【社会運動の歴史】
木崎無産農民学校と教師野口伝兵衛(1)
◆ 1.はじめに
1922年(大正11年)4月9日、神戸で日本農民組合(以下日農)創立大会がキリスト教社会運動家の賀川豊彦と杉山元治郎(初代日農組合長)の尽力で開かれた。
同年11月23日、木崎村小作争議(新潟県北蒲原郡木崎村、現新潟市北区、以下木崎争議)の発端となった笠柳横井小作組合が結成されてから今年で95周年を迎える。
木崎争議は、真島桂次郎(隣村濁川村、314町歩所有)らの地主と日農関東同盟木崎村連合会(会長川瀬新蔵)との間に、小作料の減免などを巡って8年間(実質5年)争われ、日農と社会運動家や文化人が全面的に支援した。周知のように、我が国の農民運動の代表的な小作争議であり、王番田争議(現長岡市)と和田村争議(現上越市)と並ぶ新潟県の三大争議の一つでもある。その一番の理由は異例の無産農民学校(以下農民学校)建設があったからに他ならない。
木崎争議に関する多くの著作、論文では、「農民学校建設は日本で最初の試み」と記されている。しかし、詳しく農民学校の全体像に触れたものは、合田新介の労作『木崎農民小学校の人びと』以外にほとんど見当たらない。
農民学校には、使命感に燃えて自らの職を捨て、あるいは大学を飛び出し、理想教育の実践を求めて若き熱血の教師たちが集まった。本稿では、同盟休校(以下、盟休)から高等農民学校の閉鎖までの経過を追いながら主任教師を務めた野口伝兵衛(現五泉市出身、戸籍名は傳兵衛)の自己犠牲を惜しまぬ生涯にも焦点を当ててみたい。
1972年(昭和47)10月、全国のカンパによって、立派な「木崎村小作争議記念碑」(新潟市北区内島見地籍)が「お題目塚」(新発田街道脇)に建立された。そこには、かつて農民学校西入口の看板があり、校舎はその先の小高い畑の中に建った。農民学校は、4ヵ月の短い期間であったが児童の同盟休校に始まり、校舎まで建設した。さらに、地主真島の北蒲原郡教育会長の就任に抗議し、日農傘下の郡内小作組合が連帯して児童3千人余(諸説あり)を盟休させるなど県教育界だけでなく、政府、文部省にも衝撃を与え大きな社会問題にもなった。
野口は、高等農民学校閉鎖前後に新潟市に移り、全国農民組合新潟県連(以下、全農県連)書記長などの農民運動に献身し、敗戦を見届けないまま1945年(昭和20)1月、47歳で波乱の生涯を終えた。日農県連は、1973年(昭和48年)に『おもいでの記』を発行しているが、「阿賀北農民の父」と言われた井伊誠一(元衆議院議員)は、次のように記している。
「私が農民運動に直接関係するようになったのは、加治事件の弁護を担当したことがきっかけであります。事件の真相を調べている中に、地主や官憲の暴圧や小作農民の苦難が骨に応えるほど感じ取られました。(中略)この地主制度をなくさない限り、小作農民の幸せは来ないと腹の底から感じ、爾来、農民運動にも直接かかわって来たのであります。(中略)私は同志の皆さんの力で、国会にも働かせてもらいました。同志の中には、立派に名を遂げた方々もおられます。しかし、名もなく闘いの半ばに倒れたり、一生、下積みとして運動を支えて来られた方々が数多くあります。こういう方々こそ第一番に表彰されるべき方々でなかったかと心に深く感じています。50年を顧みてうたた感慨に堪えません。」
そこで、脳裏に真っ先に浮かぶのは野口伝兵衛である。三宅正一(日農県連主事、後衆議院副議長)たちと争議を指導した稲村隆一(戦後衆議院議員)はこう記した。
「私は、野口、原(素行)両君の如きはなやかな面に出ないで、ほんとうの下積みの運動家として黙々として働いた人々には、今でも心より深い尊敬の念を禁ずることは出来ない。彼等こそ真に偉大な同志であり、特に野口伝兵衛が死の直前迄日記を書いていたが、その言葉の中に「我ここに終わるとも、農民運動に捧げた人生は無駄でなかった」と述べているのを見て、実に涙濽然とした。彼の生涯こそ苦難にして偉大な一生であった。」
