【オルタの視点】

最近気になること

河野 洋平


◆◆ 総理大臣の「解散権」をめぐって

 今朝の新聞は一斉にダブル選挙はないと書いています。ずいぶん不思議な話です。つまり総理大臣に解散権というものがあって、それはいつでも自分の都合のいい時にやろうと思ったときには解散ができる、と理解されているわけです。しかし、憲法学者の方々の話などを伺いますと、実はそうではない。総理大臣に解散権というものがあると思うのは間違っている、とおっしゃる憲法学者もたくさんおられるわけで、私も実はそう思っております。
 しかし当たり前のように「ダブル選挙はやめた」と安倍さんは言って、これでどうもダブル選挙はないらしいということになった。まあまだわかりませんけど、概ねそうだと思いますが、もし逆に、安部さんがやろうとご本人が思えば、今日か明日か解散することはできたわけです。内閣総理大臣が自分の都合のいいときにいつでも国会の解散ができる、と解釈されており、過去にもそうしたことがずいぶん多い。

 戦後新憲法下で国会の解散は23回ありましたが、そのうちたしか19回、大部分が総理大臣の恣意による国会の解散ということになっています。ご承知の通り、国会の解散は憲法69条、内閣不信任案が成立したときに、総理大臣は総辞職するか、あるいは国会を解散するか、いずれか選択することができると書いてありまして、本来は69条解散というものが国会の解散の正当な解散の姿でございます。
 それ以外の7条解散という、内閣の助言によって天皇陛下の国事行為として国会を解散する、それは天皇陛下の国事行為というけれども、内閣の助言によってということが書いてありますから、内閣が「解散したいと思いますのでよろしく」と言えば、陛下は判を押されるということで、この7条解散が、今言われているような総理大臣の解散権というものになっているわけです。

 過去を振り返ってみても相当悪質な、寝たふり解散とかいろんなことを言われて、総理大臣だけが知っていて、突如として解散してしまう。野党の準備が整っていないうちにやってしまおうとか、あるいは今やると自分に得だからやってしまうなど、総理がいつでも解散権を行使できるということがあって、一体いいのだろうかと私は思っています。「いいのだろうかと思っている」というのは、少し優しい言い方で、私はそれは間違っている、そうであってはならん、と思っているの です。

 百歩譲って、もし解散権があるとすれば、つまり総理大臣が国会の姿を見て、「これはもうどうにもならん。解散じゃ。」と言って解散するということがあるとすれば、それは地方自治体はみなそうですけれども、地方自治体は市長なり知事なりが、県議会を解散する、市議会を解散することもありますが、その場合には、解散して選挙をやって新しく出てきた人は、前の人の残余の任期だけ務めることになっている。そこからまた4年の任期が発生する、ということにはなっていないんですね。唯一国会だけは解散すると、新たに4年間の任期が出てくる。ですからまた、その4年間の中で、都合のいいときにまた解散すれば、またそこから4年間任期があるということになっている。これは憲法にそういう規定があり、私がいくら言っても、憲法で「解散して当選の日から4年間の任期」と書いてありますから、もう国会はどうしたって解散すれば4年になるんです。

 しかしどうも理屈というか、強いて言えば、私はやはり、解散しても新しく当選してきたら、それから残余の任期だけ務める、というのが本来の姿ではないかと思っています。総理大臣が、自分で都合のいい時に、いつでも国会を解散できて、しかもそこで、ご破算で願いましてはで、また新しく出てくるとまた4年間の任期ができると解釈をしてやっていくのは、どうも少しおかしいんじゃないかと思います。

 「お前のように護憲論者で憲法改正しちゃいかん、と言っておきながら、ここで4年の任期はおかしいから、残余の任期だけにしろと言えば、それは憲法改正しなきゃならないじゃないか。ほら見ろ。」と、「憲法は改正しなきゃならん。細かい改正すべき点がたくさんあるんだよ」という、改憲論者の根拠のひとつになりそうなので、あんまり大きい声では言わないんです。
 しかしそうではなくて、やはり総理大臣の見識、国政に関わる人間の良識と言うか、見識というものがやはり、任期の途中で解散になったら、新しく出てきた者は残余の任期だけ務める、それが普通だろうね、とみんなの合意ができてやっていくことができれば、わざわざ憲法なんか変えなくてもよいのではないか思っています。
 ここがなかなかそう簡単ではなくて、いつでも権力者は自分の権力の座にいる期間を長くしようとする。自分の権力の座が心地よいものでなければ、もう一回座布団をパタパタとはたいて、もう一回座り直すことを考える者のようでございまして、これはぜひ直してもらいたいものだと思うんですね。

