【オルタの視点】

天皇機関説事件と立憲主義への認識不足について

山崎 雅弘


◆◆ 今こそ読み直すべき昭和の分岐点:天皇機関説事件

 1935年(昭和10年)の日本で起きた「天皇機関説事件」は、それから82年後の今を生きる我々にも、さまざまなことを教えている。だが、多くの日本人は教科書の年表で「昭和10年 天皇機関説事件 美濃部達吉」などのキーワードを記号の組み合わせとして記憶しているだけで、実際にどのような出来事だったのか、それが社会をどう変えたのか、という全体の筋書きをきちんと説明できる人は、国民の中ではおそらく少数派だろう。

 そんな状況に一石を投じ、ふつうの市民が天皇機関説事件の原因と経過、主要な関係人物と団体、事後への影響などの全体像を俯瞰できる、コンパクトな概説書を世に出したいとの思いで執筆したのが、今年4月に集英社新書より刊行された拙著『「天皇機関説」事件』である。

 この事件のあと、天皇機関説は日本の政界や官界、学界から徹底的に排斥されたが、この事件と並行して勃興した「国体明徴運動」により、明治や大正期には限定的ながら許容された自由主義や個人主義までもが、有形無形の弾圧を受けることとなった。現在の日本でも、自由主義や個人主義に対し「わがまま」「自分勝手」などと否定的に評価する主張が出始めており、社会のあちこちで進む戦前的価値観の復活と合わせて、こうした主張とその出所、彼らが国民を向かわせようとする方向に注意を払う必要がある。

 天皇機関説事件は、直接的には憲法学説をめぐる議論だが、機関説排撃論の根底にあったのは、立憲主義の理念に対する国民や社会の無知、無理解だった。それを政治の中枢(帝国議会)にいる一部の人間(貴族院議員で陸軍中将の菊地武夫ら)が利用したことで、排撃運動が際限なくエスカレートし、国の進路を大きく狂わせる結果となった。

 一般的には、蓑田胸喜をはじめとする右翼(国粋主義)活動家やそこに繋がる軍人政治家が、排撃運動の中心と見なされるが、もし美濃部が天皇機関説の前提とした近代立憲主義の認識が、憲法学界のみならず一般国民の間にも周知されていたなら、あるいは機関説の排撃事件は起きなかったかもしれない。

 とはいえ、当時の日本社会には「大日本帝国憲法」が存在したものの、欽定憲法(君主により制定された憲法)という形式もあり、憲法と「国体(天皇中心の絶対的な国家体制)」のどちらを上位に置くかの認識がはっきりせず、1935年の天皇機関説事件によって、前者の後者への従属が決定づけられた。

 ここで言う「国体」とは、神の子孫と見なす天皇を絶対的に神聖な存在とし、国家も国民もすべて天皇を中心とする形で存在するのが「永遠に変わることのない日本という国のかたち」または「国柄」だという考え方で、当時の右翼団体はこの「国体」という概念を錦の御旗のように振りかざし、気に入らない人間を「反国体的」だと決めつけて糾弾・罵倒していた。

 こうした実情を考えれば、当時の日本社会で立憲主義の認識が浅かったことを、今の視点で責めるのはアンフェアとも言える。

 ひるがえって、2017年の日本はどうだろうか。憲法と「日本という国の伝統や素晴らしさ」(国体)のどちらを上位に置くかと問われて、はっきり前者だと言い切れる国民は、全体の中で多数派だろうか。憲法は何のためにあるのか、立憲主義とは何かとの質問に、自分の生活に根ざす言葉としての答えを用意しているだろうか。

◆◆ 立憲主義への無理解が生む「片言隻句への言いがかり」

 安倍晋三首相が語る憲法変更(いわゆる改憲)の議論は、憲法が権力を縛るという立憲主義の理念、つまり「近代国家の憲法とは、そもそも何のためにあるのか」という、一番大事な議論の出発点を素通りする形で、いきなり条文の是非や、前文に何を入れるか、という話になっている。

 これは、おそらく意図的にされていることで、「憲法とは、権力の暴走から国民を守るためにある安全装置」だという基本認識が国民の間に共有され、定着すれば、自民党改憲案に記されているような「国家に対する国民の義務」を強調した内容に、大きな疑問が生じることになる。彼らが憲法の変更に込めた真の意図、つまり権力監視のための憲法から、権力側が使う政治的道具としての「立憲主義から切り離した憲法」への作り替えが、スムーズに進まなくなる可能性がある。

