【コラム】大原雄の『流儀』

山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む〜(4)

大原 雄


 今回は、不定期連載の湛山コラムのスタイルを変えて、読書記録ノートと講演記録ノートの体裁で書いて見たい。

 「湛山コラム」(不定期で随時連載)の4回目は、「湛山読書会」について紹介したい。「作家・井出孫六と湛山を読む会」という「湛山読書会」では私も世話人のひとりとして参加している。第1回は、14年10月3日、浅川保さん(山梨県平和ミュージアム=石橋湛山記念館=理事長)の講演。内容は、旧制甲府一中(現在は県立甲府第一高校)時代の湛山言動録であった。すでに、第3回も5月22日に開かれた。望月詩史さん(同志社大学助教)による石橋湛山初期論文「急進的自由主義」思想の分析。

 今回のコラムでは、第2回の読む会の講演内容を紹介したい。15年2月13日に第2回の読む会を開いた。講師は、作家・半藤一利さん。『戦う石橋湛山』という著書がある。今回の内容は、東洋経済新報時代の社説の論調についてであった。会場の岩波書店には、80人の聴衆が集まった。満員盛況という状態であった。私は、読書会の世話人の一人なので、今回は、世田谷のご自宅までお迎えに行った。タクシーに同乗し、神保町の岩波書店まで案内をした。従って、私は、講演に加えてタクシーの車中から早々と貴重なお話を伺うという幸福な機会を得た。

 半藤一利さんについて、少し詳しく紹介したい。半藤一利さんには昭和史や義理の祖父に当たる夏目漱石関連の多数の著書がある。石橋湛山関係では、『戦う石橋湛山』という著書がある。『戦う石橋湛山』では、お得意の昭和史に対する該博な知識を背景に石橋湛山の思想と行動を浮き彫りにし、分析するという内容である。特に戦中の朝日新聞や東京日々新聞(現在の毎日新聞)が、政治を軽視した軍部が独走して、日本を敗戦へと導いたことを批判しないばかりか、尻馬に乗り、時代の「狂気」に取り付かれたように、笛や太鼓で音頭をとるような論調で追従し、あるいは、鼓舞し、「戦勝気分」に酔いしれる大衆を作り出し、お互いに購読部数を増やして行ったこと。これと対象的に、そういう風潮を批判しつつ、石橋湛山が所属する「東洋経済新報」は、少部数の経済専門雑誌ながら、時代の「狂気」に巻き込まれず、「正気」の論調を掲げ続けたことを論証する形で、「戦前の日本ジャーナリズム批判として、この本を書いたのである。石橋湛山論としても、あるいは小伝としても、いささか中途半端なのはそのためである」(半藤一利『戦う石橋湛山(新装版)』、新版へのあとがき)とあるように、基本はジャーナリズム論の本である。

 半藤一利さんの同種の本としては、ノンフィクション作家で、昭和史研究家の保坂正康さんとの対談本で、『そして、メディアは日本を戦争に導いた』という、戦前日本のジャーナリズム論、現在のジャーナリズム論にも通じる、よりテーマ性を明確にした本もある。ご関心のある向きは、読まれると良い。

 今回は、生で聞いた講演の内容に触れる前に、また、講演内容をより良く理解するために、『戦う石橋湛山』の内容を私なりに復習しておきたい、と思う。

★大原の「読書記録」ノートから;

『戦う石橋湛山』のうち、特に、第三章「日本は満洲を必要とせぬ」、つまり、石橋湛山の小日本主義=植民地放棄論(満蒙放棄論)を中心に、以下私の読書メモを軸に紹介したい。

☆「満州事変から国際連盟脱退まで。戦時中の大手新聞と石橋湛山の東洋経済新報の構図」

 「昭和の初めのこの長いとはいえないあいだに、日本の言論は大きく揺れ動いた。揺れただけではなく、ほとんど180度の転回をした。とくに大新聞がそうであった。このときに石橋湛山のみはほとんど変わることがなかった。その信じるところをいいつづけてやまなかった。」(序章 「その男性的気概」、23ページ)

