【沖縄の地鳴り】

吉田松陰にさかのぼるか、沖縄の「格差」問題

――戦前戦後に通じる長州的軍事強化路線
羽原 清雅

 メルマガ『オルタ広場』の2021年12月号に「『琉球処分』『沖縄軍事化』路線と山県有朋―没後百年、今日に続く政府の沖縄感覚」として掲載させて頂いた。執筆時に見かけた吉田松陰の手記を見直すと、彼の時代の感覚は今も続いているのではないか、と思い、あれこれ調べてみた。すると、長州→全日本、明治維新期→現在、と軍事化の歴史とその広がりは基本的にあまり変わることなく続けられている、との印象を受けた。
 吉田松陰が発想し、山県有朋が長期の路線を敷き固め、岸信介が旧満州の統治経験をもとに戦後に再現を図り、安倍晋三が長期政権と「数」の力で持続を図ったものか。各人いずれも長州の流れにあり、その思考が脈々と維持されている。心情のバトンタッチ、である。

 現行憲法の制定は日本の防衛・軍事の取り組みを大きく変えようと試みながら、朝鮮戦争などの「僥倖」もあって、巻き返しにかなり成功し続けているのではないか。そのような取り組みが、沖縄の基地問題のベースに横たわっていはしないか。

 *吉田松陰の領土拡張欲

 佐久間象山に師事した松陰(1830-59)は1854(安政元)年3月、ペリーの浦賀再来航の際に密航を企てるが果たせず自首、江戸・伝馬町の獄に収容され、9月に長州萩の野山獄に移された。そこで「幽囚録」を書き残した。翌年、一時出獄した際に「松下村塾」を主宰、ここで高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら尊王攘夷運動の指導者たちを多く輩出している。この運動を弾圧した安政の大獄によって、松陰が死刑となったのは59(安政6)年10月、30歳だった。

 その「幽囚録」に以下の文が残された。
 「日升らざれば則ち昃き、月盈たざれば則ち虧け、・・・間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球を諭し、・・・朝鮮を責めて・・・北は満州の地を割き、・・・南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。」といった表現なのだが、これではわかりにくいので、巧みに訳された文体で紹介したい。

 「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう。」 (田中彰訳『日本の名著・吉田松陰』)。

 この時期、欧米列強がインド、中国へと侵略の手を伸ばし、日本にもロシア、米国、英仏蘭などの先進諸国が迫ってくる時代で、今風に言うなら防衛態勢を整え、侵略を防ぐことが最大の政治課題だった。だが松陰は、日本の存亡の危機に臨みながら、祖国を守れ、というにとどまらず、周辺部への進出、制圧、支配にまで言及している。日本の将来を読み取るかのように、明治・大正・昭和前期の軍国主義化、帝国主義化の発端を予言し、示唆している。

 この発想はさらに、山県の行動に見事に投影され、具体的かつ忠実に実現されている。その点は、前の号に示した通りである。
 山県は首相としての施政方針演説で「国家独立自衛の道に二途あり、第一に主権線を維持すること、第二には利益線を保護することである。」として巨額の軍事費の必要を訴えた。主権線はともあれ、その利益線とは朝鮮であり、「保護」はその実「侵略」だった。それは、海外進出の第一歩を踏み出す決意表明でもあった。

 *山県有朋の忠実な実践

 山県(1838-1922)は松陰処刑の前年、つまり1858(安政5)年7月、藩命によって伊藤博文ら松陰の門弟4人の中に入り、京都に行くチャンスに恵まれた。足軽以下の最下層卒族の子として生まれた有朋は、松陰の松下村塾に早く入った伊藤らと違って、この京都行きで知り合った久坂玄瑞の紹介で松陰に会い、結果的にはごく短期間だけ弟子になることができた。21歳になっていたが、その慎重で事務処理能力に長けた才覚は認められ、有朋の将来にわたる道を開くことになった。そして、「山県が終生松陰を深く畏敬し、松陰のことを口にするときには常に松陰先生と呼び、松陰のことを書く際には必ず門下生山県有朋と記した」(岡義武『山県有朋』)。

