【日本の歴史・思想・風土から】

戦後史学の大罪 ―古代王権論―

室伏 志畔


 七二〇年の正史・『日本書紀』の成立以来、日本人は大和中心の皇統一元の記紀史観の下にある。戦前の皇国史観を排し「神話から歴史へ」をうたった戦後史学は、初代神武から第九代開化までの天皇を虚構とし、第十代崇神に皇統史を始めた。それは天皇を現人神とした戦前史学から見れば革新的な踏み込みに見えた。しかし、それは皇統史を人代とし、それ以前を神代とした記紀の神代と人代の一部を神話とし、歴史を皇統史に限る皇国史観の域を出ない。そのため一九四八年に江上波夫が、皇祖を北方騎馬民族の扶余系秦族の伽耶系王統とする騎馬民族征服王朝説を提唱すると、戦後史学はこの海彼の王権論を拒否し、皇統一元の記紀史観の立場を露わにした。
 戦後史学が、神代を神話として歴史から切り捨てたことは、戦後も歴史を皇統枠に閉じ込めることになった。この戦後史学の逆説に気づかず左翼はその最も熱心な支持者として今もある。そのため、戦後史学の王権論は皇統枠の中で、万世一系の天皇制を異種の三王朝である、崇神王朝、仁徳王朝、継体王朝を繋いだとする水野祐の三王朝交替説をする一国枠に閉じ込めてきた。

◆ 一.海彼の二王権の南船北馬の興亡

 七〇年代に入ると、日本では一国枠は出ないが皇統枠を出た九州王朝説が古田武彦によって提唱される。それは漢籍が記す倭国とは大和朝廷に先在する九州王朝とする。それはここ一三〇〇年の大和中心の皇統一元の記紀史観を王朝交替史観に開いた。また七〇年代後半から中国で長江を遡行するように河姆渡遺跡に始まり、良渚遺跡、三星堆遺跡と次々に長江文明が八〇年代にわたり出現を見た。これが特筆すべきであるのは、それが東アジアの集団稲作の中心で、原アジア文明の発見であったことによる。問題はその長江からの稲作渡来王権について漢籍が、「倭は呉の太伯の後」と記すところにある。それは九州王朝説が倭王権を天孫王朝としたのとは異なる。私はこの船を多用する王権を南船系王権と呼び習わしてきた。

 記紀の神代を戦後史学は歴史から排したが、スサノオのヤマタノオロチ退治は出雲の蛇をトーテムとする一族退治であり、天孫降臨は神々が天上から降ったのではなく、天国はアマクニで壱岐・対馬を中心とする海士国を指し、これらは半島からの北馬系王権による出雲や九州の弥生稲作社会への侵攻を記すものであったことが、長江文明の発見によって明らかとなった。その出雲や九州の稲作国家は、秦の中国統一過程で滅ぼされた江南の呉越の民が同舟して列島に渡来し、集団稲作国家を胎動させたことに関わる。それは列島における爆発的な弥生稲作の品種がジャポニカで長江米に重なり、その普及に伴い、我々が使う漢字音が呉音として全国化したことを明らかにした。つまり神代の終わり近くに、列島の南船系の稲作王権社会に北馬系半島王権の侵攻があり、この海彼の二王権による南船北馬の興亡が記紀神話として記録され、次第に北馬系勢力が主導権を握った。それが現在に至る日本社会の二重構造を生み出し、その北馬系王権の最後の勝者が皇統なのだ。

◆ 二.出雲と九州の神話考古学

 八〇年代に入ると、戦後史学が出雲神話は架空で何もないとした出雲で、一九八四年に神庭荒神谷遺跡から三五八本の八千矛が、一九九六年にその近くの加茂岩倉遺跡から三九個の銅鐸が出現した。それは出雲における二王朝のレガリアの出土であった。しかし、戦後史学は神話を歴史とせず、大和中心の皇統一元の記紀史観の建前から、出雲王朝を公式に今も認めない。

 私は加茂岩倉遺跡の銅鐸をスサノオに退治されたヤマタノオロチ族の神宝(神器)と考える。ヤマタノオロチの別名は八蜘蛛族とされ、出雲にかかる枕詞である八雲立つは、八蜘蛛断つの意で、ここに南船系八雲王朝から北馬系出雲王朝への転換を語るので、出雲が雲が湧き立つ国ではないのだ。そのスサノオの出雲国はオオクニヌシに引き継がれるも、国譲りによって滅ぶ。そのオオクニヌシ系の神宝が神庭荒神谷遺跡からの三五八本の八千矛の出現にほかならない。その意味で出雲神話は出雲の歴史的変遷を伝えていたわけだ。

 畿内を中心とする銅鐸文化圏と九州を中心とする銅矛・銅剣圏の分布は、これは銅矛・銅剣族に滅ぼされた銅鐸王国の八雲(ヤマタノオロチ)王朝の滅亡後の、東に逃げた出雲の銅鐸族の姿を伝えるもので、銅鐸の淵源は出雲であったわけだ。その出雲の国譲りを迫ったフツヌシやタケミカズチの侵攻が大和朝廷ではなく九州王朝の侵攻であったことは、銅鐸の中心が東に移ったことに明らかである。そればかりか、この分布図は畿内大和の開拓者が出雲を追われた銅鐸人に始まったことを伝える。