◆◆ 議員定数と民主主義

 それから解散ということになりますと、一体この選挙というものを考えてみて、私はいろんな問題があるのではないかと思っています。つまり民主主義は、選挙という行為によって初めて、有権者と政治とがつながる唯一のチャネルで、その唯一のチャネルが正しく動いているかどうか、あるいはそれが正しくセットされているかどうか、ということは非常に重要なことだと思います。
 私が一番不思議に思うのは、いつでも国会議員さんは、議員定数の削減を必ず言うんですね。議員定数の削減というのは、有権者にとっておもねるというか、有権者にとっていいことを言うと思ってもらいたいものだからです。

 しかしなぜ、議員定数を削減しなければならないのか。私は非常に不審に思っています。一般的にいうと、例えばアメリカに比べると議員の数が日本は多すぎる、だから減らすほうがいいんだという主張があるんですけれども、それはしかし、どこと比較するかによって、例えば大部分のヨーロッパの国と比較すれば、日本の議員の数は、例えば国民十万人あたりの議員数というところからいくと、決して多すぎないし、むしろ少なすぎるくらいなんです。

 戦後最初に国会議員の選挙をやったときには、国会議員の定数が466人で、それが途中で沖縄返還とかいろいろあって、だんだんだんだん定数が増えていって、一時は500人を超えるところまでいっていた時代があります。それは少し多いんじゃないかということで、それを刻んで減らしていって、今言われている数は、460数人まで減らすと言っているわけです。

 例えば今度の選挙法の改正によると10減、10人くらい減らせというわけですね。小選挙区で6、比例で4でしょうか。しかし10人減らすと、その定数は、戦後最初のときの466議席より下回ってしまう。戦後最初の選挙をやったとき、昭和20年の日本の人口は約7千数百万人です。今1億2000万人いるわけですが、それなのに7千数百万人だったときの定数よりも、さらに議員の数を減らすことに、どういう根拠があるんだろうか、と私は思うんですね。

 確かに新聞などを見ると、あるいはテレビのニュースなどを見ると、「こんな議員がいるのかい」という困った議員がいるということも事実です。「こんな奴が国会議員として月給とってんだ。ひでえじゃないか」と。それはもう税金の無駄遣いとしか言えない。だから「こういう奴は議員じゃダメだ」「こういう奴がいるからその議員の数は減らさなきゃいかん」「こんな奴を置いといても仕方ない」と、こういうことですね。議員定数の削減というのは、ちょっといいことを言っているような耳当たりのいいところがあるんです。

 もうひとつは、偉い人が国民に増税を求める以上は、われわれ政治家も身を切らなきゃならない、と言うんですね。しかし、「身を切る」とはどういうことか。彼らが言っていることは、「身を切る」ということは、「10人議員を減らす」ということなんですね。議員定数を10人減らすことが身を切ることになるんだろうかと思うわけです。
 10人定数を減らして身を切るというのは、減らされたところだけは、確かに身を切るんですけれども、それ以外のところは、全く身を切るなんてことにはならない。むしろ議員というのは有権者の代理人ですから、代理人の数を減らしていくことは、有権者にとってみれば、自分の権利を減らしているようなものです。自らの主張すべき権利をこれだけ減らす、ということが、どうして自分が身を切るということになるのか。私はむしろ議員定数は増やしたほうがいいとすら思っているんです。

 「いやあそんな馬鹿な」とおっしゃる方があるかもしれませんが、私は身を切るなら、毎月100万円の手当を切ったらいいと思います。

 国会議員は歳費を取られたらいいと思います。歳費も相当高いと言う説もありますけれど、それでも歳費はとったらいい。しかしその裏にある毎月100万円の手当というのがあるんですね。年間1200万円。これは税金もかからなければ、何に支出したか領収書もなければなにもない。渡し切りの毎月100万円というものがあるんです。文書通信交通費とか言う名目で毎月100万円。これを切れば相当身を切る改革になるなと思います。

