【コラム】
『論語』のわき道(16)

失 言

竹本 泰則

 バブル景気の終焉から現在に至る日本経済について「失われた30年」という捉え方をすることがあるようだ。
 難しいことは分からないので上っ面を撫でただけだが、日米の株価推移の比較によって、わが国の経済成長の立ち後れを論じるもののようだ。
 平成期末の日経平均株価は、バブル期に達成した最高値に対して6割弱の水準にとどまっている。一方米国の平成期末のダウ工業株30種平均は1989年初頭比で12倍の水準に達している。つまりは、この三十年余の間、日本経済は世界の経済成長の勢いに取り残されたままである、ということらしい。

 株価が経済のすべてを表すわけではあるまいし、判断材料として日経平均株価とダウ工業株30種平均だけというのであれば荒っぽい感じがする。はたしてどこまで実態をとらえているのだろうか。
 年金でぼんやりと暮らしている身からいうと、デフレ克服も未だしの感であるし、何よりこの国の経済が強くなったという感覚など湧いてこないことは確かだ。

 「うしなう」の意味をもつ漢字の「失」は、その成り立ち(字源)に諸説あるようだが、その一つに手から物をとり落とす(こぼれる)形を表したものというのがある。いわれれば、一画から四画までで「手」になる(形は崩れるものの)。
 五画目はその手から抜け落ちたものを表すということか。

 辞書には漢字の意味として、うしなう、しくじる、あやまつなどが並ぶ。ところが熟語を見ると、わが国での使われ方が本来の意味とは違うという例が比較的多く目につく。失格、失脚、失体(態)、失念などといった言葉のもともとの語義は、わたしたちがいま普通に使っている意味とは異なるようである。軽くわびるときなどに失礼、失敬などの短い挨拶で済ますのも、日本独特の言葉遣いらしい。

 失言という言葉も、わが国では言ってはいけないことをついうっかり言ってしまうといった意味に使う。しかし辞書によればこのような意味に使うのは日本語としての用法であるとしている。ならば本来の語義はどうなっているかというと、第一番に出てくるのが『論語』を典拠として「話をすべきでない人と話をする」である。もうひとつは「言いそこなう」を挙げている(三省堂/『漢辞海』)。一番目の説明は肝心の「失」につながっておらず、しかも十分に説明しつくしていない感がある。

 『論語』にある「失言」は孔子の言葉の中にある。

  ともに言うべくして、これと言わざれば、人を失う。
  ともに言うべからずして、これと言えば、言<げん>を失う。
  知者は人を失わず、また言を失わず

 岩波文庫の『論語』で現代語訳(金谷治訳)を見てみる。
 「話しあうべきなのに話しあわないと、あいての人をとりにがす。話しあうべきでないのに話しあうと、ことばをむだにする。智の人は人をとりにがすこともなければ、またことばをむだにすることもない」

 最初の段をさらに意訳すると、語るべき相手であるのに対話をしないでいると、その人との縁を失ってしまうということだろう。論理としても分らないではない。しかし、語るべき相手と対話をしない……、これはどのような情景をいったものであろうか。いま一つ合点がいかない。
 まさか、心ひそかに慕っている人と話ができるチャンスが偶々巡ってきたのに、面映ゆくて口がきけないなどというようなことではあるまい。

 高校時代の漢文の教師が授業中にいった言葉がある。
 「妻は食事時においしいかと訊く。美味いと応えれば喜ぶことは分っている。分っているから、かえってそれが言えない」
 ひねくれた性格との批判もできよう。だが、身近な人に向かって喜ぶことが明々なことをいうのは、なにかしら偽善家になったようで臆してしまうのではないか。そうした気持ちに共感する部分が自分にもある。

 外国での研究だが、社会心理学者が高齢者における孤独感の感じ方について調査している。
 高齢者を男性と女性で分け、それをさらに配偶者がいる人と単身者とに分けて比較したものである。
 孤独を感じている人の割合が最も大きいのが男性単身者の群、最も小さいのは男性の妻帯者である。両者の中間に女性が位置しており、女性では配偶者の有無は、孤独感にほとんど影響していない。

 わが国には60歳前後の死亡率に関する調査があり、それによれば妻と別れた男性の死亡率は、夫婦関係を保っている男性の約2倍だという。女性については特記が無い。女性の場合、離婚していようがいまいが、それと死亡率との間には有意の相関がないということであろう。

 これらから、次のようなことがいえそうだ。
 〇 妻にとって、夫は「いてもいなくても、どうでもいいもの」である。
 〇 夫にとって、妻とはいてもらわなければ精神衛生・生命にかかわる存在である。
 すなわち、夫にとって妻は「ともに言うべき」相手であると理解し、納得することが必要であり、「言わざる」ままに縁を失ってしまうと、後々孤独感にさいなまれ、寿命を縮めることになりかねない、ということ。
 さすれば、手料理も敢えて褒めさせていただかなくてはならないことになる。

 『論語』の章句に戻ると、2行目に失言が出てくる。言ってもしようがない人に話をすることは失言だというのである。一部の漢学者は、言(ことば)を失うと読み下す。これだと、言葉で表現のしようがない、あるいは絶句するという違った意味になってしまうので適当ではなかろう。金谷治は言(げん)をうしなうという読み下しを採って、ことばをむだにすると訳している。これも失うをむだにすると訳すことにどこか違和感が残る。

 気楽な素人としては、まず、言(げん)が失(う)せると読み下す。その上で、言った言葉に込められた思いやら事実やらがその場で消失してしまう、つまり何を言っても相手にとどかない、言ったことが残らないといった風に解釈して済ましている。

 (「随想を書く会」メンバー)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