【視点】

新潟水俣病の初期を取材して

ーいまだ続く政府の非情  
羽原 清雅

 1965(昭和40)年6月12日午後3時半ころ、新潟県衛生部から「これから新潟大学で椿忠雄(神経内科・当時東京大学助教授、のち新潟大学教授)、植木幸明(神経外科・新潟大学教授)先生の重要な記者会見がある」との連絡があり、大学担当に出原保彦記者(故人)が飛んだ。羽原は支局で受けの任に当たることに。
 概要は、新潟市内のはずれの阿賀野川流域で、有機水銀中毒の29歳の男性が5日前に死に、すでに前年秋にも同様に死者が出ており、ほかに6人の患者がいる、というものだった。熊本・水俣病の事例があり、ほぼ類似の病状と見られた。
 出原記者はすぐに支局のジープで、同僚とともに阿賀野川河口の下山地区に走った。間もなく夕暮れになり、写真が取れなくなる、と慌てた。
 支局にとどまり出原記者の電話で原稿を受けるのだが、入社2,3年の記者、しかも文系の知識のない同士には、説明を添えるべきところが書けない。知識がなさ過ぎた。熊本支局に電話をしていろいろ説明を受けるのだが、自信なく、落ち着けない。それでも翌13日の紙面には「新潟に『水俣病』?/類似症状で2人死ぬ/有機水銀中毒と断定」として、社会面トップに載った。
 じつは、「赤旗」の記者が現地での取材に入ったことで、県側が慌てて記者会見を持ったという。会見4日後の16日、予定通り県と新大は「新潟県水銀中毒研究本部」を設けた。出原記者はその後も長く取材を続けたが、羽原は翌春の異動で新潟を離れ、新潟水俣病のその後は記事で知るばかりだった。
 短期ではあったが、その間に強い印象に残ったのは、当初から患者たちの声を聴き、当初から被害者たちの訴訟に弁護団長として30年以上支援、だが少数意見の立場から途中、主流の支援団体から離脱した弁護士坂東克彦(2020年没)。
もう一人は県衛生部長の北野博一。温厚で芯の強さを感じさせ、もの静かに人の話をよく聞き、何か頼れる存在だった。羽原の転勤後に行われた訴訟では、県職員ながら「工場排水説」を主張、水銀中毒流出元の工場の調査に努めるなどしていたという。当時の昭和電工安西正夫は「北野はけしからん奴だ。行政官の身であって行司役ではない」とわが身の責任を忘れて、こう批判した。北野は戦前、鹿児島の国立らい療養所の医師を務め、のちに軍医になるといった反省や経験が生かされたものだったか。

*新潟水俣病の背景 新潟水俣病の元凶は昭和電工鹿瀬工場(その後鹿瀬電工を経て新潟昭和)。同工場は農薬用の酢酸などの原料となるアセトアルデヒドを生産していたが、患者の出たころには生産を山口県徳山に移していた。それまでは製造後の廃液を阿賀野川上流から流しており、これに含まれた有機水銀がミゴイやハヤなどの川魚の体内に入り、無機水銀に変化、蓄積され、こうした食物連鎖でメチルの濃度が高まり水銀中毒を発病させた。
 熊本水俣病と同じように、この地でもすでに猫が狂い踊り、前年には患者が出始めていた。患者に男性が多く、川魚を酒の肴として多食していたと思われる。ただ、熊本と同様に、以前から地元の川で魚を取り、豊かではない農村では常食化し、また病気となれば栄養をつけるためとして、より多く食べていたという。
事態が表面化すると、昭和電工は

①前年(1964)年6月16日の新潟地震で川に流出した農薬が原因、として事実を認めず、解明や訴訟などを大きく遅らせた 
②工場内の製造工程の図面(フローシート)を焼却、製造工程のプラントを撤去するなど隠蔽も 
③労組は当初、抗議の座り込みをする患者家族に貸したテントを取り上げた(のちに支援に回った)
④有機水銀調査のための工場排水の調査を一時拒否——といった態度を取り、証拠隠滅などで原因究明、補償交渉などを遅らせることになる。
しかも、原因究明に取り組む厚生省の研究班が「原因は鹿瀬工場の排水」の結論を出そうとすると、通産省が介入し、これを遅らせることがあった。企業側に立つかの介入だった。

