■回想のライブラリー(4)         初岡 昌一郎

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10月13日朝、関西空港を発って台北に向かった。同行者は社青同時代からの友人で全逓元副委員長の亀田弘昭さん。台北空港では、広島空港から着た井上定彦島根県立大教授(前連合総研副所長)や、東京から飛来した桑原靖夫前獨協大学長らと合流し、高雄大学講師で同時通訳者の王珠恵さんの出迎えを受け、その案内で明日からのフォーラムの会場である公務員研修センターに投宿。その夜から早速台湾の仲間の歓待を受けた。
王さんは兵庫県立大環境人間学部で吉田勝次教授の指導のもとで博士号を目指して今春より勉強中で、これからも年数回のペースで姫路に来ることになっている。

第11回ソーシャル・アジア・フォーラムの会場は、台湾大学(旧台湾帝国大学)を中心とする文教地区に位置している公務員研修センターにおいて開催された。そのテーマは「東アジアにおける労働市場と労働組合の役割」であった。台湾、韓国および日本からの約40人の研究者と組合関係者がこの会議に参加し、8本の報告をめぐって意見を交換した。

今回のフォーラムには残念ながら中国からの参加がなかった。7名の参加者が北京から予定されていたが、とうとう政府からの出国許可が下りなかった。
4年前の前回は若干の困難はあったが5名の参加者が台湾に来ていただけに今回の措置には失望した。参加予定者は中国労働関係学院の若手教員・研究者で、今回もこれまで同様実証的かつ現状をかなり批判的に検討する好論文を報告として提出していただけに惜しまれた。近年のフォーラムを通じて、中国を含め東アジアの労働関係者、特に研究者の間において共通の問題意識と連帯感が育ってきている。会議では、中国からの報告のひとつはその筆者の希望によって台湾の友人によって紹介された。もう一つは日本からの参加者である山中正和(元日教組副委員長)によって代読された。

9月に訪中した時に、参加予定者の一人と会って話す機会があったが、その時すでに全員そろっての参加には悲観的な見方が示されていたが、報告者になっている若手だけでも行かせたいとのことで、一縷の望みを最後までつないでいた。
このフォーラムは個人参加の建前で、参加者は国や団体を代表して参加するのでないことを出発点から明確にし、これまではなんとか、日中韓台の4地域からの参加を確保することができた。しかし、今回は中国と台湾との厳しい関係のためにこれが崩れた。2年前の上海フォーラムでも、中国は台湾文化大学陳継盛教授だけには入許可を出さなかった。それは陳先生がこのフォーラムの創始者のひとりで、台湾側のリーダーであるということよりも、陳水扁政権に「資政」という最高顧問格で参加していることが理由であるとみられていた。
今回もこの政治の壁が立ちはだかったものとみて間違いなかろう。中国は国民党系には柔軟に、独立をめざす民進党系には厳しく対処しているが、それをこのような民間の小会合にも適用するのはいささか狭量に映った。

(2)
このソーシャル・アジア・フォーラムは12年前に横浜で行われた小さな会合にそのルーツを持っている。この会議は新横浜駅からほど近いところにある生活クラブ生協会館で行われた。これには、当時このクラブ生協を基礎に立ち上げられたローカル・パーティー「神奈川ネットワーク運動」を推進していた横田克巳さんの肝いりがあった。この横田さんも旧社青同の仲間である。彼の著書『オルタナティブ市民宣言』(現代の理論社、1989年)は生活クラブ生協の歴史と理念を紹介するにとどまらず、新しい市民政治の方向を示したものとして、今も光芒を失っていない。

長洲知事在職当時、その「地方からの国際化」と「民際化」という構想を受けて行われた、「アジア太平洋のローカル・ネットワーク」プロジェクトからソーシャル・アジア・フォーラムが生まれた。
神奈川県に後援されたそのプロジェクトは、武者小路公秀前国連大学副学長をキャップに、国際問題研究協会の吉田勝次さんを事務局長にして3年間のスパンで実行された。私はその労働部会を担当し、その会合には日本の他に、韓国と台湾から参加があった。
1995年に第3回の会合を行ったが、このまま閉じてしまうのは惜しいということになり、このプロジェクトの最後の労働部会会議を第1回ソーシャル・アジア・フォーラムとすることを宣言し、第2回をソウルで次の年に開催することに意見の一致をみた。そして韓国西江大学朴栄基教授、台湾文化大学陳継盛教授、それに私が世話人としてあたることになった。

