【コラム】
大原雄の『流儀』

映画『新聞記者』:マスメディアの中で個を貫いて生きるには

大原 雄


 私は、巨大なマスメディアの象徴のような放送局であるNHKの中で、東京の報道局社会部の記者やデスクを長年してきた。初任地の大阪中央放送局の報道部記者を振り出しにデスクになるまで通算16年間、報道局社会部(遊軍を含め、出先の記者クラブ担当)などで第一線の記者を続け、さらに東京の特報部(社会)デスクなど、デスク稼業も通算10年間経験してきた。
 そういう報道体験を踏まえて、話題の映画『新聞記者』を観たので、ほかとは一味違う映画批評を書いてみたい。というのは、もちろん、かつての職場を連想させる映画を観たからであるが、映画製作のエピソードを含めて書かれている『同調圧力』(角川新書/望月衣塑子、前川喜平、マーティン・ファイラーの共著)という本の中、「組織の中でどう個を貫いて生きるのか」という問題意識も映画の中で生かされているような部分があるということなので、そのあたりを軸に映画批評をまとめてみたくなったのである。

★物語としての『新聞記者』

 まず、映画『新聞記者』とは、どういう物語なのか。薄暗闇の中、スクリーンに描き出される映像は、ここ2、3年に実際に起きた事件で最近のマスメディアが大きく取り上げたもの。それだけに既視感がある。そういう象徴的な事件と人々の動きを巧く下敷きにすることで、リアリティを出し、成功している。

 映画『新聞記者』は、東京新聞社会部記者の望月衣塑子『新聞記者』(角川新書)を原案として、この映画のエグゼクティブ・プロデューサーである河村光庸が、企画・製作した。河村は言う。「この数年日本で起きた現在進行形の政治事件をモデルにしたドラマがリアルに生々しく劇中で展開していくという、映画史上初の試みとなる大胆不敵な政治サスペンス映画に着手しました。そして、出来上がったのが映画『新聞記者』です。本作は、報道メディアは政治権力にどう対峙するのかを問いかける作品です。権力がひた隠す政権の闇に迫ろうとする一人の女性記者と、理想に燃え公務員の道を選んだある若手エリート官僚との対峙・葛藤を描いた政治サスペンス映画」だという。

 文科省の元トップの女性スキャンダルの発覚。レイプ被害を訴える女性の会見。「疑惑」という名のニュース。正義の味方ヅラをするマスメディア。そこで働く記者やデスク。マスメディアの狂騒に晒される官僚たち。だが、ニュースの元になる事実は、真実なのか。情報の裏付け調査や検証、いわゆる「裏取り」取材は十分になされているのか。権力側の意図的な情報リークに踊らされているだけなのか。権力者同士の闘争に利用されて、これまた、踊らされているだけなのか。その辺りの調査・検証も十分になされないまま、あるいは、尻切れとんぼのまま、現状のマスメディアは、濁流のように流れて行くだけなのではないのか。そういう問題意識を感じて私も共感を覚えた。

 主人公の女性新聞記者は、東都新聞社という首都圏の、いわば「ブロック紙」という位置付けにある新聞社の社会部の若手記者という設定である。この女性記者・吉岡エリカは、新聞記者だった日本人を父に持ち(記者現役時代に出稿した特ダネ記事を誤報と疑われ、その挙句自殺した、という)、韓国人の母とともにアメリカに渡り、アメリカで育ち、大学卒業後、日本の、それもブロック紙の新聞社に入社し、新聞記者になったという設定である。
 それゆえ、日本のマスメディアに温存されている記者クラブ制度に馴染まず、あるいは、とらわれず、記者クラブを利用する被取材対象(行政や企業など)や記者クラブ内での、「忖度」や「同調圧力」とは彼女は無縁だ、という設定らしい。

