【社会運動】

国民投票は九条を甦らせる

今井 一

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 九条の本旨を考えることなく、解釈改憲の事実をただ認めている状態から脱する
 ためには、どうすればよいのか。この答えとして今井一さんは、
 国民が自衛戦争や交戦権についてしっかりと議論をし、その結論を踏まえ
 「新九条」案を作り、「国民投票」をすることを提案する。
 重要なのは、「国民が能動的に議論をすることだ」と言う。
 それによって九条の本旨である立憲主義と国民主権を立て直すことが一番の目的だ。
 この構想の中から見えてくる、立憲主義、国民主権、さらには九条の本旨の核心となる
 交戦権の否定についての考えを聞く。
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◆◆ このまま解釈改憲の状態を是認していいのだろうか

――2014年7月に、集団的自衛権の行使を容認する「究極の解釈改憲」が閣議決定されました。その後、護憲派の間でも議論が起きています。その中でも今井さんは、「立憲主義と国民主権を回復させるための『新九条』案を提案し、国民投票で決着をつけよう」という独自の主張をされています。なぜ、そのようなお考えに至ったのでしょうか。

 「究極の解釈改憲が行われたことで、憲法九条の本旨と実態との乖離が限界に達した」という現実があります。それにもかかわらず、護憲派の人たちの間では、安倍政権が実施した「憲法九条の本旨と実態との乖離の限界」に対抗する、具体的な方針を見出すどころか、議論すらできていない状態が続いています。
 明らかに立憲主義も国民主権も侵害されているという状況にあります。「このままずるずると解釈改憲の状態を是認していていいのか」と、私は国民投票で一人ひとりの主権者に問いたいわけです。

◆◆ 「新九条」案は、立憲主義と国民主権を取り戻すためにある

――護憲派はまさに「思考停止状態」になっていると思われるわけですか。

 はい、もちろん全員というわけではありませんが。彼らは九条に関する本質的な問題については目を背け思考していません。私の提案は、護憲派の人たちから名指しで批判されています。曰く、「今井は『立憲主義と国民主権が侵害されている状態を改めるために、勝手な解釈ができない新しい憲法九条の条文をつくらなければいけない』と言っている。しかしながら、これはとんでもないことだ。『憲法に専守防衛に徹する自衛隊を保持する』と明記して、『日本の施政権の及ぶ範囲内で個別的自衛権だけは認める』という新しい条文をつくったところで、時の政権による恣意的な解釈改憲が行われてしまえば同じことだ」と。そのうえで、「現行の九条は一字一句、手を付けてはならない」というのです。

 これが私や映画作家の想田和弘さん、東京外国語大教授の伊勢﨑賢治さんら「新九条」を提案する側を批判的に見ている「条文護持派」の見解です。「新九条提案者」と一口に言っても、それぞれ問題意識の論点に少しずつ違いがあるのですが、「条文護持派」からすれば、「現行の九条に手を付けて、護憲派を分断するとんでもない輩」という点では同じなのでしょうね(笑)。そんな私たちは、「護憲的改憲派」などと一括りに呼ばれています。
 しかし、私にしても、他の「新九条」を提案する方々も、「日本国憲法の本来の原理を最大限に活かしたい、最終的には九条の本旨である平和主義を取り戻したい」という前提の上で発言しているわけです。そのためには、憲法の単なる解釈合戦から一旦離れて、立憲主義も国民主権も破壊されている状態を打開しなければなりません。私の「新九条」の提案は、第一義的には立憲主義と国民主権を自分たちの手に取り戻すための具体的な行動の一つなのです。

◆◆ 条文護持では、思考停止状態にあって平和主義すら取り戻せない

――想田和弘さんは、「戦争法」の制定によって「憲法九条のかろうじて生きながらえている部分にトドメを刺され、九条そのものが殺されたのである」と言い、「死文化した九条の代わりに、私たちの総意の下に『新九条』を創るのだ」と主張しています。今井さんも同様のお考えですか。