この第1回フォーラム終了後に、東京御茶ノ水の総評会館で、お披露目の講演会を開催し、朴先生、陳先生と並んでILOアジア支局のカルメロ・ノリエルの3人が記念講演を行った。これは滝田実(元同盟会長、故人)主宰のアジア社会問題研究所と日本ILO協会の後援を受け、約100人の参加者があり、盛会であった。その3講演はその後アジア社研機関誌の『アジアと日本』に掲載された。
その後すぐに、われわれが国内で自主的に行ってきた研究会をソーシャル・アジア研究会としてより組織的なものにし、月例研究会を発足させた。会員としては前島巌東海大教授、藤井紀代子ILO東京局長(後に横浜市助役)、鈴木宏昌早大教授、山田陽一連合国際政策局長、中嶋滋自治労国際局長(現ILO理事)、小島正剛国際金属労連(IMF)東アジア代表などプロジェクト当初からのオリジナル・メンバーの他に、ILO本部事務局にいた井上啓一流通経済大教授や中沢孝夫兵庫県立大教授など多くのメンバーが参加するようになった。
(3)
ソーシャル・アジア・フォーラムがその後当初に予期しなかった発展を遂げたのにはいくつかの要因があげられる。その中でもここで指摘しておきたいのは、非常に良いパートナーに恵まれたことである。
まず、韓国の代表世話人は朴栄基西江大教授であった。同大はジェズイット派のカトリック系名門大学で、日本の上智大と姉妹関係にある。この大学は早くから、産業関係研究所を設けており、朴先生はその所長を定年までつとめていた。産業関係という名称は、英文のインダストリアル・リレーションズの訳語としてあてられたもので、日本では労使関係といわれている言葉と同一である。

朴先生は1960年代の中頃に韓国労働総同盟国際部長であった。その頃から、本回想記の第1回で紹介した権重東(当時、逓信労組委員長)の盟友であり、二人の密接な関係はその後永く続き、私が韓国に行ったときには一緒にお会いすることが多かった。二人の一つの大きな相違点は権さんが「斗酒なお辞せず」という酒豪であったのにたいし、朴先生は敬虔なカトリックで、一滴のアルコールも口にしない人であった。
朴先生が所長であった西江大産業関係研究所は、国際労働組合組織が韓国でセミナーや講座を開催する時によく利用していた。特に、私がかって東京事務所長をしていた国際郵便電信電話労連(PTTI)は、必ずといってよいほどこの施設を使用させてもらっていた。
第2回のソーシャル・アジア・フォーラムは西江大のこの施設で行われた。
約30名の参加者がその研究所で合宿し、寝食を共にしたことから、実に親密な連帯意識が生まれたのであった。
1987年の韓国における民主化宣言とその後の労働運動高揚期において、朴先生の仕事は多忙を極めるようになっていた。海外の新聞や雑誌において韓国労働問題に関する朴先生のコメントがしばしば引用されるのを目にしたものである。金大中政権が登場すると、政労使三者委員会の設置に尽力したほか、大統領直属の経済委員会にメンバーとしても入った。朴先生はその豊富な経験と高い見識に加えて、誠実でオープンな人柄から立場の異なる人々からも尊敬される存在であった。われわれのフォーラムに韓国の異なる運動系譜や学問的立場から参加があったのは先生の広い人脈のおかげであった。
2001年に台中の古い港である鹿港で開催された第9回フォーラムでお会いした時、朴先生は体調すぐれず、疲れを訴えておられた。結局それが朴先生との最後のお別れとなり、1カ月後には不帰の人となった。私より2歳年上であった先生は、60代後半に踏み入れたばかりであった。その翌年春、権重東と二人で息子さんの朴容昇(慶煕大助教授)の車でソウルから車で約2時間の距離にある墓所を訪れ、冥福を祈った。その帰路、ソウル郊外の山中に新築された朴先生宅に奥様をお訪ねした。市内のアパート暮らしだった朴先生は林を背景にした書斎のある木造の家に退職後住むのを楽しみにしておられたが、落成後ただの1日も住むことなく亡くなってしまった。先生は生前に誰にももらすことはなかったそうだが、白血病で死期を覚悟しておられたようで、家族全員の記念写真を撮つたり、身辺整理をすすめておられたことを後に知った。