<注>
[1]旧漢字、旧かな、送り仮名等は極力出典に基づき表記した。
[2]賀川は、キリスト教の伝道を行いながら、戦前の労働運動、農民運動、無産運動生活協同組合運動にも大きな役割を果たした。神戸の10年余にわたる貧民救済の体験を通し農民運動の必要性を痛感する。有名な創立大会宣言は、賀川が起草し、提案した。
「農は国の基であり、国の宝である」から始まり、「我々は公義の支配する世界を創造せんがために、此処に熱愛を捧げて窮乏する農民の解放を期する」と格調高く結んでいる。
[3]賀川が1924年8月の日農夏季大学(葛塚町龍雲寺、現新潟市北区)の講師に来た際、「監房に水一杯…」と揮毫した扇子が葛塚の某宅に残っている。
[4]合田新介(以下合田氏)は、1970年当時新潟県立図書館で偶然見た「木崎争議生存者池田徳三郎翁」の写真に衝撃を受け、木崎に通い続けた。教師の深海政夫、黒田松雄らから当時のこと聞き取り、野口や原メモなどの資料を基に8年かけて労作を著した。
[5]盟休児童数について毎日新聞は、「全支部36ヵ町村中、20ヵ町村5千余」、東京朝日新聞は「児童数約5千人の多きを算し、今や北蒲原郡教育界は蜂の巣を壊した如き混乱を演じ、小学校長はただ呆然為すところを知らず」と報じた。県の調査では7月21日の1,048名が最大としている。
[6]日農県連の「おもいでの記」の中で、井伊、稲村の外に石田宥全、三宅正一、野口きせ(伝兵衛夫人)、池田徳三郎ら12名の貴重な証言が綴られている。
◆ 2.鳥屋浦事件から同盟休校
ここで、木崎争議の経緯は別稿に譲り、農民学校の開設から閉校までの主な経過について簡単に触れてみる。木崎村立木崎尋常高等小学校(以下、木崎小)の児童が一斉に盟休に至ったのは、真島桂次郎ら6名の地主が耕作禁止、土地返還、小作料請求の勝訴に基づき、1926年(大正15)5月4日から6日にかけて耕地立入禁止仮処分を執行したことから始まる。
川瀬会長らが上京し、東京控訴院から仮処分の執行停止決定を受けるが、一日違いで間に合わなかった。日農県連は、3日間の執行で奪われた耕地が30余町歩、関係68戸、家族458名としている(諸説あり)。特に5日の鳥屋地内の執行を巡って連合会の小作人600余名(諸説あり)と警察43名(諸説あり)が衝突して、50余名が検束され29人が騒擾罪と公務執行妨害で起訴、28人が収監された。
鳥屋浦事件では、「大勢が腰縄をつけられ引っ張られていった」話や「けが人が渡辺九平のうち(家)に運び込まれた」「渡辺一治が警官を(陸上競技の)スパイクで蹴って田んぼに突き落とした」などの逸話は今も現地に伝わっている。検束者は葛塚分署(当時は相生町)と、その裏の福明寺に収容された。判決は12名が公務執行妨害で懲役3ヵ月、執行猶予3年、騒擾罪は無罪となったが、ほとんど連合会の幹部と支部長であった。森山森平他4名が控訴している。
小学校5年だった佐藤与資太(鳥屋、戦後豊栄市議3期)は、母が見た鳥屋浦事件現場と、自分が見た「家族慰安相撲大会」の光景を晩年に30号の日本画に描いた。
盟休が始まるのは、鳥屋で開かれた5月18日の犠牲者家族慰安講演会(4か所)からである。その集会には、土地仮処分を受けた家族、検挙された家族と共に590余名(諸説あり)の児童も参加した。
<注>
[1]原告側(地主)側に仮執行命令書が付与されたのは4月30日~5月4日午後4時、被告(小作)側に本訴判決正本が送達されたのは(3回に分けて)5月1日~4日午後7時であった。東京で執行停止命令を得ても間に合わなかった。(「木崎村農民運動史」)