贅言;「ブロック紙」は、いくつかの地方をまたぐ地域向けに印刷・発行。全国的に6紙ある。「北海道新聞」、「河北新報」、「中日新聞」=「東京新聞」、「中国新聞」、「西日本新聞」。地方には、さらに「地方紙」がある。「地方紙」とは、「中央」と「地方」という時の「地方」ではなく、特定の地域という意味の「地方」である。大手新聞社のような全国向けに印刷・発行、配送・配達する新聞紙(「全国紙」という。現在、読売新聞、朝日新聞、毎日新聞、日経新聞、産経新聞の5紙がある)ではなく、ある地域に特定居住する読者向けに印刷、配送・配達する新聞紙。したがって、首都圏といえども、「地方紙」は、いくつかある。
今回の映画で東都新聞のモデルになっているのは、首都圏の地方を束ねるブロック紙の「東京新聞」である。首都圏には、「県紙」という位置付けの地方紙としては、「神奈川新聞」、「埼玉新聞」、「千葉日報」、「茨城新聞」、「上毛新聞」、「下野新聞」などの「地方紙」がある。

★役者たち、配役の妙

 映画の主な配役。脇を固める実力派の役者たちの配役が成功し、映画の臨場感を高める。主役は、ふたりいる。ひとりは、ブロック紙社会部遊軍の女性記者。もうひとりは、外務省から出向して、内閣情報調査室に勤務している若手官僚。ふたりの主役を囲む人物群像は、大きく3つに分かれる。1・新聞社。2・内閣情報調査室。3・内閣府。

1・東都新聞:
 社会部遊軍記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン、韓国の女優)、社会部遊軍長(キャップ兼デスク)・陣野和正(北村有起哉)、社会部遊軍記者・倉持大輔(岡山天音)、社会部遊軍記者・関戸保(郭智博)

2・内閣情報調査室:
 杉原拓海(松坂桃李)―妻・杉原奈津実(本田翼)、内閣参事官(「総務課」所属で、課長に次ぐクラス。課長はひとりだが、参事官は複数いる)、杉原の上司・多田智也(田中哲司)、杉原の同僚・河合真人(長田成也)

3・内閣府(映画では、内閣府の情報調査室以外のセクション):
 杉原の外務省時代の上司・神崎俊尚(高橋和也)―妻・神崎伸子(西田尚美)―娘・神崎千佳(宮野陽名)、杉原の外務省時代の同僚・都築亮一(高橋努)

贅言・1;社会部遊軍記者とは。
 日本で、マスメディアと言われる機関は、新聞社(読売や朝日など)、放送局(NHK、民放などテレビ・ラジオ局)、通信社(共同、時事など)があるが、新聞社であれ、放送局であれ、通信社であれ、組織のジャンルを超えて報道組織一般の体制は、概ね似通っている。
 マスメディアに入社した記者は、民放などを除けば、新人は、地方に配属され、数年間から10年間くらいの記者修業を経て、東京などの本社に「上がって」くる。東京本社は、政治部、経済部、社会部、国際部、地方部、文化部、運動部などに分かれていて、適性や希望などに応じて、配属される。例えば、社会部では、警視庁グループ、検察・裁判所などの司法グループ、都庁・中央官庁などの行政グループなど出先のクラブのグループ、そして遊軍グループに分かれる。地方から上がって来たばかりの記者は、警視庁グループの所轄署(警視庁の方面本部ごとに分担)担当、つまり「警察(さつ)回り」から、始まることが多い。
 この映画の主人公の女性記者は、社会部遊軍ということだが、社会部遊軍記者とは、何か。出先の記者クラブに配属されずに、社会部らしい切り口のニュースを地道に発掘し、あるいは、日々、対応する中堅の記者集団である。あるいは、出先の記者クラブと連携しながら、特定のテーマでチームを組んで継続的に調査報道(独自取材)に従事したりする。したがって、若手の新人には、荷が重いから、記者経験の豊富な中堅からベテランの記者が選ばれることが多い。