朴先生が西江大経営学部長であったとき、先生の推挙によって西江大大学院は山岸章連合会長に名誉博士号を贈った。その授与式に私も参列したが「アジアの労働組合運動と労使関係に貢献した」という理由によって名誉博士号が贈られたのは韓国でも初めてのことだそうだ。もとより日本の大学では前代未聞だ。
他方、台湾の代表世話人、陳継盛先生と知り合ったのは、ソーシャル・アジア・フォーラムを立ち上げる少し前の90年代前半のことであった。先に紹介した神奈川プロジェクトの2年目に台湾から参加したのは、当時、政府系シンクタンクである経済研究院副院長であったジョセフ・リーであった。李先生はアメリカのインディアナ大学教授として長い間教鞭をとっていたのだが、戒厳令の解除や民主化の動きをみて帰国したリベラルなエコノミストである。李先生は台湾の労働組合と労使関係についてクールで批判的な報告を英語で横浜の会議に提出して、私たちの関心をかきたてた。

その年の秋、台北に行く機会のあった私は経済研究院に李博士を訪ねた。彼は第3回目の横浜会議への参加要請を受けて、「自分より良い人がある」と自ら車を運転して私を連れて行ってくれたのが、台北の下町にあった陳法律事務所であった。その所長の陳継盛は弁護士であるが、同時に台湾文化大学教授で同大労工研究所を創立し、その所長を続けてきた労働問題の第一人者であった。
陳先生はその場で即座に明年の横浜行きを快諾した。1995年のこの会議における陳先生の流暢な日本語による声涙下る熱弁は参加者に大きな感銘を与えた。それは労働問題の報告にとどまらず、台湾の民主化と独立にたいする先生たちの熱い想いが吐露されていたからである。

第3回のフォーラムは1997年、台北の科学アカデミーの広大なキャンパスの一角で行われ、参加者はその宿泊施設で起居を共にした。その頃には陳先生が台湾社会において傑出した人物であることを私たちは知るようになっていた。その当時はまだ国民党政権下であったが、労働大臣はフォーラム参加者のために夕食会を主催し、歓迎してくれた。陳先生は民進党創立の際の立役者として台湾では既に広く知られていたが、李登輝大統領とその周辺にも太いパイプを維持していた。

陳先生が台湾で高い尊敬をかちとるようになり、有名となった契機は、1979年から80年にかけて発生した高雄事件(別名、美麗島事件)であった。この事件は台湾内外に衝撃を与え、その後の民主化闘争の出発点となった。この事件は民主化と台湾独立を主張する雑誌『美麗島』が発禁となり、その中心的メンバーが国家反逆罪に問われたことに端を発している。陳先生の法律事務所がこの弁護を引き受け、陳先生はその主任弁護士格であった。その陳事務所チームの最年少の弁護士こそ、後に大統領となった陳水扁であった。この事件の被告たちと弁護士団が中心となって後に民主進歩党を結成した。先生は民進党の結成に基礎的役割を果たしたものの、その表面には立っていない。しかし、民進党を支える陰のアドバイザーとして別格のドンとみられている。この党は台湾の民主化と経済発展、それに伴う社会的成熟の上昇気流に乗り、結成僅か20年にして政権についた。

