【オルタの視点】

日中共同声明の精神に戻ろう

内田 雅敏


◆1.何故、戦後70年の談話が日露戦争の「勝利」から始まるのか

 「百年以上前の世界には西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました」。2015年8月14日、安倍首相によって発せられた戦後70年首相談話の冒頭部分である。

 正直、驚いた。「戦後」70年談話であるから、当然、これまでの首相談話等 —「日本側は、過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」(1972年日中共同声明)、「1945年6月26日、国連憲章がサンフランシスコで署名された時、日本は唯一国で40以上国を相手に絶望的な戦争を戦っていました。戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にも又自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました」(1985年、中曽根首相、国連総会演説)、「先の戦争が終わりを告げてから50年の歳月が流れました。今あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への途を歩み、国民を存亡の危機に陥入れ、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し多大な損害と苦痛を与えました」(1995年、村山首相談話)— と同様、先の戦争の反省、それはつまるところ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」(憲法前文)の精神から導き出されるものであるが、から説き起こされると思っていたからである。

 西欧列強の植民地政策を批判する安倍首相談話の冒頭部分は、「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜」いた日本が戦った「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」へと収斂する。これは國神社の歴史観と軌を一にする。

◆2.戦死者の魂独占の「虚構」こそ國神社の生命線

 2013年12月26日、安倍首相は「第1次安倍内閣で靖国神社参拝のできなかったことは痛恨の極み」として、突如國神社参拝をして、中国、韓国などのアジア諸国は勿論のこと、戦後国際社会の平和秩序に対する挑戦として、欧州諸国からも懸念を示され、「盟友」米国からは「失望した」とまで言われた。國神社は、日本の近・現代史について以下のように述べる。

 「日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守ってゆくためには、悲しい事ですが、外国との戦いも何度かおこったのです。明治時代には、日清戦争、日露戦争、大正時代には、第一次世界大戦、昭和に入って、満州事変、支那事変、そして大東亜戦争第二次世界大戦が起こりました。(中略)戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国としてまわりのアジアの国々とともに栄えて行くためには戦わねばならなかったのです。」(國神社発行パンフレット)。

 2014年5月30日、シンガポールでのアジア安全保障会議で安倍首相は、基調講演で、「国際社会の平和、安定に、多くを負う国ならばこそ、日本は、もっと積極的に世界の平和に力を尽くしたい、“積極的平和主義”のバナーを掲げたい…自由と人権を愛し、法と秩序を重んじて、戦争を憎み、ひたぶるに、ただひたぶるに平和を追求する一本の道を日本は一度としてぶれることなく、何世代にもわたって歩んできました。これからの幾世代、変わらず歩んでいきます」と述べた。この認識は、國神社の前記「聖戦」史観と完全に重なり合う。

 國神社の歴史観は国際的合意と真逆の関係に立つ。そのようなところに日本の指導者が参拝すれば、世界から批判されるのは当然である。戦没者を追悼するという、何処の国でも「当然」とされることが、「聖戦」という特異な歴史観に立つ國神社で行われるから問題が生ずる。何故、戦死者の追悼は國神社なのか。國神社の戦死者独占の「虚構」にこそ國問題の本質がある。

◆3.国立の追悼施設

 しかし、《戦死者の魂独占という國神社の虚構》の軛を脱するだけでは十分ではない。フィリッピン、レイテ島で父を亡くした筆者の友人がいるが、彼女は毎年、8月15日の喧騒を避けて8月半ば過ぎに國神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝している。彼女は國神社の体現する「聖戦」史観も、また、A級戦犯合祀についても批判的である。にもかかわらず、國神社参拝をする彼女の気持ちを忖度するならば、「参拝するところは國神社以外にないではないか」という事ではないだろうか。