 松陰の「漢土には人民ありて、然る後に天子あり、皇国には神聖ありて、然る後に蒼生 <国民>あり。国体もとより異なり、君臣なんぞ同じからん」との国体論を、山県は奉じた。国民よりも天皇絶対の国家、山県の信念である。
 陸軍の参謀本部の独立にこだわったのも、軍の統帥権を独立させることで、政府や議会の介入を許さず、天皇の全権を守ろう、との意図があった。そこに、徴兵制度を築き、忠実・勇敢・服従の美風を育てるがための軍人訓誡、軍人勅諭を徹底させる必要があった。そして、軍事費を潤沢にし、国防を徹底強化することだった。いわば、松陰の思いを実現することが山県の使命にもなっていた。

 その一途な信念はどこから来たのだろうか。「山県は最下級の武士の出身として、いつも背伸びして、相手に負けまい負けまい、むしろ目の前にいる好敵手にどうすれば一歩でも二歩でも先んずるかと、そんな気配が見られる」 (御手洗辰雄『山県有朋』)。
 また、国民の忠君・愛国の情がその土台に必要として、松陰は父母に孝、兄妹に友愛、朋友に信義、道に殉を説く。そして「基本は一にして、其 <の>末は万なり。万種の動作、只た一心に会 <あつ>まる。彼か彼たる所以、唯た此の一誠以て全心を把持するが故にあらずや」と述べている (徳富蘇峰編述『伯爵山県有朋伝』)。

 松陰を研究した桑原武夫は「私はあの人(松陰)の純粋さというものを評価しますが、告白すれば、松陰みたいな人間を好きになっては困ってしまうという感じがあります。むしろ私などは、福沢諭吉のような俗物性のある人間へ傾くわけです。松陰は純粋な人ですから魅かれるけれども、純粋なだけに俗物がこれを利用し過ぎているんで、その点が気に入らない。ただ松陰は日本人の泣きどころを、本人は無意識ですが、天性として持っていますね」という。
 これに応じるように、やはり松陰の著書を持つ奈良本辰也は「そういう意味では、この人は一番日本人的じゃないですか」(『吉田松陰全集』大和書房版に付く月報9号掲載の両氏の対談)

 *吉田松陰の世論席巻・風靡の背景

 吉田松陰はなぜこれほどまでに長きにわたって人気を博してきたのか。しかも、日本人の心情形成に強力な影響をもたらしてきたのか。戦前はともあれ、戦後になっても、世相、様相は変わりながらも、その天皇への敬意や崇拝、軍備強化や侵略の容認、あるいは愛国心と敵対感情などの松陰的思考を、政治指導層の精神構造の中に取り込んでいるのか。
 松陰の論文類は、戦後教育の世代には非常に難解である。原文に触れる人はごく一部だろう。それでも、ものの見方や志向の土台は引き継がれている。松陰の、正邪二分風のわかりやすい論理、愛国的感覚、変革への一途な情熱、島国という環境での共有感などは、各人の行動動作は別として、一種の憧憬として魅せられているように見える。桑原武夫が指摘するように日本人好みなのだろう。

 これほどまでに、日本人の血となり肉となった松陰思想だが、その背景の一部分に日本の徹底した教育がある。
 田中彰の丹念な研究から、その一端を紹介したい。
 松陰の伝記は、彼の死後30年ほど経って出版され始め、とくに約3,600頁にのぼる徳富蘇峰猪一郎の『吉田松陰』(3巻・1893年)の存在が大きい。伝記中心の単行本だけを見ても、1891-1912年の明治後半期22年間に約20冊、大正14年間に約25冊、敗戦までの昭和期に約145冊、戦後28年間に約20冊に及ぶ。このほかに遺著52、研究文献や読物34、雑誌小冊子34種の刊行があったという(岩波書店版吉田松陰全集による)。
 これだけではない。この普及は昭和初期から「修身」の国定教科書に取り込まれて、絶対的な影響力を握った。万世一系の天皇制、皇祖皇宗の大御心、天皇と臣民の一体性、天皇はじめ上への忠と親への孝などの、松陰の思想は戦争に向かう日本の超国家主義、ファシズム化、大陸侵略といった状況に合致した論理であり、権力者の貴重な説得材料だった。国民はいよいよ、天皇崇拝の抗えない発想に疑念もなく信じることになっていった。