陳継盛はその著名な法律事務所の中に労働者教育のためのラジオ放送局を持っており、先生の教え子で、フォーラムの実務を切り回している呉慎宜女史とそのチームがこの放送局を運営している。先生はその他にも、民法テレビの重役やいくつかの大企業の顧問弁護士を兼ねており、文字通り席の暖まることのない八面六臂の活躍にはただ驚かされる。
細身でひ弱そうな印象を一見して与える陳先生はいつもにこやかで、ひとあたりは実にソフトである。偉い人なのだが、その気配りには頭が下がる。少しも威張ったり、肩をはるところがない。先生の生き方はしなやかで、したたかである。独裁時代にドイツ留学から帰国した先生は、文化大学で労働法を教え、結社の自由が厳しく統制されていた台湾でも一定の自主性を持つことが許されていた「学会」として、国際労働法学会を組織した。それを活動の拠点として多くの人材を育て、人的ネットワークを作ったのであった。この頃のことを「私は臆病者だから、運動の先頭に立てなかった」と先生はさらりと表現している。

先生は冗談まじりに「私は昼は大学教授で、夜は運転手」といっていた。それは、先生は台北郊外の陽明山に居宅を持ち、奥さんの林菊枝女史の送り迎えをしているという意味だ。林女史も(私たちは菊枝(キクエ)先生と呼んでいる)家族法の権威として知られる大学教授で、強烈なフェミニズムの主唱者である。林女史はかって李登輝大統領から女性初の最高裁判事として推せんされたが、国民党支配の議会で、「民進党に近すぎる」として否決され、実現しなかった。副大統領の呂秀連女史は林先生の後輩にあたり、陳先生以上に熱心に民進党を推しているのが印象的だ。林女史の家系には医者が多く、叔父さんの一人は東大医学部卒業後、私の家から近い相鉄線二俣川で開業しておられるので、菊枝先生は横浜にもよく来訪されている。

陳・林夫妻は私と同年のイノシシ年(中国流にいえばブタ年)で既に大学を引退されたのだが、一向にひまになる様子はない。陳先生は「資政」の資格で、大統領最高顧問の位置にあり、毎週最低一回は大統領と個人的に面談し、国策の相談にあずかっている。「資政という職はなんですか」と質問したところ「さあ、かつての日本の枢密院のようなものでしょうか」という答が返ってきた。

(4)
初めての台北でのフォーラムの時には、当時開館したばかりの「2・28事件」記念館を特別に案内してもらった。これは蒋介石の国民党軍隊が台湾進駐後間もなく行った台湾人にたいする非道な大虐殺の犠牲を追悼し、その遺品や歴史的史実を展示してこの事件を記念するものである。この事件は永い間タブーとして台湾ではふれられずにいたが、候孝賢監督が亡命中に製作した「非情城市」という映画によって日本と世界にドラマティックに紹介された。この作品はかってカンヌ映画祭でグランプリを受賞している。

今回のフォーラム終了後に日帰りのバス旅行が陳先生によってアレンジされていたが、その圧巻は宜蘭市の慈林教育基金会訪問であった。陳先生は何も事前に説明せず、われわれはお茶博物館に行くと知らされていた。この博物館にも途中少時立ち寄ったのだが、すぐに昼食休憩の予定されていた太平洋岸の町宜蘭に向かった。そこに着くと慈林会館に案内された。まず一階の集会所で短い映画の上映があり、それによって高雄事件の中での最大の悲劇、林義雄家族虐殺事件について、その詳細を知った。当時県会議員であった林義雄は高雄事件の首謀者の一人として拘留されたが、厳しい取調べと過酷な拷問にもかかわらず黙秘を通していた。それに対する圧力と報復として、彼の母と双子の娘(当時、3歳)が深夜に進入した暴漢によって虐殺されたのであった。
この事件は1980年2月28日におきたので、第二の2・28事件と呼んでも
よかろう。慈林会館はその記念のため有志の手による国民的カンパで建設されたものである。この事件についての記録映画を淡々と解説してくれたのが、林義雄その人であった。日本と韓国の参加者はこの事件をあまり知っておらず、ショックのあまり声もなかった。
お弁当による簡単な昼食の後、質問に応えた林義雄は心境を静かに語った。印象的だったのは、恨みをはらすよりも、民族の大儀のために「慈林」を建設して民主化の歴史を忘れないようにするこの記念館を作り、若い人々の教育活動の拠点としているとの言葉だった。