贅言・2;内閣情報調査室とは。
 略称、いわゆる「内調」。「内閣情報調査室は、内閣の重要政策に関する情報の収集及び分析その他の調査に関する事務並びに特定秘密の保護に関する事務を担当しており、内閣情報官のもとで、次長及び総務部門、国内部門、国際部門、経済部門、内閣情報集約センター並びに内閣衛星情報センターで分担し、処理しています」(「内閣官房」のホームページより)ということらしい。
 映画では、杉原の直属の上司として、多田智也という「内閣参事官」という課長級ポストの官僚が登場し、「政権の安定こそが、国家の安定だ」と言って憚らない。自分たちの仕事は、どんな手段を使ってでも、国家の安定に奉仕できさえすれば良いのだと強弁している。「内閣情報官」は、いわば、内閣情報調査室の実務のトップ。二番手が、「次長」。

 このほか、「カウンターインテリジェンス・センター」(内閣情報官がセンター長)や「国際テロ情報集約室」(内閣官房副長官が室長、内閣情報官が室長代理)がある。「カウンターインテリジェンス・センター」は、ホームページによると、「カウンターインテリジェンス機能の強化に関する基本方針の施行に関する連絡調整等を行っています。国又は国民に対する脅威に関する情報の提供を受け付けています」と、ある。内閣府・職員採用のページには、次のような表現が記載されていた。「我々は、内閣の重要政策に関する情報の収集・分析を行い、政府首脳に迅速にインテリジェンスを提供する専門家集団です。未来の日本を支える熱い意志と情熱を抱き、情報機関員としてのキャリアを歩んでみてはいかがでしょうか」。
 要するに、日本の権力の「走狗」として、政権安定のために情報活動(スパイ活動)をしているということだろう。ホームページに掲載されている組織図を見ると、「幹部紹介」では、内閣総理大臣、内閣官房長官をトップクラスにし、次いで、3人の内閣官房副長官などと続く。内閣情報官(北村滋)までが、幹部ということらしい。

贅言・3;内閣府とは。
 内閣総理大臣、内閣官房長官らをトップに戴く組織。政権維持の要となるセクション。

★プロデューサーの問題意識

 映画『新聞記者』では、「この数年で起きている民主主義を踏みにじるような官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、それを平然と見過ごす一部を除くテレビの報道メディア。最後の砦である新聞メディアでさえ、現政権の分断政策が功を奏し「権力の監視役」たる役目が薄まってきているという驚くべき異常事態が起きているのです」、という河村光庸の問題意識が、時代背景としてスクリーンに映像化される。

 スキャンダルにまみれさせられた元・官僚を包むように群がるマスメディアの連中。いわゆる「メディア・スクラム」(取材対象者を取り囲むカメラマンや記者などが「ダンゴ状態」になる、無秩序な取材攻勢)の状態が日常化しながら、「ぶら下がり」(複数の各社が同時に行う立ち話スタイルのショート・インタビュー取材)という取材手法では、上っ面の断片的な感触、感想程度で、きちんとした情報(特に、責任者に質さなければならないような大事な情報)は取れないだろう。事実という断片は、真実という至宝へとつながるかもしれないが、繋がらないかもしれない。ものを見る視点、事実という断片を再構成する想像力、卓見力が試される。ここ2、3年で実際に起きた現象(国会で取り上げても、なかなか、「事件」にならない)が、「ああ、あれだ」と判るような形で映像化されている。

 そういうリアリズム手法の映像を映し出すスクリーンにフィクション、サスペンス、エンターテインメントなどの衣をまぶして、監督・脚本を担当した藤井道人の演出が冴える。この監督は、映像処理は巧みである。見せる映像、見応えのある映像を次々と登場させる。しかし、細部には、私から見て「?(はてな)」と思わせる場面もあるので、そういう点も指摘しながら、スクリーンを追って行こう。ただし、私の報道現場体験は、20世紀末までで途切れている。したがって、ここ20年間の、最近の現場の変化を私は抑えきれていないので、間違った指摘が出てくるかもしれないが、その場合は、ご海容願いたい。