 「既に瀕死状態の九条を生き返らせることは難しい」というのが私の認識です。そこで、立憲主義と平和主義という本来は異なる価値を一旦、腑分けして、まずは立憲主義と現憲法に基づく国民主権を立て直したいと考えています。その上で「九条の平和主義を主権者の総意によって、しっかり再生させるという段取りを組んでいこう」と思うのです。現状でただ「条文護持」にこだわっていては、全く前に進めないでしょう。多くの条文護持派はまさに「思考停止」状態にあって、立憲主義も国民主権も、まして九条の本旨である平和主義すらも取り戻せない手詰まりの状態にあります。このままでは、緊急事態条項や自民党などの改憲九条案が発議され、国民投票で多数を得てしまうかもしれません。そうなる前に、現に存在している自衛隊や日米安保条約のあり方についての議論を深めるべきです。その結論を「新九条」の中に反映させて、国民投票によって国民に信を問うことが必要だと考えるのです。

◆◆ 歴史を見ず、安倍政権の解釈改憲への批判は意味がない

――今井さんは「九条の会」などに対して、「九条護持!」と言うあなたたちは「戦力としての自衛隊の存在を認めるのか」「自衛戦争なら九条に反していないと考えるのか」について明らかにせよ、と詰め寄っています。そうしたことが、「派内の分断、運動の分断を促す人物」として批判されているようですが。

 私は、「現状の自衛隊も日米安保も自衛戦争も九条に反する」、つまり違憲だという立場です。ですから、「米軍の駐留は九条2項の戦力の保持に当たるから違憲である」という砂川事件[注1]の第一審判決、いわゆる「伊達判決」(1959年3月30日)をはじめ、「自衛隊は九条が禁じている『陸海空軍』に相当するので違憲」とした長沼ナイキ訴訟[注2]の第一審判決(1973年9月7日)、それから、「バグダッドの多国籍軍に対する航空自衛隊の空輸は九条に反するので違憲」とした名古屋高裁判決(2008年4月17日)、こうした判決こそが、九条解釈としては正しい判断だと考えています。

[注1]砂川事件。1957年7月8日、在日米軍立川基地の拡張に反対するデモ隊の一部が、立ち入り禁止の基地内に立ち入った。そのうち7名が起訴された事件。その後の安保闘争、学生運動の原点となった事件と言われている。
[注2]長沼ナイキ訴訟。1969年、北海道夕張郡長沼町に航空自衛隊のミサイル基地が建設されることになり、国有保安林の指定の解除を行った。これに反対する住民が、「自衛隊は違憲、保安林解除は違法」と主張、行政訴訟を起こした。

 ところが、現実の政治では歪んだ解釈がはびこり、憲法破壊というべき状況になっています。そうした解釈改憲の起点となったのは、朝鮮半島の緊張から戦争ぼっ発という「危機」に対応するために、GHQ最高司令官マッカーサーが吉田茂首相に「九条護持のまま日本の再軍備」を指示したことです。朝鮮戦争を契機に、警察予備隊から保安隊(1952年)、そして戦力である自衛隊(1954年)の創設へと進み、その後も違憲の既成事実を積み重ねるたびに、歴代政権は九条の本旨からどんどん遠ざかり、解釈改憲の幅を広げてきました。それは事実上の「改憲」なのだから、本来ならば憲法九六条の規定に則りその都度、国民投票によって主権者である国民の意思を確認すべきです。例えば、自衛隊という戦力を保持するなら、それに必要な憲法改正の是非を国民に問うて、承認を得たら改憲して自衛隊を創設し、得られなければ「本旨」に反する戦力の保持はしないということです。

 しかし、歴代政権は単に閣議決定や国会承認レベルで事実上の改憲事項を(憲法制定権者である国民の承認を得ることなく)勝手に決定し、多くの国民も既成事実を追認・是認してきました。そのなれの果てが、安倍政権による集団的自衛権の容認という安保法制でした。戦後70年間に積み重ねられてきた解釈改憲の歴史を批判的に見ることもなく、ここにきて安倍政権による究極の解釈改憲だけを批判しても意味はない、というより本質的ではありません。なぜなら、安倍政権は自社さ連立政権[注3]を含め、歴代政権の先輩たちと同様の解釈改憲の手法を採用したにすぎないからです。言い換えれば、安倍政権は、戦後ずっと「条文護持」にこだわりはするが解釈改憲を是認してきた護憲派の弱点を見透かしていると言っていいでしょう。本質的な意味において九条の本旨を真に取り戻したければ、より明確な「別次元の護憲プロセス」を採用しなければならない理由がここにあります。

[注3]自社さ連立政権。1994年6月から1998年6月までの自由民主党・日本社会党・新党さきがけによる連立政権。社会党の村山富市委員長が首相に就任。村山首相は、自衛隊を合憲とした。