[2]実際、執行を受けたのは46戸、22町歩(山岸一章)、延べ53名、27町歩(池田一男)等の記録があるが、他の係争中の事件もあった。声明で鳥屋浦事件は、「数百人の警官の支援」とあるが、鳥屋の他、内島見に50名、樋ノ入に30名、近隣署から動員された。
[3]5月18日の盟休児童数は590名余、700名などあるが、明星時報によれば250名、警察は121名としている。放課後に参加した児童が多かった可能性がある。木崎小の在校数は約1,000名との資料もあるが、市村玖一は1,295名(尋常科1,221名、高等科74名)としている。県百年史では、1,308名、他資料に1,323名の記述もある。
◆ 3.農民学校建設へ
日農県連は、5月8日に支部長会議を開き特別争議委員会を設置し、「暴虐なる地主と無理解なる官憲の態度について」の声明書を発表、13日には鳥屋浦事件の批判演説会を内島見外4か所で開いた。17日の特別争議委員会では、次の方針を決定した。
①行商隊の結成と対外オルグ
②婦人部の設置
③木崎高等小学校に通学する組合員子弟の無期同盟休校に入る
翌18日、「児童同盟休校並びに新農民小学校建設に対する声明書」を発表した。
長文なので要約してみる。
「我木崎村は人心統一と教育の発達充実とを図るため、国家百年の大計と木崎村の自治向上発展に資せんと昨年12月1日より4校統一した。畠山村長は『統一により村費の節約と優良教員の配置により教育の功績期して見るべし』と明言している」
「村会においても満場一致をもって専科教員に代え、優秀なる農業科教員を迎え校長は、毎週1回3校舎を巡視せしめ、さらに教員1名の増員を可決した。然るにその後、教員の配置及び各校舎を顧みざる状態に我等は失望した。何ら見るべき施設を講じないどころか、徒に醜聞聞くに堪えざる学閥の争いに汲々としている。」
「5月5日の耕作禁止により、事件の解決を図るべく畠山村長を訪ね小作調停法より調停申立てを為せるも横暴なる地主と気脈を通じ、国法による調停を体よく謝絶している。我等は最早、斯くの如く権勢に阿り、学閥に禍され、村会の決議を無視し、最初の声明を裏切る畠山村長の行為と木崎(高橋)校長の教育方針に対して安んじて最愛の子弟を托することは出来ぬ。」
「小作人の窮境を察するまで子弟を学校に送らない。全国の同志の応援を得て、近く村内数ヶ所に私設小学校を設けて我らの態度を鮮明にし、彼らの反省を促す。」
声明の根底には、争議だけでなく、日頃から学校での地主と小作人の児童に対する差別教育へのうっ憤もあったことが伝えられている。「選挙狂」と叩かれた某教師は、授業中の子守児童には、もっとも厳しい態度で接した。野口はその言動を「特に小作農民の子弟に対する態度は農奴を見る目で接し、許しがたき存在であった」と記している。
また、高橋校長は畠山村長と共に、週に一度は真島家を訪問して他の中小地主や番頭と一緒に茶菓の会や酒席を持っていたとも言われている。こうした有力者に阿る日頃の校長の態度も不信を買っていたに違いない。
5月21日の特別争議委員会で次のような構想を三宅が提案し決定された。
①農民学校・日曜学校・高等農民学校をつくる。
②農業図書館を設立する。
③農村問題研究所をつくる。
④構想を実現するために中央(日農本部等)の応援を得る。
6月7日、東京の芝協調会館で「木崎事件真相報告会」が開かれ、池田徳三郎(須戸支部長、特別争議委員)と婦人6名を代表して阿部リト(笠柳、連合会婦人部長)が演壇に立った。東京朝日新聞や萬朝報が社会面トップに、「女宗吾」(義民佐倉惣五郎俗称宗吾)の出現と報じ、大きな反響を呼んだ。
6月11日には、東京で無産農民学校後援会発会式が行われ100余名が参加した。発起人には、賀川豊彦、安部磯雄、大山郁夫など歴史に名を留める顔ぶれが並び、参加者には、著名な堺利彦(第1次共産党結成に参加、思想家、歴史家)などもいた。
