【コラム】ドクター・いろひらのコラム(26)
日本の若者たちに期待する
色平 哲郎
今年のお正月、懇意にしている大正生まれの女性Cさんと久しぶりに会った。Cさんはお正月と誕生日が重なっていて、新年で104歳になった。いまから20年ほど前、私が南佐久郡南相木(みなみあいき)村の診療所長をしていたころから、Cさんにはたいへんお世話になってきた。そのころ私は、毎年、医学生や看護学生を地域医療実習に受け入れ、村人たちに引きあわせていた。Cさんは、受け皿になってくれた方のおひとりで、機織りやブルーベリー栽培を学生たちに紹介しながら、ご自身の戦争体験についても語ってくれた。そんな貴重な村の「語り部」の一人だ。
私は村の診療所長を12年間務め、約2千人の医学生・看護学生を受け入れた。なぜ、医学生たちを迎え入れたのかというと「ヒトの心と生活」について知ってほしかったからだ。医学生は、ヒトとヒトの関係性や対応から成り立っている「医療」について、「医学」という入口からはいり、物事をどんどん捨象して覚えこむ。莫大な知識を頭につめこむには、そうしなくてはまにあわないからだ。極論すれば、医学生は、ヒトはタンパク質の塊だ、という側面から知識の体系をとりこむ。
しかし、医学教育に於いて、本質的でない、と切りすてたところに実は大切なものがある。人の心や、人びとの暮らしむきというものは、その最たるもので、情報ではなく、体感しなくては伝わらないのだ。知識でアタマがコンクリートづめになっている医学生に、いかに自身が物事を知らないか、いかに世間を知らないか、そこを伝えねばならなかった。
そのために、村人の力を借りた。
たとえば、90歳になった高齢の男性が「そろそろ死ぬ準備をしなくてはいけない」などというと、医学生の顔つきが変わった。村には都会とは違う死生観が根づいている。このことを、いまだに姥捨て山にでもいくのか、と思ったら大間違いだ。死ぬ準備というのは、愛着のあるわが家で人生をまっとうしたい、という願いの間接表現だ。
たとえガンのステージが進んでいても、痛みをとって、苦しませず、臨終のときまで世話をしてほしいと男性は願っている。
では、実際に住み慣れた家で看取れるのかとなると、家族のサポートだけでなく、往診する医師、訪問看護師、訪問介護に通うヘルパーなどのマンパワーが必須なのだが、はたして現状の体制で大丈夫なのかだろうか、という議論になる。
在宅で看取った経験のない医学部の先生方には、この現場感覚は伝えられないことだろう。
看護学生に、かつて無医村だった村に来て半世紀活躍しているベテランの保健師さんに会ってもらった。
保健師さんは「村でよくわからないことがあっても、村人から学ぶ気もちがあれば、みんなが助けてくれる」と若いころの失敗談や、苦労話を語ってくれた。
すると看護科の学生たちは、日ごろ、キャンパスで講義を受けている先生たちとのまなざしのちがいに驚く。
学校の先生は「指導しなくてはならない」と言うが、保健師さんは「村人に聴け」と言う。
学生たちは混乱し、ショックを受けた。学生たちに、村でのショックは大切にしてほしいと伝えてきた。その方が、病院に勤務しても、あるいはクリニックで働いても、得だからだ。じつは、都市で暮らす高齢者のなかにも、ムラ的な心象風景は息づいていて、そこを尊重すれば、患者さんのニーズがつかみとれる。
医療とは、人びとの健康へのニーズに応えることだ、という原点にたどりつける。だから、このような「ぶつかりの体験」を大切にしてほしいと述べた。こうした村での活動は、私自身の医師としての基盤にもなっている。
20年ほど前、初めて母校の高校に招かれ講演をしたとき、ムラ医者の日常をお話しした。10年ほど前、二度目の講演の際も、医療は国民の健康ニーズに応えることと強調した。
私が京大医学部を卒業し先輩が働く佐久病院にはいったのは1990年のことだった。日本中がバブル経済に狂奔していた当時、佐久病院の最寄り駅JR小海線臼田(うすだ)駅に、顔つきこそ日本人そっくりだが、ポルトガル語やスペイン語で喋っている一団がいた。何気なく声をかけてみると、日本語が不自由で困っていた。臼田にある由緒ある教会の牧師さんにお願いし、ロマンス語に堪能なボランティアを招き、日本語教室を立ち上げた。
すぐに効果が現れた。ボリビア人女性がくも膜下出血で佐久病院に救急搬送された際、日本語教室に通っていた日系人青年が親切にも駆けつけて、ICU(集中治療室)で医療通訳をしてくれた。
それを機に1992年、佐久病院に「外国人医療相談室」ができた。
しかし、間もなく、なかなかカバーしきれていない外国人のグループがいることに気づいた。東南アジアから来たホステスや、高速道路・新幹線の建設現場で働く男性労働者たちだ。飲食業で働くタイ人女性たちは、給料も支払われず、売春を強要され、ヤクザ者から暴力をふるわれていた。さらにはギャンブルでの借金、交通事故、傷害事件、そしてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染のリスクと、さまざまなの困難に直面していた。HIV感染者のなかに結核にかかり、エイズ(後天性免疫不全症候群)を発症している方がいた。