 唐澤富太郎『教科書の歴史』によると、「自信」「忠君愛国」「兄弟」「父母」「父と子」「師につかへる」「松下村塾」の7編で松陰が取り上げられている。尊王愛国、家族主義、孝行など、戦争遂行や一体的統率と服従を教え込む教育が必要とされたのだ。
 そこには「教育」の怖さがあった。狭い選択肢の強制、権力への監視・批判の乏しさ、習慣的な「お上」信頼があり、この戦前の思考、風潮が長期にわたって国民を支配していた。

 *岸信介への波及

 岸信介 (1896-1987)の戦前を見ておこう。商工省工務局長から旧満州国実業部総務司長に転出したのは1936 (昭和11)年で、2・26事件の年だった。翌年には日中戦争勃発、日独伊防共協定の成立、38年には国家総動員法公布、近衛首相の東亜新秩序建設声明といった、太平洋戦争に突き進む時代でもあった。岸は、傀儡国家作りに知恵を出し、日本の置かれた国際環境を海外から見つめ、国家経営のありようを学んでいたに違いない。41年10月、つまり真珠湾攻撃の直前に生まれた東条英機内閣の商工相に就任し、対米英宣戦の詔書に署名。42年、東条の翼賛選挙で衆院に当選 (ちなみに安倍晋三の祖父安倍寛は岸の隣の山口1区で非推薦当選)。43-44年、これも東条のもとで国務相に就任している。

 岸・東条の関係については、原彬久が『岸信介』の中で書いている。「満州の支配層に流通し、日本本土にも流れたといわれる巨額の政治資金をめぐって、岸と東条が特別の絆で結ばれていたという関係者の証言には無視できないものがある。表では産業開発五ヵ年計画の遂行をめぐって、裏では利権をめぐって、岸・東条関係は不動のものとなるのである。」と断定している。
 岸に近い関係にあった松野頼三は「岸という人は、自分で利益を取らない。どんな事件があっても、・・・(周辺が)取っていることを知っているし、それを認めている。・・・それが一番悪いやつなんだ」(『政界六〇年 松野頼三』)と述べている。見て見ぬふり、さらなる裏を抱えているということか。

 戦後は、まずA級戦犯容疑で48年末までの3年余を巣鴨入りするが、運よく不起訴に。公職追放も講和条約による恩赦で解除される。53年4月自由党から衆院当選、12月には党の憲法調査会長に。56年末に石橋湛山内閣の外相となり、石橋首相の病気引退で岸政権が誕生した。
 まさに「運」が「尽き」るどころか、「付き添われ」たように、戦争遂行責任を逃れたばかりか、上昇気流に乗っていた。
 だが、政治家としてのいかがわしさは、満州時代を含めて消えていない。60年安保改定時の高揚する反対運動に対しては、首相就任時の「汚職・貧乏・暴力」の三悪追放の主張をよそに、児玉誉士夫、稲川角二 (錦政会)、磧上義光 (住吉会)、尾津喜之助 (尾津組)など暴力団、博徒、やくざ、右翼などを総動員して立ち向かわせている。また、米航空機業界との汚職も再三疑惑を持たれた。
 ともあれ、戦後政治に右カーブを切ったことを含め、まだまだ今後追及さるべき人物とその時代、といえよう。その政策面については、次項の安倍晋三との対比で触れていきたい。

 岸の松陰観に対するストレートな思いは、見つからなかった。ただ、傍証となるところを紹介したい。要は、岸が松陰について相当の信頼を抱き、影響を受けていたことがわかる。
 安倍晋三の項で触れるが、岸の改憲論、対米接近の安全保障論、軍備増強政策、天皇観、権力的政治行動などには、多分に松陰の思想を受け継ぐものがある。
 さらに、岸の戦前の言動には、山県の軍備拡張を果たしたうえでの、軍事力による海外侵出を引き継ぐ性格があった。戦後に政権を握った岸の方針、政策は、終戦後の非武装中立による平和論を破棄し、軍備増強による国家再建の道を推進する姿勢であり、そこには戦前回帰ではないまでも、戦犯容疑者としての反省の姿は見えてこない。戦前の軍事侵略の方向は見せないものの、山県の長期にわたって敷いてきた軍事力による国家維持策の立場を再興させる姿がある。

