【日本の歴史・風土・思想から】

天皇制と古代史 ― 記紀の解読 ―

室伏 志畔


 戌年に因み云うのだが、犬は鶴と共に列島に稲穂をもたらした神獣として知られる。列島は前三世紀からの弥生集団稲作の全国展開過程で王権を誕生させてきた。しかし、その稲神を祀る神社が見当たらない。この不思議を不思議と思わない日本人を輩出する天皇制の成立過程で真実の古代史は見失われて行く。しかし、今も稲神を祀る神社は全国に三万二千社ほどあるのだが、それを知らないカラクリに日本人は置かれている。その各地に散在する神社の境内には稲穂をくわえた神獣が置かれている。その大きな尻尾をもつ神獣を天皇制は狐に変えてしまったので、本来は犬であったことがタブーとなっている。それが犬であることはその神社の総本山のある伏見稲荷大社(写真1)を見るなら、伏見は「人偏の犬を見よ」とあるが、目明きめくらの日本人には見えない。その犬に取って替わった狐は大化の改新を成した鎌足に鎌をもたらしたとされ、藤原氏が尊ぶ神獣であるところに、犬が狐に替わった理由がある。

画像の説明
  写真1 伏見稲荷大社 ―「ごりらのせなか」より

 記紀は神武をもって皇統を始めたが、現在に続く天皇は第三八代天智系譜で、第一二五代今上天皇に至る八八代の皇后の六七代が藤原系の皇后であることは、日本国は藤原天皇制以外ではないので、それに倣い稲荷神社で狐が祀られ犬がタブーとなった。そのことは長く囚人に犬の刺青をする風習に受け継がれてきた。それはかつて天下を取った犬神を崇める王権への逆差別として天皇制がそそり立ったことによる。日本に猫にはないが犬に関する差別語が多い理由で、それは歴史教育において、古代にときめく金印国家・委奴国=倭奴国をイヌ国と読むことを許さず、教科書は倭(やまと)の奴国、大和朝廷化の九州の属国と今もする理由である。

◆ 一.大和から疑え

 天皇制はそれ以前の過去の他者の栄光をわがものとし、不都合なものは覆滅・変形させ、遠い昔から唯一絶対の支配者としてあった如く装い、現在及び未来にまで君臨せんとする歴史の簒奪装置にほかならない。そこでは記紀記述に合わせた天皇陵を見るが、それは発掘を封印した科学的検証を欠いた比定で、天皇陵であるかどうかははなはだ怪しい。   

 しかし、 我々は『古事記』や『日本書紀』による皇統一元の大和中心のいわゆる記紀史観に一三〇〇年、翻弄されてきたため、記紀の言い分を鵜呑みする歴史教育にあるため、高学歴にあるほど、その反復学習によって大和中心の皇統一元史観の呪縛に落ち込んでいる。それゆえ古代史研究は「大和から疑う」ことなしに始まらないことをまず銘記しなければならない。

 なぜなら皇統一元の大和中心史観は、天皇の出自を曖昧にするために、皇統発祥地を原大和に替わり畿内大和をあてがう八世紀初頭の記紀のトリック史観に、日本人はすっかりはまった。神武は原大和にあったが畿内大和になかったように、聖徳太子のモデルは九州や播磨に居たが畿内大和に居なかったので、大化の改新としての蘇我宗家の粛清は豊前で惹起したが畿内大和で生起したのではなかったからだ。この各地の事件を畿内大和に取り込まれた歴史を、その生起した場所に戻すことなしに古代史研究はありえないのだが、史家はことごとく大和の嘘に古代史を埋没させてきた。

 この八世紀初頭の記紀の偽書としての正史編纂に並行し、持統天皇は十八氏族の墓記提出命令を出し、元明天皇には好字二字による畿内地名創の奨励を行った。それは前者が後々の天皇陵捏造の伏線となり、後者は原大和に合わせた畿内地名の創出となった。