 そして、議員は歳費だけにする。歳費だけにするっていったって大変なことです。しかも賞与まで入れれば、年間大変な金額の歳費を議員はとるわけですから、変な言い方ですが、それはとられたらいいと思うけれど、それに伴って出されている、裏にくっついている金額くらいはこの際切ったらどうだと。極端なことを言えば、全額切らなくても半額切るとか、それだけだって大変なことです。月100万円手当が出てたものを50万円にするとすれば、年間600万円、それは明らかに身を切ることになるわけですから、そういうことをやるべきで、議員の数を減らして身を切ったなどという説明をするのは、それは明らかに誤魔化しとしか言いようがないと私は思うんです。

 さらに見ていると、どうも小選挙区制を切るのはなかなか難しいから、比例の数を切ってしまおう、と乱暴に言う人もいるんですね。しかし、この小選挙区比例代表制という制度はひとつのパッケージで、小選挙区制というものは死に票が多いから、その死に票が多いのをどうやってカバーするか、という意味で比例代表をくっつけているのであって、その比例代表の方だけを切ればいい、というのは全く制度の本質を知らない議論だとしかいいようがない。

 この定数減について、どこでこういう間違いが起こってしまったのか。選挙制度に関する調査会の座長の佐々木毅先生が、答申案を出す時に大変苦労したと。本当は議員数を減らすことは本筋じゃない、議員定数を減らすのはあんまり正当な理由はないと。しかし繰り返し国会、立法府で議員を減らす減らすと、各党がそれぞれおっしゃっているから、その立法府の気持ちを入れて議員定数を減らすことを書いたわけで、本来の考え方ではない、と佐々木先生はおっしゃっている。ではそこで佐々木先生は、なぜ議員定数を減らすことが本当ではない、ということをきちっと調査会でおっしゃらなかったんだろうか、と私は残念なんですね。調査会がそういった答申をするものですから、立法府もそれをそのまま受けて、たとえ10人でも減らさなきゃいかんということでやることになった。

 私は議長以下何人かの方に、「定数を削減するのはおかしい」と申し上げたのだけれど、「いやまあ、そう言うけれども、各党そろって身を切ろう、ということでは合意をしているのだから」と、確か共産党ともう一党どこかは、定数減に賛成しておられなかったと思いますが、大手どころは議員定数減だと言っているので、調査会もその意見をいれたし、また逆に調査会がそういっているから、と立法府もその議論をしている。定数を減らそうという意見や議論は、今度の定数削減の議論の中でほとんどないんです。

 減らしていくと、一票の格差をどうするかということになり、そうなるとなかなか行き詰まってしまって、小さな県は割りを食ってしまうことになる。増やして一票の格差を是正しようと思えば、そう難しいことではないと私は思うんですが、減らしてやろうというものですから、高知とか徳島とか、島根とか鳥取とか、人口の少ないところは大変難しい状況になっている。聞いていると、不思議なことにそういうところで減らして、東京とか大阪とか神奈川とかで増やすということで、一票の格差のバランスをとるわけですけれども、見ていると、小さい人口の少ないところからは、いじましいくらいに、「議員の数を減らさないでください」としきりに陳情がくるわけです。一方、東京とか神奈川で議員の数を増やしてほしい、という陳情は聞いたことがない。どうしてあんなに「減らさないでくれ」というところを減らして、「増やしてほしい」とも言わないところを、増やさなければならないのか。私はそういう意味からもおかしいと思うんです。

 本当に一票の格差をイコールにしようとすれば方法はひとつしかない。全部全国区にすることです。全国区にすれば北海道の一票も沖縄の一票も東京の一票も全部イコールですから、一票の格差を一番重要視するのなら、全国区でやるのが一番よろしい。あるいは比例代表でやることがよろしいと思います。比例代表も全国区でやると。

 しかし全国区をやめたのにはやめただけの理由があるわけでして、どうも全国区というのは大きな組織を持っている人が有利になってしまい、組織のない人は不利だと。あるいは、全国的に名前の売れているタレントとか、そういう人はいいけれども、そうではない人は全国区はとても金がかかって、つまり全国周って歩かなければならないから、金と時間がかかりすぎてとてもやりきれない。ということから全国区はやめとなっているわけです。それをもう一回全国区に戻せ、ということはなかなか難しいことであると思います。

◆◆ 議会制民主主義と選挙

 しかし私は、本当に議会制民主主義が一番いい制度だと、この制度を守っていくことが民主主義国家として大事だというなら、そのことのために使う労力とか、使うお金を私は惜しまなくてもいいんじゃないかとすら思うのです。議会制民主主義と選挙というこの繋がり具合がおかしくなったら、この制度は上手くいかないのではないかと思うんです。