 「岸にとって曾祖父 <佐藤>信寛 <島根県令>の存在は限りなく大きい。・・・曾祖父信寛への憧憬は岸にとっては幻の如く、しかしそれだけに心のひだに染みわたっているかのようである。岸にしてみれば、吉田松陰、伊藤博文、井上馨、木戸孝允ら明治維新の烈々たる個性は、信寛という身近な血縁を介してみずから追体験できるものであった。岸がこれら維新の志士たちに明日の自分を投影したとしても不思議ではない。」
 「幕藩体制崩壊の渦中にあって、アヘン戦争に示されるが如き西欧列強のアジア支配を凝視していた松陰は、みずから『君臣一体』の皇国思想を説くが、そうした姿が岸における国家思想の素朴な原型を形づくったといってよい。「(松陰の思想は)私の一生を貫いて今日まで残っている」(筆者 原のインタビューによる)」 (原彬久『岸信介』)

 「吉田松陰先生より曾祖父 <佐藤信寛>宛の書信を見たこともあるから松陰先生と交遊もあったと思われる。・・・伊藤 <博文>、井上 <馨>の諸公とは相当深い交わりがあったらしい。」
 岸信介の名は曾祖父の「信」の一字をもらった、「政治家的素質」の項では「血を引く」「政治家になろうと思っていた」とも述べている。 (岸信介『わが青春―生い立ちの記、思い出の記』)

 「(佐藤信寛 (1816-1900)の事略「蝦洲翁詩鈔解題」によると)『・・・嘗つて吉田松陰に兵要緑を授けしことあり。・・・』」とあるので、信寛は松陰の師であった(岩川隆『巨魁―岸信介研究』)。

 *安倍晋三の新味なき踏襲政治

 安倍晋三が、父晋太郎、祖父安倍寛に触れず、祖父岸信介を慕い、政治の師と仰いでいることはよく知られている。その点、岸が父や祖父を語らず、曽祖父佐藤信寛に影響を受けたことを話す様子に類似している。晋三が山県有朋にどのような思いを抱いているかはわからないが、山県の安全保障、軍事政策の延長線を踏まえており、また岸信介の施策にかなり軌を一にして踏襲していることも定説になっている。

 「晋三ら兄弟は、岸信介から吉田松陰や高杉晋作ら、長州の偉人についての話を寝物語に聞かされた。『吉田松陰先生は、立派な人だった。勉強中に蚊が腕を刺しても、それを叩き潰すというのは、公の時間を私事に費やすということだから、という理由で、そのままにして勉強をした人なんだよ』 晋三は、素朴に思った。<そんなこと、本当にできるのかな・・・>ただし、吉田松陰や高杉晋作は立派な人物だったということだけは、子ども心になんとなく理解できた。」
 そして、自分の名前の「晋」、父晋太郎の「晋」が高杉晋作から取られたことから「晋三は、政治の転換期において自分の血が騒ぐのは、長州人の気質なのかな、と思うことがある。」 (大下英治『安倍晋三と岸信介』)。

 「歴史を振り返ってみると、日本という国が大きな変化を遂げるのは、外国からの脅威があったときである。この百五十年ぐらいの間でいえば、一八五三年のペリーの来航にはじまる開国がそれだ。・・・この時代から、ひとつの国家としての国防を考えなければならなくなったのである。じつはこのときの日本の独立は非常に危うかった。当時の知識人の危機感の背景にあったのは、阿片戦争である。一八四二年の第一次、一八六〇年の第二次阿片戦争の敗戦によって、中国が賠償金支払いを課されたうえに香港を割譲させられていたからである。日本もそうなるのではないか、と恐れた人々のなかでも開明的な人々―佐久間象山をはじめ吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬らは、海防の大切さをいちはやく指摘した。じっさい、日本が中国のように領土を割譲させられなかったのは運がよかったというしかない。一八五八年、日本は日米修好通商条約を締結したあと、イギリス、ロシア、オランダと同様の条約を結ぶことになるが、これらはひどい内容であった。来日する外国人はすべて治外法権に等しい特権をもつのにたいして、日本には関税自主権もなかった。・・・明治の日本人は、この不平等条約を改正するのに大変な苦労をした。・・・日本が関税自主権を回復してアメリカと本当に対等になったのは、日露戦争に勝利したあとの一九一一年 (明治44年)のことである。明治以後の日本は、西欧列強がアフリカやアジアの植民地分割をはじめているなかにあって、統治するほうに回るのか、統治される方になるのか、という二者択一を迫られようとしていた。・・・明治の国民は、なんとか独立を守らなければ、列強の植民地になってしまうという危機感を共有していたのである。」 (安倍晋三『新しい国へ―美しい国へ 完全版』)。