 憲法制定時は、九条の本旨と実態の乖離はゼロでした。それが70年かけて「安保法制」というはなはだしく本旨と乖離した解釈改憲がなされたわけですが、この乖離をなくして元のゼロにするには、やはり数年ではなく数十年の時間を要すると思います。

◆◆ 立憲主義と国民主権を守るために選ぶべき選択肢

――今井さんの著書『「解釈改憲=大人の知恵」という欺瞞』(現代人文社)の冒頭で、「解釈改憲をやめ、立憲主義と国民主権をまもるなら、私たちは主権者としてA・Bどちらかを選ぶしかない」という言葉があります。その点についてご説明ください。

 立憲主義と国民主権を守るために、主権者として選ぶべきこととして挙げた選択肢とは、次の二つです。

 [A]憲法九条は「一言一句変えてはならない」と主張するなら、違憲状態にある自衛隊の「戦力」をなくし、災害救助に特化・再編する。自衛のためであっても戦争(交戦)はしない。
 [B]自衛隊員が侵略に抗するために「人を殺したり、自身が殺されたり」することを認め、強いるのならば、憲法で戦力としての自衛隊の存在を認め、明記する。

 [A]は、現状の自衛隊の実態を九条に合わせて縮小し、再編するというものです。つまり、自衛隊を九条の本旨に合わせるということです。対する[B]は、現状の自衛隊の戦力を認め、九条にその活動範囲を明記する、つまり「新九条」をつくるということです。
 誤解のないように言っておきますが、[B]は「現状の自衛隊のあり方をそのまま全て認める」という選択ではありません。当然、「個別的自衛権に限定し、専守防衛に徹し、活動範囲も日本の施政権の及ぶ領域に限定」します。つまり[B]の目的は、九条が本来もつ平和主義に徹するということにあります。

 国民、主権者が[A][B]どちらを選んでも、解釈改憲によって損なわれている立憲主義と国民主権を取り戻すことになります。では[A][B]の選択をどういう方法で決めるのか。それは「人を選ぶ」選挙ではなく、「事柄を選ぶ」国民投票という方法がふさわしいと考えます。
 私たち主権者が[A][B]のどちらも選ばず、曖昧にしたまま今の九条の条文を掲げているだけでは、現状の自衛隊はどう考えても違憲です。その状態が続く限り、立憲主義と国民主権は名ばかりのものとなります。「それでいいのか」と、主権者の一人ひとりに問いかける、それが私の「新九条」を通した問題提起なのです。

◆◆ 国民は、委任型の政治意識から一歩踏み出すべきだ

 しかし現状では、「条文護持」にこだわる護憲派の人たちから、「九条の条文をそのままにして、その崇高な平和主義の理念に向かって努力すべき」という反論が私に寄せられます。それに対して私は、「まずは解釈改憲で損なわれている立憲主義と国民主権を取り戻すために、主権者として考えるべきこと、主権者としてやれることがあるのではないか」と問い返したい。違憲の安保法制をひっくり返すような選挙・政権交代はこの先10年ほどは起こりそうもないのだから。その間ずっと九条瀕死の解釈改憲状態が続けば、この国が九条を持ったまま戦争に突入することもあり得ます。
 私は、主権者の多くが既成政党の職業政治家たちに頼りすぎたと思っています。委任型の政治意識から一歩踏み出して、国民、主権者として議論を醸成していく必要を強く感じるのです。

 伊勢﨑賢治さんが「新九条」を提案するのは、国連PKO上級幹部としての経験から現状を洞察し、自衛隊が他国で軍事紛争に加担する現実が目の前に迫っているという危機意識があるからだと思います。非常事態が続いている南スーダンに国連派遣団として自衛隊が派遣されている現状は、平和主義をうたっているはずの九条を完全に空洞化させています。そればかりか、安倍政権は、南スーダンで何か「不測の事態」が起こることを待っているのではないかという気配すら漂わせています。

◆◆ 「交戦権の否定」こそが、九条の平和主義の核心だ

――今井さんの「新九条」の提案は、解釈の余地のない文言で自衛隊に厳しい足枷をつけ、領土・領海・領空に限って自衛のための交戦権を認めるという意図であることは分かりました。確かにそれは、立憲主義と国民主権を確立する状態をつくるために必要な第一段階だと思います。しかし、その先に、本来九条が持っている平和主義の実現に近づくための第二段階というものは、どのように構想しているのでしょうか。