 たとえば東京都知事の問題があります。今私は舛添さんのことをとやかく言うつもりはありません。舛添さんのことをとやかくいうとすれば、この4年間に石原、猪瀬、舛添と3人も変わったということの方が、もっと私にとっては、ちょっと困ったことだなあと思います。しかもその3人代わったことが困ったというだけではなく、この3人の方が、都知事として理想的ないい人であったかどうか、ということをもう一度考える必要があると思うんです。私が申し上げたいのは、今一番困るのは、たとえば都知事を例に挙げたのは適当かわかりませんが、候補者になり手がいないということが一番問題なんですね。いい候補者というものがいない、つまり立候補してくれないんですね。

 民主主義のように代議員制で、誰かに自分たちの考えを委ねて、何かやってもらおうというときに、委ねるいい人がいないとできないんです。私が現役だったときにも、都知事問題というのはずっと難しくて、候補者、特に保守党の候補者というのは、なかなかいい人を探すのは難しい。ですからひところは、秦野章さんにお願いをしたり、鈴木俊一さんというお年寄りの方に何回もお願いして長くやっていただくとか、なかなかいい候補者がいないんです。

 当時も私はそんなことをする場にいたものですから、いろんな人から「なんでもっといい候補者を連れてこないんだ」「こんな候補者じゃダメだ」「東京と大阪は特にひどい」と言われました。「本田宗一郎とかあるいは井深大、そういういい人をやったらどうだ」と言う人がいるんですけれども、「考えてごらんなさい。そういう人が新宿の駅前で旗立ててお辞儀しますか?」「池袋の駅前行って、朝から演説すると思いますか? なさらんでしょう」と。そうしたことをなさる方のほうに、割合、票が流れるんです。どんなに良い人をかついでも、その人が「私はそういうことはしないんです」と言って、じっと座っておられたら、選挙はなかなか当選しないでしょう、となる。誰か票が集まりやすい人に、ということになる。

 だから、選挙が弱いけど非常に有能な人を探すか、あまり有能ではないけど選挙は強そうな人を探そうか、ということになると、どうしたって選挙の強い方を探さざるを得ない。もっと言えば、そういう人でないと手を挙げません。手を挙げてくれないんです。

 だって今、みんな現職の都知事のことをあれこれ言うけれど、もしあの都知事さんが「次の選挙に私はもう出ません」とおっしゃったら、次の選挙でかつぐ人が思い当たる方がおられるでしょうか。私はそこがなかなか難しいところだと思います。「いや、あれが出るよ」と思い当たる方があったら、その方が本当に都知事として有能であるかどうか、ということを次に考えていただきたいと思うんですね。

 昔はそれでもいたんです。なぜいたかといえば、都知事というのは相当に尊敬を集めて、敬意を払われる存在であったわけです。今の都知事は、毎朝テレビのモーニングショーであれだけ悪しざまに言われちゃうと、それはもう敬意も尊敬も信頼もないですよね。そういう場に立とうと思うような人はいない。「私が」と言って手を挙げて、もしその場に立ったとしたら、途端にその人の何十年か過去の仕業について、全て暴き立てられて、こんなやつで良いのかと直ちに攻撃されてしまう。何十年も後ろ指一本刺されずに生きてきた人が、私を含めているかというと、なかなか難しいこととなると思うんです。やっぱりそれほど難しいということを、私はただ申し上げたかったんです。

 候補者を探すこと自体が非常に難しいし、その選挙たるやなかなか難しい。それはなにも東京や日本の例だけでなく、いまのアメリカの大統領選挙を見ても、アメリカの大統領選挙の姿が非常にいい姿だろうかと思うわけです。あれが民主主義国のリーダーを選ぶ理想的な選挙なんだろうか、と考えると、実に民主主義というもの自体がどうなんだろうか、民主主義ということは良い国を作ることができるんだろうかと考えてしまいます。

 いや、わかりません。トランプという人が大統領になるかもしれません。ヒラリーさんがなるかもしれません。いずれにしても、このプロセスの中でアメリカという国が抱えているあの難しさ、これは誰がやってもなかなかうまくいかない。上手くいくとすれば、その人が権力や権威を使って国をまとめる以外に方法がない。それが民主主義国の理想の姿と言えるかどうか、と私は思います。