女性は、鼻血が止まらず、枯れ枝のように痩せ細り、激しく咳き込んでいた。当時なのでHIV感染は治せなかったが、肺結核の治療はできる。少しでも苦しみを和らげられればと、病院に連れて行った。HIVは、性行為、血液製剤などを介した輸血、母子感染の3パターンでしかうつらない。だが、身体接触や空気が感染媒体になるといった偏見、感染者への差別がはびこっていた。
病院では、まず病棟がパニックに陥った。自分一人では何もできなかった。東京の外国人支援団体からタイ人女性ケースワーカーに来てもらい、タイ人ホステスたちの生活実態を電話で個別に聴き取り、支援につなげた。別の女性は、既に手の施しようがなかった。
「何か、できることはありませんか」と尋ねると、彼女は「タイのお坊さまにお目にかかれなかったことが残念です」といって息をひき取った。
最期に口にしたのは仏への帰依であった。「心のケアの大切さ」を思い知らされた。
その後、市民会館にタイの劇団を呼んで公演を開いた。日本で暮らすタイ人たちに母国語での娯楽を楽しんでほしかったのと、地元の日本人にもタイの民族文化を伝えたかったからだ。そうこうしていると、タイ政府から私たちは表彰されてしまった。その後、バンコクでナイジェリアやジャマイカの医師と一緒に顕彰を受けるようなこともあった。
タイとのつながりが深まり、96年初夏にはタイの黄衣の僧侶を日本に迎えることができた。お坊さん方に、タイ人が集まって暮らす地域を巡りながら、佐久から長野市善光寺まで歩いて旅をする「頭陀ずだ修行」にとりくんでいただいた。道中、祖国の僧侶と対面したタイ人たちが心の底から安堵したような表情を浮かべていた。その姿が印象的だった。
もう一つ、私にとって大切なご縁は、フィリピン大学医学部レイテ分校(SHS)との連携だ。医学生時代に東南アジアを放浪していて、40年ほど前、SHSに行き着いた。SHSでは、フィリピン全土から集まった学生が、実際にレイテやサマールの地域社会に入って保健活動に携わりながら医療者としての階段を上がっていく。約2年勉強して、まず助産婦資格を取る。さらにキャリアを高めたい人は、地域の住民たちの推薦・承認を受け、看護師養成コースに進む。その後、正看護師、医師へと階段を上がるのだが、いずれも地域住民多数からの推薦が欠かせない。SHSでは入学から医師国家試験に合格するまで、約10年かかる。
日本から若い医師や看護師、医学生、看護学生たちを百数十人、SHSに送った。図らずも、こちらの活動も2013年、在東京フィリピン大使館から表彰いただいた。
ある女性医師の卵は、フィリピンでの実地研修でハンセン病の回復者にどう言葉をかけてよいかわからず、気ばかり遣っているうちに、泣きそうになった。
が、逆に、回復者からハーモニカの自作の曲を披露され、こう言われたという。「やりたいようにやっていいんだよ」。
そういえば、今から十数年前のこと、ワシントンDCの世銀本部から来院希望が届き、慌てたことがあった。来日した女性部長は「ウォンツでなく、住民ニーズに応じて展開される農山村医療が、低コストで長寿命な”予防は治療に勝る”地域社会を実現したことに愕然としました」と語ったが、私もまた彼女の発言に愕然とした。
21世紀の現代にこそ「地球のお医者さん」としての「経済学者たち」が大活躍することを期待してやまない。
以下、日本の若者たちに向け、某裁判官による「贈る言葉」を記す。
「これからの人生において、皆さんにはときに不当な扱いを受けてほしいと思います。そうすれば正当性の価値を知るでしょう。
裏切りにも遭ってほしいと思います。そうすれば誠実であることの大切さがわかるでしょう。
残念ながら、孤独も味わってほしいです。そうすれば友人という存在を当然のものと思わなくなるでしょう。
不運にも見舞われてください。そうすれば人生のチャンスがめぐってくることの意味がわかり、自分の成功も他者の失敗も当然のものではないと理解できるでしょう。
そしてときどき、ほんの稀だとよいのですが、あなたが敗者になるとき、敵はその失敗を大いに喜ぶでしょう。そのときにこそ、スポーツマンシップの大切さを学んでほしいのです。
人から無視される経験もしてください。そうすれば他者に耳を傾ける大切さがわかるでしょう。
たくさんの痛みを味わって、思いやりの大切さを学んでもらいたいです。
以上のことは、私が望むかどうかにかかわらず、皆さんのこれからの人生で必ず起きます。その経験を生かしていけるかどうかは、皆さんが逆境からメッセージを読み取る力があるかどうかにかかっています」
(JA長野厚生連佐久総合病院地域医療部医師 色平哲郎)
(2026.9.20)
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