 ある夜、東都新聞社会部のファックスに匿名の内部告発の資料が送られてくる。ファックスのある部屋に、誰もいないのか。大事な資料なのに、資料は吉岡記者宛ではなく、誰をも名指ししていない。資料は、表紙に目が黒く塗りつぶされた羊の絵柄が描かれている。文書は、「医療系大学の新設」というタイトルを付された極秘公文書だ。現実のできごとを見立てたような文書で、映画を観る観客に既視感を与える。大学の認可先は、なぜか、内閣府。首相の肝いり、ということらしい。
 翌日、文書は、遊軍キャップ兼デスクの陣野から、吉岡エリカ記者(シム・ウンギョン)に「これを預けておくよ」という科白とともに手渡される。官僚の内部告発か、何か、東都新聞に遺恨でもあり、誤報を誘発させるための情報漏洩(リーク)による情報操作(コントロール)か。このシーンを見せられて、残念ながら、私は少し鼻白んだ。リアリティーがなさすぎるのだ。
 新聞社の社会部にあるファックスは、四六時中、着信に対応可能の臨戦態勢だろう。社会部の部屋には、泊まり担当のデスク・記者、ほかにも「夜討ち朝駆け」の記者、デスク補助などが、24時間、どの時間帯でもいるだろうし、ファックスの資料は、リークによるコントロールを疑うにせよ、対応を余儀なくされなければ、おかしい。直ちに、関係の記者らに連絡という辺りが、最初のデスク判断では無いのか。映画『新聞記者』は、そのあたりが描かれないまま、資料は、翌日出社した吉岡記者に託される。吉岡記者も、文書の真相を突き止めるべく裏取り(裏付け)取材を開始する。と、ここまでは、新聞記者の物語。

★内部告発する、ある官僚

 内閣情報調査室の室員・杉原拓海(松坂桃李)は、外務省から内閣府に出向してきたエリート官僚。公務員は、国民の公僕というような正義感に燃える若手の官僚だ(官舎の自宅には、身重な妻がいる。初めての出産を迎えるため、気持ちが不安定になっているようだが、帰宅の遅い夫を健気に支えている。夫も妻を気遣っている)。しかし、直属の上司である多田智也・内閣参事官(田中哲司が、冷徹非情な官僚をリアルに表現する演技をしていて、実に、存在感があった)から指示される任務は、現政権を支え、維持するための世論操作の業務ばかり。警察の公安と連携して、文科省の元トップのスキャンダルを「でっち上げ」、マスメディアやネットメディア(ツイッターなど)を経由して、フェイクニュースを拡散させる業務に追われている。
 出産を控えて、気持ちが不安定になっている妻の元に少しでもいてやりたい杉原には、今の業務に強い疑問を感じている。杉原を演じる松坂桃李は、そのあたりの若手官僚の屈託感をうまく滲み出させている。杉原は、有能なエリート官僚なるが故に、疑問を抱きながらも、日常業務を淡々とこなしてしまう。そういう悩みは、外務省時代と違って、今の「内調」の職場では、同僚にも上司にも打ち明けられない。
 そんな心境の時に、外務省時代の尊敬する上司であった先輩官僚の神崎俊尚(高橋和也)から、電話で「飲み」に誘われる。新人時代から杉原が先輩として心服していた神崎は、5年前、ある不祥事の責任を一人で負わされて失脚し、現在は、同じ内閣府の別な案件を担当させられていて、杉原とは、日頃は疎遠になっていた。久しぶりに一緒に飲む酒席で、神崎は、楽しげにふたりで勤務した北京大使館時代の思い出を語る。杉原も、日頃の鬱屈を忘れて、旧交を温めながら楽しい酒を飲む。杉原は泥酔した神崎を自宅まで送り届ける。数日後、その神崎がビルから飛び降りて、自殺をしてしまう。投身の直前、携帯に電話をかけてきた神崎。「俺たちは一体何を守ってきたんだ」という血を吐くような言葉を残して。