 朝日新聞だったでしょうか。日本の政治は劣化していると最初に書いて、以来、政治の劣化という語は誰もが使い納得する言葉になった。その政治の劣化というのは、日本だけではなくてアメリカでもヨーロッパの国々でもみんなある。フランスもあるし、イタリーもあるし、スペインもあるし、ギリシャは劣化というのを超えているのではないかと思いますが、どこもみんなそういう状況になってしまった。

 それは何かと言えば有権者が自分の利益を非常に強く主張するようになって、全体のためには自分の利益を多少でも譲る、あるいは妥協する、そして合意を作って円満な、理想的な方向に向かって政治を行っていく、国を進めていく、ということになかなかなっていない。ここに難しさがあるように思います。

 元に戻りますが、選挙法もずいぶんちょこちょこと改正をしながら今日まで来ました。しかしこの選挙法の改正は、たとえば衆議院の選挙についての法の改正は衆議院がやる、つまり参議院議員が衆議院の選挙について、ここは直したらどうだ、とこれっぽちでも言おうものなら、袋叩きにあいますから、同じように衆議院議員が、参議院のいまの選挙はどうもこうじゃないか、などと言えば、参議院からびしっとやられますから、絶対に矩を超えない。衆議院の選挙制度に関する特別委員会の議論については、衆議院の選挙ということしか議論しない。参議院は参議院のことしか議論しない。いまはどうか知りませんけれども、私が現役だったときはそうでした。ちょっとでも矩を超えようものなら、呼びつけられてすごい剣幕で叱られたものです。

 しかし私は、衆議院と参議院の制度はやはり一緒になって、両方で考えないと上手くいかないんじゃないかと思っています。つまり衆議院と参議院が、選挙の選ばれ方はちゃんと違うんだ、ということがはっきりするような選び方でないと、同じような選び方で衆議院と参議院を選んでいたのでは、二院制が上手くいかないのではないかと思ったりすることがあって、ちょっとでも言おうものなら大きなお世話だと叱られたものなんです。そうは言うけれども、何回も衆参同時選挙というのは、今回もそうですが、衆参同時選挙があると、なんとなく衆議院と参議院は一緒にやっていいのかねと言いたくなるんです。

 参議院の方はちゃんと3年おきに定期的に選挙をしているので、衆議院の方が時々、参議院の方に寄って来るだけの話で、衆議院の方が、ちゃんと姿勢を正せばいいだけじゃないか、と叱られるのですが、そうやって3年毎にきちんと定期的にやっているよ、という参議院が、今日はもう私は議員じゃないから、叱られないからいろいろ言いますけれども、こうやって定期的に3年ごとにちゃんと選挙が来る参議院が、選挙法の改正が計画的にちゃんとできそうなものだけれども、いつも間に合わなくて、次に回しているんですね。衆議院は解散があるので、今回は間に合わなくて次に回す、というのはありますが、参議院の場合はそんなことはないのですから、ちゃんと計画を立てて選挙制度の改正を議論して、結論を出せばちゃんとできるはずなのにそれができない。

 私が現役だった頃にもいろんな選挙制度の改正はありました。たとえば私が初めて選挙に出た頃、昔の話で笑われちゃいますけど、初めて出た頃はかれこれ50年も前の話ですけど、衆議院の選挙でも選挙期間が3週間あったんです。20日間です。今はなんと、もう12日になってしまったわけですね。つまり選挙期間中に土日は1回しかない。どんどんどんどん選挙の日数は縮んでいるんです。選挙制度の改正の議論をする議員は、なるべく楽をしたいと思っているんですね。長いのは嫌だと。だからどんどんどんどん選挙の日数は縮む。
 現役の議員が縮めようと言って縮めますから、現役の人にとってはきっと楽に違いないが、新人は全く自分の意見は反映されませんから、新人は自分の主張をできるだけ大勢に伝えようと思ったら、選挙期間が長ければ長いほどいいわけです。ところが短かったら名前を周知する時間すら無くなってしまうかもしれない。これは非常に問題だと思います。

