【コラム】落穂拾記(40)

寿産院事件と帝銀事件のこと

羽原 清雅


 戦争が終わって2年半ほど経った1948(昭和23)年1月、ごく身近なところで「寿(ことぶき)産院事件」と「帝銀事件」が立て続けに発覚、発生した。毎年この時期になると、この事件を思い出す。当事者の名前など、忘れようもない。
まだ小学校3年生の終わりごろのことながら、朝刊と夕刊を待ちかねて、読めない文字を飛ばしながらも筋を追い、それなりにわかったような気分でいたことが、強い印象として残ったのかと思う。
 異様な事件は近隣のことなので大人たちの話題にのぼるのは当然だったが、子どもらの間ではかねて、寿産院に働く異形の男性がよく自転車で街を走っており、このことをわんぱく仲間で口の端に載せていたことから一層強く好奇心をかきたてたのだ。

 1948年1月16日の朝日新聞の社会面を見ると、「つぎ/\に死ぬ子—産院と葬儀屋に疑い」の2段見出しで登場している。続報の見出しには「子を取りもどす母親—死児も寝床に魔の産院」とある。
 新宿区柳町27寿産院石川ミユキ(51)、猛(55)夫妻で、12日夜、自転車の荷台に赤ちゃんの4遺体を載せて運搬中の葬儀屋が職務質問にあい、彼らは15日に逮捕された。事件初出の記事は「みゆき(42)」となっている。 

 戦後間もない当時の新聞は裏表2ページ、1ページ17段、1段15字。社会党の片山哲首相の時代だが、この日の一面トップでは社会党大会での左右対立を報じ、書記長選挙は加藤勘十、浅沼稲次郎の一騎打ちのかたち、とある。この大会の左右対立が引き金になって片山政権はこの1ヵ月足らずで退陣を表明している。
 同じ日の1面、2面に、音楽家近衛秀麿の泰子夫人が、東京裁判の証人に立ち、西園寺公望の政治秘書原田熊雄が残した、いわゆる原田日記の信ぴょう性について語ったことを報じている(夫人は毛利式速記のベテランで、この回顧録の筆記を手伝っていた)。
 翌17日のトップ記事は、A級戦犯20人の釈放をキーナン検事が勧告した、とある。そして、元商相岸信介、元大東亜相青木一男、元陸相下村定らの名とともに、右翼の児玉誉士夫、笹川良一、葛生能久らの名前と写真が出ている。20日付では、大本教教祖の出口王仁三郎78歳の死を伝えている。

 事件の概要は、終戦前の昭和19年に始まる。当初の被害は少なかったが、18日の紙面では19年から23年までの5年間に、預かった「もらい子」は204人、他家に譲った子が98人、死亡が103人とあるが、詳しくはわかっていない。19、20年には死亡はほとんどなく、22年18人、23年80人で、戦争終結後が異常に多い。もっとも、死亡診断書、埋葬許可証の数が合わず、最大169人の死去、とする見方もある。また、当時の社会状況から私生児や父親不明の子など「世をはばかる不幸な子たち」も多く、書類を調べても氏名本籍が虚偽のため実態がつかめない、と述べているほどだ。関与した葬儀店、それに埋葬寺なども疑われる状態だった。
 捜査直後に産院で見つかった5遺体を解剖したところ、2体は凍死、3体は肺炎と栄養失調だった。いずれの胃にも食物の入った形跡は認められなかった、という。捜索時に7人の赤ちゃんが三畳間の竹製ベッドに痩せた姿で転がされていた、とある。
 元産婆や助手の話では「育児態度はめちゃくちゃで、ミルクなども三日分を一週間に引き延ばして与えるという有様」と述べている。

 宮崎県出身のミユキは東大付属病院付属の産婆講習所卒業後に開業、事件当時は東京都産婆会牛込支部長、牛込産婆会長を務め、前年の新宿区議に自由党から立候補して落選。茨城県出身の夫の猛は憲兵軍曹で、除隊後約八年間警視庁巡査を務めたという。いずれも犯罪にはなじまない職業経験があった。
 産院からはミルク18ポンド、砂糖1貫匁余、コメ1斗5升が押収され、近くの家に隠していたオシメは行李1個、赤ちゃんの着物が行李と茶箱に1個、負ぶい半纏など大包み2個を押収した。これらは親たちが赤ちゃんとともに届けた品だとしている。さらに正規ルートで配給された育児用練乳35ポンド、粉ミルク1カマス、砂糖や酒などを横流しや物々交換していたとの証言もあった。
 彼らは終戦前から新聞に三行広告を出して、4〜6000円の養育費をとって預かり、戦後にベビーブームや穏当でない出産が増えるなかで残酷な犯罪を拡大していったようだ。死亡した場合、葬儀料500円を親から取った。
 東京地裁の判決はミユキに懲役8年、猛に同4年(1948年10月)、東京高裁はそれぞれ刑を半減した懲役4年と2年(52年4月)だった。判決も時代の流れに乗って出されるものではあろうが、いかにも軽くなかったか。