*熊本水俣病の現状 熊本県水俣の被害者の立場はもっと苦しく、患者数も多く、また会社の「壁」や政府の姿勢はさらに冷ややかだった。
 2026年5月で水俣病の認定から70年。新潟よりもほぼ10年長い道のりだった。しかも、政府の「水俣病」としての公式認定は1956年5月1日だが、チッソ前身の日本窒素肥料(戦後は新日本窒素肥料/現在JNC水俣製造所)が戦前の新興財閥として発足したのは100年代初期。水俣工場でアセトアルデヒドの製造を始めたのは1932年で、もし以来ずっと製造工程で出たメチル水銀を含む廃液を水俣湾に流出してきたとすれば、海水汚染の影響は90年超ともなる。戦後すでに「奇病」は現認されてきたので、患者数、そして死亡者はもっと多いことになる。

①正規の「認定患者」はわずか2284人(チッソと患者団体による補償協定での患者一人1600~1800万円など)、②「未認定患者」のうち1995年の政治決着で約1万人(一時金260万円など/熊本、鹿児島県)、③2009年の特別措置法で約3万人(一時金210万円などの救済/熊本、鹿児島県)、④訴訟による勝訴・和解による補償(現在の係争中は1400人余/福岡、大阪高裁、東京地裁)⑤差別や偏見を恐れて名乗り出ない人は把握されず不明・・・これが現時点での状況で、決着には程遠い。

*政府の立ち位置 気にかかるのは政府の姿勢。最高裁は2013年4月、「症候の組み合わせが認められなくても、諸般の事情と関係証拠を総合的に検討したうえで、水俣病と認定する余地を排除するものとはいえない」として原告の主張を認めた。
 だが、政府の姿勢は固く、原告側の患者に温かい配慮に乏しい。患者たちを抱える地方自治体は、実情を知ることもあってなんとか救済の道を広げようとするが、資金を握る政府は譲らない。元凶の大企業への配慮なのだろうか、病苦と貧困に苦しむ実態に手を緩めない。自治体独自の策を練ったとしても、資金が出ない。
 公害企業は、高度成長期に乗り遅れないよう事業拡大、収益第一に走り、マイナス面への配慮、周辺への気遣いや倫理性を欠く傾向があった。また、その隠蔽体質が解決を遅らせる結果にもなっていた。高度成長を望む政府側は企業側に期待、一般の市民への配慮に欠けるかの姿があった。
 
 では、政府に責任はないのか。
 1960年に池田勇人内閣が生まれ、前任の岸信介首相の安保闘争に明け暮れた不穏な時代を終えると、「所得倍増論」「太平洋ベルト地帯」「全国総合計画」などが叫ばれ、高度経済成長期に入る。経済成長は年平均10%にもなり、経済的な豊かさが謳歌された。
 その一環として重化学産業も推進され、水や大気が有害物質に汚染されるという「負」の影響も高まる。「四日市ぜんそく」「富山のイタイイタイ病」「熊本水俣病」それに新潟水俣病の、いわゆる4大公害の登場だった。企業発展の後押しに余念のない政府は、こうした発展の生み出すマイナス面への法制度などに配慮が足りず、国民生活に泣きどころをもたらす。
 政府権力は強者側に配慮するが、急ピッチで進む社会の変化への配慮が足らず、要は国民、あるいは犠牲者、弱者などへの影響に目をつむった。仮にやむを得なかったとしても、その部分に責任を持って償い、手を差し伸べる義務があるはずだ。
 だが、責任逃れであるか、気づきの念が乏しいか、その手当てに目をつむった。その名残が、水俣病にも反省を欠き、国民の生命を奪い、苦行を強いることにつながった。そればかりか、支援すべき範囲を狭めるような制度を死守することに努め、しかもその制度を変えまい、患者に目を向けまい、とするかの姿勢を取った。
 裁判の判決があっても、改革を一部にとどめ、従来の行政の枠を維持しがちだった。
 それが、今なお多数の訴訟が続く一因にもなっている。患者たちは人生を奪われ、放置され、苦行の歳月に耐えさせられている。
 それでも、政府に責任はないのか。

*新潟水俣病はどうか 新潟で第1次訴訟が提起されたのは1967(昭和42)年6月。その翌月、国は「公害対策基本法」が制定した。1969(同44)年12月には「公害健康被害特別措置法(救済法)」が公布、公害指定地域が制定され、阿賀野川下流域一帯が対象とされた。この法では、漏れた地域の問題が残る。
そして、翌年2月には新潟県市合同の「公害被害者認定審査会」が設置されて被害者の認定が始まった。申請は2748人だが、認定は716人にとどまり、棄却が1596人、申請取り下げは343人だった(2023年末現在)。1974年からは「公害健康被害補償法」によっている。