 一方、地道な取材で匿名ファックスの主にじわじわと迫っていた吉岡記者も、神崎の自殺に強い衝撃を受ける。吉岡の父親も元新聞記者だったということが明かされる。政府がらみの不正融資について書いた記事を誤報とされて、自殺してしまったことが観客に伝えられる。吉岡記者は、父親の自殺の真相を調べるべく、日本の新聞社に就職したことが明かされる。それが、吉岡の就職の動機だった。吉岡は、積み重ねた独自取材の結果、匿名ファックスの真意を知るキーパーソンとして疑われる神崎に接近する。それと合わせて、自分の父親に特ダネ情報を伝えた官僚は、神崎ではなかったのか、という心象を強めていた。

 そこに、匿名の電話が吉岡の携帯にかかってくる。「あなたのお父さんは、誤報などしていない……」。「あなたは、誰。なぜ、そのようなことを知っているの」。「……」。相手は、あくまでも名乗らずに、真相を伝えようとしているらしい。

★新聞記者と官僚の出会い

 「内調」の杉原も、神崎の死によって、官僚としての自分の生き方を揺さぶられる。神崎が死の直前まで関わっていたとみられる案件とは、医療系大学の新設問題で、新設問題の背後にある真相を知ってしまったらしい神崎の行動を「内調」もマークしていたことを知る。杉原は、自分が「内調」にいながらも、自分だけが蚊帳の外に置かれていたと知る。生前の神崎は、いったい何をしたのか。「内調」の神崎マークは、何を調べようとしていたのか。尊敬する先輩が命がけで阻止しようとした大学新設問題の真相とは、なんだったのか。神崎の自殺の意味は? ダイイングメッセージに託された神崎の思いとは?

 取材記者として内部告発文書の真相に接近する吉岡記者。官僚の先輩後輩として、自殺の真相に接近する杉原。

 神崎の通夜。記者として取材する吉岡。先輩の遺族に寄り添うようにしている杉原。通夜の席から出てきた遺族たち(神崎の妻と娘)に、場所柄をわきまえない不躾な質問をする若い記者たち。遺族を囲むようにメディア・スクラムを演じるカメラマンたち。そういう若手の取材陣に「あなたたち、いまここでは、そんな質問をするべきではないでしょう」と注意する吉岡。彼女の内部で、何かが、弾けた瞬間だ。神崎の遺族に付き添って出てきた杉原とマスメディアの記者の吉岡は、この場面で偶然に出会う。「あなたは、あちら(マスメディア)側の人なのに……」と、絶句する杉原。私には、杉原の、この科白が突き刺さってきた。記者と官僚の人生と気持ちが交差する。

 「私は、神崎さんが亡くなった本当の理由が知りたいんです」と吉岡記者。
 ふたりの「大義」(記者として国民の知る権利に答えるための取材の自由。国民の公僕として仕える官僚、公務員の論理)が、重ね合わされる。ふたりは、首相肝いりの「医療系大学の新設」計画の背後に隠された目論見を知ることになる。やがて、ふたりの共闘が始まる。同じ職場の仲間内として、「内調」の上司、先輩同僚からのプレッシャー。生まれてくる娘と出産間近の妻、という家族を抱えた生活者としての思い。しかし、本当に国民に尽くす記者とは、また、公務員とは、何か。

 「そんな理由で自分を納得させられるのですか? 私たち、このままでいいんですか」。公務員は、先輩のオフィスに入り込み、問題の極秘文書の写真撮影までするようになる。実名告発まで覚悟する。女性記者の思いが、映画の結論となる。ふたりは、この後、ひとりは官僚として、ひとりは記者として、どう生きるのか。結末の真相発覚は、ミステリアスな面もあるサスペンス映画だけに、ここでは明かさない。映画館で観てください。