 この事件を改めて調べていると、ヘエーと思うことがもうひとつあった。
 寿産院の報道から1ヵ月も経たないうちに、比較的近くの高田馬場界隈で、類似の犯罪が摘発されたという記事が掲載されていた。当時は新聞をめくっていたものの、寿産院以外には目が向かわなかったのだろう。
 2月10日の朝日新聞に、「死児六十一—第二の寿産院を取調べ」という3段記事(その後62人に修正)。容疑者は匿名だが、わかっただけでも昭和21年に20人、22年に9人、この年に1人、また22年だけでもこの産院死亡と見られる届出人不明の死亡が31人あり、死因のほとんどが消化不良、栄養不良だったという。昭和8年に乳児園として開業、最近は大々的に広告を出して預かり子、譲り子の「幼児ブローカー」を兼業。寿産院事件の発覚後に証拠になる書類などはすべて焼却したので、詳細は不明だった。「預かり子は無籍者が多いので育児物資の受配は有籍者死亡の場合、無籍者の死亡として配給を受けていた」という。
 翌日の紙面では、「戸籍ごまかし甘い汁 死亡児にも疑惑—院主と係医師を留置 第二の寿産院事件」と3段組の見出しが躍った。つまり、新宿区戸塚町2丁目の淀橋産院主安井仲子(45)と、同区諏訪町の医師が捕まったという報道だった。埋葬した早稲田の寺院によると、「預かった遺骨は百個以上」と述べている。ここでも、9人の預かり子のうち5人が無籍児で、有籍児Bが死ぬと、存命の無籍児Aが死んだことにしてBの死亡診断書で埋葬、有籍のBを無籍のAとして他に譲る、もらう方も無籍のほうが実子手続きが簡単、というからくりだった、と書かれている。
 寿産院では、きれいな顔立ちの子は500円、普通なら300円で渡したといわれ、またこの淀橋産院では無籍児の親から1万3000円で預かったという。まさに、法の弱みを心得たブローカーによる赤子の殺意と売買だった。

 当時、中絶は許されず、避妊薬も使われる状態ではなく、しかも男女交際に伴う私生児問題は発生しやすく、このような裏の生業(なりわい)が成り立ったのだろう。それにしても、非人道的な行為であったし、行政のありようとしても問題はあった。
 ちなみに、江戸時代からの「産婆」は占領政策の一端として、これらの事件後の1948年7月、保健婦助産婦看護婦法によって国家試験を必要とする「助産婦」の名称になり、その後10年余り前から「助産師」となった。また、避妊薬の使用が翌49年4月に、6月に経済的な事情による中絶が認められるようになった。だが、それ以前の問題として倫理的に許されないし、改めて生命の尊厳、個としての人権の大切さを感じさせられる。
 もちろん、筆者の子どものころには、そのような思いなどあるはずもなく、単なる子どもながらの好奇心でしかなかったことはいうまでもない。

 この二つの事件の間に発生したのが「帝銀事件」だった。つまり、寿産院報道の10日後、豊島区長崎の帝国銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て現みずほ銀行)の椎名町支店で、医師を装った男に赤痢予防薬として毒物を飲まされた行員16人のうち12人が殺害されるという惨事があった。これは著名な事件なので、とくに触れない。
 事件から半年ほど経って、容疑者として画家の平沢貞通が函館で捕まるのだが、その時も半分もわからないままに新聞の文字を追った。
 早稲田の自宅から椎名町の現場までは子どもの足ではちょっと遠いが、わんぱく仲間たちと近くまで覗きにも行った。和風の民家風の建物と警察官の姿しか思い浮かばない。
 95歳の平沢が医療刑務所で病死するまで、40年近く真偽が問い続けられた。70年近く経った事件ながら、まだ関心がある。そんな話題に触れたことから、ある政治家から平沢が刑務所内で描き続けた画集をもらったこともあった。

 戦後の制度的混乱、衣食住の困窮、物価高、犯罪の横行など、戦時中よりもおかしな状況が続いていた。母親から「だから戦争はだめ」と何度も聞かされた。担任の中年の教師が憲法読本の授業の際「人民、よりも国民、がいい」とちょっとだけ言った意味が、その後かなりたってからやっと理解できた、そんな時代だった。

 この3年生のころから2年ほど経ったある日の授業で、えんぴつ書きの学級新聞を作った。きわめて稚拙ながら、やたらに面白かった。同じころ、新聞社の見学があった。インクのにおいが気に入り、働く人のにぎわい、ざわめきが何か楽しかった。鉛板をとったあとの紙型からつくった栞(しおり)をもらい、今もどこかにあるかもしれない。
 そのころから新聞記者になりたい、と言いはじめていた。勉強などそっちのけで焼け跡探検などばかりしていたので、まだ学んでおくべき前段の苦労など知りようもなかった。
 寿産院事件のことを、1月を機に「オルタ」に書いてみたい、と思ううちに、記者業に進みたいと思い始めたとっかかりはこうした事件への好奇心からだったかな、と感じた。淡い夢から、もう60余年が過ぎていった。

 (筆者は元朝日新聞政治部長)


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