 1933年2月22日付の朝日新聞。2月20日の閣議決定・21日の国際連盟脱退 事実上決定を受けた国民大会の熱狂を伝える。「国策を支持して 熱血の気勢を揚ぐ 九段と日比谷に大会」。この日の朝日にはまた、「小林多喜二氏 築地署で急逝 街頭連絡中捕われる」という記事も載っていた。時代は、明暗併せ持ちながら、急斜面を下り落ちていこうとしていた。(第五章 「天下を順わしむる道」、255ページ)

*満州事変(1931年)。
 1931(昭和6)年9月18日、午後10時20分頃。中国の奉天北郊、柳条湖付近で満鉄の線路が爆破された。「満州事変の勃発」である。日本軍の仕業である。河本中尉らが爆破に当った。

 「陸軍中央の反撃」を受けて、大手新聞の論調が満蒙強硬論で盛り上がっている中で、既に、「大日本主義の幻想」で見てきたように、「満蒙放棄論」を述べていた湛山も、「これがこのときはまったくの音無しの構えなのである。中国のナショナリズム運動を正しく評価し、国権回復運動に理解を示し日本人の夜郎自大な中国人軽蔑をきびしく戒めてきた湛山にして、いまほど起つに絶好の機会はなかった。しかし惜しむらくは、その湛山にノーのただの一言もなかった。このときの湛山は、経済評論家として金輸出再禁止論、インフレーション政策を中心とする景気回復策に、全努力を傾注していた」(第三章 「日本は満州を必要とせぬ」、97ページ)。このように、現実には軍部の独走に押されて、「しかし、惜しむらくは、すでに、それ(「満蒙放棄論」—注)は空想論となっていた」(同、102ページ)。

*戦時中の朝日新聞の部数の推移。
 ・1931年5月、140万部。
 ・1938年1月、250万部。
 日中戦突入(1937年)後半、軍部に積極的に協力し、戦争熱を煽り立てて、部数を100万部以上も伸ばしたのである。

 朝日など大手新聞の論調、1931(昭和6)年が転換点。
 「戦火を煽ったマスコミ」(第三章 「日本は満州を必要とせぬ」、118ページ)。「新聞の影響力を恐れ、世論が軍部攻撃に転じるのをなにより陸軍中央が憂慮していた」。だが、「それは杞憂であった」(同、119ページ)。「観衆は、……大喝釆を博した」(朝日9月22日付)。「あせる軍部をより力づけたのは新聞であった」(同、120ページ)。朝日記事「朝鮮軍の満洲出動 閣議で事後承認」、朝日社説「中外に声明するところあれ」(いずれも、朝日9月23日付)と、「政府の尻を叩いている」(同、120ページ)。

 9月23日付毎日社説「満洲事変の本質 誤れる支那の抗議」。「陸軍中央はこれらの新聞報道にがぜん意を強くした」(同、121ページ)。9月24日付朝日社説では、「事変が自衛権の行使であることをあらためて強調した」(同、122ページ)。「若槻内閣は新聞にハッパをかけられたかのように9月24日、関東軍の行動を自衛のためであると正当化し」た(同、122−23ページ)。

 9月22日、中国は国際連盟に提訴。理事会は日中双方に「事件の不拡大と軍隊の即時撤兵を求める緊急通告を満場一致で決議」。毎日社説「連盟の通告とわが声明」で、「皇軍に節度あり、略、毫も他より非難せらるべき意図なきことを確信する」(9月25日付)。毎日は、マスコミとして皇軍の文字を初めて使い「軍との一体感」を表明した(同、123ページ)。9月25日付の朝日社説も強硬論。自衛権の発動説をくりかえした。