 保坂氏前掲書もA級戦犯合祀と遊就館の歴史認識には強い不満を漏らしつつも、「ここに来るより仕方がないだろう。親父はここにしかいないのだから」と言って國神社を続ける友人について記している。「親父はここしかいない」と漏らす遺族に対して、《靖国神社による戦死者の魂独占の虚構》を指摘するだけでは、國問題の「解」を提示することにはならない。もう一つ《国立追悼施設に建設》という補助線が必要である。先の戦争がアジア解放の戦いであったなどと、日本政府の公式見解に反し、また世界で全く通用しない「聖戦」史観などを唱えることなく、無宗教で、誰でも、またいつでも、静かに戦没者の追悼をすることのできる国立追悼施設を設けることによって、巷間言われる國問題の多くを解決する事が出来る。

 1952年5月1日、官民挙げての「全日本無名戦没者合葬墓建設会」が発足した。総裁・吉田茂、会長・村上義一運輸相、副会長・草場隆円厚生相、同・一万田尚登日銀総裁、同・石川一郎経団連会長、関桂三関経連会長らが役員に名を連ねた。政府の組織ではないが、首相らが先頭に立つって、全国の市町村長を通じ、建設資金として一戸、10円の募金集めも始まった。建設会の設立趣意書は以下のように述べている。

 「米国にはアーリントンに無名戦士の墓があり、英国にはトラファルガー広場に無名戦士の塔があり、仏国にはパリ凱旋門内に無名戦士の墓があって、何れも全国民により毎年鄭重な祭典が行われておりますが、それは人道上当然なことで、私どもは、わが国にもその必要性ありと考え、…戦没者は全部靖国社に合祀すれば足りるではないかと言う人もありますが、同社は主として戦死軍人軍属の御霊を祀る所で、一般戦没者には及ばず、而も御遺骨を埋葬する場所ではありません。その上、神道以外の宗教とは相いれないものがあって、友邦の外交使節の参拝を受けることもどうかと存じますから、御遺骨の実体、各宗派の外交上の儀礼の点から考えても、靖国社とは別に霊場を造営する必要があります。…大霊園を創り、毎年春秋に、神、仏、基(キリスト教)の各宗派によって、厳粛な祭典を挙行し、後代再び斯様な犠牲者を出さないよう世界恒久の平和を祈念することに致したく・・・」

 軍人軍属だけでなく、戦没者のすべてを対象とし、宗教各派の垣根を越え、外国の使節も迎えることのできる「国立追悼施設」が目指されていたのであった。この構想が実現されていれば今日のような「靖国問題」は生じなかったと思われる。ところがこの構想は、戦死者独占という「虚構」を生命線とする國神社、日本遺族会らの反対で実現しなかった。今からでも遅くない、すべての戦没者を追悼する無宗教の国立追討施設を設けるべきである。そこでは戦没者に感謝したり、戦没者を称えたりしてはならない。称えた瞬間に戦没者の政治利用が始まる。戦没者に対してはひたすら追悼し、再び戦没者を出すことをしないという誓いがなされなければならない。

 2001年ドイツ国防軍改革委員会報告書は、冒頭において「ドイツは歴史上初めて隣国すべてが友人となった」と述べている。「隣国すべてが友人」、これこそ究極の安全保障政策ではないか。「隣国すべてが友人」と云う関係を作り出すためには、私達が、先の戦争に対して真摯に向き合うことが不可欠である。

 1972年9月29に発せられた日中共同声明は「日中両国は、『一衣帯水』の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終始符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くことになるであろう。日本側は、過去において、日本国が戦争を通じて、中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し深く反省する」と述べ、「日中両国間には社会制度の相違いがあるにもかかわらず、両国は平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである」と結んでいる。
 今こそこの日中共同声明の精神に立ち戻り、最悪な状態にある日中、日韓関係を改善し、欧州におけると同様、北東アジア共同の家を創るため、懸命な努力をしなければならない。

 (筆者は弁護士・日弁連憲法問題対策本部幹事)


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