 「自衛でも戦争はしないのか、自衛なら戦争をするのか。軍隊(戦力)を持つのか持たないのか」ということが、九条問題の本質です。もし第二段階という言い方をするなら、現在の九条2項の本丸である「交戦権の否定」をより厳格に明記することです。交戦しないということは、当然、戦力の保持もしないことになりますから、それも条文化し、先ほど示した[A]の状態、つまり自衛隊を災害救助に特化した部隊に再編することになります。「交戦権の否定」こそが、九条の理念としての平和主義の核心ですから、それは必然的な行動の帰結なんです。しかし、それを実現させるのは早くても数十年先の話になると思われます。それまで私が生きていられるかどうか(笑)。そういう長い時間の射程をもった構想なのです。
 繰り返しになりますが、その九条の本旨を最終的に実現していくために、第一段階として、立憲主義と国民主権を立て直すという目的で、新九条を提案し、国民レベルでの議論を醸成して、これを国民投票にかけるところまで持っていくのです。そして、将来的な第二段階で、「交戦権の否定」を九条の条文として復活させ、平和主義の実質を形づくっていこうと思っているのです。

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――こうした実践が、「別次元の護憲プロセス」ということですね。

 そうです。個別的自衛権の問題として、一般に想定されるのは、「他国が日本の施政権の及ぶ領土・領海・領空に攻めてきて、これに対する自衛措置のために戦力を使う」ということですね。これを通常は「自衛戦争」と呼びます。でも、自衛戦争も戦争です。そこでは人が殺されるし、戦闘員は人を殺すし、場合によっては一般市民が殺されることもあります。
 先の戦争では日本国民だけでも民間人を含む310万人余りの犠牲者、他のアジアの人びとを含めれば2,000万人を優に超える犠牲者を生みました。日本国憲法は過酷な敗戦経験の歴史と地続きの地平から生み出されたものだということを肝に銘じていれば、九条2項に「交戦権の否定」が刻まれた意味の重みが、少なくとも戦争を知る世代には実感的に理解できているはずです。そして戦後世代であっても、「交戦権の否定」が、あの戦争で殺された数え切れない死者たちとつながっていることに気づくでしょう。

 私は、九条の本旨の核心は2項の「交戦権の否定」にあると考えていますし、「最終的には、自衛の名の下に侵略戦争を起こしてしまう個別的自衛権も認めない」という立場です。一部の護憲派の学者や活動家は私に「九条改憲派」のラベルを貼っていますが、私は「九条原理主義者」であり、九条の本旨を守ろうとしているのは、安倍政権までの解釈改憲を「大人の知恵」だと言って黙認してきた彼らではなく私の方です。

◆◆ 「自衛隊を戦力として認め、自衛戦争も認める」と答えた人が半数以上

――昨年、週刊誌の『アエラ』(2016年5月16日号)が、憲法記念日に合わせて「あなたは日本国憲法が好きですか」という特集を組みました。そこに、今井さんが事務局長を務める[国民投票/住民投票]情報室と『アエラ』が協力して実施した対面調査の結果が掲載されていますね。

 あれは画期的な特集でした。東京、大阪など11都道府県で男女、各世代の人びとに対面で行った調査ですが、3,000人以上に当たり、協力してくださった700人から回答を得ました(表参照)。

  「自衛戦争」と「(戦力としての)自衛隊」に関する世論調査
画像の説明

 基本的に二つの質問が重要でした。一つの質問は「日本への攻撃を防御する自衛のためなら、日本が戦争(交戦)することを認めますか。認めませんか」、もう一つは「あなたは、(災害救助とは異なる)自衛のための戦力としての自衛隊の存在・活動を認めますか。認めませんか」というものです。
 調査結果は、男女・世代の全体では、「自衛のための戦争を認める」が53.6%、「自衛のための戦争を認めない」が46.4%。「戦力としての自衛隊を認める」が66.5%、「戦力としての自衛隊を認めない」が33.5%だったのです。つまり、「自衛のための戦争」も「戦力としての自衛隊」も、半数以上の人がどちらも「認める」と答えているんですね。

 ただし、大手新聞社などのメディア各社が憲法記念日に毎年のように行う世論調査では、ほぼ6割以上の人が「憲法九条は変えない方がいい」と答えています。2016年の憲法記念日の朝日新聞の調査でも、「九条を変える必要はない」が68%でした。ということは、「九条は変えない方がいい」、つまり九条の本旨である平和主義には賛成だけれども、「自衛隊を戦力として認め、自衛戦争も認める」という人たちが日本人の半数以上いることが分かります。