 記紀解読は、正史編纂と並行して行われたこの古墳からの墓記の抜き取りと、畿内大和新地名の創出を見ずに、それを遠い昔からの地名の整備と思い込んできたところに大和中心の皇統一元の古代史がそそり立った。それを戦後史学はその偽書としての正史としての記紀記述との一致をもって古代史が実証されたとする、まこと安易な実証主義をもってしてきた。しかし、それが砂上の楼閣に等しいのは、高名な纏向遺跡が纏向の地ではなく大田の地に出現したが、記紀記述に倣い纏向遺跡と名付けられた一事を見ても明らかである。

◆ 二.三王朝変遷史と遺跡

 つまり古代史の文献実証的研究が、記紀記述に添って畿内大和を原大和とする思い込みからするため、その研究成果はことごとく本来の歴史を裏切っている。加えて戦後史学は「神話から歴史へ」をうたい、神がかり的な皇国史観を批判したのはいいが、神代である記紀神話を歴史から追放した。記紀が神代と人代から成り、人代が皇統史であるなら、それ以前の神代の歴史からの追放は、皇統史以前の古代史研究の放棄で、神がかり的な皇国史観に替わる、実証史学とは裏腹な新皇国史観を立ち上げたに等しい。そのため皇統史以前に展開した出雲王朝史が銅鐸王朝から銅矛王朝への変遷をもったことは、出雲の加茂岩倉遺跡(写真2)からの三九個の銅鐸が出土し、それがスサノオの八岐大蛇退治による銅鐸王朝の征服を語り、大国主命の国譲りを示す神庭荒神谷遺跡(写真3)からの三五八本の八千矛の出現があったに関わらず、歴史学界はそれを歴史に位置づけできない体たらくにある。

画像の説明
  写真2 加茂岩倉遺跡           写真3 神庭荒神谷遺跡

 ましてや皇国一元の不敗神話に古代史はあるため、六六三年の韓半島の白村江での唐との戦いでの倭国敗戦により、九州王朝・倭国の首都・太宰府に唐の占領機関・筑紫都督府がそそり立ったことすら史家は語らない。つまり、そうした皇統外の事件を古代史から外すことで皇統一元史観は成り立っているので、列島王朝史を出雲王朝→九州王朝・倭国→近畿王朝・大和朝廷の三王朝変遷史に奪回し、各地の発掘遺跡の意味を各王朝史の遺跡として語り直す必要があるのだ。

◆ 三.大和の本源としての倭(やまと)

 それではヤマトとは何か! 大和の表記が大和→大倭→倭と遡行でき、大和をヤマトと呼ぶのは倭をそう呼んだことに始まるとする国語的常識に習えば、倭国内に倭ヤマトはあり、倭ヤマトを踏まえて倭国は成立する。その倭国が九州王朝であるなら、九州域内に原大和としての倭ヤマトがあったことを疑えない。また倭や委を、漢字学者の藤堂明保や白川静は「稲穂が稔りしな垂れた姿」を現す佳字とするが、通説は「小さく曲がった姿」とする卑字説を取るのは、倭国に替わり天皇制の日本国がそそり立ったからである。

 また列島王権が稲作王権で、その稲作の全国伝播が遠賀川式土器の全国分布に重なることは、倭ヤマトが遠賀川流域にあったことを示唆する。その地に三諸山としての香春岳(写真4)を見るなら、これこそが記紀が語る三輪山で、原大和としての倭ヤマトはこの周辺を指すわけだ。

 二〇〇〇年代初頭に井真成墓誌の発見が中国から報じられ、その井氏を歴史学界は中国一字姓とし、半島系の葛井氏や井上氏に比定し、大阪府藤井寺市への里帰り狂想曲を営んだことは記憶に新しい。しかし、井氏は一字でヰ氏氏と読み、井氏の派生系として井伊氏があることは、昨年のNHKの大河ドラマ「女大名 直虎」が井印の旗を掲げていたことでも明らかである。
 私は井氏の本貫が熊本県産山村であることに気づき、お訪ねしたとき、井氏は二八六人お住まいで、最盛時は六〇〇人近くが居られたと云う。町長も助役も井氏で、井氏が乙宮神社(写真5)の祭神・草姫を祀る祭祀氏族と知った。その草姫が肥後一の宮・阿蘇神宮の主祭神・建磐龍命の妃の母神にあたり、草部吉見神社の主祭神・彦八井神の后神と知った。しかも、阿蘇神宮の十二祭神が主祭神の建磐龍命系ではなく、妃系で占めることは、肥後一の宮の本来の主祭神は妃系の草姫であったことを知る。また草部はクサカベと読むことから本来の表記は日下部で、草姫は日下姫と知った。
 それを知るなら『古事記』が日下をクサカと読み、帯をタラシと読むとする注解は、日下が古代史の敗者で、帯が勝者だとする深い意味が込められていたのだ。そこを読まなければ記紀は解けない。また井の読みは i ではなく wi で、井は倭 wi に通じることは、井氏=倭氏であったが、それが憚られる皇統の世となり、倭氏を名乗ることが憚られ、井氏を名乗ることを余儀なくされたことを語る。それは稲穂をもたらし崇められた犬が今や天皇制の朝敵の象徴に貶められたことに対応する。