 年寄りを呼んだのですから、昔話をするのを勘弁してほしいと思いますが、お若い方はご存じないと思いますけど、ご年配の方はあるいはご記憶があるかもしれませんが、私が初めて選挙に出たころは選挙期間中に必ず立会演説というものがあった。各党が集まってみんなで集まって各選挙区ごとに演説をしたものなんです。NHKで全部一緒にそろってやるとか、そういうのではなくて、小さな町まではいかなかったですけれども、少なくとも各市ごとに候補者が全部集まって、ここでやりなさいと。選挙管理委員会が主催して、それで1人20分、30分ずつおやんなさいなどと言って、そこで共産党も自民党も社会党も何も、みんな同じように並んで演説したものなんです。ですから、そこに行って聞いていれば、その選挙で何党が何を問題にしているか、あるいは、この人が何を問題にしているか、わかって比較できたものなのです。

 それが、あるときから、ああいうのは面倒だからやめようという話が出てきて、今は立会演説は影も形もない。時々小選挙区で青年会議所が主催してやっているくらいです。つまり多数派にとって都合の悪いのは全部やめちゃうという体たらくなんですね。

 そうやっていきながら、供託金だけはずっと変わらず300万円ですね。供託金ももっと安くしたらどうかと思います。0円というわけにいかなければ、せめて10万円とか、あるいは20万円くらいでどうかと思います。だけど300万円の供託金は絶対下げない。

 なぜ下げないかというと、泡沫候補みたいなのが出てきて、ばかみたいなことを言うから、だからそういう人が出てこないように、一定の金額が納められる程度の人でないとだめだ、という理屈らしいんですが、300万円という数字はずっと残る、

 泡沫的な方も、申し訳ないけどおられると思います。だけど、おられたとしても、優秀だけれど金がない人もいるわけで、そういう方を掘り出す、見つけることの方が大事じゃないだろうか、という気もします。

 東京都の選挙を見ると、20人も30人も出てきて、戦いを聞いてるのは大変だ、という候補者がいないわけではないけれども、それでもなおかつ、そういう人の話を我慢に我慢を重ねて聞いても、有能な人の一人二人見落としてしまうことの損失の方が大きいのではないか、とも私は思っているんです。

◆◆ 小選挙区制度について

 私は自民党の総裁をやったことがあり、ちょっと威張っているんですけれども、私でもやったことがあるんですね。なぜ私が自民党の総裁をやったかというと、自民党が与党でなくなったからです。野党の総裁なんていうのは、やり手がいないものですから、やってみろということだったと思うんです。

 与党に戻ると「すぐ変われ」ということで、私はすぐ変わりましたけれども、野党時代の総裁をやって、ときの総理は細川護煕という人ですから、細川さんと二人で、さっきちょっとお話があった小選挙区制の導入という、非常にドラスティックな選挙制度の改革をトップ会談で決めた張本人です。

 私は、最初に申し上げておきますが、この小選挙区制の導入は大失敗だったと自分で思っておりまして、願わくば、1日も早くこの小選挙区制は改正してほしいと思っています。小選挙区制だって、やりようによってはうまくいく制度だとは思うんですけれども、少なくとも今やっている小選挙区制は成功だと思いません。当時、「小選挙区制はいい制度だからやろう」と私のところへ言ってきてくださった、政治評論家とか政治学者とか、そういう人たちの私に対する説得がいかにでたらめだったか、非常に残念に思いながら思い出すんです。

 全部が全部でたらめだとは思いませんが、非常に尊敬している政治評論家、政治学者の方も大勢おられますけれども、時流に乗って、「中選挙区なんかだめだ」「小選挙区じゃなきゃだめだ」「小選挙区にすればどんなにいい政治が行われるか」となんて言ってきた人の顔を、今でも忘れないんですけれども、この頃だいたい亡くなってしまって、敵討ちもできずにいるんですが、小選挙区制の導入は非常に失敗だったと思っています。

◆◆ 政党助成金制度について

 それと同時に、今あまり言われないので黙っているのですが、もうひとつ、政治改革をやったのは政治資金ですね。政党助成金です。税金を使って政党を助成するという制度を導入したんです。これが大失敗だったと思っています。大失敗だというのも変な言い方ですが、これは当時自民党が、政権の座から転げ落ちたのは明らかに、金丸信という人が、私的に相当な政治資金を懐に入れて、自宅に金の延べ棒なんかをたくさん持っていた、という事件がありまして、これはもちろんそれだけではありません、それまでにもたくさんスキャンダルはあったわけですけれども、最後に引き金を引いたのはこの金丸スキャンダルだと私は思いますね。額の大きさとやり方の横着さから言って。これでもう自民党はだめだということになって、自民党は政権の座から転げ落ちたと思います。