◆◆ 自衛隊について、議論する機会をつくることが重要だ

――今井さんがおっしゃる、「九条の本旨と実態との乖離」の現状、つまり解釈改憲を認めている人が、半数以上いるというわけですね。

 憲法九条と自衛隊の関連をほとんど意識せずに現状のあり方を認めてしまう人が、この程度はいるんだということを押さえておくべきでしょう。
 ただし、私が興味深く思ったのは、男女別の違いです。男性は、「自衛のための戦争を認める」が65.3%、「自衛のための戦争を認めない」が34.7%。「戦力としての自衛隊を認める」が77.9%、「戦力としての自衛隊を認めない」が22.1%と、「自衛戦争を認め、戦力としての自衛隊を認める」男性がかなり多数を占めています。どちらも「認める」男性は年齢が下がるに連れて多く、「戦力としての自衛隊を認める」が突出して多いのは、20代男性の92.6%でした。

 それに対して、女性の答えは、「自衛のための戦争を認める」が41.8%、「自衛のための戦争を認めない」が58.2%。「戦力としての自衛隊を認める」が55.0%、「戦力としての自衛隊を認めない」が45.0%となっているんです。つまり、「自衛戦争は認めないけれども、戦力としての自衛隊は認める」という女性が一定程度いるということです。これには首をかしげました。論理的に考えれば「自衛戦争を認めなければ、戦力としての自衛隊は不要」のはずです。
 また、女性で「自衛のための戦争を認めない」という答えが一番多かったのは、少女時代に戦争を経験している70代(65.1%)よりも40代(66.7%)なのです。ある程度子どもが大きくなった子育て世代の母親が、「子どもたちの未来を憂えている」というのが、この調査結果にコメントを寄せてくれた上野千鶴子さん(社会学者)の見立てです。

 この調査で重要なのは、九条の条文を護持するかしないかという議論そのものではなく、「自衛であっても戦争はしない」、「戦力=軍隊を持たない」という問題を主権者としてどう考えるかという議論の機会を創り出すことでした。そして、議論を通して、できるだけ多くの主権者が九条をはじめとする憲法に、少しでも向き合う場面を経験してもらうことが大切だと考えたのです。
 私が、「新九条」やその国民投票などを提案するのも、主権者自らが九条や憲法と向き合い、その意味を問い、最終的に九条の本旨である平和主義の実質を取り戻すための大事な実践だと思うからです。

◆◆ 国民投票で、国民主権と立憲主義にかなった
決着をつける

――今後どのように国民投票が実施されるのか、説明していただけますか。

 憲法改正の是非について問う国民投票は、憲法九六条や憲法改正国民投票法、国会法などの規定に則って行われます。手段としては、議員が憲法の改正案を提出したければ必要な数(衆議院100人、参議院50人)の賛同議員を得て国会審議にかけ、衆参各院で総議員の3分の2以上の賛成を得られれば国会発議となり、その改正案の是非を問う国民投票が実施されます。

 ここで問題となるのは、主権者である国民は国会が発議した改正案に対して賛成か否かの最終決定を下すだけで、複数の案を国民投票にかけることはできないことです。具体的に言えば自民党などが出した改憲案に対する是非を答えるしかない。しかし、諸外国の中には、「原発政策」を問うたスウェーデンの国民投票のように、複数の案が第一、第二、第三といった具合に同時に提起され、その中から国民が最もいいと考える案を選択するといった国民投票を実施しているところもあります。本来なら、自民党の改正案のみならず、現行の九条、そして、いわゆる「新九条」のような改正案も俎上に載せて国民投票を実施すべきでしょう。そうすれば主権者である国民が九条の本旨について考えることになるからです。
 それを可能にする「予備的国民投票」という方法があります。2007年に制定された憲法改正国民投票法の附則一二条に盛り込まれているもので、この諮問型の国民投票なら現行憲法をいじることなく、日本でも複数案の中から選択する方式の国民投票を実施できます。