 東洋経済新報の「孤独な事変批判」。
 東洋経済新報社(明治28年創立)。1931年6月、「牛込天神町の木造三階建ての社屋から、日本橋本石町に建てた地下一階地上五階建ての鉄筋コンクリートの新社屋に移ったばかり」。社員総数66人。売行きも良く、7月には「経済倶楽部設立」。「社屋新築祝賀会や記念講演などで時間をとられ、時勢の変化にたいしては楽観視していた」と、半藤一利さんは、分析する。危機的状況は、意外と静かに潜航して行くものなのだろうか。

 東洋経済新報9月26日号の社説(第三章 「日本は満州を必要とせぬ」、127ページ以下)、1)「内閣の欲せざる事変の拡大 政府の責任すこぶる大」、2)「満蒙問題解決の根本方針如何」二篇。

 その1)「内閣の欲せざる事変の拡大 政府の責任すこぶる大」では、「内閣の不拡大方針を軍部が無視して勝手なことをしている」(同、127ページ)。統帥権の独立、帷幄(いあく)上奏、軍事と内政の分離の問題点。「満洲事変がおこった直後において、統帥権の問題に直接ふれて論評したのは、この社説だけといっていい。しかし、さすがの湛山もそれ以上の軍部への追及は行わず、(略)、そこがなんとも歯がゆくもの足りないが……。」(同、129ページ)。「二個の政府が存するが観呈せしめた罪」(社説、湛山。同、129ページ)と看破。軍事優位の内政批判。

 その2)「満蒙問題解決の根本方針如何」と10月10日号の社説に「続編」掲戴。「中国のナショナリズムをまっすぐ認識し、いさぎよくその要求を受けいれることである」。年来の信念「満蒙放棄論」を披瀝。「満蒙の特殊権益を保持する方針をとるかぎり、満蒙問題の根本的解決はない。」(いずれも、同、130ページ)「領土と信ずる満蒙に、日本の主権の拡張を嫌うのは理屈ではなくして、感情である。」(同、131ページ)。つまり、ナショナリズムを石橋湛山は重視する。

 「大新聞の社説が、この『新報』の社説と同じように客観的で感情を抑えたリベラルなものであったなら、おそらく国民感情はまったく違ったものになっていたのではないか。」(同、133ページ)。

 10月10日号の社説。「人口問題は、領土を広げたからとて解決はできぬ。」(同、133−135ページ)。「満蒙はなんら我が国に対して原料供給の特殊便益を与えていない。」「我がアジア大陸に対する国防線は、日本海にて十分だ。万一の場合もしこれが守れぬほどなら、満蒙を有するもけだし無益だ。」「少なくとも感情的に支那全国民を敵に回し、引いて世界列強を敵に回し、なお我が国はこの取引に利益があろうか。」(社説、湛山。同、133−135ページ)。「『権益擁護』の新聞各紙の大合唱の大きな渦のなかに、さびしくも呑みこまれていってしまう。」(同、135ページ)。

*江口圭一(井上清ほか編『大正期の急進的自由主義』に掲戴)によると、「この号こそは満州事変に対するもっともすぐれた批判の一つであるとともに、長年にわたる『新報』の帝国主義批判の言論の自由活動のなかでも、最高の頂点の一つを築くものであったといえよう」という。

○満洲国建国(1932年)。
 1932(昭和7)年3月。「建国にいたる過程は、関東軍のおもうがままといっていい。」(同、138ページ)。

 軍の満蒙「三原則」(同、139ページ)。
1.満蒙を中国本土から切り離す。
2.満蒙を一手に統一する。
3.表面は中国人が統治するが、実質的には日本が掌握する。

 「国民輿論はかえって激成され、熱狂的支持を受け(10月4日の「司令部公表」の起案者の参謀)」(同、139ページ)。「満洲国独立案、錦州爆撃(10月8日)、国際連盟からのはげしい抗議など新局面がひらかれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていった。とくに毎日新聞がハッスルした、といっていいであろうか。」(同、139ページ)。10月27日付の毎日「守れ満蒙=帝国の生命線」の大特集。1941(昭和16)年刊行の「東日七十年史」(毎日新聞の社史)。「『生命線』というスローガンが国民の間に深く浸透したのは毎日の力である」(同、140ページ。東京日日は、後の毎日)と自慢している。