*裁判は続く 新潟の訴訟は相次ぎ被害者が増える一方で、企業側の対応で裁判は長引いた。
・1次訴訟(1967.6-71.9)水銀中毒の原因はメチル水銀の排水による汚染魚を食べたこと、昭和電工は水俣の工場排水による原因を知りながら排水した過失があること、この2点が認められた/原告勝訴で2億7000万円確定。73.6補償協定締結(1次補償金、年金給付、水俣病や公害の再発防止)/第1陣患者3世帯13人、第8陣34家族77人—推進力は坂東克彦弁護団幹事長、のち同団長 
・2次訴訟(1982.6—92.3)第1陣は第1次で認められなかった患者94人、第8陣で234人/総額5億780万円の判決を得るが、国の責任は認めず/高裁に控訴/政府・与党による政治解決により昭和電工と和解、国への訴えは取り下げ終結(13年半の歳月を要した)
・3次訴訟(2007.4-15.3)地元住民12人が工場排水規制をしなかった国と、有害物遺棄等を禁止しなかった県の責任、昭和電工の責任を問い提訴/最終的に原告は2人となり、最高裁で上告は棄却、3者が勝訴
・4次訴訟(2009.6-11.3)最高裁の関西訴訟判決で国の基準よりも幅広い患者への補償が命じられたことにより、ノーモア・ミナマタ新潟全被害者救済訴訟を起こし、国と昭和電工に損害賠償を求めて提訴/患者認定から外された27人が全被害者への損害賠償を国、昭和電工に求めて提訴/排水規制など被害拡大の防止を怠り、認定基準を厳格化し、救済さるべき患者を切り捨てた国の責任、有機水銀と知りつつ排水を放出した昭和電工の責任が争点/最終的に173人が提訴/与野党合意の特措法成立を機に和解成立

*「和解」か、「筋」を通すか 2次訴訟の場合、損害賠償は31人に800万円、53人に600万円、4人に300万円で和解となる。補償協定の適用された患者の一時金と年金は4500万円超に比べると、かなりの低額だ。また、国に賠償の義務はない、との判決だった。
 坂東弁護士の主張は「高裁の和解案では因果関係、賠償責任とも必ずしも明確にしないまま、一時金の支払いで解決を図っている。被害者に支払われるのは賠償金ではなく、あくまで和解解決上の一時金。金額も苦しみの償いとしては少なすぎる」との立場であるというものだ(自著「新潟水俣病の三十年」)。
 さらに言えば坂東は「熊本の被害者が『和解』の道を選ぶことに反対したことはない」
 「そもそも『和解』とは双方に落ち度があるときの解決法。被害者に落ち度はまったくない」としたうえで、新潟の場合については①国、昭和電工とも、責任のうえで水俣の場合より重い ②昭和電工に十分な賠償能力がある ③水俣より裁判原告の数が水俣よりはるかに少なく、裁判闘争を継続していくことが可能――と、熊本と新潟の場合が違うことを鮮明にしている。また、水俣病について、国が「遺憾の意」を表するのではなく、水俣病発生の責任を謝罪すべきだ、との立場をとる。昭和電工は因果関係を認めるとともに加害者であることを認めるべきだ、とする。
 こうして坂東は30年にわたる弁護団長を辞任、『和解』に応じたそれまでの水俣共闘会議、水俣弁護団、被害者の会との関係を断つことになった。
 主流である『和解』派は、被害者が高齢化し、また困窮の家庭も多く、また裁判闘争も極めて長いことなどから、現実的な対応を選んだ。
 正論の筋をあくまで通すか、現実的な妥協の道で打開を図るか、極めて難しい問題であった。立場の違いではすまない、厳しい選択である。

 数十年の長きにわたり係争し、多くの被害者が命を落とし、生き地獄の責めを受けなければならなかった人々、その家族たちに対して、公害を事前事後に十分な対応を取らず、放置状態を許した国や公的機関の責任は重く、だがその姿勢にいささか疑問を感じさせる不誠意はいまだに続いているのではないか。

                       (元朝日新聞政治部長)
(2026.5.20)
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