画像の説明
  写真4 香春岳(原大和の三輪山)      写真5 井氏の祀る乙宮神社

◆ 四、原大和での三王朝興亡

 この幻視を裏付けることが果たしてできるであろうか。私は遠賀川奥域の香春岳を取り巻く倭(やまと)地名に目を落とし、飯塚に視線を落とした。というのは飯塚→井塚→倭塚となり、その飯塚に果たして甕棺墓が出土する立岩遺跡があるのに気づいた。その飯塚はまた近くの笠置山の石が稲穂切りの石包丁の日本一の産地として知られ、稲作が盛んであったことを裏付ける。その立岩居遺跡から出土した大型甕棺墓は剣と鏡の二種の神宝をもつ女王墓(写真6)であるが、その地の甕棺墓制は、槨あて棺なしの箱式石棺墓制にたちまち取って替わられている。これはその地への侵攻を語るものである。果たしてその笠置山へ二五部族を率いてのタカミムスビと結んだニギハヤヒの天神降臨が伝えられ、そのニギハヤヒを祭神とする天照神社(写真7)が鞍手郡にあり、近くを流れる川が犬鳴川であるのは、委奴(犬)族の粛清の悲劇を伝える。

画像の説明
  写真6 立岩遺跡の女王墓          写真7 鞍手郡の天照神社

 ところで、ニギハヤヒは𩜙速日命と表記し、太陽が盛んでその光が早い様を表すが、その別名は猿田彦とされる。仲が悪いことを犬猿の仲と云うが、それは犬と猿が仲が悪かったのではなく委奴国への猿田彦の侵攻による倭ヤマトの王権興亡から生まれた歴史用語なのだ。ニギハヤヒが猿田彦と表記されるのは、彼が出雲の二の宮・佐田彦神社に関係するからで、『明治神社史料』によれば、猿田彦神社をサルタヒコ神社と呼ぶのは少なく、サダヒコまたはサタヒコとするのが多い。佐田彦の出自は出雲王朝を創出したスサノオが征服した八岐大蛇系の大市姫との申し子で、それが猿田彦と表記されたのは、猿はシャリ、つまり米の意味で、ニギハヤヒが委奴国系の稲作を引き継ぐ稲作王としてあったことによる。

 その倭ヤマトの委奴国は、ニギハヤヒの天神降臨にあって滅亡するも、その一派が博多湾岸の糸島に逃げ、金印国家・委奴国として大化けしたことを「松野連系図」は伝える。この金印国家へのタカミムスビ系の新たな侵攻を伝えるのがニニギの天孫降臨で、出雲神話も日向神話も前天皇史の一節をなぞっていたのだが、この倭ヤマトを畿内大和とすることで、歴史離れが生じているのだ。

 その天孫降臨の成功はその侵攻を手引きした委奴国の湾岸隊長の裏切りによる。皇統発祥の契機はこの黒い秘密に胚胎する。金印国家・委奴国への天孫降臨の成功は、タカミムスビ系の本流を、かつてのニギハヤヒの天神系からニニギの天孫系へ塗り替えの契機となった。その先鋒にイワレヒコ、いわゆる神武が立ち、記紀が伝える倭ヤマトのニギハヤヒ国への侵攻が神武東征で、それは博多湾岸の天孫降臨地から遠賀川流域の天神降臨地への侵攻であった。それを裏付けるように、戦後史学は畿内大和に神武東征の痕跡はないとしたのは正しいが、それを架空とするのは行き過ぎであるのは、遠賀川流域の筑豊の地に神武の足跡は濃いことによる。つまり原大和の筑豊の倭ヤマトで、委奴国→天神国→皇統国の三変遷が、古田武彦の筑紫の九州王朝・倭国の古層で、その前史としての展開が筑豊であったわけだ。