 そういう非常にスキャンダラスな政治資金に関する事件があったものですから、とにかくもう、政治資金の受け取り方・渡し方・出し方を変えなきゃだめだ、という声が大変大きな声でありました。その時に「民主主義には金がかかるんだよ」「民主主義のコストだよ」とわけ知り顔の評論家が来たりして、私は決してそう思ってませんけれども、「そういうこともあるのかもしれない。じゃあどうすればいいのか」と言うと、企業献金を廃止する・禁止するだけではよくならない。早い話が「政治家に金を一銭も出さないとなると、政治家になるのは金持ちしかなれない、それではおかしくなるだろう。やはり政治には一定の金は必要なのだから、企業献金を廃止するならば、他の政治資金がなければいけない。それは公費、つまり税金で政治資金をまかなうということが一番いい。」と。企業献金は悪だとは言いません、と自民党は言い続けているのですけれども、全部がもちろん悪ではないのですが、企業の政治献金が悪な部分というのは明らかにあるんです。政治献金によって政策が曲げられることがいくつかあった。

 企業の政治献金はだめだということだったんですが、では、個人の政治献金はいいから、企業献金はやめて、全部個人献金に切り替えたほうがいいという議論を、当時私はしました。しかし、それとて大変なやせ我慢です。

 個人による政治献金は大変困った部分があるんです。個人から10万円個人献金をもらってごらんなさい。もうその人の駐車違反は全部代議士が謝りに行かなければならない。スピード違反は勘弁してくれと言いにいかなきゃならなくなる。結婚式には必ず来て挨拶しろと言われる。その人の親戚の葬式には花輪を出せと言われたり、個人献金というものは情が乗っていますから非常に難しいものです。「そういうことはできません」「そんなこと私はやりません」なんて言おうものなら、詐欺にあったような顔をして、10万円タダで取られて損しちゃったみたいな顔をされる。個人献金というものはそれはそれで難しい。

 つまり、「あいつからもらった金だから、あいつがなんかやるときには付き合わなきゃいけない」となるから、「ひもの付いていない政治資金はないのか」ということになって、紐の付いていない政治資金というのは公費、税金で援助する資金を出す。そうすれば誰が出したかわからないわけだから、紐付きでないからそれが一番いいということになって、企業献金もだめ、個人献金は一定の金額以下ならいいと、それによって制限を加えられて、減らされた部分は公費で助成する、公費で穴を埋めようということになりました。一人250円程度なら、みんなに出していただいていいんじゃないかということを勝手に言って、およそ300億というお金を政党助成の政治資金として集めて、その300億を各個人には配れないので政党に配ったわけですね。

 少なくとも私と土井たか子という時の衆議院議長は、これをやることで企業献金はなくなると思っていました。私は確信を持ってそう思っていました。しかし、そういいながら間が抜けていた。偉いもの同士が「これで企業献金はやめようね、そうしよう」と口約束だけで、すぐにやめるわけにはいかないから、激変緩和ということで5年経ったら、もう完全にやめようという暗黙の了解で、300億の国費を政党に渡すということにしたんです。

 20年前の話ですが、いまだに300億ずつ各政党はとっておいて、企業献金は一銭も減らない。ずーっともらいっ放し。誰も「恥ずかしい」とか「あのときそうだったな」という人は一人もいないんですから、これはどうも、今の政党や政治家は、それだけでも羞恥心のかけらもない、と私には思えますね。困ったものです。

 しかもその300億をどうやって配るかということも大変でして、共産党だけはお金持ちの党ですから、いち早く手を挙げて私はもらいませんと言った。それ以外の党は、くださいくださいと言ってそれを分ける。どうやって分けるかというと、議員の数で分けるわけですから、12月になると必ず、何党の何さんは何とくっついて何人になったからと、1組になるとそこに政党助成金がいくわけです。

 政党助成金と言いながら政党の定義も極めて曖昧ですね。選挙法で、党の公認候補を認めなければなりませんから、そこで政党とはなんとなくこういうものだと考えられているのですけれども、しかしあれだけの巨額なお金を渡すなら、政党法というのはもっときちっとしたものでなければならない。例えばあれだけの額を渡される党に、政策綱領がないような政党があったんじゃ話にならないのではないか。どっち向いて何を主張しているかわからないところに国費を渡すというのは、それでいいのかと私は思っているのですが、この辺のところはもうひとつはっきりしないところがあるんです。