 「朝日・毎日の大資本による全国紙は、報道の名のもとに、戦況ニュースの速報において地方紙や群小紙を圧倒したのである」(同、140ページ)。飛行機、自動車、電送写真機。特殊通信器材。「朝日・毎日の両紙のみといっていい」(同、140ページ)。10月17日、国際連盟理事会が日本軍の「撤兵」決議、不戦条約第二条違反の注意「喚起」(同、142ページ)。10月26日付毎日社説「正義の国、日本——非理なる理事会」(同、143ページ)。10月20日付朝日社説「不戦条約違反にあらず」。「日本が国際世論の前に立たされ孤立化を深めていくことになった。」(同、143ページ)。→「誤った観念を国民に与え、無謀な排外思想を激成する」(「財界概観」、10月31日号)という湛山の憂い通りになって行く(同、143ページ)。「湛山の論は、事実を直視した正論」だが、「無力であった」(同、146ページ)。

 「軍部にひきずられた外交の大失敗」(同、146ページ)。「ニュースの最重要な特性である客観性が、センセーショナリズムに侵され、特大の活字でくり返され、軍部の選択したコースへ世論を誘導していく役割だけをはたすことになる。」(同、141ページ)。『小学生諸君よりの 慰問状を募る』という社告。「朝日は小学生まで国策に動員する」(同、144ページ)。

 「当時の日本人が新聞や放送の愛国競争にあおられて『挙国一致の国民』と化した事実を考えると、戦争とはまさしく国民的熱狂の産物であり、それ以外のものではないというほかはない。」(同、146ページ)。

*5月20日の党首討論で、ポツダム宣言について、「つまびらかに読んではいない」とはぐらかした安倍発言に対する最近のマスコミ論調の批判力の低調さに、早くも、こういう時代との類似性が感じ取れるのは、私の杞憂であってくれれば良い。ポツダム宣言とは、1945年7月26日、ドイツのポツダムにおいて、アメリカ、イギリス、中国、後にソ連も参加した対日共同宣言。主な骨子は、日本に降伏を勧告し、戦後の対日処理方針を表明したもの。

○国際連盟脱退(1933年)。
 1933年11月18日、日本新聞協会の声明書。「『いたずらに支那人の空言を信じ、日本の撤兵を強要するような片手落ちの措置をあえてするに至ったのは、国際連盟みずからが国際正義を破壊するものである』連盟を新聞界全体で非難しているのである」「当時の新聞人の精神構造は戦争に熱狂するあまり狂っていた、と評するほかはない。」(同、152ページ)。

 いつものように、石橋湛山絡みの年表を掲戴しておこう。毎回なので、頭には言っているという人は、飛ばしてください。

「湛山と大正・昭和という時代」
1904年、日露戦争始まる。
1910年、日本、韓国を「併合」。
1911年、東洋経済新報社に入社。
1912年、明治から大正へ。
1914年、第一次世界大戦始まる。
1915年、中国に対して、対華21箇条要求を提出。
1917年、ロシア十月革命、ソビエト政権成立。
1918年、シベリア出兵。
1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動。ベルサイユ講和条約調印。
1921年、「大日本主義の幻想」連載。

1926年、大正から昭和へ。
1931年、★「満州事変」起こる。
1932年、★「満洲国」成立。
1933年、★国際連盟脱退。
1937年、盧溝橋事件・日中全面戦争突入。
1939年、第二次世界大戦始まる。
1940年、★「日独伊三国同盟」締結。
1941年、太平洋戦争始まる。その10ヶ月程前に、東洋経済新報社の社長に就任。
1945年、★ポツダム宣言受諾、敗戦。
1946年、日本国憲法公布。戦後レジームの象徴。
1947年、衆院選に立候補し、初当選。
1956年、石橋湛山内閣発足。総理大臣に就任。
1957年、2ヶ月余で、病気引退。