杉山が開会を宣告し、賀川が後援会の趣旨を述べ、三宅が争議の真相と無産農民学校建設計画を説明した。学校建設資金対策として大宅壮一の斡旋で、新潮社から農民小説集等を出しカンパ活動も決めている。会場からもカンパが寄せられたという。
15日には、内島見の長行寺で無産農民学校協会の発会式が行われ、会長の賀川は眼病のために欠席したが、次のようなメッセージを寄せた。
「このたびの無産農民学校の計画は、日本において初めての大規模なものであり(中略)私は、日本における新しき時代の印を、この無産階級の教育運動に発見せざるを得ないのであります。(中略)今日までの農村に於ける教育は、農村を愛するためには何ら役立っておりません。小作人の教育に向くような教育は、今日まで殆んど日本に閑却されてきたのであります。
小作人の子弟等を十分教育しようと思えば、先ず小作人の生活の安定を図らなければなりません。(中略)小作人に向く学校を作りたいといった処で、決して年から年中、小作争議の戦術を研究する学校を作るというのではありません。
あくまでも、人道的に二宮尊徳の精神を現代に生かすような気持ちでいきたいのであります。(中略)この度の我々の挙は、その根底に於いて人道的であり、あくまで、愛国精神をより離れるものでありません。(中略)我々は、あくまで天下の公道に従い正義人道の大旗を振りかざし、無産者の解放の道を進めば足りるのであります。」
以上のように、キリスト教人道主義と言われた賀川らしい言葉が述べられているがこうして農民学校協会は成立し、賀川が協会会長に選ばれた。
賀川は、帝国ホテルを設計したライトの愛弟子で、後に著名な建築家になる遠藤新(あらた)(キリスト教徒)に設計を依頼し、賀川全集を担保にして新潮社から3千円を借り出した。直ちに工事のため武藤棟梁らを派遣してくれた。
県当局は盟休から農民学校が開設されても、当初、単なる争議戦術として見ていたことは間違いない。県の岩本学務部長は、文部大臣の1回目の報告に「民度低キ地方ノ民度ノ低イ小作民タチノ無謀な暴徒ニシカ過ギズ、放置シオケバ、争議ノ解決ト共に自然解決可能」と報告している。
6月17日の朝、川瀬会長は笠柳の西端の砂丘の畑に敷地を選定、午後から笠柳と横井の組合員が出動して地ならし、基礎工事に着手する。早速、新潟市から牛車や川船で用材を運びこんだ。仰天した県当局は、三宅、川瀬を県に呼び出し口頭で工事の中止を求めた。その後「小学校令に準拠せざる一切の設計と施設は学校として認めず、よって建設を直ちに中止、県学務課の指示に従われたし」の文書を手渡した。
争議団は、これを拒否し工事の完成を目指したが、突然6月26日に敷地の所有者田巻恒彦(南蒲原郡田上村・672町歩所有)の申請により「土地使用禁止の仮処分禁止」が執行され、公示札が立てられた。直ちに異議申立ての訴えを起こすと共に、翌27日に隣地の市島幸三郎の梨畑を新たな用地に選び、突貫工事にとりかかった。
<注>
[1]第一次世界大戦後の不況で税収の減少、教育費の増大等で町村財政は窮迫した。県当局は1922年(大正11)に学校運営の効果を狙って1町村1小学校を奨励、整理統合の効果はあったが、多くの地域で紛糾があり1928年に廃止された。木崎村も県方針に対応、4校を統合したと思われるが、当時の資料は残っていない。
[2]農民小説集は木村毅ら3名が編集し、序文で「印税を我が国最初の無産学校の建設資金として贈ることにした」と記している。芥川龍之介、小川未明、菊池寛、佐藤春夫など20名の異色の顔ぶれが短編小説を書いた。断ったのは、地主出身の正宗白鳥だけであった。当初企画した「農村問題十二講」は、結局発行されなかった。
[3]「三匹の蟹」の芥川賞作家大庭みな子は、小学校5年の時、母の実家である木崎集落から木崎小に通った。随想に「農地解放前の新潟は地主と小作人の身分関係は凄まじいものがあって、小学校でも友人の呼び方にも差があった。」と記している。軍医であった父は、組合の要求でつくられ、戦後廃止になっていた旧村営診療所に「椎名医院」を開業した。