 実際にどう国民投票を行うかを説明します。主権者である私たち自身が、「軍隊を持つのか持たないのか、戦争をするのかしないのか」十分議論した後、この予備的国民投票を実施します。そして、現状の九条、自民党の改憲案、私たちの改憲案の中から投票権者が一番いいと思うものを選択します。政府と国会は、その結論(多数意見)を尊重し、その意思を反映させて「新たな九条案」をつくり、正規の「九条改正案」として国会で発議。それを国民投票にかけます。これが予備的国民投票の一つのやり方ですが、九条問題に決着をつける上で、この方法は国民主権と立憲主義に適っていると私は考えています。

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  現状の憲法改正国民投票の流れ(予備的国民投票は行わない)

 しかしながら、政治家、学者、報道人を含め国民の大多数は、こうした予備的国民投票のことを知らないし、国会の多数議員が賛成すれば問題なく実施できるということも知りません。なので、今後はそのことを報道人に対して積極的に知らせ、自分のところの新聞やテレビで国民に向けて丁寧に報じてもらえるよう働きかけたいですね。
 話を戻しますが、もし現行九条が最多の支持を得るとしても、国民投票を行う意味はあります。国民的な議論を通して、現行九条が「軍隊保持」「交戦権」を認めているのか、いないのかという本質的な問題が、投票までのキャンペーン合戦の中で明確になるからです。そこを明確にせず曖昧にしたまま「現行九条に一票を投じて」と呼びかけるのは非常識で、そんな国民投票は成立しません。

◆◆ 資金力が国民投票に影響を与える危険性

――しかし、今井さん自身も指摘されているように、予備的国民投票や九六条に基づいた改憲の是非を問う国民投票が公平に実施されるのか心配です。改憲派は金に糸目をつけないメディア操作を行うでしょうから。

 そのとおりですね、「国民投票法」にはいくつかの課題があります。とりわけ、現行法ではテレビのコマーシャル、新聞広告などの有料キャンペーンには、費用や手段についての制限が課されていません。投票日15日以前は事実上「野放し状態」に近いため、このままでは「資金力」が国民的な議論に大きな影響を与えかねません。特に、電通や博報堂など大手による寡占状態という、国際的に見ても極めて特殊な日本の広告業界の現状を考えるなら、その危険性はかなりあります。

 先日、イギリスで行われたEU離脱に関する国民投票でも「広告」が一定の影響を与えましたが、イギリスの国民投票のルールでは、キャンペーンにかかる有料広告に関しても、量や資金、その他、様々な面で規制されています。
 こうした海外の事例なども参考にしつつ、日本の憲法改正国民投票法も、有料広告等の規制、ルールを整備することは、早急に対処すべき課題です。

◆◆ 自分で決断する国民投票が、国民を変えていく

――それにしても、ポピュリズムが台頭する状況の中で「日本国民は、国民投票で賢明な結論を出せるのだろうか」という疑問や不安が指摘されています。

 自民党政権の支持が一時的なものではなく、ずっと続いてきたのは多数の国民が再軍備、軍事力増強路線の自民党を良いと選択してきた結果なんだと思います。そうした人びとを私は「愚か者だ」と切って捨てるようなことはしません。自民党支持者は私とは考えが違うけれども、彼らは彼らなりに主権者として考え選択してきたのだから。こうした自分とは考えが違う人たちと議論をしたり、学習したりしながら、最終的に自分の責任で良心に基づいて決断するのが国民投票なのです。
 中世以降、これまで世界中では2,750件を超す国民投票が行われてきましたが、日本では憲法に関するものはもちろんそれ以外の案件に関しても、まだ一度も国民投票を行ったことがありません。そのために、なんだか非常に国民投票を怖がって、自分たちは愚かな決断をしてしまうのではないかと心配してしまうようです。

 たとえばスイスでは年に4回、1回につき3~5の案件・テーマを対象にして国民投票が実施されています。日常的に行われているわけです。私はスイス在住40年の日本人女性の国民投票に関するブログをいつも読ませてもらっています。彼女はそうした国民投票でどんな論争が起きたか、自分はどう考え、どちらに投票したのかを丁寧に書いていらっしゃるんですね。毎回、国民投票を管理する機関から、賛否両方の意見が掲載された小冊子が送られてくるので、それをつぶさに読む。しかし、それを丸呑みしてはだめだから、いろいろな新聞をチェックして切抜きをつくって勉強しなければいけない。大変らしいです。彼女も「毎回毎回、もう疲れた」とブログで書いていたこともあります(笑)。それでも彼女は国民投票制度は手放したくないと言い切っています。ちなみにスイスで「直接民主制はやめませんか」という世論調査があった時「もうやめた方がいい」と答えた人は3割弱でした。