★映画からのメッセージ

 私は、この映画批評を書くにあたって、コラムのタイトルを「マスメディアの中で個を貫いて生きる」という標語のような表現に託した。映画の製作者の弁から受け止めたメッセージは、個を貫く、権力を監視する、ということであった。私も、現役時代、NHKという巨大なマスメディアの中での個の戦いを取材活動と絡めて、私なりに静かに実践してきたという自負がある。そういう記者は、私たちの時代のNHK社会部にも、先輩、同僚、後輩の中に何人かいた。

 では、私の場合。
 私のライバルは、他社の記者たちであることは間違いない。新聞もテレビも通信社も、取材活動に携わる記者たちは、皆、ライバルであった。マスメディアで働く私たちは、憲法で保障された国民の知る権利の負託を受けて、取材や報道の自由が初めて担保される。私が、多くの記者と違う点があったとすれば、私のライバルは、他社の記者たちばかりでなく、NHKの記者たち、先輩同僚後輩の全てであった。私が、もしNHKの記者になっていなければ、絶対にNHKのニュースや報道番組で放送しないような情報を一本でも多く、国民に届けたいと思いながら、日々、取材活動を続けてきた。つまり、私という源流点がなければ、風も吹かなければ流れも始まらないような「私らしい記事」を書くことであった。

 最近のNHKと私が現役で原稿を書いていた時期は、もう、往時茫々になってしまった。記者時代の16年、40歳でデスクになるまでの時間だ。何本原稿を書き、何本、社会部という出稿機関からデスクという関門を突き抜けて、原稿を「通して」いったことやら。
 その頃のNHKは、いまよりも自由で柔軟であった、と思う。社会部デスクという先輩たちの関門を突き抜けても、整理部(当時)のベテランデスクなどの関門が通りにくかったりする。そういう時には、社会部デスクに、私の原稿の大事さを力説し、背後や横から援護射撃をしてもらい、原稿を「通して」行った。NHKニュースの枠内で、時には「NHKらしくないニュース」の放送も、国民的な視点から実現させる。整理部にも、視聴率の良いニュース枠で放送してくれるように、とお願いする。私の、組織と個との戦いは、そういう日常的な出稿の場での戦いを意味していた。

 私という記者の風が吹いて行く原稿。そういう原稿が、NHKニュースの枠内で流れていったことが、時折、あった。ニュースの幅を広げた瞬間だ。取材をした対象者から、NHKを見直した、というお礼の電話がかかってくることもある。いまのNHKニュースにも、そういう国民(受信者)と一緒に伝えるニュースが、どのくらいあるのだろうか。現政権べったりの記者が、テレビに出てきて我が物顔で「解説」をする。現政権べったりの部署育ちの記者出身の役員が、我が物顔で会長のポストを狙う、などの噂が聞こえてくることがある。公正公平な報道、公正公平な組織運営、それが実現できるようにならなければNHKという組織は、国民から見捨てられ、早晩機能不全となるだろう。組織と個。この「個」は、「孤」を恐れずに国民(受信者)との連帯を求めていかなければならない。

★残念! リアルさを欠く社会部のセット

 映画『新聞記者』で、気になったことをアトランダムながら、書き留めておきたい。この映画は、サスペンス、エンターテインメント映画としては、確かに見応えがあった。しかし、30年前より以前まで、報道の現場で記者・デスクとして活動してきた身には、「?(はてな)」と思うようなシーンもいくつかあった。