[4]6月7日の「真相報告会」について大宅は「訥々とした口調で語りかける池田徳三郎、方言を丸出しにして強い何かを聴衆に与えずにおかない阿部リト、二人の口から発せられた『人間』という生々しい響きがあるのだ。何よりも重厚な言葉であった。人の心を、肺腑を抉る言葉だった。」と記した。(『増刊文芸春秋』1955年8月号)
[5]6月11日の毎夕新聞は「眼病のため一時失明を伝えられた賀川豊彦氏は、殆んど4ヶ月近く入院加療中のところ経過頗る良好、数日前に退院し直弟子山路英也氏の介添えを受け日本で初めての新潟県無産小学校建設運動に熱中している。」と報じた。実際は1926年4月から5月にかけて眼病(トラホーム)が悪化し、44日間入院、一時失明状態になった。
(「雲の柱」30 賀川豊彦と一麦寮)
[6]田巻家の土地は、横井の同家の差配人である渋谷家が永小作地として借り受け、同集落の市島家に譲った。北蒲の地主協和会が田巻家に働きかけて契約違反として訴えさせた。
[7]農民学校について毎夕新聞は、「一昨日、稲村農民組合新発田支部長と大宅壮一氏が遠藤工学士と会見、無料で設計を快諾し、近く現地に急行し実地調査を遂げる筈である。」と報じた。(6月10日付)三宅や飯田の著は「賀川が設計を依頼した」で食い違っている。遠藤の建築理念は、「まず地所を見る。地所が建築を教えてくれる。」であったが、残念ながら木崎に来た記録は残っていない。(遠藤は1951年62歳で永眠、福島県出身)
◆ 4.久平橋事件と盟休解除
7月25日、一階96坪、2階12坪のライト式校舎が大部分完成したので、上棟式が行われた。川瀬会長は、「今日は幾多の干渉と弾圧の嵐を破って、全国の同志、義人が熱誠の応援と血涙にじむ県下同志の捧げる聖なる労働によって工成れる我らの学校なのだ。(中略)万余の大衆の万歳が天地を震撼させた。」と誇張気味に喜びの言葉を記している。
同夜、隣村の松ヶ崎村の港座で開かれる講演会に行く途中、濁川村の久平橋手前で治安警察法により解散を命じられ警官と衝突した。幹部の三宅、今井一郎、滝沢要平(特別争議委員)、教師の原、黒田、武内五郎ら26名(諸説あり)が検挙され、そのうち三宅ら18名が騒擾、公務執行妨害で起訴、収監された。
事件後、県警察部長は次のような談話を残している。
「今回の如き事件の惹起せんことを恐れ、事前に幾度か真島桂次郎と三宅正一を召致し、農民運動を暴動化せぬように妥協したらどうかと勧めた。(中略)真島君が『俺は飽く迄やる。決して妥協しない』と言っているのが、どれ位争議を激化せしめたかも知れないので警告を発した。三宅君にも度々『「こうなったら仕方がないから大人しくやり給え』と言っておいた。(中略)これで本県の農民運動もこれで一転機を画するさ。」(「県農地改革資料」掲載紙不明)
久平橋事件は、前後の経緯から警察が意図的に日農側の弾圧を狙ったのではないかとの見解がある。争議団の幹部で検挙を免れた者は、川瀬会長と稲村だけであったように組織的に大打撃を受けたことは間違いない。
また、事件の2日前、関係地主宅との交渉申入れの際に「団体の威力を示し脅迫的言辞があった」として佐藤佐藤治、伊藤孝四郎、今井一郎、滝沢要平ら6名の幹部が暴力行為処罰法で検挙され、50日余収監されている。
当時、木崎村では、帝国在郷軍人会を中心に「自警団」(正式には警備隊と称していた)が組織されていた。久平橋事件直後に「警備隊の声明書」が全村に配布された。その内容は、「安寧秩序、村内の平和等を徒に紊乱するが如き行為」が横行、「日本国民精神を無視する不道徳行為の団体又は結社に断じて参加してはならない。」とし、結びに「必要により軍隊、警察署、地方行政諸官庁等と連絡を取る。」とした。この脅迫的な声明によって、組合支部や組合員の動揺も始まった。