 実際、安倍首相は2014年2月3日の衆院予算委員会で「憲法が権力を縛るという考え方は古い。今の憲法は、日本という国の形、理想と未来を語るものだ」などと独断で決めつけ、立憲主義の前提そのものを否定するような発言をしている。安倍首相が語った後段は、立憲主義の憲法を「国体思想を形にした憲法風の何か」に変えたいという、彼の思惑をよく表している。

 そして、首相自ら陣頭に立って憲法変更の議論をリードするなど、日本国憲法第99条の政治家や国家公務員による憲法尊重擁護義務を、権力側にいる首相や大臣、国会議員が敢えて踏みにじるような行動をとっている。そうした行動をとることで、「憲法とは、権力の暴走を縛るもの」という立憲主義の核心的な理念を、実質的に無力化するような既成事実を作り出している。

 美濃部達吉らの天皇機関説は、近代立憲主義の理念、つまり「憲法は権力の暴走を防ぐためにあるもの」という考え方に基づくものだった。当時の日本で絶対的な存在である天皇といえども、絶対王政の王様のように、自分の好きなことをやりたいようにできる力は持たず、あくまで「憲法の枠内で」あるいは「憲法の規定に則って」政治に関する諸決定を下す、という形になっていた。

 そうすることが、近代国家としての政治的・外交的な安定を得られ、長期にわたる繁栄を実現できる、というのが、美濃部らの認識だった。

 「機関(オルガン)」とは、英語のエンジンやマシンという意味ではなく、国家をひとつの「法人」と見なし、天皇はその法人の最高機関、今風に言うなら「CEO(最高決定責任者)」のような存在で、法人の定款や規約に従う形でのみ、決定を下せる存在だ、というものだった。

 天皇機関説事件が起きるまで、この学説は日本の憲法学界だけでなく、政治家や官僚の間でも「定説」とされており、昭和天皇も「それで何も問題ない」と、機関説の憲法解釈を認めていた。言い換えれば、立憲主義の理念は国政レベルでは最低限、尊重されていた。通俗的な用法とは意味の次元が異なる「機関」という言葉についても、政界や官界では「そこに込められた真意」がきちんと了解されていた。

 ところが、1935年の天皇機関説事件では、こうした近代立憲主義の理念とは全く無関係な形で、排撃勢力が「神聖な天皇を『機関』などと呼んで機械扱いするのはけしからん」あるいは「神聖な天皇を、法人の機関、つまり会社の社長のような世俗的地位と一緒にするのはけしからん」などと言いがかりをつけ、「日本の国体を乱す不敬な思想だ」と糾弾した。立憲主義の理念とは次元の異なる「条文の日本語そのものを問題とする言いがかり」は、現在の日本における、日本会議系人士などの安倍首相を取り巻く論客の、憲法変更の必要性を訴える主張にも共通する特徴である。

◆◆ 日本の立憲主義を実質的に否定した文部省の『国体の本義』

 天皇機関説事件が起きた当初、岡田啓介首相と閣僚は、個人的には「機関説」には賛同しないが、憲法学説として定説になっている以上、政府が学問の世界にとやかく口出しすべきではない、として、美濃部をかばう姿勢を見せていた。ところが、右派の政治家とそれに繋がる右翼団体に加えて、右翼団体と親密な関係を持つ在郷軍人会(予備役の軍人を中心とする巨大組織)が、天皇機関説の排撃に乗り出して、全国的な反機関説のキャンペーンを展開したことから、岡田内閣はわずか半年ほどで態度を一変させ、天皇機関説は「日本の国体に合致しない考え方」だとして、社会からの追放を宣言。貴族院議員だった美濃部達吉は議員を辞職し、美濃部の著作とその他の天皇機関説関係の著作は発売禁止となった。

 その2年後の1937年に文部省が刊行した『国体の本義』では、大日本帝国憲法と天皇の関係について、次のように再定義された。

 「なお、帝国憲法の他の規定は、すべてかくのごとき御本質(西欧的な君主や元首を超越した現人神)を有せられる天皇御統治の準則(規則)である。なかんずく、その政体法の根本原則は、中世以降のごとき御委任の政治ではなく、あるいは英国流の『君臨すれども統治せず』でもなく、または君民共治でもなく、三権分立主義でも、法治国家でもなくして、一に天皇の御親政である」