 いちばん抜けていたと思われるのは、匿名ファックスの資料の取り扱い方だ。国家機密を暴露しようとする官僚の行為をサポートするような場合、記者の取材活動は、匿名ファックスでは、繋がらないのではないか。むしろ、取材対象となる被取材者と記者という取材者が、「協力して」特ダネを出すような場合、いろいろ危険なことがあり、それを乗り越えないと特ダネは出せない。
 まず、公務員は、法律で業務上知り得たことを外部に漏らしてはならないという「守秘義務」があるから、公務員が記者と協力して情報を漏らすためには、職を賭するか、今回の映画のように、命さえも賭する、という覚悟がいる。その場合、取材者と被取材者の間に、絶対の信頼関係が生まれていなければならない。そのためには、それぞれの「義務」を破っても良いというような、「高位」な価値判断が必要になる。
 ここでいう「高位」とは、国民のため、とでも言い換えれば良いかもしれない。そういう「公共的な高位」である。それでいて、記者のサイドでは、絶対にネタ元を明かさないという配慮、道義的な責任・義務がある。自分の命に代えてでも被取材者を絶対に保護しなければならない。被取材者が職を賭したり、命を賭したりするような危険を除去しなければならない。そういう場面が、弱かったように感じた。

 信頼関係に基づく情報の共有化。事実という断片、真実という至宝。断片を再構成する想像力。それには、卓見が必要だろう。マスメディアとネットメディアの共存。どちらでも良い。権力監視、ターゲットを見誤ることなかれ。

 いよいよ、原稿出稿。紙にプリントアウトして赤字を入れるシーンが、?(はてな)。吉岡記者が、新聞記事らしく、タテ何文字かでパソコンの画面に打ち出しながら、特ダネ原稿を書いている(ああ、新聞記者は、いまでは、こういう原稿の出稿の仕方をするのか)。その原稿をプリントアウトしたものに手書きで赤字を入れながら、陣野遊軍キャプ兼デスクが、原稿をより完全なものに仕上げて行く。足らない要素も指摘する。いまも、新聞社では、デスクやキャップは、こういう原稿の直し方をしているのだろうか。私たちがデスクをしていた時代は、「手書き原稿」からワープロ原稿への過渡期だったから、原稿への、こういう手の入れ方は、日常茶飯事だったが、いまは、違うのではないのか。デスクもパソコンの画面で手直しをするのでは無いのか。

 リアリティーは、細部にこそ宿る。東都新聞の社会部のセットは、リアリティーを欠くのではないか。東京新聞の文化部を社会部に見立てて、撮影したという。どこのメディアでも同じだろうが、社会部は、年間通じて、昼夜活動している。社会部には、24時間を分担して、ローテーションデスク(出稿の当番デスク)、デスク兼務の遊軍長(キャップ)は部室の定位置があるはずなのだ。さらに、報道機関には、出先の記者クラブを担当する各社の記者クラブのキャップ・記者(中でも、大キャップは、警視庁キャップ)と合わせて社会部という人間関係は、確立される。その辺りはあまり描かれていない。社会部というシステムが浮き彫りになって来ない。「遊軍」のキャップ兼デスクと記者たちの実態は、垣間見えたけれど。映画を観ていた一般の観客には、きっと、判りにくかったことだろう。

★「内調」とは、

 ついでに、映画が描き出した「内調」の内部は、さらに、よく判らなかったのでは無いか。私も、実際に「内調」に取材に行ったことは無いので、判らない。スクリーンに映し出された「内調」の雰囲気は、薄暗いばかりだが、机とパソコンと人が多い。ネットメディアヘの監視か、介入か。あのシーンは、そういう作業を担当している場面だったのか。それ以外は私には、よく判らない。「内調の闇」を象徴した演出だったのだろうか。

 前掲『同調圧力』の中で、巻末付録として所収されている座談会(そういえば、映画『新聞記者』の中でも、この座談会がテレビで放送されていて、パソコンの画面で見ているシーンがあった)の中で、元文科省次官の前川喜平さんが、体験した「内調」について述べているので、参考にしよう。引用は、趣旨中心に多少修正している。