8月1日から3日にかけて、内島見支部で10数名の脱退者が出たが、下大谷内や尾山など他支部でも同様な事態になった。地主で組織する北蒲協和会では、「木崎村関東同盟脱退者援助の件」を決議し、組合の切り崩し工作を強めている。
三宅、今井は、ようやく10月30日に出獄するが、川瀬らが公判での偽証教唆で逮捕され、翌年の1月まで留置される。久平橋事件から3日後、足尾の労働争議で出獄したばかりの浅沼稲次郎(後に衆議院議員・社会党委員長)がやって来て、三宅の代わりに県連主事となった。判決は翌年7月大赦により全員が免訴されている。
8月12日、政府は首相官邸に農林、文部など各次官や新潟県学務部長を集め、政府の責任で農民学校の解決に乗り出すと声明した。この会議で次の方針を決めている。
①9月新学期まで解決する。
②争議と学校問題は切り離す。
③円満解決を第一とする。
④学校の認可申請あれば、行政執行法を適用、強制閉鎖処分にする。
組合側は9月1日に農民学校の落成式と開校式を挙行したが、参加者は争議中の最高の1万2千人(諸説あり)を超えたという。
しかし、8日に三松県知事は、川瀬、稲村、浅沼の組合幹部を県に呼び出し、政府方針を基に「このまま同盟休校を続ければ法的措置を講じる。学校も強制閉鎖処分とする。県は争議の調停に乗り出す。」と迫った。すでに8月20日、30日、9月3日の対県交渉で追い詰められた組合側は、もはや反対することは出来なかった。
川瀬会長は、「争議団本部内に於いても、又硬軟二派に分かれ、休暇を待ちて盟休解くべしとの一派と争議解決まで断じて解くべからずとの硬派に分かれ、議容易に決せなかった」と記している。県交渉、収拾策を巡って、特別争議委員などの議論についての記述はこれ以外にない。また、支部長会議など大衆討議にかけた記録も見当たらない。県との交渉で確認されたことは次の3点であった。
①同盟休校は解く。
②農民小学校校舎は、10月開校の高等農民学校として残す。
③争議は県が調停する。
この「妥協」「敗北」とも言うべき収拾策が、後の運動や争議の総括に尾を引くことになり、全国を揺るがした木崎争議の顕彰運動も1972年の50周年まで空白を余儀なくされることになった。交渉が成立後、三松県知事は、「明9日より全部登校せしむる旨申出あり無事解決を告げたり」と各大臣などに電報を打電している。農民学校は中央でも大きな政治問題になっており、若槻礼次郎首相をして「現代の応仁の乱なりと嗟嘆せしめた」という。(「木崎騒動攻防の人」)
9月10日の同盟休校解散式について、川瀬会長は「新装なった農民学校に於いて五百余の生徒と14名の教師とが集合し、筆者の解散の詞と各教師の声、涙天に下る告別の詞と、生徒代表の答辞を以て悲壮なる解散式をあげ、現代の義務教育に対する革命的教化運動も此処に終熄した。」と記した。
青木恵一郎は、「日本教育外史」で出獄間もない教師の原が、次のような賀川の「閉校の辞」を読み上げたと記している。
「木崎無産小学校の皆様、よく闘ってくださいました。団結と不屈の精神とを持って、この私どもの学舎を守り通したことを心から感謝申し上げるとともに、朝令暮改取締当局の只単なる盟休解除の拝み倒し手段を今更笑う他ありません。
然し、県当局と我等の同志稲村、浅沼、川瀬各先生との間の紳士協定による成立により、此処に盟休を解き農民学校を閉鎖することになりました。懐かしい学舎を今皆様方とともに去ることを思えば、只感慨無量、冷たい涙が頬を流れるのをどうすることもできません。ご承知の如くこの学校は、今度高等農民学校として新発足することになりましたが、此処まで立派に育て上げた諸先生、父兄、生徒の皆様のご努力を衷心より感謝申し上げます。」