 帝国憲法が「統治者(天皇)の権力を制限」するものではなく、単に「天皇御統治の準則」と位置づけられたことは、天皇機関説の認められていた時代にあった「立憲主義」の実質的な放棄を意味していた。近代立憲主義の理念、つまり「憲法は権力の暴走を防ぐためにあるもの」という考え方は、ここにはない。

 昭和天皇自身は、1945年8月のポツダム宣言受け入れの決定を含め、自らの振る舞いが大日本帝国憲法から逸脱しないよう、細心の注意を払っていたが、軍部とその意向を色濃く反映した政府は、天皇の大権があたかも「無制限」であるかのような解釈に基づき、天皇の権威を「水戸黄門の印籠」のように掲げながら、国民の権利を制限するような法改正や命令を次々と下していった。当時の日本国民にとって、大日本帝国憲法は「権力の暴走から自分たちの身を守ってくれるもの」ではまったくなくなっていた。

◆◆ 立憲主義の理念に触れずに条文の議論を始める危険性

 憲法について議論する際には、実は個々の条文の内容よりも、この「立憲主義の考え方」、つまり「憲法とは、権力の暴走から国民の身を守ってくれるもの」という理念が、そこに貫かれているかどうかが重要で、もしそれがなければ、いくら立派な条文が記されていようとも、絵に描いた餅に終わってしまう。

 例えば、北朝鮮の憲法にも「言論の自由」「出版の自由」「集会やデモの自由」は記されているが、現実には北朝鮮国民にはそうした自由はまったく保障されていない。これは、北朝鮮の国家体制が、天皇機関説事件から1945年の敗戦までの日本政府と同様、立憲主義の理念をまったく尊重しない構造だからで、その代わりに「公民は、常に革命的警戒心を高め、国家の安全のために身を捧げて戦わなければならない(第85条)」「祖国防衛は、公民の最大の義務であり、栄誉である(第86条)」などの「国民の義務条項」だけが、厳守しなければならないこととして国民に強要されている。

 このように、「近代立憲主義の理念」を素通り、あるいは迂回して、憲法の条文にいきなり踏み込むような議論は、きわめて危険であり、各論としての条文の議論に入る前に、まず「憲法とは、権力の暴走から国民を守るためにある安全装置」だという基本認識を、国民の間に共有・浸透させるような報道や啓蒙活動が必要だろう。「日本の伝統や美徳が前文などに反映されているか否か」というような、国体(国柄)を問題にする議論は、こうした憲法の本質から国民の関心を逸らす、目眩ましのトリックでしかない。

 伊藤博文をはじめとする明治期の政治家は、少なくとも憲法問題に対する取り組みという面において、現在の安倍政権とは比べものにならないほど謙虚に、その分野の先輩である西欧から立憲主義を学ぼうと努力していた。近代国家における憲法や立憲主義の重要性を、欧州留学の経験を持つ伊藤らはよく心得ていた。安倍首相も一応アメリカの大学で「政治学を学んだ」とされているが、諸々の発言を見る限り、憲法や立憲主義の重要性を学ぶ機会を得ていたようには思われない。

 憲法とは、世界のあちこちで横暴な支配者に苦しめられ続けた過去の人類が、長い時間をかけて生み出した「知恵」の一つで、その「知恵」をきちんと社会の運営に生かせているかどうかで、本物の近代国家なのか、それとも独裁的な権限を持つ少数の支配者がなんでも好きなように決定を下して国民を従わせる、前近代の封建国家なのかが区別できる。憲法と国体(国柄)のどちらを上位に置くのか、という、歴史上の新たな分岐点となりうる重要な問いが、今まさに日本国民に対してなされようとしている。  (2017年5月15日)

 (著述家)

<著者プロフール>
1967年大阪生まれ。戦史・紛争史研究家。軍事面だけでなく、政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争に光を当て、俯瞰的に分析・概説する記事を、1999年より雑誌『歴史群像』(学研)で連載中。また、同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、東京新聞、神奈川新聞、ポリタスなどの媒体に寄稿。著書に『戦前回帰』、『中東戦争全史』、『現代紛争史』、『世界は「太平洋戦争」とどう向き合ったか』(以上学研)、『日本会議 戦前回帰への情念』『「天皇機関説」事件』(集英社新書)、『5つの戦争で読みとく日本の近現代史』(ダイヤモンド社)、『【新版】中東戦争全史』(朝日文庫)など多数。 Twitter: @mas__yamazaki

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