◆ 五.出雲系王族の国内亡命地

 それでは畿内大和とは何なのか。それは八岐大蛇退治で追われた出雲国が大洲オオクニと呼ばれた八岐大蛇王朝末裔や、国譲りした大国主命末裔や、原大和に天神降臨したニギハヤヒ末裔による、つまり出雲系王族の国内亡命地として畿内で開拓を見た地が大和なのだ。三輪山を頂点に真西の多神社を底辺として正三角形(写真8)を描くと、三輪山に昇る太陽の夏至線は畝傍山の神武陵を貫き、冬至線は岩見の鏡作神社を貫き、神武陵―多神社―鏡作神社が正三角形の底辺を成す。これが三輪山を中心とする大倭オオヤマトの基本設計図で、神武陵とされるものは出雲系大氏の畿内大和の初代開拓者の墳墓で、鏡作神社は太陽の最も弱まる冬至日に鏡を鋳造し、太陽の復活を祈ったので、この鏡がほかならぬ大和を中心に出土する三角縁神獣鏡なのだ。この信仰を何と呼ぶかは、三輪山を真東に仰ぐ多神社の旧名が春日宮と「多神社注進状」にあることで春日信仰と知れる。

 大和飛鳥に散在する春日神社は物部系と言われ、それを結ぶと頭を耳成山に胸に藤原宮を置き、剣と楯を持つ大和飛鳥の巨人の地上絵(写真9)を出現させることができる。そのことは春日信仰が天武の時代まで栄えていたことを語る。しかし、近江朝開朝から百年した七六七年、奈良の三笠山の麓に藤原氏の総社として春日大社が出現し、それ以後、大和の春日信仰は藤原氏の信仰に姿を変えた。これに前後し、かつての春日宮は廃神毀社され、その地に九〇度向きを変え多神社が創建され、その初代宮司に『古事記』の筆録者・太安万侶が座った。彼は大氏傍流で、栄光に包まれた出雲系大氏を監視する、ユダヤ人を監視したカポーの役割を振られ、苦い歴史の黒子役を引き受けている。

画像の説明
  写真8 三輪山を頂点とする正三角形図     写真9 大和飛鳥の地上絵

◆ 六.皇統の黒い秘密と系譜創り

 この筑豊の倭ヤマトから畿内大和への九州から近畿への転換は、六六三年の半島での百済復興のために唐・新羅を敵に回し、白村江で戦いを挑んだ九州王朝・倭国に替わる日本国の樹立を目論んだ天智皇統の野望に関わる。

 倭国は百済復興のため、余豊彰に五千の兵をつけ、続いて二万七千の兵を送り、さらに万余の軍を率いて廬原君臣イオリハラノキミオミが白村江に向かうが、この廬原君臣は蘆原中君アシハラノナカツノキミ、つまり倭王のもじりであることに気がつかないようでは記紀は読めない。

 倭軍の先鋒隊は白村江で待ち構えた唐軍にたちまち敗れ、翌日、倭軍主力は気象を見ずに唐軍に猛進し、唐軍の挟撃に遭うも皇軍はそれを拱手傍観したため、倭軍は「煙焔、天に漲り、海水、皆、赤し、賊衆、大いに潰ゆ」(『旧唐書』)と壊滅したのに対し、皇軍は無傷で帰国に就いた。この結果が倭国の首都・太宰府への唐の進駐となり。唐制の占領機関・筑紫都督府(写真10)がそそり立ち、倭国権力機構は解体する。これに対し、斉明・天智がこのときあった九州の朝倉宮が繁栄したことは、それの宮址に隣接する朝闇アサクラ神社がチョウアンと読め、長安寺址があることは、戦後の皇統の唐信仰なしには説明がつかない。
 皇軍は倭軍と共に白村江に向かったが、唐・新羅が手を焼く鬼室福信の排除に手を貸し、白村江の決戦時に、倭軍を見放す裏切りをもって、唐・新羅に通じたことが、朝倉宮の戦後の繁栄を保障した。しかし、その繁栄は白村江の戦いでの皇軍の裏切りの発覚と別でない。白村江の敗戦後四年した六六七年朝倉宮は襲われ斉明は崩御し、天智は近江大津に逃亡する。その年が近江朝遷都の年に重なるのは、それは畿内飛鳥からの遷都ではなく九州の朝倉宮からの天智逃亡を伝える。この逃亡隠しのため、『日本書紀』はこの朝倉宮の変を六六一年とし、天智称制を造作した。その意味は、天智は六六〇年の百済滅亡の翌年に列島で百済再興の先頭に立ったとするもので、天智皇統の忍びやかな百済王統宣言なのだ。