 2001年の省庁再編へ向けて、「1998年から2000年までの2年間、内閣官房に臨時に設けられた組織である中央省庁等改革推進本部に課長級の参事官として出向」した、と前川さんは語る。
 「法務省の外局として存在している公安調査庁、これを縮小する方向だったのですが、この辺りをどうまとめるかという話の中で内調との関係が出てきたのです。(略)そのときに知ったのは、内調というのは、実は公安警察と一体だということでした。内調の幹部というのは、みんな警察庁出身者で、いってみれば警察の出先なのです。警察と一体になって仕事をしているんですね。内調の組織自体がすべての情報機能を持っているわけではなくて、警察と連携することで、その機能を維持しているというのがわかりました。内調は地方出先機関をもっていません。調査などで実際に動いているのは公安警察でしょうね。警察組織と一体化することで、巨大な情報収集網を完備させているのだろうと思います」。

★ターゲットを見失うな

 いま、日本のジャーナリズムでいちばん欠けているのは、記者たちの「横の連帯」だろう、と思う。ジャーナリストとしてのプライドや個性(多様性)を維持しながら、相互の境を越えて、権力監視のために会社の垣根を超えて共闘する記者群が、この国には出現しないものか。現状は、メディアは、分断され、支配されている。支配しているのは、現政権。民主主義の原理が阻害され、報道の自由度が、世界的にみても最低レベルに落ち込んでいる。ターゲットは、他社との報道合戦ばかりではなく、権力の監視であることは、言うまでも無い。これに対抗して、マスメディア、ネットメディア、それぞれの中での連帯。それぞれを超えての連帯。これこそが、新しいメディアのイメージではないのだろうか。
 マスメディアか、ネットメディアか、ということは、あまり問題ではない。事実の断片を丹念に拾い上げ、断片を再構築し、新たな真実の実相を卓見する。そうであれば、マスでもネットでもメディアは良いのでは無いか。マスメディアとネットメディアは、共存できる。権力監視こそ、共存原理。ターゲットを見誤るな。見失うな。権力こそ、ターゲット。そういうジャーナリズムが求められている、ように思う。

★記者の「横の連帯」を呼び掛ける投書

 14年10月15日の朝日新聞朝刊の紙面に実際に載ったある投書。新聞週間特集の中の「声」のページ。見出しは、「新聞の大義は、権力監視」。投書子が懸念を表明していた趣旨は、5年前も今も変わらないのではないか。

 <NHKの社会部記者をしていた。現役時代の「ライバル」朝日新聞にものを申す。
 慰安婦問題の「吉田証言」の虚偽は、分かった時点で訂正・謝罪をすべきだった。東京電力福島第一原発の「吉田調書」の過激な見出しは、いわば過剰広告であった。いずれも遅まきながら訂正したが、この誤判断は言論史に残る汚点だ。
 だが、もっと怖い「汚点」の恐れがある。いま起きているマスコミ各社による「朝日バッシング」だ。安倍晋三首相ら政治家も、マスコミ論調を見ながら「国益損失」などと朝日を批判した。朝日を批判するマスコミは、いずれ、自分たちの報道姿勢を権力者に咎められないようにと、権力者に秋波を送りながら萎縮しているように見える。
 国民の知る権利を担保されたマスコミの大義は、権力を監視することではないのか。足の引っ張り合いをしていたら、国民の新聞離れは加速するに違いない。国民の知る権利が劣化することになる。私が心配する「言論史に残る汚点」とは、このことだ。>

 この投書は、実は、5年前に実際に朝日新聞の紙面に掲載された私の投書である。

 マスコミの大義とは、そういう大義のことだろうと、私は、組織ジャーナリストだった現役の記者時代も、ネットの片隅で、いまもこのように、ささやかな論陣を張るボランティア・ジャーナリストであっても、メディアの大義への思いは変わらない。現在のマスメディア、ネットメディアの大海を生き抜く若いジャーナリストの皆さんにも、そういう思いが伝わってほしい、と思う。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、『オルタ広場』編集委員)

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