【コラム】

有閑随感録(87)

高市首相原爆の日挨拶と朝日新聞「天声人語」
矢口 英佑  

 最近の朝日新聞の看板コラム「天声人語」が何やら小ぢんまりとしてきて、〝寸鉄人を刺す〟迫力に欠けているように感じていた折、8月10日の当該欄は次のように始まっていた。
 「『お前は親にはなることができた。しかし、親となることはできねえ人間だ』。劇作家宇野信夫の手による、江戸の岡っ引きが遊び人に意見するときのセリフである」
 この冒頭部分をサッと読んでしまうと何が違うのだと思ってしまうかもしれない。そこで次なる文は「親になるのは、犬猫でもできるが、親となることは、なかなかできない」と続く。人間と犬猫の違いで示されると、「あれっ」と前段の表現には違いがあったのだと気づかされ、その解答と言わんばかりに「「親になる」と「親となる」。たった「に」と「と」の違いだが「ここをよく考えろ」と諭され、遊び人ははっと気づく。どこか背筋が伸びるような「と」の重みに……」と記している。なるほど日本語の助詞の使い方の妙というか、奥が深いというか、日本語の面白さ、怖さを再認識させられた。
 だが待てよ、いまどきのスマホが手にくっついて離れなくなってしまった観のある若者たちに「に」と「と」いうたった一文字の違いの意味する所が大きく違うことが理解できるのだろうか。「遊び人」のようにはっと気づいて背筋が伸びるだろうか、と呟くと、家人は言ったものである。「そんな心配する必要なんてないのよ。そんな微妙な表現がわからない人は新聞など読まないし、ましてや「天声人語」を読むことなどないから」。
 それで片付けてしまっていい問題ではないだろうとは思いつつ、「天声人語」の続きの言葉を追いかけると、「長崎原爆の日のきのう、高市首相は式典で語った」として「非核三原則」の捉え方を俎上に上げてきていた。「起承転結」の「転」というところか。
 この御仁、日本が国是としてきているはずの「非核三原則」(核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず)を「政策上の方針」と公言してきている。それゆえ「持ち込ませず」を原則から外すべきだと考えていて(実際にはアメリカは日本に核兵器を短期間にせよ持ち込んでいたことがあった事実はすでに知られていて、その合法化を意図していることは明らか)81回目の広島、長崎の原爆記念日でどのような挨拶をするのか、関心が寄せられていたことはまちがいない。
 その長崎原爆の日での挨拶では、
 「我が国は、非核三原則を堅持しており、長崎を最後の被爆地にという誓いの下、唯一の戦争被爆国の使命として、核兵器のない世界の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進しています」と述べたのだった。
 「天声人語」氏は「おやっと思った」という。なぜなら他の箇所では「まいります」を多用しているのにここでは「しています」としているためで、「「しています」と「まいります」。似ているが、大きく違う。前者は現状の紹介であり、後者は決意の表明である」」からだという。確かにその通りで、この「しています」はあくまでも現時点までの肯定であり、「していきます(してまいります)」は現時点を超えて将来を含めての肯定となる。
 したがって高市首相の「我が国は、非核三原則を堅持しており」という言い回しもあくまでも現時点までの「肯定」でしかないのだ。
 「三原則の見直しに含みを持たせたいのだろう」との「天声人語」氏の指摘は間違いないが、「見直すとも、見直さないとも首相は言わない」のは、今回の首相の挨拶があくまでも現時点までの肯定で語っているからだ。これからのことは何も言っておらず、おそらくこの御仁の頭の中ではとっくに「非核三原則」堅持は消えているのだ。
 「広島の被爆者からは直球で問われたが、正面から答えなかった。(中略)対話する気はないらしい」と「天声人語」氏は当然ながら批判する。だが、高市首相からすれば、語らない、対話しないことはむしろ当然で、この日までの既定路線を守るためだったのだ。
 この日の「天声人語」は次のように結ばれる。
 「異論にも耳を傾け、説明を尽くしてこそ民主主義のリーダーである。首相は選挙に勝って、首相になった。では、いま、首相となったか」
 高市氏が「どこか背筋が伸びるような「と」の重み」を感じる期待はしない方が良さそうだが、〝山椒は小粒でもぴりりと辛い〟この日の「天声人語」は良しとしようか。

 元大学教員 

(2026.8.20)
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