 安倍の語る歴史や社会の教科書的内容を、長々と引用をしたのは、一見もっともらしさを装うなかに、松陰、有朋、信介に連なる、しかも戦後の節目を経験しながら、いまだに列強侵略の危険をベースに安全保障を説くかの姿勢を見せているからだ。
 統治する側か、される側か、の二者択一の選択肢しかなかった、というが、日本は統治する側に立ったばかりか、列強による不平等なあしらいに怒りながら、強大な軍事力を蓄えたのちには、大陸に不平等な仕打ちを押し付け、侵略を当然視して軍を進めたではないか。それが、松陰の路線を踏まえた山県、あるいは岸といった祖父ら先人たちの行動であり、その復元をめざす晋三の実の姿ではなかったのか。

 安倍の主張には、歴史をいいようにつまみ食いし、飛躍した論理に置きかえる傾向があるが、この自著のなかにも歴史の狭隘な書き換えが見てとれる。
 冒頭の引用で触れたように、松陰が、列強に開国を迫られる被害者の立場にありながら、琉球という「国」を本土の一藩のように扱って「琉球処分」を説き、またカムチャッカ、オホーツクを「隙に乗じて」「奪い取り」、あるいは台湾、ルソンを「わが手に収め」るなどの発想を「進取の勢い」とするあたり、安倍に通じる姿勢が見えている。

 *岸路線を追う安倍政治の現実

 安倍政権は、第1次が2006年9月からちょうど1年間、ついで第2次は12年12月から20年9月までの7年8ヵ月という長期政権だった。かつてない6回の衆参選挙の勝利を果たして憲政史上に名が残る長期政権を達成するなど、「数」に支えられた統治を続けた。
 その間に仕上げた政治実績を見ると、祖父岸信介の狙ったところを実現したものが目立つ。

 1> 憲法改正 岸首相は自主憲法制定の旗を振ったが果たせずに、安倍首相も最大課題のひとつとして折に触れてアピールしている。
 2> 日米安全保障 岸首相は改定による新安保条約締結に邁進強行したが、この延長線上で安倍首相も自衛隊の海外派遣を可能にして、集団的自衛権の拡大行使を容認する安保関連法を成立させた(2014年)。
 3> 秘密保護法 岸首相は警察官職務執行法とともに秘密保護法(防諜法)成立に執心したものの実らなかった。安倍首相は強い反対の声を蹴って日米相互防衛援助協定等に伴う特定秘密保護法を成立させた。特定の防衛秘密の違反は公務員法、自衛隊法の守秘義務違反よりも重い刑事罰を科すことになった(2015年)。
 4> 共謀罪 岸首相は安保闘争の激化する中で対応策に苦慮したが、安倍首相は組織的犯罪集団に所属する二人以上が重大な犯罪を計画した場合、準備行為をした段階で処罰が可能になるテロ等準備罪という運用上懸念のある法律を仕上げた(2017年)。

 沖縄に関して言えば、岸時代に在日米軍の裁判権を日本側が放棄するという密約が安保改定期に交わされた。米軍関係の事件はかつて5年間に1万3,000件あり、このうち日本側の裁判になったのは約400件のみで、あとの裁判権は放棄されていたことが明らかにされた。その後、伊江島での米兵の発砲事件 (1974年)があり、この裁判権が米軍に委ねられ、問題化した。このような日米間の不平等な関係は、安倍時代の日米地位協定自体にも内包され、いまも問題視されたままだ。

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 吉田松陰、山県有朋、岸信介、安倍晋三という長州出身者の160余年の間に、基本的な憲法をはじめ、社会状況は大きく様変わりした。だが、安全保障の姿勢は継続している。自衛、防衛の名のもとに軍備の増強は止まらない。外交の影が薄れ、軍事が跳梁する。それは、かつて侵略となり、戦争へと拡大していった軌跡を思い起こさせる。
 いままた、自衛の名のもとに敵基地への先制攻撃を許容する動きが始まっている。
 日本の自衛は、これでいいのか。沖縄の激戦、ヒロシマ・ナガサキの悲惨事は、どのように一般市民を巻き込んだのか。明治維新以降、変わらない軍備増強の様相である。

 (元朝日新聞政治部長)

(2022.2.20)
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