 出雲神話が歴史として裏付けられたなら、九州神話の天孫降臨神話も歴史に奪回されなければならない。その舞台を記紀は南九州の日向ヒュウガとしたが、古田武彦は三種の神器を持つ弥生王墓の平原遺跡、井原遺跡、須久岡本遺跡が集中する博多湾岸に注目し、糸島の高祖山の北麓の日向ヒナタこそが天孫降臨地にふさわしいとした。そこは縄文稲作で知られる菜畑遺跡や板付遺跡があり、北馬系勢力の壱岐・対馬からの最短の稲作地にあたる。加えて天孫系のタカミムスビに関係する髙祖神社やニニギの妃・コノハナサクヤヒメを祀る細石サザレイシ神社に加え、神武の姉を祀る神社や、ウガヤフキアエズが神武を子守した伝承を伝える御子守神社があることは、天孫ニニギから神武の父に至る日向三代神話の舞台が南九州ではなく北九州であったことを裏付ける。それを南九州とした記紀は神武の素性隠しにあったのだ。神武の父に冠せられたナギサタケルは博多湾岸の湾岸警備隊長であったことを語り、金印国家・委奴イヌ国への天孫族の侵攻の手引きをし、この寝返りを代償に出世街道についたのだ。

◆ 三.原大和の出現と唐の倭国占領

 北馬系勢力の出雲や九州への列島侵攻は、壱岐・対馬を橋頭堡とする対馬海流に面した南船系稲作社会への侵攻であった。問題は、スサノオとニニギの間に行われたニギハヤヒのヤマト侵攻を記紀は畿内大和への侵攻としてきたことだ。それは瀬戸内海のどん付きのさらなる奥にあり、壱岐・対馬からの侵攻にしては余りに遠すぎる。そのニギハヤヒ軍団である物部二十五部族を地名に残すところが二個所ある。それは畿内河内と北九州の遠賀川流域だが、壱岐・対馬からの侵攻とする限り適地は遠賀川流域の豊前とするほかない。その地は玄界灘と周防灘に面し、その地名が多く大和地名に重なることはよく知られている。
 畿内の大阪は明治まで大坂で、その由来ははっきりしないが、豊前には大坂山があり、そこにある椿市は大和にもあり、また勾金マガリカネといった読みを同じくする曲金の異色地名が一致する。畿内大和の神南備山・三輪山に当たる山を豊前で尋ね、異口同音に香春岳と答えるのを聞いた。そのかつての勇姿を写した写真で見て、それが三諸山と知った。かねがね三輪山がなぜ三諸山と表記されるのかを不思議に思ってきただけに、香春岳が記紀の語る本来の三輪山と知った。その周辺の笠置山へのニギハヤヒ天神降臨伝承があり、神武東征の足跡を今も色濃く残していた。つまり、神武東征は博多湾岸の天孫降臨地から遠賀川上流の筑豊への東征によって、それに先在したニギハヤヒ族の粛清・追放があり、追い出されたニギハヤヒ一族の新天地が畿内河内であったのだ。

 この豊前に始まった皇統が、畿内皇統となるのは六六三年の白村江の敗戦後のことだが、『日本書紀』はそれを日本国の敗戦のごとく偽ってきた。九州の朝倉宮にあった斉明皇統が敵の唐・新羅に通じ、倭国に代わる日本国の創出を謀り戦後栄えた、それは裏切りの発覚と別でなかったため、朝倉宮の変で斉明が殺され、天智は畿内に逃亡し近江朝を開くこととなった。この六六七年の朝倉宮の変を『日本書紀』が六六一年に造作したのは、天智の逃亡を隠すためで、近江朝誕生の秘密が解けよう。その近江朝はその五年後の六七二年の壬申の乱で天武に滅ぼされる。それを『日本書紀』は天智・天武兄弟皇統の皇位争いとしたが、事実は九州王朝・倭国王統の天武とそれに代わる日本国の立ちあげをはかった天智皇統の戦いであったわけだ。この戦いに勝利した天武の大和入りに畿内の大和朝廷は開朝は始まったので、それは九州王朝・倭国の畿内大和での再興であった。その敗れたはずの天智皇統の近江朝が、その三〇年後の七〇一年に大宝を建元し、日本国を建国した秘密を隠し、正史・『日本書紀』はそそり立つ。

 太宰府を訪れると、そこに都督府古址を見る。唐は、百済を破ると占領機関である熊津都督府を、高句麗を滅ぼすと安東都督府を立てた。白村江で倭国を破った唐が、その首府・太宰府を占領し唐制占領機関である筑紫都督府を開いた址がこれなのだ。しかし、それをこの国の歴史学が問題にしないのは、今次敗戦を終戦とした日本国の姿勢に重なる。またそれをまったく思想的に問題にしない加藤典洋や白井聡の底の浅い敗戦後論が罷り通るところに、現在の思想的頽廃が極まっている。それはこの六六三年の白村江の敗戦から七〇一年の日本国の誕生の間にあった、倭国から日本国への王朝交替を見逃すことになった。それは記紀が記すオオクニヌシの国譲りに、出雲王朝から九州王朝への王朝交替を神話として歴史から追放した戦後史学の後塵を今も拝している未開に、日本国民を置いてきた。その大罪は深い。(二〇一六.一一.五)

 (「幻想史学の会」代表)


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