その言葉を引き継いで陳先生が立ち、「林さんの心境を今日はじめて聞いた。実はそれを聞くのが恐ろしくて今まで避けてきた」と話し始めた。この事件につづく国民的な抗議と事件にたいする幅広い同情にあわてた警察が、突然林義雄の釈放を決定した。しかし、担当弁護士としてそれを迎える陳先生は、この事件をまったく知らない林義雄にどう説明するかについて悩みぬいた。それは林の反応を非常に懸念し、心配したからである。事務所の前で、警察によって送られて来た林義雄をそのまま車に押し込み、別の場所にまず移し、情報から隔離した。それからまずお母さんがなくなったことだけを簡単に告げ、しばらくしてから徐々に全容を知らせたとのことであった。

それと同時に陳先生は彼の国外脱出を手配し、アメリカのハーバード大とイギリスのケンブリッジ大に合計2年余り留学させるという緊急避難的措置によって、林さんを台湾の現実から切り離したのであった。重傷を負いながら奇跡的に生き残った長女は、ピアニストとして活躍中で、現在は母親(林義雄夫人)と共にアメリカ在住だという。
陳先生がさらにバスの中で、「大統領選直前まで民進党党首は林義雄であったし、彼の方がはるかに大統領としての資質が優れていた。しかし選挙戦を有利にするために若い陳水扁を候補とすることになった。林義雄は兄のように陳の当選のために働いた」と私に語ったのが忘れられない。

この事件とその背景については、先述の吉田勝次兵庫県立大教授の最新著『自由の苦い味 ? 台湾民主主義と市民のイニシアティブ』(日本評論社、2005年3月)を読んでいただきたい。吉田さんは近年台湾に何度も足を運び、現地での広汎な聴き取りや資料の発掘を通じて精力的に台湾政治を研究してきた。彼のこれまでの著作は理論的な作業に重点がおかれ、研究者としては優れていてもその著書は必ずしも読みやすいものではなかった。しかし、この本は系統的に台湾における民主政治の進展をフォローして具体的な事実関係を
整理し、手際よく紹介した好著である。この一冊で台湾の現代史と現在の政治的構造を鳥瞰的に把握することができる。巻末に収録されている李登輝と朴遠哲(ノーベル賞受賞者で、民進党政権の立役者の一人)と吉田さんが行ったインタビューが圧巻である。優秀な編集者として私が一目も二目も置いている日本評論社の黒田敏正の助言と編集がこの新著にはよく生かされているとみえる。
戦前の台湾地域研究の記念碑的な金字塔は、矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』であった。これは、日本においてだけではなく、台湾においても戦後の研究の出発点として今日でも高く評価されている。これについては、若林正丈(編)『矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」精読』(岩波現代文庫、2001年)という好著があるので、台湾の戦前史について関心を持つ人にすすめたい。

矢内原忠雄は植民政策学・国際経済論の戦前における第一人者であったが、太平洋戦争前の時局批判によって東大教授を辞職せざるをえなくなった。しかし、それによって反戦的思想を守った無教会派クリスチャンであった。戦後、東大に再び復帰し、同じ無教会派キリスト教徒で、平和論をリードした南原繁の後を継いで東大総長となった。
私は高校2年生の夏、伯耆大山での矢内原先生の聖書研究会に参加したことを想い出す。その合宿の後、先生を案内し、伯備線と姫新線の鈍行列車の二等客室に先生と向かい合って話しながら、母校、津山キリスト教図書館高校の創始者、森本敬三先生のお宅までお供した。その時、つい気安く、先生に色紙に記念の揮毫をお願いしたところ、「書くのは易しいが、それが君の将来のつまづきの石となるかもしれない」と断られた。当時はその意味が理解できず、落胆したというよりも、先生を偏狭な人だとも思った。

それでも内村鑑三の思想と行動に傾倒していたので、ICUに入ってからしばらくは矢内原先生の今井館に通った。先生の偉大さがよりよくわかるのには、それから何年もが必要だった。私が来春、大学を引退した後に時間ができてから読みたい本の中には、『矢内原忠雄全集』全29巻(岩波書店)に収められている、いくつかの論文が含まれている。
   (筆者は姫路獨協大学教授・外国語学部長)

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