原の涙声は震え、寂とした会場からすすり泣く声が聞こえたという。最後に野口の指揮で蛍の光を合唱し閉会した。ここに4か月間にわたる同盟休校と農民学校は、波乱の幕を下ろすことになった。
その翌日、日農県連は、盟休解除に対する声明書を発表している。
「我等は無産農民学校を断じて解散したにあらず。小学校建設の企図も中断したのでは無い。(中略)10月1日より高等農民学校開始の準備を整っている。将来は必ず理想的なる小学校の設立を進めて行く事は、既定の方針とは毫も変わるものではない。従来と変わりなく全国同志の応援を切に望む。」
この意気軒高の声明とは裏腹に、事実上ここで農民学校の理想の灯は消え去る形になってしまった。
閉校の際、合田氏は「教師団の茂尾、深海、山口、舟木らが組合幹部の背信をなじり激高した。」としている。閉校式の夜に内島見の小池登作宅で教師団の送別会が行われていた最中に酔っぱらった18名(諸説あり)の在郷軍人会員、奨農会(地主側が組織した非組合員)らが棍棒等を振り上げ乱入し、岩橋藤吉(連合会副会長)、池田寅松ら数名の幹部に傷害を負わせ新発田署に留置された。その中に真島家の番頭も交じっていたという。後に罰金刑を受けている(登作事件と呼ばれる)。
<注>
[1]7月25日の上棟式の参加者は、東京朝日新聞は3千、新潟新聞は4千と報じ、川瀬は参加1万人 とし「内島見東端から笠柳一帯は人を以て埋まる。」(『木崎村農民運動史』)と記した。当時の写真や農民学校周辺の地形から考えて1万人の参加は想像できないが、周辺町村からの動員に加えて大勢の見物人がいたことは事実のようだ。
[2]久平橋事件の検挙について、山岸一章は伊藤茂(中浦村)が抜けていて26名としたが、同著で外に深谷由太郎、桑野藤三郎、戸井市三郎を加えて29名とも記している。森長英三郎弁護士は25名とした。(「木崎村小作争議事件」法学セミナー226号)
[3]真島の長男中太郎(ハーバード大学卒)は、父の死後に「父を語る」を記した。中に「松ヶ崎の演説会場に行くに先立って旅人を装った数名が『農民連は村端に火をつけて、村民が消防にかかってる間に真島の家を焼く』とか、或は『真島の家に乱入して一族残らず竹槍で刺殺する』とか物凄い宣伝だ。」などとある。争議当時の真島家や地主の考え方がよくわかる。また、組合側の戦術も当局に筒抜けで、密告者がいたことを真島の遺族が合田氏に打ち明けたという。
[4]9月11日付の新聞報道に「盟休を解いた児童、嬉々として登校」の記事がある。「9月9日6ヵ所の私塾で幹部の下で解散式を挙げ10日登校した。欠席児童は103名(木崎本校60名、笹山20名、横井13名、早通10名)で、理由は盟休と関係なく家の手伝い」また「教師は野口、黒田を残して帰国し、両氏は高等農民学校の教壇に立つ由」と報じた。(掲載紙不明)上記は「9月10日、盟休解散式」とした川瀬の記録と食い違っている。
[5]木崎争議50周年記念集会は、歴史教育者協議合に所属する池田正、金井勝哉、滝沢昇の各教員及び争議の生き残り池田徳三郎と川崎瀬三らの尽力で実現した。以後、民主団体協議会(社、共、豊栄地区労等)を主体に記念集会や追悼式を毎年重ねた。
[6]木崎争議70周年記念集会で、早通の小熊英雄が「上棟式でも児童を代表して祝辞を読んだことを思い出した。親しく遊んでくれた三宅先生などの演説のとおりになった。(戦後)先生方の苦労が今になってわかった。浅沼先生の刺殺をラジオで聞いた時、余りの驚きに目がくらみ、頭がボーとした。」とあいさつをした。
[7]賀川の閉校の辞は、他の争議資料の中には、全く記述されていない。青木氏の「日本教育外史」は木崎支部役員が提供した資料に基づき詳細な記述がある反面、氏の創作と思われる箇所がかなりあるので、真偽の調査が必要である。
(木崎村小作争議記念碑保存会)
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