 記紀はこのように、皇統の躍進の陰にある裏切りを隠し、逃亡の汚点を時代をずらすことで誉れに造作した。列島神話である前天皇史を歪めたのは、この皇統発祥の契機となった天孫降臨時の裏切りを誇れない代償として、イザナギに国生み神話の造作神の誉れと天照大神、月読命、スサノオ三神の生みの親としてタカミムスビの誉れを簒奪したことにある。それは六六七年の天智逃亡を六六一年の天智称制の誉れに変えたのと同じである。皇統譜は、表向きは天照大神系の天孫系譜の流れとしつつ、本来は神代で如何なる神々よりも輝かしく造作されたイザナギの流れに皇統はあたったので、それにウガヤフキアエズを挟みイワレヒコの神武を位置づけた陰の系譜を読めなければ、記紀皇統の秘密は解けない。
 そのイザナギの出自はオノコロ島、つまり博多湾岸に浮かぶ能古島(写真11)で、イザナギやイザナミから幻視するなら、それはイザに海人族に関係深い凪や波で修飾した名と見るなら、天皇家の姓は伊佐氏とするほかない。その全国分布は沖縄が最多で、伊佐→井佐→倭佐で、委奴国王「倭氏を佐タスける」者の謂で、金印国家・委奴王の臣下であったことがわかる。犬差別がかつての主君への臣下であった天皇家の逆差別であったとする私の幻視を裏付ける。

画像の説明
  写真10 唐制の筑紫都督府        写真11 神武の本貫・能古島

 記紀の皇統系譜は神代の日向三代神話のニニギーヒコホホデミーウアガヤフキアエズに続き、皇統史である人代のイワレヒコの神武に繋ぐが、これは アマテラス系のニニギ―ヒコホホデミの倭王系譜に、皇統系の(イザナギ)―ウガヤフキアエズ →イワレヒコ(神武)の皇統発祥の契機を創ったイザナギを隠し、神武に先立つウガヤフキアエズからの皇統系譜を倭王系譜に接ぎ木したグラフト系譜なのだ。

◆ 七.倭国と日本国の興亡 ― 壬申の乱

 話を六六七年の朝倉宮の変に始まる天智の近江逃亡に戻すなら、この六六七年の斉明崩御に続き、六六九年の鎌足の死、六七一年の天智崩御、六七二年の壬申の乱による大友皇子の連続死をもって近江朝が滅亡する。『日本書紀』はこの天智皇統関係者の鎮魂書なのだ。それは斉明崩御に鬼火がたち、大笠を被った鬼が山から窺ったように、鎌足の邸宅に霹靂、雷が落ち、天智は「沓一つを残し山林に消ゆ」と藤原家出の僧・皇円が『扶桑略記』に記したごとく異常である。雷神が二つの角をもつ鬼なら、天智の神隠しは鬼の仕業で、最後に縊死した大友皇子の首を物部麻呂が天武に届けたという。物部氏が鬼の代名詞であることに気づけば、天智皇統はことごとく鬼の餌食になったことを、これは暗示している。