 「満州事変」から「国際連盟脱退」までの当時の報道を半藤による分析で見ると、時代の狂気は、権力者(特に、軍人と政治家)が、世相を気にし、瀬踏みをしながら、醸し出し始め、それをマスコミが煽り、煽られた国民が、また、権力者を煽る、という形で、増幅されて来たことが判る。

 軍の陰謀や意向、煽る大手マスコミ対湛山の東洋経済新報の社説。特に、朝日、毎日などの大手新聞が戦争を煽り、購読者を増やし、その結果、資本を蓄積し、最新の機材を購入・整備し、広域報道力を付け、それを戦場報道に生かして行ったことに対して東洋経済新報の湛山に象徴されるような雑誌社や弱小の地方紙との対比でもあった。

*この論で姿を見せていない戦前の読売新聞は、今のような有力な全国紙ではなく、関東のブロック紙だった。戦後、大阪、福岡、名古屋へ進出して、全国紙になり、やがて、朝日を抜いて、販売部数トップになった。
(『戦う石橋湛山』抄録了)

★大原の「講演記録」ノートから;

 『戦う石橋湛山』著者の半藤一利講演(以下、敬称略)。アトランダムながら、記憶や印象に残った講演エピソードを記録しておきたい。この段階では、半藤解説を筆記するだけで、原典に当たって精査しているわけではないので、間違って筆記している可能性もあるので、ご容赦願いたい。

 まず、『戦う石橋湛山』というタイトルの謂れ。元のタイトルは、『石橋湛山の戦い』だったというが、これでは、歴史的に知られている「石橋山の戦い」の物語と間違えられるのではないかという編集者の懸念で、「戦い」と「石橋」を逆にしたので、ちょっと、センセーショナルなタイトルになった、と言って、半藤さんは巧に会場の笑いを取っていた。

 贅言;「石橋山の戦い」と言えば、平安時代末期、1180(治承4)年、湯河原の石橋山を戦場にした源平の戦い。相模国の武将で、平家方の大庭景親らと源氏方の大将・源頼朝が戦った。大庭景親の弟・俣野五郎景久、大庭方の梶原平三景時らが参戦している。石橋山の戦いでは、頼朝軍は撃破されて、最後は、海に逃げて安房国へ敗走するが、大庭方の梶原平三景時が機転を利かせて、頼朝の敗走を助ける。それゆえ、後に頼朝に厚遇されることになり、日本史好きの庶民から平氏と源氏を二股にかけたとして、「二股武士」と軽蔑されることになるが、この顔ぶれを見ると思い出す歌舞伎の名狂言がある。

 通称「石切梶原」(「梶原平三誉石切」)で、先月号の、このコラムで触れた四代目中村鴈治郎襲名披露興行、4月の歌舞伎座でも祝儀の演目に選ばれている。それでなくても、上演回数の多い演目だ。4月の舞台では、珍しく、八幡宮社頭ではなく、星合寺境内での、「ふたつ胴」という試し切りの場面で、二股武士らしからぬ、爽快な裁き役の梶原平三を白塗りの幸四郎が演じ、砥の粉塗りの大庭景親を彦三郎が、赤っ面の俣野五郎景久を錦之助が、それぞれ演じていたのを思い出す。ことほどさように、「石橋山の戦い」は、昔の庶民には、親しい歴史の挿話(エピソード)だったのだろう。