 もっと困ったことは、議員の数で渡しますから、次の選挙でどれだけ候補者を立てるかということはあまり関係ないのです。次の選挙で50人の新人を立候補させようと思って、50人の新人を抱えていても、50人の頭数はカウントされませんから、今の数で、だから例えば今は10人しかいないけど、次の選挙では50人出すんだよと言っても、10人分の政党助成金しかこないわけです。
 それは当たり前といえば当たり前なんですけれども、もっと言えば、これを渡すことで、「こういうことをしてはいけないよ」と決めようと言うと、例えば国会議員に対する規制をしても、政党としての規制をしても、じゃあ都議会の自民党はどうするんだ、あるいは地方議会の議員はどうするんだ、ということになってしまうんですね。

 政党は政党でいただくんですけれども、今、小選挙区になって1人区ですから、1人に配ればそれは党の活動費とできるわけですけれども、ところどころ2人区というのがあると、これはまたこれでややこしくなる、衆議院は1人区でも、たとえば、世田谷から出てる国会議員は1人だから1人に渡しても、その世田谷にいる都会議員と区会議員はいっぱいいるわけですから、この人たちに対する政党活動費はどうやって分けていくのか。まったくよくわからないやり方になってしまう、という具合になかなかこの政治資金規正法も難しい。

 私は例えば、国会議員が資金を集めたというので、年間政治資金の多い順に、誰々は何億集めました、というのが発表されるのですけれども、それを見て、たくさん集めた政治家はやはり実力がついてきたなあとか、力があるなあとか、それを評価するのだけれども、金を集めることを力だとか実力だとか評価するのも、不思議な話だと私は思っているのです。
 金の集め方が上手い人もいれば下手な人もいるので、そんなことで偉いとか偉くないとかいうよりは、むしろそんなことよりは政治資金なんていうものは、1年間にその人が行うべき政治活動のためのコストなんですから、どんなことやったって、1年に1000万とは言いませんけれども、年間5000万とします、1人5000万が上限だよと、上限を決めたらどうだろうと。聞いたこともない代議士が、2億も3億も集めた、すげえやなんていうのはおかしいよ。そうではなくて1人が年間に使う活動費は、5000万円なら5000万円で上限を決めて、これ以上は集めてはいけない、その中で政治活動を精一杯おやりなさい、と決めたらどうか、というのが私の主張です。

 私は何回もこの議論をしたのですが、何回も後藤田正晴という人に「間違っている」と叱られました。「後藤田さん、おかしいじゃないですか」と何回も食いつきましたけど、後藤田さんは「違う」と。「政党とか政治家というものは制限をする、法律で縛るということはできるだけ避けるべきものだ。かつて妙な法律で結わえといたものが、何かというと、権力者はその法律を使って政治家や政党を弾圧する。そういうことを我々は経験したことがある。だからなるべく政党や政治家は制限をするような法律の網を被せないほうがいいのだ」と。非常に乱暴な言い方をすればそういうことをおっしゃって、私は何回も諌められたことがありました。そんな議論が党内では当時はありました。今はどうかわかりません。今もあってほしいと思っております。

◆◆ まとめに代えて

 民主主義というものがこれでいいのだろうか。今の政治というものが有権者に寄り添ってなされているだろうか、と非常に心配です。民主主義というものは多数決の原則がある。最後は多数で決める。それはそうだと思います、だけれども民主主義には少数意見の尊重という大事なこともあるんです。そういうものがほとんどふみつぶされて、最近はもう多数による独裁、多数によって権力が振るわれている、とすら言われている。
 その多数というものが、そこに集まっている多数のひとつひとつの個が、自覚のある個ならいいのだけれども、その多数の個が、自覚がなくて烏合の衆になっていやしないかと。烏合の衆どころか、自分がどうすることが得か、などということが行動の羅針盤になっていやしないか。そういうことだと本当に国益を失う。国益どころか国の将来を失うことになる心配があります。
 あまりこんなことを言うと、なぜ自分はやめたのだと言われるので言いませんけれども、心配は心配だということを申し上げておきます。

 (元自民党総裁・元衆議院議長)

※この記事は、2016年5月31日、東京・内幸町・プレスセンターで行われた第9回オルタ・オープンセミナーにおける講演を著者の校閲・承諾を得て掲載したものです。


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