 果たして、その近江朝を倒した壬申の乱は東国の物部氏を糾合したことで天武の勝利へ進んだ。その天武は唐使・郭務悰の列島からの撤収した千載一遇の機会をとらえ旗挙げし、勝利するや新羅使・金王実に船一艘の褒美を与えたことは、天智の背後にあった唐不在に乗じ、新羅の支援を得てなされたことを語る。それは倭国再興を計る天武と、それに替わる日本国の立ち上げを目論んだ天智皇統の、倭国対日本国の命運を賭けた戦いであった。これを曖昧にするため『日本書紀』は倭国はかつての日本国の亦の名とする言い草を創り、壬申の乱を天智・天武兄弟の皇位争いとする説を振りまいてきた。

 東国の物部氏を糾合し天武に勝利をもたらしたのは、朴井連雄君で、彼はその功業によって物部氏の氏上となった。また物部系譜は彼を物部守也の子とする。守也は原大和の倭ヤマトでの蘇我・物部戦争で敗れた物部氏の棟梁であったが、その子孫は九州から畿内大和に亡命し、出雲系大氏の本拠、今、桜井、昔、朴井の地を姓としたことは、畿内大和を拓いた大氏の娘と結ばれたことを意味する。その雄君の大和飛鳥に天武は招かれたことに畿内での大和朝廷は開朝を見た。それは畿内大和における九州王朝・倭国の再興で、天武はその雄君の娘を皇后として迎えたのが大田皇后であるが、それを第二皇后の持統の陰に『日本書紀』が隠したのは、天武体制が天武と雄君の天武・物部体制であったことを隠すためで、それは天武体制の第一後継者・大津皇子の背景隠しなのだ。

 正史編纂は天武に始まるも、七二〇年に成立した『日本紀』は勝利した天武ではなく、敗北した近江朝の天智を顕彰する正史として成立した。このねじれの隠された意味を理解することなしに記紀史観の意味は解けない。この意味を徹底するため紀三十巻、系図一巻からなる『日本紀』の系図を藤原氏は紛失させ、何度も改訂を重ね、現在ある『日本書紀』が成立した。そこに大田を持統と同じ天智の子とする造作がなされ、雄君隠しもなされた。そのため、大和飛鳥の天武と雄君の功績の場は、大和飛鳥に足を踏み入れたこともない天智・鎌足の晴れ舞台なり、天武に雄君が物部氏糾合策の武略を説いた「大氏が武略を説いた峯」の意味をもつ多武峯は、雄君を顕彰する神社としての談山神社としてあったが、現在、鎌足を祀る神社に姿を変えたのは、そこを天智に鎌足が大化改新の策を説いた峯とする「藤トウの峯」とするところに多武峯の読みも生まれた。

 しかし、なぜ勝った天武側が負けた天智側に名を成さしめることになったのであろう。六八六年の天武崩御直後の大津皇子の変について、正史は大津皇子一人を処刑し、関係者三〇人ほどを捕らえたが、二人を伊豆と美濃に流したほかは釈放した小さな事件として報じる。その末尾に「是歳、蛇に犬が相交ツルめり、俄シバラクして倶トモに死ぬ」とする一行を置く。この一行の意味が読めなければ『日本書紀』は読んだとは云えない。蛇が出雲王朝の、犬が倭ヤマトに始まった委奴国の九州王朝のトーテムであることは、出雲王朝の大氏末裔と、九州王朝末裔の天武眷属をことごとく粛清したと、これは天武・雄君体制の転覆の表示がここにあったことを伝える。つまり、『日本書紀』も『古事記』もその指示表出に倣い、大和に飛鳥詣でし、石舞台古墳に遊び、飛鳥寺裏の入鹿の首塚(写真12)を見て大化の改新を偲ぶ日本人は、それが壬申らの乱の勇者・雄君の古墳の墓暴きの址で、首塚が大津皇子の処刑址であることを夢にも知らないのだ。それは天智・鎌足を殺した者への仇討ちの血塗られた現場を大化の改新址だとし、顕彰しているわけだ。それは記紀の思惑に落ち込んだ日本人の天皇制の呪縛にある姿を今日もまざまざと写し出す。それは記紀の比喩や造作を読み解くことなしに、本来の古代史の回復は望めない絶望的な姿と別でない。(二〇一八.一.八)

画像の説明
  写真12 飛鳥の入鹿の首塚

(古代史研究者・「奪回」代表)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