 スイス人だって生まれつき賢い人ばかりではないでしょう。それは、私たちと同じです。もし日本国民がスイス国民に比べて政治的に愚かだとすれば、それは自分たちで重要なことを直接決めていないからだと思うのです。例えば、原発再稼働とか安保法制とかね。
 日本では96年の新潟県巻町以降415件を超す「住民投票」(条例制定に基づく)が実施されていますが、実施自治体の首長が私によく言うのは、「やってよかった」という言葉です。「住民投票をしたことによって住む人たちの意識が変わった」と言うのです。埼玉県の北本市では、市の予算でJRの新駅を作ることについて議会が建設を承認した後、その是非を市民に問う住民投票を行い建設を白紙にしました。つくば市でも、議会と市長が運動公園を作ると言ったのに、住民投票でNOという意思を示し、中止に追い込んだ。こういう経験をすると、自分たちが主権者だということが実感できて、国民も変わっていくと思います。

◆◆ 悩み考えなければ、九条は「私たちの憲法」にはならない

 最後に哲学者の鶴見俊輔[注4]さんが「九条と国民投票」について語っている言葉を紹介させてください(「朝日新聞」1998年2月4日付夕刊「鶴見俊輔の世界――③私の憲法〈国民投票を恐れないで〉」より)。

 「憲法改正に関する国民投票を恐れてはいけない。その機会が訪れたら進んでとらえるのがいいんじゃないかな。護憲派が四対六で負けるかもしれない。それでも四は残る。四あることは力になる。そう簡単に踏みつぶれませんよ。もし、改正するならあの精神の方向へ押し戻したいですね。

 ――それで護憲がほんものになると。
 そう。護憲、護憲といっているが、それは四十年以上も前に終わった占領時代を、いまも当てにしていることでしょう。進歩派がそこに寄りかかっているのは、おかしいんじゃないの。だからいまの護憲派は、はりぼてなんだ。
(中略)

 ――ではいまの憲法も、はりぼてですか。
 どこの国でも民主化の動きはある。デモクラシーはユートピアであることを忘れては困る。ところが憲法が国会で成立した途端に憲法に寄りかかり、民主主義は成立したと考えた。民主主義は成立したのではなく、われわれが向かう目標としてあるものなんです。「人民による、人民のための、人民の政府」。こんな政府は世界のどこにありますか、ない。しかし、それに向かって歩みたい。民主主義はパラドックスを含んでいるんです。

 ――憲法の弱さはそこにあるというわけですか。
 運動としての民主主義はある。その運動はだれが担うのか。担い手なしで国家が決めてしまう。これでは二重の委託になる。一つは原理への委託です。原理を納得すると、それに寄りかかれると思い込んでしまう。もう一つが国家への委託です。私的な信念によって支えられてはいない。原理はもろいし、委託なんてできるものではない。日本の教育は、この原理への委託を教えているんです。だから国民投票して私への信念を試すんですね。私は「護憲」に投票しますが、原理と国家への委託はしない」

[注4]鶴見俊輔(つるみしゅんすけ、1922~2015年)。哲学者。1946年に『思想の科学』を創刊。60年安保時には「声なき声の会」を組織して日米安全保障条約改定に反対。65年にはべ平連を結成、ベトナム戦争に反対する運動を行った。大衆文化や思想史を独自の視点で研究。憲法に対しても、引用文にあるように独自の考えに立って護憲派であることを貫いた。

 私も鶴見さんと全く同じ考えです。国民投票によって国民は自分自身の価値観や生き方を問われるでしょう。問われることがなければ、そして悩み考えた上で問いかけに答えなければ、九条は本当に私たちの憲法にはならないと思います。(構成・編集部)

<参考図書>
『「解釈改憲=大人の知恵」という欺瞞』今井一著 現代人文社(2015年)

<プロフィール>
今井 一 Hajime IMAI
ジャーナリスト
1990年以降、ソ連やバルト3国で実施された国民投票を取材。96年からは日本各地で行われた住民投票を取材する。著書に『「憲法九条」国民投票』(集英社新書、2003)、『「解釈改憲=大人の知恵」という欺瞞』(現代人文社、2015)など。

※この記事は季刊『社会運動』2017年1月・425号から著者の許諾を得て転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。
 1月号の目次と、その他の記事も、下記のURLから内容の一部をお読みいただけます。 http://cpri.jp/social_movement/201701/


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