を傾けてみよう。

東北新社は、映像に関するあらゆる事業を行っている「総合映像プロダクション」です。CM制作、プロモーション制作、グラフィック・WEB制作、音響・字幕制作、番組・映画制作、ライセンス営業、BS・CS放送関連事業、ネット配信事業など、幅広い事業を展開しています。

(以上、引用終わり)

これを読むと、東北新社は、本来は、映像プロダクションだったのが、電波行政の変遷の中で、BS・CS放送関連事業という新たな分野にも乗り出し、放送関連事業で先行他社に追いつき追い越せという企業活動をしているのではないか、という疑問が、私には湧き起こる。放送事業者、あるいは放送「関連」事業者は、何故、総務官僚と接点を持ちたがるのか。放送事業者にとって、「総務省が決める電波利用料や周波数の割り当て方法などは経営に直結する」。「それだけに、各社の渉外担当は総務官僚と接点を持ち、情報を少しでも早く引きだそうとする」(2・24付け朝日新聞朝刊)からだ。東北新社の本社は、東京・赤坂。菅首相の長男は、39歳。部長職、という。今回の実態を見ると、「宴会・渉外部長」のように見えるが……(その後、彼は、東北新社の処分を受けた)。

『週刊文春』(2月25日号)は、次のように報じている。

*総務大臣就任時(06年)、バンドマンで無職の長男を大臣秘書官として抜擢し、多数の総務官僚との接点を持たせた後、総務省の許認可先への就職を許した。

(以上、引用終わり)

縷々述べてきたように、「接点なし」という、歌舞伎界のコロナ対策は、ここでも有効であったはずだ。しかし、父親・菅義偉という政治家は、利権との「接点なし」というような誠実な対応を息子には教えず、逆に、官僚との多数の「接点」(彼の場合、「接点」=「打ち出の小槌」は、「政務秘書官」という肩書き。大臣となった政治家の息子は、このポストに座ることが多いらしい)を息子に持たせて、この「世界」に送り込んでやったようだ。だとすれば、息子は、父親の掌の上で、忠実に役割を果たしていたのではないか。それなのに、父親は、今、証拠隠滅、「接点の輪」を強引に引きちぎり、力ずくで一点突破をしようとしているように見える。危機管理とは、危機を可能な限り寄せ付けないようにすることではないのか。

 ★ 山田内閣広報官・菅首相と政治部首相番記者

私は、社会部記者だったので、政治部「番記者」の体験はない。
2・26事件は、1936年2月26日日本陸軍青年将校らあわせて約1,500人の兵士が起こした造反(クーデター未遂事件)であったが、85年後の2021年2月26日、首相官邸では、「内閣記者会」(通称、官邸クラブ)の番記者たちが、いわば「造反」を起こした。
官邸の主・菅義偉首相は、コロナ禍感染拡大抑制の対応策としてきた緊急事態宣言の6府県での解除を決めた後、本来ならやるはずの記者会見室での正式な首相会見開催(会見の仕切り役は、内閣広報官)を見送り、エントランスホールで、お互いに立ったままで記者の質問に首相が答える「ぶら下がり取材」(官邸側の仕切り役は、無し)に応じるだけとした。通称「ぶら下がり」は、「立ち話」という感じの簡略なやり取りで首相の動向や意見を取材するものである。

山田真貴子内閣広報官は、菅政権発足以来、首相会見の司会進行・仕切り役を務める、いわば内閣広報の最高責任者である。その山田広報官は、ほかの総務官僚とともに、菅首相の長男が勤務する東北新社からの高額な接待「疑惑」に加わり、会見前日の25日に参考人として呼ばれた国会で「謝罪」したばかりである。接待の場では、放送行政に関わる業者側からの「働きかけ」はなかったと答弁しているが、接待の趣旨や首相長男との関わりなど疑惑は解明されていない。

いつものように、山田広報官の司会進行で会見となれば、山田広報官がらみの質問も各記者から相次ぐことは、容易に推測された。そういう背景もあって、2月26日の記者会見は、当日、急に取りやめになった。内閣記者会の幹事社は、記者会見先送りの代わりにぶら下がり取材を要求した。断れば、会見延期が「山田隠し」と邪推されても仕方がない状況であった。そこで、急遽、ぶら下がり取材が設定された、というわけである。コロナ禍の状況で、現状の正式の記者会見では、記者クラブ各社のキャップクラス一人が出席するだけだ。

2月26日の各社の「若手」(とは言っても、地方勤務を経験した中堅どころの記者が多い)記者のぶら下がり取材は、久々に若手記者が質問できる稀有な「チャンス」となった。若手記者からは、日頃の不自由な取材(官邸側に都合の良いルール)への欲求不満を解消するかのように、首相への質問が相次いだ、というわけだ(ならば、国民の知る権利のために、ルールを変えるべきではないか)。

「きょう記者会見をしないで、コロナ感染予防の国民の協力は得られると思うか」
「記者クラブ側から、ぶら下がりの要請がなければ、首相は国民へのメッセージを出さないつもりだったのか」
「山田広報官は、続投なのか。その場合、山田広報官が記者会見の司会進行役を続けるのか」などなど(テレビのニュースを見ていると、同じ記者の声が、しつこく質問している場面もあり、感心した)。
会見拒否に対する菅首相の姿勢に絡むような若手記者の真っ当な質問が相次ぎ、首相の回答や態度には、苛立ちが滲み出ていた。首相の回答内容も、誠意のないものが見受けられたように感じた。菅政権は、日本国民を馬鹿にしているのではないのか。

しかし、社会部から政治部にエールを送るとすれば、質問事項事前提出の記者会見より、ブッツケ本番のぶら下がり取材で、良かったのではないか。首相の素の言葉、考え、姿勢、態度を露わにさせ、国民にも解りやすい本音を引き出せたという意味で、今回の18分に及ぶ、ぶら下がり取材は、私には、久しぶりに聞き応えがあった。

贅言;山田内閣広報官は、3月1日、「体調不良」を理由に辞職した。辞職後、総務省の谷脇審議官ら複数の幹部が、「放送」関連の東北新社ばかりでなく、「通信」関連のNTTから接待を受けていたという続報が報じられた。山田前広報官は、こちらの接待にも関係あるとして、名前が出てきている。山田前広報官は、己の「危うさ」をいち早く察知し、早々と辞職へと逃げ込んだのかもしれない。

総務省の接待疑惑の解明は、まだまだ、流動的である。危機管理とは、真相をごまかして危機から逃げる、ということではない。的確に、早々と、真実に近づき、虚偽(フェイク)を除外し、国民の知る権利に応えることであろう。政治家、官僚の世界に、「休演」や「公演中止」は、ない。前職であれ、関係者は自ら進んで、今後の危機管理のために、本舞台で堂々と真相を語ってほしい。マスメディアは、「楕円という世界観」(多様性の尊重など)を前面に出して、菅政権を厳しく追及してほしい。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