 石橋湛山の略歴に触れて、半藤は、湛山の思想には、湛山が少年時代から日蓮宗住職の父や養父の影響を受けて、日蓮の思想が色濃く残っていると指摘した。

 1940年代という、戦前の時期に言論の自由を重視する主張をしたのも、自分の問題として、日本の問題として考えていて、この問題を湛山ほど考えた人はいなかったと、半藤は前置きして、『戦う石橋湛山』という本で既に書いたことをここで話をしてもしょうがないので、今回は、「三国同盟と湛山」というテーマで話をしたい、という。

 日露戦争後の日本は、国境線が長いことを理由に軍備拡張を続けてきた。長い国境線を守るためには、軍備拡張が必要だと言うのが陸軍の考えであった。海軍は、国境の外で日本を守るために海軍も強くする必要があるという主張だった。攻勢こそ防御だ、攻めることが守ることになるという主張である。

 1940年9月に日独伊三国間条約が締結された。この条約に基づく同盟関係が、日独伊三国同盟と呼ばれる。列強による植民地競争で遅れをとり、孤立化していた国同士で同盟は作られた。1週間で交渉をして締結された条約。お互いにアメリカを牽制し、対米戦争を回避しようという構想をもっていた。「アジア」(半藤表現。原文は、「大東亜」と表記)に置ける日本の指導的地位、ヨーロッパに置ける独伊の指導的地位を相互に確認し合った。日本でもアジアを早めに抑えた方がよいという松岡構想のようなものがあった。

 これに対して、石橋湛山は、三国同盟締結直後の1940年10月に掲戴した社説で、英米との摩擦は、対米戦争に至ることになると批判した。

 第二次大戦は、どこが勝っても賠償金は取れない。ドイツの勝利はあり得ない。ソビエトは自分に都合の悪いことはしない。抜け目がない。ヨーロッパの混乱を赤化(共産主義化)に利用するだけだ。日本は、(アジアに於ける日本の「指導的地位」を独伊に尊重されたからといって)、アジアのことを日本だけで処理しようとしてはいけない。ドイツとの同盟は止めるべきだ、と三国同盟について、石橋湛山は、鋭い見方をしていた。

 ところが、翌年、1941年1月に掲戴した社説では、三国同盟是認論を打ち出し、独伊援助に邁進すべきだと主張している。石橋湛山らしからぬと半藤は批判する。援助によって、三国同盟側を勝利者たらしめなければならない、と述べている。この社説が、実は、戦後、GHQによる石橋湛山の公職追放の論拠となった。この社説の存在を知っていた誰かが、戦後、GHQに密告した。

 「好意的に解釈すれば」、と前振りをして、半藤は、ドイツに勝たせて、戦争終結の早期を石橋湛山は目指したのかどうか。結果的には、日米開戦を回避できず、日本は孤立化をし、祖国の運命を切り開いて行かなければならない状態に追い込まれて行った。この社説は、「石橋湛山全集」(全15巻)には、所収されていない。

 三国同盟についての石橋湛山の紆余曲折は、今後、この読書会で石橋湛山を読んで行く場合、どういう文脈で、この社説を解釈するか、宿題となるだろう。これに限らず、石橋湛山の言葉を、どういう文脈で読むか、皆さん自身で判断して戴きたい。それが、「湛山を読む」という課題へのアプローチの仕方だろうと、思う。後発の私たちたち読書会メンバーに指針を与えてくださったのだろうと、私は受け止めた。

 最後に、半藤は、自分の好きな日本人として、勝海舟、石橋湛山、永井荷風の名前を挙げた。その理由として、半藤は、この3人は、「日本にいながら、日本の中の亡命人」として生きたからだと言った。石橋湛山は、1912(大正元)年、自分は、日本の中の異邦人になりたい、という趣旨のことを書いている、ともいう。

 石橋湛山が、今、生きていたら安倍政治のことを、どう言っただろうか。
(講演了)

 このコラムは、不定期的ながら、継続して掲戴している。今回の項目は、続く。

 (筆者は、ジャーナリスト。元NHK社会部記者)


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